28 「ふたりの定め」
逃げ去るようにして消えた沙也の後ろ姿を、真はそう時間を要さずに見つけることができた。
今の彼女の状態は、とてもではないが隠密には向いていない。隠れるだとか、やり過ごすだとか、そういう感覚が抜け落ちているようにさえ見える。力任せに、ただ振り切ろうとするだけの背中を見失わぬよう、真は必死で追い掛けていた。
「待ちやがれ……!」
声に出してはみるが、それで止まれば世話はない。
しかし、確実に届く距離だ。
多少のプレッシャーにはなるだろうと、落ち葉で覆われた道なき道を蹴り散らかして、真は沙也の背中を睨み続けていた。
『真さん、この先は――』
「気付いてる。例の建物の方向だな」
沙也の進行方向は、ハナコの見つけた例の建物の方向と一致していた。距離を詰めるにつれて、それがただの偶然ではないことを、真もハナコも感じ取っていた。
何故なら、自分はここに居ると――強い霊気が告げているのである。つい数時間前に戦った、鬼と化した男の気だ。
気が付けば周囲には霧が出始めており、沙也の背中が灰色のベールに覆われようとしていた。それでもどうにか彼女との距離を保ちながら、灯りに誘われる蛾のように霊気を感じる方へと駆け抜けて行く。
そして、ざっ――と勢いを殺す音が不意に聞こえ、視界に映る沙也の背中が大きくなる。
彼女が、足を止めたのだった。
「どこまでも、しつこい……!」
苛立った様子で振り返る沙也の数メートル手前で、彼女を極力刺激せぬように真も立ち止まる。
彼の眼前には、濃霧に包まれた古い建物の影が不気味に佇んでいた。
朽ちかけたその建物が教会であると、辛うじて見て取れる景観の名残から知ることができた。あんぐりと開かれた入口が闇を覗かせ、その前に立つ沙也を浮き彫りにしている。
「追い掛けっこは終わりか? 観念したかよ」
「……あんた、そんなに斬られたいわけ?」
怒りの形相で沙也が真を睨みつける。霧と重なって燃える彼女の右手の太刀が、陽炎のように揺れていた。
「斬られるのは御免だが、引く気はねえ。お前こそ、いつまで意固地になってんだよ」
「意固地ですって?」
「違うのかよ。どうして、そこまで先輩を拒絶する? 実の姉さんだろうが!」
「……ッ」
沙也の顔色が明らかに変わった。またしても地雷を踏んだかと真は思ったが、これは避けられない問題だ。踏み抜く覚悟で臨まなければ、その本音は聞き出せない。
感情の荒波が霊気を逆立たせて、沙也を中心として熱気が膨れ上がる。周囲の木々は容赦なく揺さぶられ、雨に濡れそぼった枯れ葉が舞い散った。
「なんだって、あんたは関係ない癖に首を突っ込んでくるのよ!」
「ふざけるなよ! 関係ないわけねえだろうが!」
二人が前へ飛び出したのは、ほぼ同時。振りかざした互いの得物が激突し、爆ぜるような衝撃を生む。至近距離で烈火のごとき視線を交錯させながら、沙也は叫んだ。
「放っておいてよッ! あんたに、あたしを止める権利なんてない!」
「俺になくても、先輩にはあるだろ! お前はそれでいいかもしれないけどな、放っておかれる方の気持ちも考えやがれ! 何も知らないところで勝手に傷つかれて、家族で殺し合いだ!? バカかよ!!」
人の話を聞くことなく、ただ怒りのままに剣を振るう。今の沙也の行為は危うい。それを彼女自身だって理解していてもおかしくはないというのに、引き返す気など微塵もないというのか。
信念も形を変えれば、ただの我儘だ。癇癪をおこして駄々をこねる子供に、真も受け流してばかりはいられない。
彼もまた、大人ではなかった。負けじと溜め込んでいた文句を言い放ち、真っ向から沙也の双眸を睨み返す。
「バカはそっちでしょ! 別に分かって欲しいだなんて、これっぽっちも思わないけどね……! 訳知り顔で説教してんじゃないわよ!」
「だったら教えろよ。勝手に暴走してんのは、どう見てもお前だろうがよ! 言わなきゃ、何も分かんねえだろうが!」
