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退魔師の二度目の生は幽霊少女と  作者: 尾多 悠
第五部 遠き背中
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31 「復讐の果てに」

 軍刀が打ち上げられる甲高い音が、黄昏の空に長く尾を引く。

 頭上を横切る細い影を、清言は振り返らなかった。

 渇いた口端に浅い笑みを刻み、空になった両手は下げられている。


「……どうした。止めを刺せ」


 彼は己の心臓の一歩手前で止まった緋色の刃を見下ろす。

 全神経を一撃に注いだ沙也は、力の限りを出し尽くしてしまっていた。刹那に変貌した瞳と髪を元の黒色へと戻し、肩を震わせて荒い呼吸を繰り返している。


「最後の一押しだ。出来ぬとは言わせん」


 これは、沙也の待ち望んでいた結果のはずだった。

 この男が目指したもの。己を化け物と定め、一人の少女を、自分を殺させるための道具として育て上げたその狂気。

 殺すことに何も間違いはない。その胸に刃を突き刺せば、復讐は終わるのだ。

 父を、母を殺された。憎むべき敵なのだ。幸せであれたはずの時間は、全て目の前の男に奪われたのだ。


 だと言うのに、足が竦んで動かなかった。

 視線は下がり、握り締めた柄に固定されている。

 後一歩を踏み出せば、それで終わる。たったそれだけのことが、彼女にはできなかったのだ。


「何を躊躇う。勝者の務めを果たせ」


 清言の右腕が緩慢に上げられる。沙也は反射的に後ろに下がりかけたが、引き止める力に抑えられた。太刀の刀身を、清言がまともに掴んだのである。


「あんた……何を……」


 怯えたように口を開きかけたが、すぐに沙也は異様な光景に気付いて目を剥いた。

 清言の手は確かに太刀の刃に食い込み、切り裂かれている。だと言うのに、一滴の血も流れてはいないのだ。


「見ての通りだ。私の肉体は、もはや骸に等しい。放っておいても朽ちる運命さだめだ」


 条理を超えた魂の力により酷使された彼の肉体は、崩壊寸前に追い詰められている。この勝負の趨勢がどちらに傾こうとも、それはもう止められないことだったのだ。


「つまらん命だが、くれてやると言っているのだ。儲けものと思え」


 世界に終わりが近づいている。黄金の光が地平に伸びており、逆光となった清言の顔には濃い影が差していた。


 沙也は、彼から目を反らせなかった。


「……悔いは、ないのね?」


 それは最期の時を悪戯に引き延ばすだけの、不要な問い掛けだったに違いない。

 彼の顔を見れば、問わずとも分かることだ。


「悔いなどあるはずがない。これで、私の復讐は成ったのだからな」


 だが、彼は答えた。

 戦いに負けたと言うのに、それすら誇るかのような笑みを浮かべて見せながら。

 言葉通りに、一片の後悔なども見せぬ、満足そうな顔だった。


 どうしようもなく、この男は己の最期を受け入れている。


 残された時間はごく僅か。

 清言の右手が、太刀から放される。その手が小刻みに震える沙也の両手に伸ばされようとしたが、彼女は無言のまま首を横に振った。

 この戦いは二人だけのもの。ならば、幕を引くのが勝者の成さねばならないこと。



 ――最期の引鉄まで、この男に引かせるわけには……いかない。



 手向けの言葉などなかった。

 気の遠くなる、計り知れぬ重さを感じる一歩に対して、太刀を通して伝わる手応えは、余りにも軽い。


 命の灯火が――彼の魂が砂のように崩れ去ってしまう。


「あぁ……よくやった。強くなったな、沙也」


 清言の声が、沙也の旋毛つむじに落ちる。彼は膝を地につかせることなく、その手を自ら育て上げた少女の頭に触れさせた。

 その厚い手の平の感触は、彼女が幾度となく回想した過去のもの。


 沙也が男の顔を見ようと顔上げる。だが、彼は既に背中を向けていた。

 あれほど固まっていたはずの両手は、太刀から放れていた。冥途の土産にでもするつもりなのか、彼は胸から引き抜いた太刀を右手に提げている。

 沈み行く世界に、緋の輝きだけが煌めいていた。


「お前は、優秀だ」


 己の全てを出し切った男の肉体が、指先から朽ち始める。

 初めから夢幻であったかのように、彼は跡形も残さずに消え去り、その生涯を終えたのだった。


「…………」


 沙也は彼の手から零れ落ち、荒野に置き去りにされた太刀の下に足を引き摺る。その柄へと触れようとする気持ちに僅かな躊躇いの影があったが、彼女はそれを押し殺して拾い上げた。


