19 「魂を懸ける」
浅霧翼。
わたしは、それがこれからのわたしの名前なのだと、改めてお父さんに教えられた。
浅霧信さん。わたしの、お父さんになってくれた人。
血のつながりはない。普通の形とはちがうみたいだけれど、わたしたちは家族。お母さん、お姉ちゃん、お兄ちゃんもできた。
結さんは、お母さん。
抱きしめてもらえると、日なたの匂いがする。やさしい笑顔の似合う人。
静さんは、お姉ちゃん。
女の人だけど、お父さんにちょっと似ている感じがする。真っ直ぐな髪が綺麗で、背の高くて、強い人。
礼さんは、お兄ちゃん。
静さんとは性格が反対で、いつもにこにことしていて、のんびりとした感じのする人。
真さんは、一番下のお兄ちゃん。
わたしのことを、少しだけ戸惑った目で見ることが多い気がする。静さんと礼さんは大人だけれど、真さんはまだ中学校に行っている。だから、二人に子ども扱いされることを嫌がっているみたい。
珊瑚さんと凛さんは、仲の良い姉妹。お手伝いさんだけど、いっしょに暮らしているそうだ。
凛さんは、真さんと同い年で、わたしによく構ってくれる元気な人だ。珊瑚さんは大人の人で、いつも見守ってくれている感じがする。
診療所にいたときから、何度も顔を合わせていた人たちだ。やっと自分の足で歩けるようになったわたしは、お父さんに手を引かれながら浅霧のお家へと正式に迎え入れられた。
お父さんに、初めて家族だと言われたときからそうだったけれど、自分でも不思議なくらいに、わたしは新しい家族を受け入れることができていた。
たぶん、それがわたしにとって一番良いことなのだということを、わたしは心のどこかで分かっていたのだと思う。
自分が本当に、どこの誰なのかという答えを持っていないわたしには――空っぽのわたしには、それしかできないから。
お父さんとお母さんの寝室には、大きな鏡が置いてある。わたしは、そこに映る自分の全身を見て、ふとした不安を覚えるときがある。
あなたは誰なのと、思わず問いたくなって、鏡に映る女の子へと手を伸ばす。
肩にかかるくらいの青みがかった黒い髪は、今朝お姉ちゃんが丁寧に梳いてくれた。花柄のワンピースは、お母さんが作ってくれたものだ。
わたしの両目は、色がうすい空の色をしている。肌もうす気味悪いくらいに白かった。それは病気の『こういしょう』というものらしく、いつ治るかも分からないのだそうだ。
指先が、冷たい鏡越しにふれ合う。どこかさみしい瞳の中に、わたしの姿が映っている。
「翼、何をしているの?」
わたしが一人になると、たいていはお母さんが見つけてくれた。鏡の前で立ち尽くすわたしの隣に座って、そっと膝の上に抱き寄せてくれる。
やさしく微笑みかけてくれるのがうれしくて、わたしはまどろむように、お母さんの胸に甘えるのだった。
翼――と、そう名前を呼んでもらえるだけで、空っぽのわたしの中身は満たされていた。
ゆっくりと時間をかけて、わたしは、浅霧翼として育っていった。
家族が、みんなが、わたしを守ってくれる。誰も、わたしを傷つけない。
ここは、とても温かい。大好きな場所になっていた。
わたしは、この家で暮らすことができて幸せだった。
家族ができて、本当に幸せだったのだ。
*
退院してから、わたしはわたしの中に潜む別の『わたし』の声を聞くことはなくなった。それこそが病気の根っ子で、お父さんも如月先生も、わたしは治ったのだと言ってくれていた。
たまにまた、怖い夢を見るのではないかと不安になるけれど、お父さんとお母さんが隣にいてくれれば暗い夜も安心して眠ることができた。少しずつそんな夢も、いつかは忘れてしまえるのだろうとさえ思っていた。
ただ、病気は治ったといっても、月に何度かは診療所へと行き、先生の診察を受けることになっていた。経過観察というものらしく、毎回注射を打たれるのが嫌だったけれど、必要なことだから我まんするしかなかった。
その日も、わたしはお父さんとお母さんに連れられて如月先生のところまでやってきていた。
正直に言うと、わたしは先生のことが、少し苦手だった。
わたしのことを診察するのだから当たり前なのだろうけれど、じっとわたしを観察する先生の目を見ると緊張した。怖がる必要なんてないってわかっているはずなのに、いつもぎゅっと目をつぶりたくなる気持ちをおさえて、診察が終わるのを待つことになる。
「今日は誕生日だろ。しっかり祝ってもらいな」
そうして、やっぱり最後に注射を打たれてしまったあと、先生にそう言われた。わたしは、自分の誕生日なんて覚えているわけもなかったのだけれど、みんなは、わたしが浅霧のお家に来た日をその日にすると決めていたのだった。
実感はわかないけれど、お祝いは楽しいし、うれしい。幸せな気分になれる。
だから、今日もきっと良い一日になるのだと、わたしは信じて疑っていなかった。
*
その夜――お祝いも終わってみんな眠りについた。わたしもいつものように、お父さんとお母さんと眠っていたはずだったのだけれど、ふいに目が覚めた。
そして、すぐに違和感を覚えた。お父さんとお母さんの気配が感じられない。それどころか、目が覚めた場所は布団の中ですらなかった。
目が見えないのは夜中のせいかと思ったけれど、そうではない。両手と両足が何かに貼りついたみたいにいうことをきかない。背後から首筋を這う細い感触がして、だんだん息が苦しくなってくる。
思い出した。これは、夢だ。
ずっと前に見続けていた、わたしの中の夢。
わたしの中に、何かがいる。
助けて。
助けて、お父さん、お母さん。
助けて、お姉ちゃん、お兄ちゃん。
みんな……助けて……!!
