04 「回答」
ぴしゃりと冷えた夜の空気に伝播して、珊瑚の告白はハナコの耳にも届いていた。
ぎゅぅ、と胸が押し潰されそうなほどに息苦しい。全身は錐にでも突かれているみたいに痛かった。
何も告白だけではない。ハナコは今日の出来事を、一つも余すことなく真の中から見ていたのである。
繋がれた手の温もり。
沁みこむ言葉。
赤らんだ心の鼓動。
ちょっとした珊瑚の一つ一つの所作に、彼が動揺しているのは手に取るように分かっていた。
心の動きは、こうして中に潜っていれば、否が応でも直接伝わってくる。
まるで、こちらを揺さぶりをかけ、見せつけるかのように――いや、実際に見せつけていたのだろう。
――あなたが本当にこのまま黙っているつもりならば、私も遠慮は致しません。
はじめから、珊瑚はそのつもりで今日に臨んでいたのだ。わざわざ一日彼を貸してくれと頼み、実質的に二人きりの状況を作ってまでして。
しかし、だからといって、自分にどうしろというのか。
暗い胸の内を暴かれたみたいで、ハナコの心は濁り、鉛のように重みを増す。
彼に好きだと言われて、幸せだった。
だから、彼を死なせないためにも、もう少しだけそばに居たいと願った。
それ以上、望むことなど何もない。何もないはずだ。
珊瑚はきっと、思い違いをしているのだ。彼女が彼を好きだと言うのなら、それでいいじゃないか。
彼女ならば、彼を支えてくれる。彼のために、共に生きてくれる。
それが、最善ではないか。何の問題もないではないか。
一度は託そうとしたはずだ。彼が選んでさえくれれば、もう、それで自分は役目を終えることができる。
……真さん。
この先の彼の人生が平穏であること。願うことは、それだけだ。
心にどれほどの穴が空き、嘲笑うかのような風が傷を撫ぜたとしても。
本来この世に居てはならない存在が、彼の未来を潰すことはできないのだから。
◆
雷が叩き落とされたかのような衝撃を、真はその身に走らせていた。己が大木であったなら、きっと真っ二つに引き裂かれていたことだろう。
もちろんそれは比喩であり、衝撃を受けたのはあくまで精神の方である。
肉体は無事だ。
されど、案山子にでもなったみたいに足は固まり、湯だった頭からは思考が奪われている。
寒さもふっとぶようなことを言われた自覚はあった。何か言わねばと思うが、喉が引きつり、唇は戦慄くばかりである。
珊瑚はじっと真の瞳を見つめて、泣き笑いのような微笑を浮かべて彼の言葉を待っていた。
どうして彼女が自分などに、という気持ちが突如として湧いてくる。しかし、今は細かい理屈を問い質す必要はないのだろう。
彼女は本気だ。皮肉と言っても良いものか、長い間そばで接してきた分、冗談や酔狂でこのような告白をされているのではないことだけは分かる。
不安と期待に塗りこめられた瞳だとか、胸に押し当てた両手が微かに震えている様子だとか、向き合った珊瑚から感じる全てが、彼女の気持ちを語っているのだ。
「珊瑚さん……」
真は白くなるほど拳を握り込み、きつく目を瞑ると深く息を吸い込んだ。冷たい外気を取り入れたことで、僅かに身体の感覚が戻って来る。
「気持ちは嬉しいです。けど、俺には好きなやつがいるんです。そいつと、一緒に生きていたいんです」
月夜の下の彼女は綺麗だ。姉の浅霧静が何の前触れもなく連れて来た彼女に対して、かつては淡い想いを抱かなかったかと言えば嘘になる。
だが、今の真の脳裡に浮かぶのは別の少女の姿なのだ。
本人は隠しているつもりなのだろうが、今だって胸がじくじくと疼きを訴えている。どういうつもりかは知らないが、黙っていれば流されるとでも思われているのであれば、随分と甘く見られたものだった。
「だから、すいません。あなたの気持ちには、応えられません」
頭が膝につきそうになるくらいの勢いで、真は頭を下げる。相手を傷つけずに済むような断り方など分からないし、誠心誠意自分の気持ちを正直に言う他、彼には思いつく方法がなかった。
「頭を上げてください。真さん」
時が滞留したかと思う程の静寂も、振り返れば一分にも満たぬ時間だっただろう。真に掛けられた珊瑚の声は、穏やかなものだった。