「あんたこそ人の話を聞け! 分かって欲しいだなんて言ってないって……言ってんでしょうが!」
「それを言うなら、お前も先輩と向き合えよ! 先輩は、お前のことを何一つ諦めちゃいねえぞ! 勝手に突き放して捨てた気になってんのかよ! そんなんで、納得できるわけねえだろうが!」
「自分で巻き込んでおいて、しゃあしゃあと……! うざったいのよッ!!」
太刀を覆う沙也の緋色の霊気が更に肥大化し、真を呑み込もうとする。真も木刀の霊気を高めて対抗しようとしたが、凌ぎ切れずに力任せに押し切られた。彼の身体は弾き飛ばされて、踏み締めた両足が地面を削る。
「一度あたしに勝ったくらいで、デカい面してんじゃないわよ。再戦したいってんなら上等よ。清言の前に、あんたの息の根を止めてやる……!」
「お前……」
どれほど言葉を交えようとも噛み合わない。やはり、本気で戦う他ないのかと真は表情を歪めた。
『真さん、戦うのなら……あの力を使えば……』
そのとき、苦渋に満ちた真の胸中を慮るハナコの声が内より響いた。
目の前の少女は強い。どれほど手前勝手に我を貫き通そうとも、その芯の固さは本物だ。半端な力で倒しても起き上がって来るのは必定である。
だからこその、ハナコの提案だ。清言を退けたときの力を使う。そも、前回の戦いでは、不完全ながらもその力があって勝つことができたのだ。そう考えれば、使わない手はないだろう。
「……いや、使わない」
しかし、真は首を横に振った。
『え、どうしてですか? ここで沙也さんを止めないと……!』
「分かってる。けど、使わないと言うよりも、使えないんだ。慣れてないせいもあるんだろうが、気軽にほいほい出せるもんじゃない。俺にとっても、お前にとっても、負担が大き過ぎる。俺の言いたいことは分かるな?」
『あ……』
「隠す必要はねえよ。清言と戦ってから、ここまでよく持ったもんだ。あいつは止めないといけないのは確かだが、それで死んじまったら世話ねえよ」
ハナコの魂の奥底から力を解放することは、二人の魂にとって大きな負荷がかかる。大きすぎる力に対して、器が小さければ溢れて壊れる。
それはいわば、魂を削る行為に等しい。身体が回復しない内に、間を置かずに使い続けられるほど、都合の良い力でもないということだ。
「今の俺たちでやれるなら、それに越したことはないんだ。あの力は、最後の手段だ。いいな?」
『はい……』
声に微かな不安を残しながらも、ハナコは了承の意を示す。いざという時は躊躇わない。その一点さえ確かめ合えれば、もう二人の間に言葉は不要であった。
そして、真と沙也が睨み合い、いよいよ高まる緊迫感を爆発させようかというときだった。
「――騒がしいな」
その声に、沙也が弾かれたように振り返った。真も思わず、彼女を越えた先に視線を向ける。
「清言……!」
しばし時が止まったかのように瞳を見開かせていた沙也だったが、すぐに怒りに双眸を歪ませ、呪詛のような響きを含んだ声が彼女の喉頭から絞り出されていた。
教会の入り口前に立つ清言の姿は、真と戦った後そのままで、濃紺の軍服は薄汚れていた。それでも泰然とした佇まいは健在で、その汚れさえも歴戦の風格を醸し出す演出にしかなっていない。
「まさか、生きていたとはな。存外、悪運の強い奴だ」
沙也の視線も声も、涼風とばかりに気に留めた素振りも見せず、清言は彼女を一瞥して薄く口端に笑みを刻んでいる。彼のその態度が彼女の心を逆撫でしてしまうのは、言うまでもないことだった。
「ぬけぬけと! どういうつもりか知らないけれど、ワザと止めを刺さなかったわね」
「お前がどう思おうが構わない。しかし、そうと知って性懲りもなく私の前に現れるとは、余程死に足りないらしいな」
「そっくりそのまま返すわよ。わざわざ霊気を出して、ここに居ると教えるような真似をしておいて。今度こそ、殺してやる!」
