19 「哭く都市 4」
「さぁてと。坊主らは、これからどう動くのかのぉ」
開発区に居並ぶビルの屋上から黒く蠢く凪浜スカイビルの偉容を眺めて、紺乃剛は高みの見物を決め込みつつ、気軽な調子で口を開いていた。
「あのお姉さん、素直に行かせても良かったんですか?」
紺乃の呟きに対して咲野寺現が顔を向けて、気乗りしない風に訊ねた。
今や黒い霧は都市全体に広がっており、ビルに流れ込んでいる。ビルが結界の核である心臓だとするならば、そこへ繋がる道は、川と言うよりは血管に近く見えるまでになっていた。
どくどくと黒い血を脈打たせながら、幾つも複雑に繋がり合っているのだ。
二人が佇んでいるビルの屋上に吹き抜ける風には、湿り気を帯びた微細な臭いが滲んでいた。まるで一雨きそうな淀んだ空気を感じるが、見上げる空には雲一つ無く、何事もないように陽が注ぎ込んでいる。
見える者にとっては、それが却って事態の不気味さを浮き彫りにしていた。
「ええんじゃよ。行かせて困るっちゅうこともないしな」
律儀にも浅霧静は口約束を守り、紺乃たちと争うことはなかった。そんな事に時間を費やしている場合でもなくなった、という方が正しい見解かもしれないが、ならばと紺乃は約定通り、自分が知り得る情報を彼女に与えたのである。
「儂も姉さんのことは相当の手練れだと認めちょるが、ニドウをどうにかするのは無理じゃろぉよ。ま、それでも坊主は可愛い彼女のために行くことを選択するのじゃろぉがな」
「……いやらしいですね。自滅を誘う気ですか」
くくっと喉の奥で笑う紺乃を見やり、現が呆れて嘆息する。自ら手を汚さないやり口は結構なのだが、彼女自身は吐き出し所のない戦意を持て余しているのだった。
「とはいえじゃ。万が一、坊主らがニドウを止めることができたとしても、それはそれで構わんがな。儂らの役目は監視であって、介入じゃあないからな」
「まったく、楽な仕事ですね」
嫌みを込めて現は言い、改めて眼下の都市を見渡す。
結界の中心たるビルから離れたこの場では、まだ明確な異変は現れてはいない。人々は普段通りの生活をしており、その生気を吸われている事にさえ気付いていないのだ。
しかし、毒が回りきるのは時間の問題だ。そうと気付いたときにはもう遅く、助けを求める力も残されずに倒れる事になるに違いない。
「現。お前は何か勘違いしとるよぉじゃが、監視は楽な仕事っちゅうわけじゃないぞ。少なくとも、この監視に関してはな」
「え?」
不意に真剣な調子へと変えられた紺乃の忠告めいた言葉に、現が向き直る。気のせいか、吊り上がった彼の口端は、若干引き攣っているようにも見えた。
「さっきは万が一と言ったが、ありゃあくまでも希望的観測っちゅうもんじゃ。あの姉さんを行かせたのもな、例え1パーセントに満たん確率であったとしても、坊主が生存する確率を上げちゃろぉという儂の親切心じゃ」
「……ずいぶんと、ニドウを高く評価しているみたいですね。それだけ実力差があると見ているんですか?」
都市を丸ごと呑み込む規模で、更にその中にいる人々の魂を一度に御しようというのだ。この結界を見てしまった以上、それも分かる気がするが、まだ相対したこともない相手に過大評価しすぎなのでは、と現は懐疑的な思いも抱く。
だが、そんな彼女の気持ちを打ち砕くように、紺乃は言った。
「くく、ニドウだけなら、まだ救いはあったのかもしれんがな」
「だけ……?」
「そうじゃとも。儂らの監視の目的は、ニドウを捕らえることじゃない。ただ、見つければいいだけじゃ」
紺乃が凪浜スカイビルの頂上を仰ぐ。黒き命の流れは止めどなく、じわりじわりと天へと昇っている。
「じゃから、ここから先は見届けるだけよ。あの御方がニドウを喰らうことで、どう変貌を遂げるのかをのぉ」
「まさか……もう、来ておられるの、ですか……?」
理解をした――それだけで現の背筋は一瞬で凍り付いていた。
