29 「黄昏の荒野 1」
「では、お前にも打てる手が無いと言うのだな」
片手に握り締めた無線機を口に寄せ、浅霧静は姿の見えぬ相手を威圧するように問い質していた。
彼女は打ち合わせの決定通り、まだ眠りから目を覚まさない翼を珊瑚に預けて、島の桟橋に停泊させていた小型船へと戻っていたのである。
荒波に狭い操舵室の床は不安定に揺れており、ごろごろと暗雲の影からも不穏な音が低く響いていた。
『ええ、残念ながら』
そして、やや雑音が混じってなお、滑らかな男の声が聞こえる。
『場の乱れは観測できますが、外の我々からは手の出しようがないのが現状ですね』
「そう言いながら私の連絡には即座に応じたようだが、本当だろうな?」
相手の余裕のある声は、まるでこちらの事情などお見通しだと言わんばかりだ。静の問いに、苦笑が返される。
『そう言わないでください。観測はできると申し上げたでしょう。ならば、そちらから何かしら連絡があると踏んで待つのは当然のことではないですか』
「だったら対応策の一つや二つ考えておけ。何もできないでは話にならん」
『耳が痛いですね。ですが、仰られている異変に関しては、もう心配はいらないと思いす』
「何……?」
『こちらで観測できる限りでは、場の乱れは収まりつつあるようです。その開いた門とやらは、自然に閉じようとしているのではないかと』
静は正面のガラス窓から覗き込むようにして空を見る。暗雲の中、島を睥睨する一つ目のように浮かぶ異質な存在。その先に垣間見えるのは、絵の具を出鱈目に混ぜ合わせたみたいな歪な空間だ。
だが、言われてみれば、その目がそれ以上広がることはなくなっているようにも思えた。あくまで気がするだけで確証はないが、だとすれば何が理由だと静は考える。
「自然に閉じるなど、都合の良いことがあるのか?」
『目の前の現象を信じるのでしたら、そうなります。残る可能性は、門の開放に使われている力が使用されて、維持できなくなった場合なども考えられそうですが』
流石に憶測の域を出ませんがね、と男の声は躊躇うようにそれ以上の言及を打ち切った。
『考察を網羅的に挙げることはいくらでもできますが、やめておきましょう。所詮、私は現場に居ない身ですからね』
要は、後は現場の自分たちで何とかしてくれということだろう。静は無理に戻って連絡を取ったことを、無駄足だったと半ば後悔し始めていた。
「分かった。こちらはこちらで何とかする。そのままお前は監視でも続けているがいい」
『ああ、少しお待ち下さい。その件とは別に、お伝えしなければならないことがあります』
そして、もう得る情報はないと静が通信を切ろうとしたとき、遮るように男の声が待ったをかけて来た。
『門に関しての情報はありませんが、それとは別にお伝えしなければならないことがあります。静様の方から連絡をくださったことは、僥倖でした』
今までとは打って変わって、低く落とされた声だった。懐疑的に眉を寄せる静の背筋に、不快な緊張が走る。
『目的を果たされたのであれば、出来る限り早々に島から立ち去ることをお勧めしますよ』
「……どういうことだ?」
決して冗句の類ではなく、真剣みを帯びた台詞に静は訊ねた。すると、男の深い吐息が漏れ聞こえる。彼としても、この状況を快くは思っていないようだった。だからこそ、忠告しているのだろう。
『厄介な御仁が、そちらへ向かわれたようです。鉢合わせになる前にと思いましてね。今更ですが、改めてご武運をお祈り致しますよ』
「おい、分かるように説明を――」
そう静が言い切らぬ内に、彼女の遥か上空から獣の唸るような重低音が聴こえた。
遠雷や荒波の音ではない。それら自然の発する音を全て薙ぎ払うかのような轟音だ。
静は漆黒の空の彼方から、徐々に迫るその機影を視界に捉えていた。音の正体はエンジン音と、ブレードが旋回する風切り音が複合されたものだった。
『まったく、大人しく本国へ帰られればよろしいのに、困ったものですね』
男もその音に気付いたのだろう。深い憂慮を含んだ声を聞きながら、静は迫る機影から照らし出された白いライトが、雨雲を切り裂く様を見つめていた。
◆
もぬけの殻となった礼拝堂に取り残された真は、成す術もなく立ち尽くしていた。
静寂が重く耳に残っている。沙也と清言の姿が消えたと見るや、彼は即座に二人の気配を探ろうとしたが、何も見つけることはできなかった。
これが尋常ならざる速度でこの場から離脱したという現象であるなら、まだ気配は残って然るべきだったのだろうが、それすらない。念のためハナコに上空からも何か見つけられないか頼んではみたものの、成果は芳しくなかった。
「どうしましょう……真さん」
ハナコがぐるりと首を巡らす。清言が放った力の余波によって、放置されて久しい礼拝堂の内部は更に荒れ果ててしまっていた。一通り見て回ったが、やはり二人の手掛かりとなるようなものは見つけられない。
八方塞がりとは、正にこの事だった。
……清言は何て言っていた。『世界』の形成?
