序章 「輪廻の化生」
「僕は……いや、今は私と言うべきかな。生きることに飽いているのだと思うんだ」
途方もなく、永い時を生きてきた。
故に、飽きたのだ。
応接室のソファに座り対面したその御方は、己の生きて来た時間に対する感想を、そんな一言で述べられた。
口許に浅い微笑を湛えながら、くずかごにゴミでも投げ捨てるかのように。
その悠久とも言える時の流れを望む者の数を思えば、傲慢に過ぎる発言だ。
しかし、反論することはできない。同じ経験をしたことのない者の空想の意見など、無価値であるからだ。
「君たちの観点からすれば、私は満たされているのだろうね。けれど、何にでも慣れというのはあるんだよ。満たされ続ければ、いずれは何も感じなくなる。幸福に肥えて死ぬことだってあるだろうさ」
御方の言いたいことは一定の範囲では理解できる。しかし、それは満たされた者の理屈でしかない。
研究者にとって、探求とは本能のようなものだ。そこに目指すべき形があるというのに、手を伸ばさぬことこそが不敬であろう。
例えその禁断の果実に毒があろうとも、飢えて死ぬのを待つ道理はないのである。
「ああ、君らしい意見だとは思うよ。同種の経験をしたからといって、そこから同じ意見が生まれるとは限らないからね。私は私と同じ境遇の者には出逢ったことがない。君は君で、好きにするといいさ」
肘掛けに肘を立てて、ほっそりとした指先が御方の頬にあてがわれる。待ち焦がれたその人が自分の目の前にとうとう現れた時は、胸に溢れんばかりの歓喜が湧き起こっていたというのに、向こうはこちらの胸中などに然したる興味もないのだろう。
御方の能力を思えば、それも致し方のないことだ。現世に再び再臨なされる手伝いが出来、こうして言葉を交わせるだけでも類稀なる幸運と言うべきことなのだから。
生そのものに執着などないのだ。たかだか一個人の感情など些事でしかない。想像するまでもないことだ。
「能力ではなく特性だよ、これは。自分で制御できるなら、とっくに私はこの世から消えている」
微笑が僅かに歪んだかのように見える。不興を買ったのではないかと焦りはしたが、御方はこちらに目を向けることなく言葉を繋いだ。
「生前の記憶。前世。どうやら自分がそうした記憶を持っている存在だと、はっきりと認識したのは何度目の生だったかな。今となっては覚えていない。記憶は全て意識の中に刻まれてはいるんだ。それを魂に認めさせる――過去に生きた『私』という人格に当てはめるのに、時間が必要だというだけでね。とりわけ、生まれ立ての魂には負担の大きい作業だ。だから、今こうしてある程度成長した肉体であれば、馴染みやすいとも言える。もっとも、中身が空であったからこそ言えることかもしれないけれどね。こんな転生の仕方は、初めてかもしれないな……それも結局は、覚えていないのだけれどね」
そう、ただ魂を呼び戻すだけでは駄目だったのだ。御方の魂の受け皿となるための、然るべき器が必要だったのである。
適度に成長した若い肉体。抜け殻ではあるが、生体活動を維持していたあの身体を御方のために取っておけたのは僥倖だった。
背中に流れる艶やかな黒髪と、流麗な睫毛の下に煌めく黒い瞳。あの少女よりも幾分成長しているが、顔貌は良く似ている。
いや、似ているのではなくそのものなのだから、当然だ。
目覚めたばかりで肉は落ちて痩せ細ってしまっているが、直に活力を取り戻されることだろう。
その中身はあどけない少女のものでは決してない。双眸に覗く茫漠たる闇を理解するには、この身は余りにも矮小に過ぎる。
一日千秋の思いで待ち焦がれた御方は、自分自身が誰であるのか、もうはっきりと自覚なさっている。
「そうだね。私がこれまでの輪廻の中で、一貫して名乗ってきた名前はある。そういう意味では、私は私を認識しているよ。しかし、それが最初から持っていたものなのか、後から付け足したのかは分からない。まあ、どちらでも大した意味などないのだけどね。重要なのは、名前ではないよ。仮に……君の名前はなんというんだい? と私が訊ねたとき、君は何と答えるのだろうね? 意識としての君の名かな? それとも、現在の肉体としての名だろうか」
問われ、無様にも答えに窮してしまった。自分は自分だと、そう答えることに何ら支障はないはずなのに、御方の言葉はまるで掴みどころがなく心の隙間へと滑り込んできたのである。
「気を付けるといいよ。君の場合は、転生とは違うんだ。意識だけを取り憑かせたのだから、自我を保てなくなれば消えるのがどちらになるのかは明白だ」
確かに、言われれば自明の理だ。御方とは違い、自分は前の肉体を捨てて意識のみを繋ぎ止めることに成功はしたが、所詮は真似事に過ぎない。やっていることは悪霊のそれに近しいことだ。
自分の意思で、自分のものではない身体を動かす。若返った気分になるかと思ったが、実際の所、他人の身体というのは一声喋るにしても違和感が付き纏うものだった。
御方の言葉を借りるのならば、魂に意識――人格が定着すれば馴染むのだろうか。
「時間を掛ければいいさ。ただ、しばらく君にはその人に成り切ってもらわないといけないからね。自分の存在を常に意識しておくことは大切だ」
淡く色づいた唇から吐息が零れる。御方が、伏せがちであった瞳を上げられた。
「さて……こうしてまた、生を得てしまったのだから是非もない。この退屈な命を解き放てるのか、今生でも試させてもらうよ」
微力を尽くさせて頂くことに否やはない。ソファから立ち上がり、その場で最大限の畏敬の念を込めて傅く。
無色の教団は崩壊したが、もはや関心はない。あれはとどのつまり、御方の望みを叶えるために組織させた駒に過ぎないのだから。
御方と出逢い、その存在を知ることで、俺は魂の可能性を見た。
このような存在を目の当たりにして、研究者としての奮い立たぬ方が狂っている。
人道など、御方の目指される道と比べるまでもない。そんなことは、俎上に載せるまでもない問題だ。
「わざわざ頭を垂れる必要もないよ。私も君を利用している立場だ。すぐに動ける身体まで用意してくれたのだから、感謝している」
身に余る言葉に、この肉体ではない意識が震える。顔など、上げられるはずもなかった。
「では、しばらく私は君の傍らで成り行きを見守らせて頂くよ。彼らに再会するのも、楽しみだ」
弐道五華。
それが幾星霜の輪廻に囚われた、化生の名だった。




