17 「哭く都市 2」
ビルの外壁を黒々と覆い尽くす、悍ましいその光景。
客室に濃い影が落ちてそれに気づいたとき、真は太陽が雲にでも隠れたのかと思ったが、実際に起こっていた現象はそのような生易しいものではなかった。
「何ですか……これ!」
客室の窓に張り付いたハナコが、愕然とした面持ちで言葉を失っている。
彼女の台詞に対する回答を、真は持ち合わせてはいなかった。
窓から覗ける範囲ではビルの全容は見えないが、黒い霧のようなものは外壁に沿って一定の流れを保ち、上昇しているように見えた。
得体の知れない力がビルを覆っているだけでも驚きに余りあることだったが、その霧の発生源を見た二人は、更に言葉を失うこととなる。
眼下に広がる市街地から湧き出る黒い霧。それは至る所から発生し、ビルに繋がる通りは流れる小川の如き様相を呈していた。
ここからでは一方向しか見えないが、現象は市街地全土に及んでいると見て間違いないだろう。俯瞰すると、このビルを中心として巨大な蜘蛛の巣の絵図が出来上がっていると想像できる。
霧の発生源がどこで止んでいるのかは見えなかった。それだけで、途方もない規模であると知るには十分だった。
「これが何なのかは分からないが、あいつらが仕掛けたことに違いない。追うぞ!」
「で、でも……どこに行ったか分からないですよっ」
そう。弐道五華、新堂誠二の姿を借りた如月。先ほどまで真とハナコと話していたはずの二人は、忽然と姿を消したのだ。目の前の景色が二人の姿ごと歪にねじ曲がったかと思った瞬間には、もう止める間もなかった。
霧が発生したのは、それからすぐのことだったのである。
姿を消す前に弐道が残した、不穏極まりない言葉を真は思い返していた。
――全てのヒトの魂を消すんだよ。
それがどのような事を意味するのかは理解できないが、この霧が無関係とは到底思えない。
「こいつの流れは上に向かっている。まずはビルの頂上を目指そう」
弐道と如月を止める。二人を追うための方針として、この霧の行き着く先を突き止める事は間違っていないはずだ。
「とにかく急ぐぞ。あんな奴らを、野放しにしてたまるか……!」
「……はい。そうですよね。急ぎましょう」
ハナコは一瞬、何か言いたげな眼差しを真に向けかけたが、思い直すように力強く頷く。もはや一秒たりとも無駄にするわけにもいかず、二人は客室を飛び出していた。
*
凪浜スカイビルの屋上。
ヘリポートも位置するビルの最上部には、這い上がる黒い力の流れが収束していた。
その中心に佇んでいるのは、弐道五華である。
新堂誠二の秘書という立場を隠れ蓑にしていた彼の者の装いは、今や脱ぎ捨てられていた。
屋上を吹き抜ける風に黒髪を曝し、白いワンピースから細い四肢を伸ばす。その姿は肉体の本来の持ち主である霊の少女の現在の姿を模倣しているかのようであった。
あらゆる闇を混濁させた瞳は、限りなく無垢だ。
都市から流入する膨大な力を受ける肉体には、幾何学的な入れ墨のような紋様が明滅し、浮かび上がろうとしている。それは、受け止めきれない程の力の激流が肉体から滲み出している証左だった。
しかし、弐道の表情は穏やかであり、如何ほどの痛痒も感じさせない。
一度弐道の肉体に集まり、外に逃がされた力は繰り糸のようにして彼の者の頭上へと纏められている。集積し、煌々と禍々しい輝きを放つその力の塊は、黒い恒星にも見えた。
新堂誠二の姿の如月は、徐々に膨れ上がるその力を弐道の傍らで見守っていた。
「大分、力が集まってきたようだね。一つ一つは小さくとも、これだけの規模だと凄いものだな」
「ええ。ですが、まだまだこんなものじゃないですよ。何せ都市全土、何十万ものヒトの巻き込んだ力ですからね」
弐道が掌から滲み出る黒い力の奔流を軽く弄び、宙へと還す。力を扱う指先は繊細であり、まだ蕾の花へと優しく水を注ぐかのようでもある。
事実、集う力が大輪となるにはまだ程遠い。