真は頭を抱えたくなる気持ちを抑えながら、懸命に考える。清言の残したその言葉は、何処かで聞いた覚えがあった。
「まさか、本当にこの世界とは別のところに移動したって言うのかよ……」
荒唐無稽な話にも思えたが、そうであるなら一応説明はつくのかもしれない。
封魔省総長が行なって見せた、空間を己の思うままに塗り替えるほどの形成――それは比喩などではなく、本当にこの世と隔絶した世界を創造するものなのだとしたら。
「……くそっ」
歯噛みする真を見て、ハナコもまた方法がないことを悟ってしまう。この世の何処にもない場所へ、どうやって追い掛けろと言うのか。
できることがあるとすれば、術者である清言が形成を解くか、あるいは維持できなくなるのを待つくらい。しかし、それはつまり、沙也と清言の決闘に終止符が打たれた後の話に違いない。
いずれにしても、どちらかの命が潰えてしまう。
「真さん、えっと……こういうのはどうでしょう。わたしたちの力を、とにかく全力でぶつけてみると言うのは」
下手の考え休むに似たりと言うが、何もしないよりはましだとハナコはそう真に提案した。
「やれるだけのことは、やってみましょうよ。当たって砕けてしまうかもですが、何もしないよりかは良いはずです」
「……、そうだな。手をこまねいているだけは、性に合わないか」
ハナコの考えは、とてもではないが理に適っているとは言い難い。合一により力を全開にして、空間を揺るがすほどの力を放つことができるのか。そして、仮にできたとして、その揺らぎが清言の創造した世界へ届く保証もない。
それならば、沙也と清言、二人のどちらかがこの場に戻って来た時のために力を温存しておいた方が賢いだろう。
しかし、それでは真たちは、自ら望みを放棄すると言っているようなものだった。
清言が『世界』から自分たちを追い出そうというのなら、無理矢理にでも抉じ開ける。
「よし、ハナコ。やるぞ――」
清言が立っていた位置へと真が移動し、ハナコも彼に応じようとした。
「そこに居るのは、浅霧真ですか?」
と、二人が力を解放しようとする寸前に、何者かの刺すような声が飛び込んで来た。
「何をしようとしているのかは知りませんが、お止めなさい」
礼拝堂の入口を振り返った真とハナコは、暗闇の中から歩み寄る女性の姿を捉えて目を見開いた。清言の片腕であるその女性――レイナは、まるで米俵でも担ぐようにして、その両肩に少年と少女を一人ずつ運んでいたのである。
「――ふぅ、少々骨が折れましたね」
「おい! もういいからさっさと降ろしやがれ!」
レイナは美女と言って差し支えない容貌の持ち主だが、そんな彼女のスマートとは言えない所作のアンバランスさに、真とハナコは一瞬言葉を失っていた。
片側に担がれた少年が恥じるように喚いているようだったが、当人は必要なことをしているだけだと真面目腐った顔である。そのまま数歩進んだ彼女は、腰を屈めて肩に担いだ荷を床へと丁寧に降ろすのだった。
「フェイ……、それに先輩」
「あぁ、みっともねーとこ見られちまったなー」
黒い肌の少年は別れたときから幾らか回復したのか、はっきりとした口調だった。バツが悪そうに白髪を掻き乱し、真から視線を逸らす。
「それで、清言と沙也はどうしたのですか?」
真たちの混乱を他所に、レイナが濡れた白金の髪を軽く払って雫を飛ばす。彼女の薄い灰色の両目は、礼拝堂の中をつぶさに観察し始めている。ここに二人が居ることを、予め分かっていて来たような口ぶりだった。