 敵は討った。


 そのはずなのに、胸の疼きは止まらない。

 高熱にうなされたみたいに、目の前がぼやけていた。


「ぅ……ああああああ――――……ッ!!」


 両手に握り締めた太刀を、墓標のように地面へと突き立て、支えとする。


 突如として湧き起こる感情の出口を見失い、沙也はいていた。

 言葉にならない。形にならない。こんな気持ちを、自分は知らない。

 喉が焼けるように熱く、鉄の味がするのも構わずに、狂った獣のように吼え続ける。


 夕闇に覆われようとする世界で、喪失に噎ぶ少女の声だけが木霊していた。





 礼拝堂の床に膝をつき、両手を重ね合わせた柄支は一心に祈りを捧げている。

 どれほど時間が経過しただろうか。誰からの声も受け付けず、彼女は頑なに動こうとはしなかった。傍らでは真とハナコが、途方に暮れて立ち尽くしている。フェイはまだ原型を留めている長椅子にもたれて傷ついた身を休めており、レイナは真たちから離れた位置で、じっと天井を睨むようにしていた。


 彼らに共通して言えることは、誰もが成す術もなく、その時が来るのを待つしかなかったと言うことである。


「――! 全員下がりなさい!」


 そして、最初に微かな空気のざわつきを感じ取ったのは、レイナだった。遅れて状況を把握した真が、梃でも動かなかった柄支の肩を引っ掴み、目を見開く彼女を抱えるようにして無理矢理に下がらせる。

 先ほどまで柄支が跪いていた――清言と沙也が消えた場所の空間が震え出し、景色がぐにゃりと歪んだ。


 その場の全員が息を呑む。そして、空間の歪みから吐き出されるようにして現れた少女の姿を見た柄支は、真の手を振り解いてしゃにむに走り出していた。


「沙也ちゃん!」


 いったいどれほどの死闘を演じたのか。深く斬り裂かれた左腕を垂れ下げて、今にも膝を折りそうな血に汚れた妹を、臆することなく柄支は抱き留めようとした。


「近づか……ないで」


 しかし、柄支が手を伸ばそうとしたその寸前で、沙也の掠れた声が響いた。

 空間の歪みは既に閉ざされており、現れたのは彼女一人だけだった。それの意味するところは、一つしかない。

 沙也の顔は、とても勝者のものとは思えなかった。瞳に力はなく、あれほど苛烈であった覇気は、今や見る影もない。

 身を切り裂く様な静寂の中、沙也の弱々しい足音が沈黙を破る。彼女は姉の横を素通りして、真っ直ぐにレイナのところへと歩み寄って行った。


「沙也」

「…………清言は、あたしが殺したわ」


 この島で顔を合わせるのは互いに初めてであったはずだが、さしたる挨拶もない。呼び掛けるかつての仲間に、沙也はたった一言だけ、己の成した事実を告げた。


「そうですか……。彼は、務めを果たしたのですね」


 自身の左腕をきつく掴みながら、レイナは薄灰色の瞳を伏せる。同時にフェイが力任せに椅子を殴りつける乾いた音がしたが、沙也はもう何も言わなかった。それ以上誰とも言葉を交わそうともせずに、礼拝堂の出入口に向けて再び足を引き摺り始めたのである。


「おい、沙也!」


 真が視線で沙也を追うが、彼は二の句を継ぐことができなかった。

 このまま去られて終わって良いはずがない。だが、掛けるべき言葉がまるで見つからない。

自分が何を言ったところで、今の彼女に響くとは思えなかった。


 届くとすれば、それはきっと――


「沙也ちゃん! 逃げないでよ!」


 この中で、ただ一人諦めていない。去ろうとする妹を引き止める姉の声だった。

 沙也の足取りは重く、柄支は容易く彼女の背中に追いつくことができた。そのまま後ろから腹に手を回してしがみ付く。そんな姉の行為に構わず沙也は足を前に動かそうとしたが、抵抗する力も残されていないのだろう。やがて、諦めたように足を止めた。


