12 「昨日の敵」
竣工間近のそのビルは、青空を覆わんばかりに聳えていた。
「わぁ、おっきいですね~」
ハナコが額に片手をかざし、まだ柵に囲まれたビルの壁面に視線を沿わせて上空を仰ぎ見る。
凪浜スカイビル。
最寄りの地下駅から徒歩十分圏内、大通りに面した場所に件の高層ビルはあった。オープンすれば、ビルの地下から駅まで直通の道もできるらしい。
高さは二百メートルを超え、開発区のビルの中では一番の高さとなる。最上階には展望台が設けられた回廊があり、さぞかし見晴らしの良いことになっているだろう。
事前に調べたビルの概要を思い返しながら、真もハナコに倣ってビルを仰ぐ。
進のメールが来てから二週間余りが経過していた。結局その後、彼からの連絡は途絶えたままである。
メールの内容を信じるのなら、進は快復に向かっている。こちらが下手に接触しようとして、彼の父の不興を買うことは避けるべきだろうと、ひとまず皆の考えはまとめられた。
一度決めた以上は、その判断が正しいと信じて待つ他はない。そんな中、真は改めて進のメールにあったビルを調べてみようと思い立ったのである。
「お前なら、一人で上まで行けるんじゃないか?」
「えー、そんな情緒のないこと言わないでくださいよ」
霊のハナコならば肉体の枷もなく遙か上空まで飛び上がれるだろうと真が振ってみると、彼女は露骨に嫌そうな顔をした。
「どうしても中が気になると言うのでしたら、見てきてもいいですけども……」
「そこまではしなくてもいいだろう。本当に、ただの下見のつもりだからな」
真は苦笑を浮かべて首を横に振る。調べると言っても、事前にどんなビルなのかと物見遊山で足を運んだだけなのだ。
この状況で、彼女にそのような無粋な真似をさせることも心が咎める。
ハナコと二人。
真としては特段そんなつもりはなかったのだが、結果としてそのような体を成している。
静との訓練も今日は免除されており、柄支たちも思い思いの休日を過ごしていることだろう。
腫れ物とまでは言わないが、少なからず気遣われていると感じるのは間違ってはいないはずだ。余程のことがない限り、常にハナコは傍にいるため意識することはないのだが、一度向いた意識を消すのは中々に骨が折れる。
「さて……これからどうするか。何かしたいことでもあるか?」
ビルの中に入れない以上、ぐるりと外周を回るくらいしかすることがない。早々に目的を達してしまった真は、完全に時間を持て余したのだった。
「うーん、いざ言われると困ってしまいますが」
ハナコも気持ちは同じようで、曖昧に微笑する。二人は常に共にいるが、その実「二人だけの時間」というものは、そう多くはなかったのかもしれない。
真の魂のこと。ハナコの記憶のこと。様々な事情が解決に至ろうとする今だからこそ、そんなことを実感するのは皮肉だろうか。
ありふれたもので構わない。彼女と共にあれる現在を喜び、大切にすること。
真たち以外にも、通り掛かりも含めてビルを見物に来ている気の早い者たちは大勢いた。賑わいを見せる中、誰の目にもハナコは映らない。
二人の会話を聞く者がいれば、それは一方的な盛大な独り言にしかならないのだろうが、それでも構わないと彼は思った。
「とりあえず、その辺をぶらつくか」
「そうですね。そろそろお昼ですから、どこかで休憩してもいいですし」
ハナコの同意を得て、真はビルの見学は切り上げて踵を返す――
そのタイミングを見計らったかのように、彼の目の奥を鋭い光が突き刺した。
「……ッ!」
バシャッと身を竦ませるような音が遅れて耳に届く。薄目を開けた真は、自分の正面で堂々と携帯を向けて立っている人影を見たのだった。
「ふむふむ、心霊写真は撮れないみたいですね」
茶化し半分の笑い声を上げたその人物は、携帯の画面を真に向けて見せる。驚きに目を見張る自身の姿を見た真は、混乱と怒りに半々となった頭で、その先にいる人物を睨み付けようとした。
「何をしやが――……!?」
そして、更なる驚きが怒りを上回って次の言葉を詰まらせる。