「いきなりだな……。説明はなしかよ」
「私がここに来た理由ですか? 清言の気を追って来たまでのことですよ。二人は、途中で拾いました」
レイナは珊瑚に敗れはしたが、歩けるまでに体力を取り戻して行動を開始したと言うことなのだろう。明確な敵意こそ感じはしなかったが、真は気を緩めずに彼女が運んで来たもう一人――柄支へと目をやった。
「先輩……?」
そこで真は、先程から一言も柄支が言葉を発していないことに気が付いた。横向けに蹲るようにして寝かされた彼女の側にはフェイが片膝をつき、背中を擦るように手を添えて様子を窺っている。
「心配はすんな。急に調子が悪くなったみたいなんだがよ。今は持ち直してる」
「何だって? いったい何がどうなって……」
「それよりも、私の質問に答える方が先です」
カツン、と靴音が近くで鳴り響き、次の瞬間に真は問答無用で胸倉を掴まれていた。極間近に、焦れた剣呑な光を宿したレイナの両目が迫っている。
「もう一度訊ねます。清言と沙也は何処へ行ったのですか?」
冷たくも熱い眼差しであった。答えるまでは放さないと有無を言わせぬ眼力に、真は早々と両手を上げる他なかった。
「俺にも分からない。とりあえず、見たままでいいなら、それを話す」
「ええ、早くなさい」
真から手を放したレイナは、僅かに覗かせた感情を再び押し隠すように短く告げる。
そして、真は自分が礼拝堂で行われたやり取りを、なるべく掻い摘んで話した。レイナは口を挿むことなく最後まで聞き、柄支の容態を気にしながらフェイも彼の話に耳を傾けた。
「『世界』を形成すると、確かにそう言ったのですね?」
念を押すレイナに、真は強い頷きを返す。彼女は何か思い当たる事でもあるのか、顎に指を添えて考え込んでいるようだった。
「マジかよ。オッサンがそこまでの領域に達してたなんて、聞いたことねーぞ」
「そのはずよ。無条件で『世界』を創ることは、それこそ首領……あるいは総長レベルでなければ無理なこと。しかし、特定の条件を揃えたとすれば……」
「可能だってのか?」
「現状、私と清言の接続は途絶えている。となれば、この世界から清言の存在が消えているというのも納得できるわ」
同じ組織の好み故か、レイナとフェイは気安い口調で言葉を交わしている。真とハナコには付いていけない話のようだが、一つの結論に達した気配は感じた。
「お前たちから見ても、清言の『世界』ってのに介入するのは難しいのか?」
「不可能ですね」
「な……っ」
にべもない返答に、真は反感を覚える。彼の内心を読み取ったか、レイナは僅かに息を吐いて続けた。
「世界とは、術者の心を投影したもの。発動してしまった以上、術者に許されない限り何人だろうと侵入はできません。少なくとも、力技でどうにかなるような生半可なものではない」
「あっさり言いやがる……。じゃあ、あんたは何しに来たんだ。本当に、このままあいつらを放っておいて良いって言うのかよ!」
「……言葉を慎みなさい」
今度は逆に食ってかかろうとする真の腕を払い除けて、レイナはぐんと背筋を伸ばした姿勢で真を見下ろした。
「私とて、止められるものなら止めている。ですが、清言はその身命を賭して最期の舞台へと発ったのです。止められるわけがない。私との接続を断ったのがその証拠。貴方も止められはしなかったのでしょう。もう、手遅れです」