「やめてよ。もう終わったのよ」


 振り返らずに、沙也は拒絶の言葉を口にする。だが、柄支に迷いはなかった。震える程に抱き締める腕の力を強くして、妹の背中にぎゅっと額を押し付ける。


「何も終わってなんかいないよ。わたしたちは、これからじゃない」

「これからって……」

「いいんだよ、逃げなくて。耐えて……耐えて……誤魔化だまさなくたって、いいんだよ。だって、わたしも感じたから」


 沙也は、何がとは訊ねなかった。

 何故なら、姉の言いたいことが、彼女にはちゃんと伝わっていたからである。


「心がね……繋がったんだ。あれは、気のせいなんかじゃ、ないよね?」


 清言の『世界』の壁を越えて、繋がった心。二人の血の繋がりが起こした奇蹟を、柄支も体感していたのだ。

 無言を貫く妹に、柄支は己の考えが間違いではないと確信して安堵の息を零す。ならば、迷うことなど何一つとして存在しない。

 柄支は強張った沙也の掌を優しく解き、慈しむように指を絡ませ、両手を重ねた。


「少し、背が伸びたね」


 二人の間にある時間の溝は、思うよりも深いものだろう。


「わたしが、全部聞くから」


 妹は、ずっと痛い思いをしてきたのだ。その分、強さを得て、弱さを捨てた。


「ゆっくりでいいから。今まで、沙也ちゃんが苦しかった事、辛かった事、全部聞くから」


 姉として、これから少しずつでも、取り戻せてあげられれば良いと思う。

 それは、決して我儘なことではないはずだ――いや、たとえ我儘でも押し付けでも、放っておけない。

 絶対に、離れない。


「だから、少し休もう?」


 果たして、届いただろうか。

 変わらず言葉を寄越さない妹の手は冷たい。そう思う柄支の手の甲へと、不意に熱いものが落ちる。

 ぽたぽたと落ちるそれは、妹の流す涙に違いなかった。





「真さん、これで良かったのでしょうか……」


 姉妹の様子から目を反らしたハナコは、隣の真へと問うように零した。真もそれ以上は見ていられなくなり、返すべき言葉も見当たらなかった。


「は……、良いも悪いもねーだろ。沙也姉ちゃんが勝って、オッサンが負けた。そんだけの話だろーが」


 そんな二人に向けて、吐き捨てるようにフェイが言いながら顔を向ける。彼は大きく肩を落として、眉間に刻んだ深い皺を指で押さえていた。


「……けどまあ、浅霧真。一応礼は言っとくぜ」

「何を言ってるんだ。結局、俺は何もできなかったんだぞ」

「だとしてもだ。アンタはよくやってくれたよ。もともとオレたちの内輪揉めみてーなもんだったんだ。アンタが気に病むことじゃねーよ……」


 あくまで軽く言おうとしたのだろうが、最終的にフェイは奥歯にものが引っかかったみたいに語気をすぼめる。

 彼自身も納得など到底していないのだろうが、無理矢理にでも結果を呑み込もうとしているようだった。


「彼の言う通りです。私からも、礼を言いましょう。貴方が清言と戦い、沙也を足止めしなければ、彼女――柄支も間に合わなかったのでしょうから」

「レイナ……」

「フェイ。清言のことについては、もう言葉は不要です」


 そして、フェイに続けてレイナも真に歩み寄り、淀みなく述べる。その言い様にフェイは何か思うところがあるのか彼女を睨もうとしたが、逆に一瞥されて大人しくなる。

 二人の間には、目を合わせるだけで通じる呼吸のようなものがあるのか。いずれにしても、立て続けに礼を言われたところで、真は素直に受け取ることはできなかった。

 正直に言わせてもらえば、そんなことをされても後味の悪さが増すばかりだった。


「とにかく、礼を言うのは無しだ。あんたたちがこれで良いってんなら、もう俺は何も言えねえよ」

「ええ。では、今後の事を話しましょう。まず、私たちは貴方がたのもとへと投降します。フェイも、構いませんね?」

「しゃーねえだろ。どっちにしても抵抗する力なんざ残ってねーから、好きに連れてけよ」


 言われて、もともとは翼の救出に加えて、沙也が清言の麾下きかにいないことを証明するために彼を捕えることが目的であったことを真は思い出す。

 清言を捕えることは叶わなかったが、彼の部下二名を連れたのであれば、結果としては十分な成果となるだろう。


「じゃあ、あんたたちが沙也の潔白、つまり組織を裏切ってないってことを証言してくれるのか?」

「ええ、必ず」

「だな。ま、その先はどーなるか分かんねーけどよ」

「……分かったよ。大人しくしてくれるってんなら、こっちも有り難い」


 真はレイナの話を受け入れて頷いた。この事件の顛末がどうなるのかは、まだ予断を許さないところはある。しかし、一つの戦いに幕が下ろされたことだけは、実感となって重く両肩に圧し掛かってきていた。

 疲労感に若干の眩暈を覚えたが、真は軽く首を振って追いやり柄支と沙也の下へと足を向ける。まだやらねばならないことは山積みだが、まずは沙也の手当てをしてやらなければなるまい。

 それから別行動中の珊瑚と翼、静と合流だ。この島を去った後は事件を巡って組織同士の話もあるだろうが、それはラオの職掌の範囲であるはずだ。

 翼を実家に送れば如月のことも説明しなければならない。まだ真も完全に消化しきれてはいないが、避けては通れない事だ。


「ようやく、教団のこともかたがつきそうだな」

「はい、そうですね。そうだと、いいです……」

「ん、どうした? 何か気になることでもあるか?」


 何気ない相槌ではあったのだが、妙な歯切れの悪さを感じて真はハナコに訊ねてみた。彼女は問われたことが意外だったらしく、「えっ」とやや驚いた顔を見せていた。


「いえいえ、何でもないですよ? 清言さんのことは……その、残念だったのでしょうけれど、色々なことが良い方向にいってくれればいいなと……思います」


 少し哀しげに声を潜ませながら、ハナコは申し訳なさそうに言う。真は気を張り過ぎてあらぬ錯覚をしてしまったのかと、彼女の底意のない言葉を聞いて首を傾げた。


「……そうだな。俺も、そう思うよ」


 何もかもとは言わない。少なくとも、今目の前で守れるものがあるのなら、迷っている暇はないのだ。

 取り零してしまったとしても、やり直せることだって、きっとある。

 抱き合い、涙する姉妹の姿を見れば、それくらいは信じても良いだろうと――そう思えるのだった。

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