顔を上げると、変わらず珊瑚は微笑んでいた。そこに、真は拭えぬ違和感を覚える。
告白を断れたと言うのに、まるで動じた様子は見られない。断り方を間違えたのか、伝わらなかったのかと戸惑うが、そうではないことは次の彼女の台詞で明らかとなった。
「真さんの気持ちは存じ上げておりました。その返事は、想定内です」
「え……じゃあ、どうして」
断られることが分かっていながら、想いを伝えたというのか。戸惑う真に、くすりと珊瑚はからかうように表情を変えた。
「引けぬ事情というものがあるのですよ。真さん、あなたの気持ちは、ハナコさんにあるのですよね?」
「……!」
「ちゃんと、あなたの口から聞かせてください」
「……はい、そうです。俺は、ハナコが好きなんです」
この期に及んで隠し通す意味などはない。これも誠意だろうと、真は躊躇いを呑み込んで白状した。その彼の気持ちを刻むように、珊瑚は深く瞼を伏せる。
「そうですか。私の勘違いではなかったようで、安心しました。これで、次に進めます」
「――っ!?」
珊瑚が伏せた瞳を上げた、その瞬間だった。彼女は音もなく真との距離を一足に詰めて、彼の両脇に手を差し挟んで背中に回すとそのまま抱きすくめたのである。
「真さん、今一度申し上げます。ハナコさんへの想いを捨てて、私を選んで下さい」
「は……? 何を……」
抱き締められただけでも混乱するには十分だったのに、肩に頬を摺り寄せるようにして耳元で囁かれた珊瑚の言葉に真は耳を疑った。
珊瑚は片手を真の腰に回すことで、更にぐっと彼の身体を引き寄せていた。柔らかな弾力が胸に押し当てられて、甘い髪の香りが鼻腔をくすぐる。熱い吐息が、冷えた耳をジンと温めた。
「珊瑚さん、やめてくださいッ。こんなことされても、俺は……!」
「いいえ、やめません。では、お訊ねしますが真さん。ハナコさんは、あなたの想いに答えられたのですか?」
珊瑚を押し返そうと真は彼女の肩に手を触れようとした。だが、そこに被せるようにぶつけられた問いに手がピタリと止まる。
「……そうですよね。でなければ、私のこのような行為を許すはずがありませんもの」
密着した身体からは、動揺は手に取るように伝わるのだろう。しなだれかかるように身を寄せられて、真は咄嗟に彼女の身体を支える。
「ハナコさんは以前、私に仰ってくれました。自分の後を任せる人がいれば安心だと。遠慮などする必要はないとも」
「あいつが、そんなことを……?」
それは、真も知らないことだった。しかし、ハナコが言いそうなことだと容易に想像もつく。
想いを伝えて、ハナコは自分のそばに居ることを選んでくれた。心は通じ合ったはずだが、その点だけは互いの意見は、まだ一致していないのである。
「ハナコさんを好きだと仰いましたが、それでどうするのです? 一緒に生きるとは、共に死ぬということでもあるのではないのですか?」
「それは……ッ」
「魂が生きていようとも、ハナコさんは霊です。別れの時はいずれ来るでしょう。その時になってまで真さんが彼女と共にあることを願うと言うのであれば、それは承諾できないことです」
「でも、珊瑚さん。俺はあいつに命を救われたんですよ。魂だって……」
死に際を救われて歪な形で生き残ってしまったこの魂は、ハナコと共にある。
彼女の心に触れて、知ったのだ。
置いて行かない。独りにしない。
助け、助けられた。彼女を縛ってしまったその責任は、取らなければならないのだ。
「それでもですよ」
珊瑚は抱擁の力を緩め、顔を真の正面へと引かせた。月明かりに照らされた彼女の双眸は、静かな決意に燃えている。
「どうか、ご自愛ください。そして、自覚なさってください。あなたは、決して抜け殻などではない。血が通い、熱を持った人であると」
どのような形でも、生きている限り命を粗末にすることは許さない。
「平穏を守るために、私は戦うと決めました。ハナコさん、あなたが真さんを縛り続けるというのなら、私が断ち切って差し上げます」
「……! 何をする気ですか!?」