「こんにちは。お久し振りですね。その節はどうも」
黒いコートに身を包む姿は彼女自身が影のようでもあるが、明るい金の短髪と端正な顔立ちが、その存在を浮き彫りにしている。
まるで親しい知人に挨拶でもするみたいに、封魔省の構成員である咲野寺現は、真とハナコに対して笑んでいた。
「早速ですが、ちょっと顔を貸してもらえます? ああ、大丈夫ですよ。いつぞやみたいに、取って食いやしませんからご安心を」
真の脳裏に嫌な記憶が蘇る。彼女と戦ったのは廃ビルの屋上が最初で、その後は路地裏で不意を突かれたのだった。
「まさか、つけていやがったのか?」
「それこそまさか。たまたまですよ、たまたま。そんな面倒なことはしません」
現は肩を軽く上下させて、どことなく疲労を漂わせる息を吐いた。
「あなたたちを見つけて吃驚したくらいですよ。何です、デートですか? 若いですね。いいですよ、初々しくて。見ていてつい食べたくなるくらいに、微笑ましいです」
「あ、あの……」
「おい、お前」
「はは、失礼。冗談ですよ。取って食わないって言ったばかりじゃないですか。真に受けないでくださいよ」
矢継ぎ早に言葉を並べ立てる現。たじろぐハナコを真が庇い、今度こそ睨み付ける。だが、現はまるで意に介さずに目を細めるばかりだった。
「で、付き合ってくれますか? 損はさせませんよ」
「ほいほい付いて行くわけないだろうが。何が狙いだ」
「まあまあ、そう言わずに。まだまだ下っ端なもので、私も大変なんですよ」
のらりくらりとした口先で真たちを誘導しようとする現であったが、真意が分からぬ状態で誘いに乗るほどの信頼を、真は彼女に対して持ち合わせてはいなかった。
頑として目を怒らせる彼に、現は「強情ですね」と歪ませた口元からうなり声を漏らす。
「では、一つだけ手の内を明かしましょう。新堂誠二のこと、知りたくはありませんか?」
*
咲野寺現に連れられて真とハナコが訪れたのは、繁華街にある何の変哲もないファミリーレストランだった。
店内にさっと視線を一巡させた現は目的の席を見つけたようで、店員の出迎えを待たずに迷いなく歩いて行く。そして、仕方なく彼女を追う二人は、店の奥まった位置の座席に腰を据えているその人物を認めた。
「紺乃さん。情報源になりそうなのを見つけてきましたよ」
カーキ色のコートを無造作に脇に置いた男が、優雅に足を組んで新聞を広げていた。予想して然るべきではあったが、こうも堂々と姿を現されると対応に窮する。
腰に片手を当てて憤然と男を見据える現と、呆然と立ち尽くす真とハナコであった。
「おう、ご苦労さんじゃったのぉ。まさかの坊主たちを連れてくるとは、もっけの幸いとでも言うべきか……」
新聞から視線を上げた紺乃は、意味ありげにぐいと口端を吊り上げる。畳んだ新聞をテーブルの隅によけた彼は、テーブルに片肘をついて対面の席を示した。
「くく、遠慮しとるんか? つっ立っとらんで座りゃあええわい」
「どうぞ。紺乃さんの奢りですので、好きに頼んでください」
「なにぃ? そりゃあないんと違うか。せめてお前と儂の折半じゃろぉ」
「上司なら気前よくしてくださいよ。必要経費です」
とっとと紺乃の隣に陣取ってメニューを広げ始める現。緊張感のない二人のやり取りに真は毒気を抜かれかけたが、決して油断をしていい相手ではないと兜の緒を締め直す。
「…………先に用件を言えよ」
「ここまで付いてきといて連れん返事じゃなぁ。ええから座っとけ。罠なんぞ仕掛けちょらんよ」
「さっさとしてくださいよ。そんなに目立ちたいんですか?」
席には座らず警戒心を露わに紺乃を睨み据えるも、柳に風と受け流される。そんな真を待たずに、現はテーブル上の呼び出しのチャイムを鳴らしていた。
立ち尽くしたままではいかにもまずいので、やむなく彼も席につく。ハナコも大人しく彼と一緒に動いた。
「こんな場所で寛いでるなんて、あんたたち実は暇なのか?」
「そんなわけないじゃろぉ。これでも儂は仕事熱心でな。前回の任務から間を置かず、こうして次の任務に駆り出されとるんじゃ」