「おい、ちょっと待てよ! 勝手に話しを進めようとするんじゃねえ!」
放っておけばこのまま斬り結び始めようとしそうな沙也と清言のやり取りに、真が急いで間に割って入った。
沙也をこの男の下へと行かせまいとしていたが、その男自ら姿を現したのだ。完全に予定が狂ったと言って良い。
片や熾烈な沙也の視線と、清言の怜悧な眼差しを受けて、真の背には嫌な汗が流れていた。そして、彼のその様子を興味深そうに見ていた清言が、ふと苦笑を漏らし、口を開く。
「数刻振りだな、少年。私を追って来たか」
「お前に用があったわけじゃないが、結果的にそうなったのかもな。丁度良いからお前にも言わせてもらう。沙也と戦うのをやめろ。柄支先輩の前で、家族同士の争いをするな」
「柄支だと?」
ぴくりと眉を持ち上げた清言が、沙也を見やる。一瞬考えに耽るように彼は表情を引かせたが、すぐに得心がいったように頷いた。
「……そういうことか。だとすれば、連れて来たのはフェイか」
「は、何でもお見通しみたいね」
「私がどれだけあいつの上官を務めていると思っている。しかし、一度護衛に就かせたのは失敗だったか。まさか情が移るとはな」
と、彼は短く嘆息する。
「まあいい。だがな、少年。それで私と沙也の戦いを止める理由にはならない――と言っても、君は納得しないのだろうな」
当たり前だと睨む真に、く――と清言は口端を持ち上げると、唐突に踵を返した。
「ここは冷える。中に入って話そうではないか。沙也も刃を納めろ。ここで無理に争っても、少年の横槍があっては、まともに決着もつけられまい」
言うが早いか、清言はそのまま二人を顧みることなく教会の中へと消えてしまった。素直について行くべきか真が判断に迷っていると、彼の肩を押し退けるようにして沙也が進み出て来た。
「……後で覚えてなさいよ」
すれ違いざまに真を横目で睨み、釈然としない顔でありながらも清言に続いて行く。真は慌てて彼女を追い掛けた。
そうして、雨水を吸った足音が響く暗闇の中潜り抜けると、ステンドグラスを通して曇天の僅かな光に淡く照らされる礼拝堂へと出た。
埃と黴の湿った臭いが鼻腔を刺激する。朽ち果てながらも何処か冷厳とした空気の漂う空間に、真はやや緊張した面持ちで足を踏み入れた。
「清言、あんたまさか、本気であたしとの決着をつけないつもり? だとしたら、許さないわよ」
「そう急くな。安心しろ。これ以上先延ばしにするつもりは、私にもない」
堅い長靴の踵を鳴らしながら先を行く清言へと、沙也が挑発的な言葉をぶつける。彼は礼拝堂の最奥――小さな祭壇らしき場所の前で足を止め、ようやっと振り返った。
清言から距離を取って止まる沙也を追い越して、彼女の進路を塞ぐように真は前へと出る。またぞろ何かを切っ掛けにして飛び出されても、すぐに止めなくてはならないためだ。
背後でこれみよがしな舌打ちが聞こえたが、真は無視を決め込んだ。
「さて、少年。君は先程、私たちに争いを止めろと言ったが、残念ながらそれは無理だ」
「……お前もかよ」
出し抜けに言われはしたが、予想の範疇ではあった。ひとまず真は平静を保って返事をする。
どうあっても、この二人は戦わなければ気が済まないらしい。
「柄支の名前を出したが、それでも同じだ。あれがどう思おうとも、私たちが止まる理由にはならない。言葉を重ねることに意味はない。力づくでも止めようと言う顔をしているが、お勧めはしないぞ。私も沙也も、邪魔立てするならば君を排除することも厭わないからな」
「勝手にあたしの気持ちを語るな。けれど、その点についてはその通りよ」
いかにも面倒臭そうに吐息して、沙也は言った。ピリピリとした彼女の気は、その気になれば即刻背中から真を刺しかねないほどに尖り切っている。
「もう隠す必要なんてないんでしょうけど、そいつは、あたしの両親の仇なのよ」