真はこの段階になって、ようやく珊瑚の並々ならぬ覚悟を感じ取っていた。このまま彼女の好きにさせていては、何か取り返しのつかないことが起こりそうな気がしたのである。
だが、そう思った時には、もう遅きに失していた。珊瑚に対して力づくというのは気が引けたが、彼女の抱擁を振り解こうと真が行動しようとした時点で、彼の身体は言うことをきかなくなっていたのだ。
「珊瑚さん!」
「申し訳ありません。縛らせて頂きました」
霊気による浸食だった。迂闊にも抱き締められている最中、珊瑚は真の肉体の自由を奪っていたのである。
「どうか、抵抗なさらないでください。害はありません」
熱っぽい瞳で正視されて、真は言葉に詰まる。動揺すればするほどに霊気の制御が乱れ、束縛の解除も難しくなる。
「私なら、ハナコさんにないものも、あなたに与えることができます」
「だから……何を……」
じり、と珊瑚の顔が近づく。どうしようもなく真の身体は立ち尽くすばかりで、彼女の抱擁を逃れる術がない。
「心だけではない。肉体的な繋がりだって……」
「やめましょう……珊瑚さん。こんなのは、違う」
「いいえ。知っているはずですよ、真さん。私だって、やるときはやるのです」
鼻先に、珊瑚の甘い吐息がかかる。
「今度は噛んだりしません。ですから、安心してください」
彼女の両腕の力は強まり、唇がもうすぐそこまでに迫ろうとしていた。
「優しく……してさしあげます」
――ダメです……ッ!!
「――っ!!」
「……ハナコ!?」
珊瑚の唇が真のそれに重ねられようとした、まさにその瞬間である。真の全身から青白い霊気が突如として爆ぜるように放射され、刹那の閃光を生んだのだった。
束縛されていた真の肉体は自由を取り戻していた。珊瑚は発せられた霊気の衝撃に弾かれ、驚きに目を見開いている。
「ダメ……です。珊瑚さん……真さんの意思を無視して……そんなことっ!」
その正体はハナコだった。真を守るようにして彼の前で両手を広げて、くしゃくしゃにした顔で珊瑚を睨みつけている。彼女自身、そんなことをしたくはないと顔に書いてあったのだが、それでも引く気はないようだった。
「やっと、ですか。それで? どうするつもりなのですか?」
珊瑚は背筋を伸ばすと見開いていた目を細めて、ハナコを見つめ返した。さっと夜風が吹き抜けて、彼女亜麻色の髪を揺らす。その迫力に、ハナコは哀れみを誘うくらいに震えていた。
「ハナコ……、助けてくれたんだよな?」
「……真さん。わたし……」
ハナコの背中に真が呼び掛ける。ハナコは首だけを振り向かせて、ちらりと横顔を見せただけですぐに前へと向き直った。
「大丈夫ですから。口出しはしないでください」
歯を噛み締めて口を真一文字に結び、震えを止めて珊瑚と対峙する。二人の間では見えざる火花が散っているのか、ぶつけ合う視線だけで周囲の気温が上がるかのようだった。
「珊瑚さん……。ごめんなさい。やっぱり、わたしは嫌です。真さんが、他の誰かに取られるなんて、嫌なんです」
「……そうですか。ハナコさん、真さんの気持ちを、あなたも聞いていたのでしょう。ならば、あなたには、彼の想いに応える覚悟がおありなのですか?」
珊瑚の声は、妥協を許さぬ厳しいものだった。彼女は険しい色を灯した瞳をハナコの瞳に合わせて、瞬きもせずに言い放つ。
「あなたにその覚悟もなく真さんと共に居続けようというのなら、私はどんな手を用いても、あなたから彼を奪いますよ?」
「わたしに覚悟があるのかは、分かりません。でも……わたしの正直な気持ちを、真さんに返そうと思います。珊瑚さんが怒っているのは、わたしが、いつまでも答えを引き延ばそうとしているからなのですもんね」
訥々と語るハナコの言葉を、珊瑚は黙って聞いていた。それは、真も同様だった。
そして、くるりとハナコは振り向いて、真と向かい合う形をとった。
「真さん、お待たせしてしまってごめんなさい。あのときの返事を、させてください」
「あのとき……?」
「忘れたなんて、言わせませんよ。わたしの心の中で、好きだって……告白してくれたじゃないですか」