真の嫌味に紺乃は苦笑いを浮かべる。前髪に隠れた瞳からは、隙なく真を観察している気配があった。
「前回の……如月の件かよ」
心情としてはその名を口にすることも憚られたが、意味ありげな紺乃の台詞に真は訊かないわけにはいかなかった。
義妹の翼が拉致されたとき、紺乃は如月側に与していた。真は紺乃と直接戦ったわけではないが、後に彼と戦った姉の静の両拳に刻まれた戦いの痕からして、死闘が繰り広げられたことは明白なのだった。
とてもではないが、暢気に茶飲み話をするような相手ではない。それは紺乃の部下でもある現も同様だ。
「ああ、あれは爺さんの味方をしたというよりかは、任務の行きがかり上そうなっただけっちゅうことじゃ。あの場限りにおいてのことで、無色の教団に関して儂らは何の関わりももっちょらんよ。天地神明に誓おうやないか」
「紺乃さんに信仰心が欠片でもあったことが驚きですね。私は同行していませんでしたが、一戦交えて負けたのでしたっけ」
「お前は黙っとれ。まぁ、二度と戦いたい手合いではないのは確かじゃが、ありゃ痛み分けよ。話が逸れたが、そういうことじゃ。昨日の敵は今日の友とまでは言わんよ? しかし現状、理由もなく儂らが必要以上にいがみ合うこともかなろうっちゅうことでな」
「……そんなわけあるかよ。お前らの都合の良い理屈で話してるんじゃねえ」
滔々と述べられるあまりにも勝手な言い分に、真もいい加減に怒りを覚えてくる。
「任務だろうがなんだろうが、喜んで他人の命を踏みにじるような奴に力を貸す。そんな奴らと、仲良くできるわけがないだろうが……!」
「一度は殺し合った滅魔の嬢ちゃんとは和解したんじゃろ。儂とのことも水に流してもらえんか?」
「沙也とお前らを一緒にするな」
腹の底から込み上げる不快感。反吐が出るとは、まさにこのことだ。
「俺はお前らが嫌いなんだよ」
複雑な意味など必要ない。単純な気持ち。受け入れられない理由など、それだけで十分だった。
「やれやれ、溝は深いのぉ」
「紺乃さん……煽るのはそれくらいにして話を進めてください。こんな議論は不毛ですし、時間の無駄でしょう」
「ふむ、それもそうじゃな。そしたら、坊主。ここからはビジネスライクに話を進めるとしようか」
揶揄するような気持ちの悪い笑みこそ消しはしなかったが、紺乃はようやく本題へと踏み切ろうとするようだった。
「さっきも言うたが、儂らがこの都市におるんは任務でなぁ。無色の教団の動きを監視しとるんよ」
「え? で、でも教団は……」
「表向きはのぉ。じゃが、如月は消えても残党がおらんとも限らんし、思想を受け継ぐ輩も出んとも限らん」
困惑を顔に出すハナコ。紺乃は当然の疑問だと受け止めて、話を続けた。
「退魔省も滅魔省も、そこら辺は気をつけてしばらくは厳戒態勢を続けるじゃろぉよ。それで儂らが目を付けとるんが、この凪浜市であり、坊主と嬢ちゃんっちゅうことじゃ」
「お前ら、まだそんなことを……」
いつかの会談のときのように、またぞろ保護などと言い出す気かと真は紺乃を睨み付ける。しかし、紺乃は頭を振った。
「あぁ、安心せい。坊主と嬢ちゃんに対する警戒の度合いは下がっとる。貴重な参考人であることには違いはないが、無理矢理こっち側に引き入れようとはせんよ」
「…………」
猜疑心を拭えぬまま、真は紺乃の台詞を聞く。そうして真の眼差しを受け止めつつ、おもむろに紺乃は身を乗り出した。
「そういうわけで坊主と嬢ちゃんにも、ちょいと事情を訊きたいんじゃよ。最近、なんぞ身の回りで変わったことはなかったか? たとえば、見知らぬ何者かが現れたとかな。もしくは、勘でも構わん。嫌な予感とか、ちょいと気に掛かったこととかのぉ」
「そんなことを訊いて、どうするんだよ……」
体調を崩して姿を現さない進。柄支たちが出逢い、名を忘れたという秘書。
真は胸中に押し込めたはずの不安を掘り起こされたような気がして、声を低くする。その彼の反応を見て、紺乃は失笑していた。
「覚えありか。分かり易いのぉ。こっちとしては有り難いが、もうちっと表情を隠す術は身につけといたほうがええぞ」