紺乃と現。封魔省に属する二人にとって、ニドウなどというあやふやな存在よりも、その存在は絶対にして凶悪な災厄である。
そう、最初からこの監視は、それが目的だったのだ。
ニドウを観測し、その御方に報せる事。その結果、その先で事態がどう動くかなど、分かり切っていた事ではないか。
「そらな? 言うたじゃろぉが。楽な仕事ではないとのぉ。見守るのも命懸けっちゅうことじゃ」
現の疑問には直接の答えを返さずに、紺乃は諦めたような、どこか達観した笑みを浮かべる。
何者にも彼女を止める事などできはしない。
黒い霧の気配に覆われて一応隠れてはいるようだが、それよりも遙か上空から、もうそこまでの所に迫ろうとしているではないか。
「ニドウとあの御方がぶつかれば、いったい……どうなってしまうんです?」
現もその気配を察知してか、にわかに表情を強張らせる。恐る恐る訊ねる可愛げを見せる部下に、ふ――と紺乃は息を吐いた。
前髪に隠れた切れ長の瞳は、あらゆる状況を想定して計算高い光を帯びている。見通せぬ未来など決してないと、今日まで命を繋げてきた男だ。
「さてなぁ」
だが、此度の賽には何の種も仕掛けもない。なるようにしかならず、出た目で勝負に臨むしかない。
ただ見届ける。茶化すわけでもなく、心から紺乃はそんな風に言葉を紡いだ。
「何にせよ――更なる災禍の渦が創造されよるのは、間違いなかろぉよ」
*
上の階に進むにつれて、空気の粘度が上がってきている。
真は重たい抵抗を振り切るように、足を前へ前へと動かし非常階段を上り続けていた。そろそろ展望台の階層へと差し掛かろうとしており、ここまで来ると建物内にも黒い霊気が濃霧のごとく広がるようになっている。
目の前では、先行している姉の焦げ茶の髪が上下に躍っている。視界が悪くなる中、その背中を見失わぬようついて行く。沙也たちと別れてから、一時も休むことなく走り続けていた。
「止まれ、真」
と、丁度階層の区切りとなる踊り場についた静が足を止めた。鷹の目を油断なく光らせ、ぴんと張り詰めた空気を放つ。索敵も兼任した上での先行であったため、敵襲かと真は身構えたがそうではなかった。
「ここから上へ続く道がない。どうやら屋上へ向かうには、展望台を抜ける必要があるようだ」
顎をしゃくるようにして上を示す静の隣に、遅れて真も並び立つ。確かに階段はここが終点となっており、踊り場の先は展望台へと続く無骨な鉄扉があるのみだった。
「真、展望台には大勢の観光客が居たそうだな」
「ああ……それが目玉でもあったからな。って、何でそんなことを訊くんだよ」
「静さん。もしかして……」
ハナコが周囲を探るようにしながら、真の中より姿を現す。ふるり、と不安げに瞳を瞬かせた彼女は、静に訊ねた。
「展望台の皆さんも操られていて……戦わないとダメ、なのでしょうか?」
「……その可能性もあるが、それ以上に酷い光景を見る事になるはずだ」
「え……」
「見れば分かる。ぐずぐずしている暇はない。とにかく気を引き締めろ」
返答を濁し、覚悟を促しただけで静は出入り口の鉄扉を引き開けた。
途端、湿り気を帯びて濁った空気が逆流してきた。おそらく中で堆積し、充満していたのだろう。鉄が錆びたような、鼻の奥に残る臭いがする。
白を基調とした真新しいフロア全体に蔓延る黒い霧。しかし、事ここに至っては、もはや霧などと呼べるものではない。
はっきりとした実像をもって壁を這う様は、黒い血を蠢かせる血管だ。足を踏み込ませるたびに、何かを踏み潰すみたいに不快な感触が足の裏に走る。
「――――」
そして、展望台のメインとなる区画へ足を踏み入れた真とハナコは、鋭く息を呑んだ。
フロアを囲む分厚い透明なガラスは不気味に明滅する黒い膜に覆われ、外の景観など見る術はなかった。
薄暗く閉じられた空間。その床に数多に転がされている、人の群れ。
黒い霧は一部を触手のような形状に変化させ、無残にも床に倒れる人々に繋がっていた。