ハナコが拗ねたように少し口を尖らせる。そのときの光景が思い出されて真は一瞬たじろぎかけたが、真剣な顔で頷き返した。
「ああ、そうだな。……聞かせてくれるのか?」
真の期待を込めた問いかけに、ハナコは消え入りそうなくらいに肩をすぼめつつ、口元に両手を添えて、こくりと頷く。
「好き、ですよ。わたしも、真さんのことが、大好きです」
それが、恥じらうような笑みを浮かべながらの、ハナコの回答だった。
彼女の返事に、真は表情を明るくさせる。だが、彼が何かを言う前にハナコが「でも!」と鋭い声を発して彼の口を封じるのだった。
「でも……あなたの気持ちには、応えられません。わたしは。あなたを死なせたくはありませんから」
「お前、まだそんなことを……」
「当たり前じゃないですか。好きな人に生きていて欲しいと思うことが、そんなにおかしなことですか? わたしが、あなたを生かします。まだちゃんと言えませんけど、あなたを助けられる方法があるかもしれないんです」
「何だと――?」
ハナコは再び珊瑚の方へと向きを変え、真の抗議を背中で跳ね返した。深い夜を思わせる瞳に芯のある光を宿らせて、彼女は珊瑚に向けて言うのだった。
「珊瑚さん。わたしは、彼と添い遂げる覚悟はありません。でも、彼を生かすための覚悟ならできます。そのための時間をもう少しだけ、わたしにください。真さんは、あなたたちに必ずお返しします。だから、その時までは、大好きな彼と一緒に生きることを、許してください……。お願いします……!」
実体のない身体の腰から上が、ふわりと折り曲げられる。そうして、向けられたハナコの頭を押し黙って見据えていた珊瑚は、やがて、白い息を零した。
「わかりました。そこまで仰るのなら、もう私の出る幕はありませんね」
つと珊瑚の視線が、ハナコの後ろにいる真へと投げかけられる。そこには何処か恨みがましくもあるが、達観したような複雑な感情を孕んでいるように思えるのだった。
「真さん、しかと聞きましたね? ハナコさんの気持ちを」
「……はい」
「ならばもう、私の口からは何も申しません。お伝えしたいことは、全て申し上げたつもりです。私は、先に帰らせて頂きます」
姿勢を正してお手本のようなお辞儀をした珊瑚は柔和な笑みを残し、真とハナコが止める間もなく二人の横を通り過ぎて行く。
彼女の背中は夜闇に紛れて、すぐに見えなくなってしまっていた。
◆
浅霧家の門扉の灯りが見えてくる。一人歩みを進めていた珊瑚は、その下に佇む背の高い人影を見つけて訝って目を細めた。
「なんだ、一人か」
「静さん。わざわざ、お出迎えですか」
すらりとした長身を塀にもたせかけて腕組みをしているその人は、浅霧静だった。じろっと上目遣いで睨むように見据える珊瑚に対し、彼女は余裕たっぷりに笑みを湛えて、ゆっくりと珊瑚に歩み寄った。
「なに、敗戦の将を慰めてやろうと思ってな。まったく、お前も、つくづく面倒な女だな」
「余計なお世話です。からかいに来た、の間違いではないのですか?」
「はっはっは、すまんすまん。そう怒るな」
ぽすぽすと子供をあやすように気軽に頭を叩かれて、珊瑚は半眼となってますます目つきに剣呑さを増す。だが、静はまるで意に介さずに一笑すると、門を開けるために珊瑚に背を向けた。
「寒かっただろう。風呂ならわかしているぞ。先に温まっておけ」
「……はい。ありがとう、ございます」
「そうだ、あがったら私の部屋にでも来い」
と、門を開けたところで思いついたように静が振り返る。片手でひょいと盃を呷る真似をして、悪巧みを思いついた子供のように口端を吊り上げた。
「憂さ晴らしに、今夜は付き合ってやる」
「そこまで子供ではありませんよ……」
珊瑚はおかしそうにふき出して、かじかんだ指先で目尻を拭う。そして、唇を噛み締めて俯くと、そのまま小走りに静を追い越して、家の灯りの中へと飛び込んで行ったのだった。
「やれやれ……。世話のやける連中だな」
静は珊瑚を追い掛けるでもなく、のんびりと玄関に向かって歩き出す。これは無理矢理にでも引っ張る必要があるかと、ひとりごちた。