都市全体に張り巡らせた結界。その狙いは、内部にいる者たちの魂に接続し、霊気を搾取することだった。
霊気の扱いに長けた者ならば、既に黒い霧状の霊気の流れが見えていることだろうが、常人の目には何も映っていないのだ。
少しずつ、気づかれぬように緩やかに。
もっとも、結界の中心たるこのビルの内部にいる者たちに関しては、その限りではないだろうが。
「しかし、中には幾人か接続できないコたちもいるようだね。彼らは止めに来ると思うよ?」
接続の核となっている弐道は、都市の中に潜むその長けた者たちの存在を察知していた。
一方からの強制的な接続は、行う者と行われる者の間に隔絶した力量差が必要となる。霊気の存在を感知できぬ常人はその土俵にすら上がれないので何の支障もないが、抵抗する術を知る者は話が別なのだった。
「簡単には辿り着けないよう、仕込みはしていますよ。そうでなくとも、来られるとは思えませんがね」
こうして力を公然と晒してしまっている以上、その手の者たちの介入は避けられないだろう。だが、そのような分かり切った事に心を砕くつもりは如月にはなかった。
「この日のために重ねてきた実験が、無駄にならずに済みそうで良かったですよ」
規模は上出来。手駒もある。抜かりはなかった。
「さて……念のために訊いておきますが、もう後戻りはできませんよ?」
賽は投げられた。この流れはもう止まらない。
このまま凪浜市に集まった全てのヒトの魂を喰らい尽くす。
覚悟を問うように言う如月に、弐道が深い闇の双眸を向ける。逆に彼の者は首を傾げて、心底不思議そうに問い返すのだった。
「何の問題もないよ。そもそも、何が問題なんだい?」
「……生来小心者なもので、要らぬ事を言いました。ええ、そうですね。まったく、何の問題もありませんよ」
如月は唾を飲み込み、自戒する。覚悟を見定めたかったのは、己の心に対してであった事に。
そも、弐道に覚悟などというものは存在しない。
殖えすぎた人々の魂など、虫螻同然なのだ。子どもが蟻の巣に水を注ぐようなものである。殺している、という感覚すらないのかもしれない。
残酷だなどと言うが、それを行っている本人にそのような良心は皆無。
消えればまた生まれる。永遠に補充され続ける尽きないモノ。個体の差などないに等しい。
弐道にとってヒトの命とは、その程度の価値しかない。
消えゆく最中に一時の憐憫は覚えるかも知れないが、すぐに忘れてしまうのだろう。
「これから行う事の道のりを考えれば、まったくもって些末なことでした。俺にもまだ、感傷を刻む心があったようですよ」
如月は弐道から視線を外し、黒く染まる都市を一望する。この程度のことで躓いているようでは、先が思いやられるというものだ。
全てのヒトの魂を消す。これは永遠とも思える道程の、最初の一歩に過ぎないのだから。
*
真とハナコは逸る気持ちのままに客室を飛び出したが、その勢いと相反して、宿泊施設の廊下はしんと静まり返っていた。
僅かな物音さえもしない。そこに違和感を覚えないわけではなかったが、真は落ち着いた淡い照明が落ちる廊下に靴音を響かせながら一気に駆け抜ける。
もと来た道の記憶を頼りに、エレベーターまで何の障害もなく辿り着く。
しかし、昇降ボタンを押しても反応はなかった。
「くそっ。開業早々故障かよ。どうなってんだ」
苛立って壁を叩くもそれで直るはずもなく、真は悪態をつく。状況と照らし合わせれば、故障が偶然とは到底考えられなかった。
「ど、どうしましょう」
「階段を探すしかないな」
フロアの全体図は分からないが、階段がないということはないだろう。例え扉か何かで封鎖されていても、最悪ぶち抜けばすむ。
真はやや物騒な展開も視野にいれながら、上階へと向かう道を探そうとエレベーターに見切りをつけた。
「――いや、待て。何か聞こえないか?」
が、彼は踏み出そうとしたその足を停止させた。耳を澄ませてみると、遠くで争うような微かな音が聞こえたのだった。