「っ、余計なお世話だ」
「ちなみに凪浜市市長、新堂誠二の息子が病床にあるそうじゃな。その市長も最近になって、秘書を一人雇ったっちゅう調べもついとる」
「――――」
「はは! じゃから分かり易い言うとろぉがよ!」
言葉を失う真の顔が余程痛快だったのか、紺乃は堪え切れずに声を上げて笑い出す。
「てめえ、どこまで知っていやがるんだ」
「そこまでじゃよ。この程度は調べればすぐに分かる事じゃからな」
笑いを噛み殺す紺乃。まったくもって信用ならない言葉ではあったが、今のは乗せられた自分も悪い。真は努めて怒りを抑えようと悔しげに口元を引き締めた。
「新堂誠二と言えば、奴さんが関わっとるビルが近々お披露目されるゆうし、ちょいと視察も兼ねとったんじゃ。そこで偶然にも現が坊主らを見つけたっちゅうわけでな。裏はない。何でもええから情報が欲しいんじゃよ」
「そういうわけです。ここまで話したのですから、そちらから何もないとは言わないですよね?」
話したというよりかは勝手に話されたという感じだが、ここで席を立つのも負けたような気がする。真がちらと隣のハナコに目を向けると、彼女は不安を絵に描いたような目で彼を窺っていた。
「新堂とは、凪浜市に戻って来てから会ってない。その秘書にもな。ただ、新堂は快復に向かっているから、近々会うことになるはずだ。お前らが勘繰るようなことはねえよ」
具体的な日程などはぼかしつつ、真は適当に情報を与えて切り上げることにした。余計なことを言って、柄支たちに不穏な影が落ちるのは御免だった。
「如月がいなくなって、事実上教団はなくなったんだろ。だったら、もう俺たちには関係のない話だ。後始末は、お前たちで勝手にやってろよ」
「……そうかい。まぁ、そうじゃな。坊主らに会えたことだけでも、収穫としておくか。そしたら、話は終わりじゃ。飯は食ってくか?」
「いらねえよ。ハナコ、行くぞ」
「は、はい」
すげない返事で真はハナコを促して席を立つ。振り返ろうともしない二人を止めるでもなく、紺乃は立ち去る二人の背を黙って見送った。
*
そして――
「たいした話は聞けませんでしたが、あれで良かったんですか?」
現が昼食にと注文したステーキを頬張っている。真とハナコが去ってから、紺乃は懐から一枚の写真を取り出し、食い入るように見詰めていた。
「構わんさ。話はおまけみたいなもんじゃったしな。ほれ、見てみろ」
言って紺乃は写真をテーブルに置き、現の方へと滑らせた。食事の手を一時中断させた現は、首を傾げながらその写真を摘まみ上げる。
それは彼女自身が隠し撮りしたものであったため、すぐに何であるか分かった。被写体は遠くに写ってはいるが、ピントは合っているため容姿の判別は十分にできる。
写っているのは、壮年の男の傍に控えている一人の女性だ。
「例の市長と秘書じゃないですか。これがどうかしたんですか?」
「おいおい、気づかんか? 儂はあの嬢ちゃんを一目見て勘付いたぞ。食ってばかりだから頭に血が回っとらんのか」
むっと眉を寄せた現は、もう一度写真を両手に持ち、じっくりと観察する。彼女の様子を楽しげに眺めながら、紺乃は悪趣味な笑みを満面に湛えていた。
「まったく、そういうことかい……。こりゃ、傑作じゃのぉ。面白いことになりそうじゃわい。坊主と嬢ちゃんがニドウに逢えば、必ず事態に首を突っ込むことになる。せざるをえんわなぁ」
「え? ニドウって、私たちが探してるニドウですか?」
「ああ、もう見つけたわい。思わぬところにヒントは転がっとったわけじゃ。となれば、市長もくさいのぉ」
「また一人で悦に浸ってる。ちゃんと後で教えてくださいよ」
紺乃が何を一人で納得しているのか、結局現はその時点では共有することはできなかった。
しかし、尋ね人はどうやら見つかったらしいことだけは理解する。ならば委細、何の問題もないのだろう。着実に任務は進行しているということだ。
食事に興味を戻した彼女は、手のした写真を指で軽く弾いて紺乃へと返すのだった。