言葉にすれば、それが怒りへと転換される。沙也の右手からは、一時的に鎮まったはずの霊気が荒立とうとしていた。
「あたしは、そいつを討つためだけに今日まで生きて来た。どうしてそれを邪魔できるっていうの? あんたに、あたしの人生を否定させたりなんかするもんか」
「そうだ。私は、沙也の親を利用して殺した。少年、これは至極単純な話なのだ。君とて、両親の仇と判明した如月を討ちたかったのではないのかね。実に分かり易い話ではないか。悪がここに居るのならば、それを討たずせずしてなんとする」
「単純だと? 本当にそうなのかよ。だったら、何であんたは、沙也と先輩を育てたんだ。家族として、一緒に暮らしていたんだろ」
「確かに、親を亡くした二人を引き取り、育てのは私だ。だが、それを罪滅ぼしや情などと、甘い幻想を抱いているのなら間違いだぞ」
「何だと……?」
「浅霧真。もう、そいつにこれ以上喋らせるな……」
震える声で沙也が言う。だが、清言の言葉は止まらなかった。
「沙也にはな、最初から私が親の仇だということは教えていた。その上で、いつか私を殺せるものなら殺しに来いと言っていたのだよ。戦士として、沙也を育て上げたのもそのためだ。私を殺すために鍛え上げたその力を――復讐心ごと私の手で絶つ。さぞ胸のすくことだろう」
清言が佩いた軍刀の鯉口を切る。さざ波のように空気が慄いたかと思うと、彼の肉体からはあの悍ましい霊気が滲み出ようとしていた。
「理解したか? これは私と沙也の因縁なのだ。私たちの戦いに、邪魔者は必要ない。例え誰であろうともな」
「どけ、浅霧真」
真が答えに窮していると、沙也が真を乱暴に押し退けて前に出た。
「あたしには、最初から味方なんていなかった。フェイも、レイナも、最初から清言の部下だしね。裏切られたなんて思っちゃいないわ」
清言が発する闇の霊気を焼き払うかの如き赤い霊気を彼女は放っている。煌々と照り輝く右手に宿る緋色の太刀は、彼女の意志を燃やしていた。
「今日まで、あたしはそいつの手の平の上で踊っていたようなもの。だから、今日ここで殺して脱け出すのよ。あたしの手で、全部終わらせる。そうしたら、もう一度――!!」
「お前ら、やめろ! くそっ、結局こうなるのかよ!」
『真さん! どうするんですか!?』
共鳴するように高まり合う沙也と清言の霊気の渦に、堪らずハナコが真に訊ねた。二人が衝突を始めれば、介入するのはもはや困難だ。覚悟を決めて割って入るか否か、ここで決めるしかない。
「――させんよ」
だが、真が行動を起こす前に、そう宣告した清言が抜き放った軍刀を高々と頭上へと掲げた。
ただ単に構えたというわけではない。鈍色に輝くその先端は、歪曲しているように見えた。
真は己の視覚が狂ったのかと思ったが、そうではない。清言の軍刀を覆う霊気が、空間そのものを捻じ曲げている。
「何をする気だ!」
「私には過ぎた業だが、幽世が繋がれたこの不安定の状況下であるなら、真似事くらいはできよう。私は、これより『世界』を形成する」
「世界……!?」
「そこに、君が立ち入ることは許さない。決着がつくまで、大人しくしていることだ」
莫大な霊気を蓄えた軍刀が一閃――縦に振り下ろされる。瞬間、世界の顎門が開かれて、沙也と清言を呑み込む巨大な半球状の空間を発生させた。
真はその空間に触れることすら許されず、外側に向けて放たれる衝撃に押し流される。僅かに見える沙也の背中に手を伸ばそうとしたが、彼女は振り返ることなく、清言と対峙していた。
何かを叫ぼうとしても、轟音に掻き消されて背後に押し流されるばかり。強化した木刀を床に突き立てて辛くもその場で耐えるも、足を前に進ませることは不可能だった。
そして、唐突にその力が収束し、嘘のように霧散する。
バラバラに砕かれて散乱する木椅子と呆然とする真を残して、清言と沙也の姿は、礼拝堂から影も形もなく消え失せていたのであった。