レイナの唇の端から、赤い雫が伝う。あれだけ沙也を止めようとしていたフェイまでも、この状況に重く口を閉ざしていた。
誰もが、自分の無力さを痛感しようとしていたのである。
「……いや、です」
ぽつりと、静けさに水を落とす声がした。はっとして視線が集中した先には、弱々しく瞳を開けて、起き上がろうとしている柄支の姿があった。
「姉ちゃん、無理すんな。倒れてもしらねーぞ」
「いいよ……倒れても。そんなの、どうでもいいっ」
肩に触れようとするフェイを、柄支は勝気に睨みつけた。その声に迫力など微塵もなかったが、思わずフェイは手を止めていた。
「じゃあ、わたしは……何のためにここまで来たのっ!?」
誰に宛てた問いでもなかったのだろう。誰も答えはしなかった。答えられる者はいなかった。
力の入らない膝を震わせて、前屈みになった柄支は、這うようにして前へと進む。
「せっかく、また会えたのに……、こんな終わり方は、嫌だよ! 沙也ちゃん――!!」
だが、それも中途半端に終わる。弱り切った彼女は、半ば崩れ落ちるようにして醜く床に伏してしまう。
嗚咽混じりに妹の名を呼ぶ声だけが、礼拝堂に響いていた。
◆
凪いでいた。
世界から、あらゆる流れが停止していた。
空は黄昏――
地は荒野――
今にも朽ち果てそうな、終焉の世界に存在する影は、二つ。
鈍色の軍刀を携えた清言と、緋色の太刀を握る沙也。
互いに向かい合った距離は、十メートルもない。本気を出せば、一足で事足りる間合いだ。
清言は、世界を形成すると言った。
故に沙也は、これが目の前の男の心象風景なのだと理解する。
見渡す限りの地平の更に果てまで続く、黄昏の荒野。
何もないのだ。この世界には。
「さあ――構えろ、沙也」
くすんだ金色の空へと、清言は抜き身の軍刀を突き上げるように掲げた。続けて振り下ろされた切っ先が、停まった時を切り裂く唸りを上げて沙也を捉える。
応じれば、この世界は動き出す。
終わりに向けて、容赦なく時は刻まれるだろう。
二度と止まることなく、引き返す道もなく、走り出す。
「あんたは――」
一度開きかけた口を、沙也は思い直したように噤む。
清言の身体を覆っていたはずの赤黒い血色の霊気は、消えていた。
今、彼女の前に佇む彼は、戦いの痕跡が刻まれた軍服のみを纏っている。
頭髪はやや乱れ、全身は砂塵に塗れて汚れていた。されど、精悍な顔立ちに浮かぶ、怜悧な双眸は変わらない。
在るのはただ、右手に握られた軍刀のみ。
そして、それは沙也も同じだった。
彼女を衝き動かしていた膨大な霊気は、この世界に連れられた瞬間に失われていた。
それが本来のあるべき姿だと言わんばかりに、疲労が鉛のように肉体に纏わりついている。各所に巻かれた包帯の下にある傷も、さっきから煩いくらいに疼きを訴えていた。
許されたのは、右手に収まった太刀のみ。
「……あたしたちにとっては、おあつらえ向きみたいね」
十分だと――沙也は太刀の柄を両手で支え、頬の横へと水平に構える。
これが最後。
互いの意志を、一振りの刃に懸ける。
己が何者であるのかを語るのに、余分なものは全て削ぎ落とされていた。
怒りも、憎しみも、言葉にしなければならないはずのあらゆる想いも、凪いでいた。
全てを込めた刃だけが、熱を灯している。
乾いた砂を踏み締める。その音を合図にして、二つの影が動き出す。
世界に、一陣の風が吹き荒れた。