屋上へと向かう霊気の流れの正体。一つ脈打つ度に、いったいどれだけの命が吸われているというのか。
「…………酷い、こんなの……早く助けないと!」
「無駄だ。一時的に離せたとしても、すぐにまた繋がろうとする。本丸を崩さねば解決にはならない」
恐ろしい光景に慄き叫ぶハナコであったが、静は遮るように言う。切り捨てるような物言いではあったが、静の瞳の奥には穏やかならぬ感情が燃えている。それを見てしまったから、真は逆に昂ぶりかけた気持ちを抑えることができた。
「生きて、いるんだよな……?」
「ああ。お前たちと合流する前に通った場でも、ここよりは幾らかマシだったが、似たような状況だった」
訊ねる真に、静は力強く頷きを返す。救助に関しては、彼女はもう自ら試した上での結論なのだった。
見た目の禍々しさに反して、この結界は即座に死に至らしめるようなものではないらしい。麻希の状態からも予測していた事ではあったが、だからと言っていつまでもそのままにしておけるものではない。死屍累々――とは言えぬが、それに近い状況には違いないのだ。
即座にという前置きがあるだけで、放っておけばいずれ霊気は吸い尽くされる。肉体への活力が失われれば、死に直結する。
「先を急ぐぞ。私たちが結界の影響を受けていない事は、向こうにも伝わっているはずだ」
静は足を止める真の背を押し、前へ進めと促す。
「気を引き締めろと言ったぞ。伝わっているならば、必然――妨害もあり得るという事だ」
真とハナコはその気配に気付き、顔を上げて目を見開く。薄暗い闇の中に蠢くものは、屋上へと吸い上げられる霊気の流れだけではなかった。
おそらく沙也を襲っていたものと同じなのだろうが、もはや見ただけでは元の姿は確認できない。黒い霧に囚われ、異形と化した者たちが立ちはだかる。
意思などはなく、ただ肉体のみを支配され、命じられるままに動く『自走人形』だった。
さながら壁のように迫る『人形』たちは、数えるのも諦めざるを得ない程になっている。
「下でも幾人か倒してきたが、とうとう遠慮がなくなってきたようだ」
黒き雪崩を前にして、静は深く腰を沈めて拳を後ろに引き絞るように構えをとった。真も遅れて木刀を両手に持ち、ハナコもまた彼をサポートするため一体となるべく姿を消す。
「全てを相手にしている暇もない。前へと進むことだけを考えろ。ただし、殺さないようにだけ気をつけてな!」
裂帛の気合いと共に、握り込めた拳が正拳突きの要領で打ち放たれる。それは虚空を撃つものであったが、拳に込められた霊気の圧力が爆風を生み、『人形』の群れに風穴をこじ開けていた。
「……どの口が言ってんだ。ったく!」
いや、おそらくは肉体に損傷を与えぬよう配慮した上で、静は拳を直接触れさせずに霊気だけの攻撃を仕掛けたのだろうが、いかんせん見た目が派手過ぎだった。
とはいえ、ちまちまと消耗戦をしていられないのも事実。姉が開けた穴が塞がる前に、真は木刀を前面に構えて疾風の如く突っ込んだ。
同情を寄せる心は一時捨て、木刀を横薙ぎにして半円の軌道を描く。刀身を触れさせず、切っ先から放つ霊気のみで『人形』たちを押し流す。
できる限り、周囲に纏わり付く黒い霧を吹き飛ばすように威力を込める。そうすれば『人形』たちが動き出すまでの幾ばくかの時間を稼ぐと同時に、気休めにしかならないだろうが霊気を吸われる負担も少なくなると信じてである。
『……真さん、柄支さんたちは、大丈夫でしょうか……』
声音だけで沈痛な顔をしていると容易に想像できるハナコの声が、胸の奥から響いて疼きとなる。彼女の心配ももっともだが、真は叱咤するように声を上げ、木刀を振るった。
「心配するな。癪だが、沙也は俺みたいに甘くない。今は目の前の事に集中だ……頼りにしてるぞ、相棒!」
苦痛の呻きすら上げることすらできずに倒れる人々を踏み越えて、操られた『人形』たちの包囲網を突破する。
一刻でも早くこの結界を打ち破る。今の真たちにできる事は、それだけなのだった。