「聞こえます! 真さん!」
「ああ!」
ハナコが血相を変える。この異常事態に何が起きてもおかしくはない。真は返事と同時に弾丸のごとく声のする方へと駆け出した。
次第に聞こえる音は大きくなる。その先にあるのは、小綺麗な宿初施設の内装とは打って変わり、殺風景な非常階段だった。
「――どけえッ!!」
激しく階段を踏み鳴らす音と怒号。階段の上へと顔を上げた刹那、真の視界に迫るものがあった。彼は反射的に身を伏せてそれを躱し、今しがた自分のすぐ横を掠めたものを確かめるため振り返る。
人だった。このビルの従業員だろうか。警備員風の制服を着た男である。気を失っているのか、大の字に倒れており起き上がる気配がない。
唐突に吹っ飛んできた男の安否は気がかりであった。しかし、真は非常階段から聞こえた声にこそ驚き、向き直っていた。
「沙也! そこにいるのか!?」
「真!? あんたそこで何してんのよ!」
真の呼び声に、今まさに階段を降りようとしている沙也が首を僅かに振り向かせる。
沙也は背後に柄支と麻希を庇っていた。彼女の正面の踊り場には人だかりができており、それを堰き止めるようとしているみたいだった。吹っ飛んできた男の正体は、その中の一人を彼女が力任せに投げ飛ばした結果だったのである。
「――ッ、話は後よ! さっさと手を貸しなさい!」
真に気を取られた瞬間に、沙也が危うく人だかりの流れに押し負けそうになる。仰け反らせかけた上体を全力で戻した彼女は、罵声を浴びせるように叫んだ。
四の五の言っている状況ではないと悟った真は階段を駆け上がる。柄支は麻希に肩を貸して階段を降りようと懸命になっていたが、体格差のせいでどう贔屓目に見ても上手くいっていなかった。
「先輩、代わります!」
「あ、浅霧くん! わたしはいいから沙也ちゃんを――」
「あたしは良いから! とにかくお姉ちゃんたちを離れさせて! そうすればどうとでもできる!」
妹を気遣おうとする柄支だったが、間髪入れずに沙也が怒鳴る。真は沙也の言葉を優先し、柄支が支えていた麻希を奪うようにして背に担ぎ上げた。
「浅霧か……」
近くで見れば麻希は青ざめており、呼吸も荒い。うっすらと開かれた瞳が弱々しく真を捕らえ、掠れた声で彼の名を呼んだ。
「喋っている余裕はありません。芳月先輩も、ちゃんとついてきてくださいよ!」
「柄支さん! 今は急いで!」
真は言うやいなや、ほとんど飛び降りるようにして一足飛びに階段入り口に着地し、そのまま滑り込むように廊下へと出ると麻希を下ろした。柄支もつんのめりそうになりながら、必死で追いついてくる。
「浅霧くん! 沙也ちゃんが!」
「大丈夫ですよ。あいつなら――」
何が何やら分からぬまま、強引に引っ張られる形となった柄支が、必死の形相で真に訴えかける。真は彼女に答えようと口を開きかけたが、その前に非常階段の方から派手な争いの音が響き渡っていた。
「まあ……負けないでしょうからね」
そして、それから間を置かずに音は止んだ。そっと覗き込んでみれば、大の大人たちを一人の少女があっさりと叩きのめしているという冗談めいた光景があるのだった。
沙也は守るべきものを守る事に専念していただけだった。攻めに転じれば、何の事はなかったのである。
「……殺してはないよな?」
「あんた、あたしのことを何だと思ってんのよ。当たり前でしょ」
半眼となった沙也が握り込めていた拳を開き、ほぐすように軽く振る。彼女は手ずから周囲に薙ぎ倒した大人たちを睥睨し、ひらりと踊り場から飛び降りて真の前に着地した。
軽口を叩いているようだが、正面から見据える両目は剣呑そのものだ。
「状況は最悪よ。まず、そこのところは理解してるの?」
真も何からどう説明するべきか即答できるものではなかった。しかし、決して逃がしはしないと厳しく両目を細めさせた沙也を前にして、どう足掻いても説明はせざるを得ないのだった。