じくじくと、わたしの中に積み上げてきたものが足下から奪われていく。
空っぽだったわたしを、浅霧翼にしてくれた全部が、汚されていく。
嫌。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――!!
わたしは翼だ。わたしから奪わないで。ここから出して。
叫びたいのに声は出ない。もがきたくても動けない。
助けて。助けて。助けて。
――諦めな。
そのとき、誰かの声が聞こえた。
お父さんでも、お母さんでも、お姉ちゃんでもお兄ちゃんでもない。背筋が凍りつくような、深くからひびく冷たい声。
どこかで聞いたことのあるような気がする。でも、その声を聞いた途端に、わたしの頭は割れそうなくらいにズキズキと痛み始めていた。身体中が震えて、もう何も考えられない。
――なぁに、ほんの少し借りるだけだ。すぐに返す。それまでお前は、そこで大人しく見ていりゃあいい。
わたしの中に黒い液体があふれて、意識が洪水にのみ込まれる。やめて、やめてと泣き叫んでも、わたしの声はもう、誰にも届くことはなかった――
◆
ハナコは頭を突き刺すような痛みに歯を食い縛り、翼の心を抱き締め続けた。心から流れ込む記憶の映像が、まるで我がことのように身体を蝕んでいく。
そこから先の翼の記憶は、意識がほとんど乗っ取られていたこともあるせいか、更に断片的なものになっていた。
しかし、ハナコにとってはそれで十分過ぎた。
――親父殿、このままでは共倒れになる! もう……!
――やめるんだ、静。この子は家族だ。お前は家族を、その手に掛けるを言うのか。
――だが……! くそッ!
闇夜の庭。血に染まる雪。倒れ伏す父と姉。
父は最後まで翼を救うために手を尽くそうとしたが、静はそこまで強く心を持つことができなかった。結果的に、その隙をつかれた姉を庇うようにして、父は致命傷を受けることになった。
――大丈夫よ、翼。
我が子を救うために抱き締め続け、笑んで逝った母。
その最期に与えてくれた温もりを思い出した翼の心は、壊れそうなほどに痛みを訴えている。嗚咽を漏らすように鼓動を刻み、ひび割れのような傷口からハナコを退けようとする光を放ち続けていた。
――お前は誰なんだ!?
涙を散らし、吼えながら妹の胸を貫いた一番年の近い兄の顔。
悲しみにと憎しみに支配された瞳。映像は、そこで真っ白に覆い尽くされた。
以前、浅霧礼から語られた惨劇と一致する。翼はもう、その日の出来事を完全に思い出していたのだ。
ハナコが翼の心から感じる想いはただ一つ。それは、後悔の念に他ならない。
……ごめんなさい。
……みんな、好き。やさしくて、あったかくて、大好き。
……でも、助けてって……お願いしたから、みんな……不幸になった。
……だから、ごめんなさい。助けを求めて、ごめんなさい。わたしが、壊してしまって、ごめんなさい。
……もういい。わたしなんか、助けなくていい。いらないから、もう、わたしのことは放っておいて。
「そうですか。それで、あなたは拒むんですね」
惨劇を引き起こしてしまったことに対する自責の念。繰り返される謝罪の言葉。
今までその事実すらも忘れていたことが、翼の心を際限なく苛んでいた。
守ってもらう資格などない。一緒にいられるわけがない。家族であり続けられるわけがない。
家族だと受け入れてくれた皆と一緒にいることで、また壊してしまうかもしれない。それが何よりも恐ろしい。
「優しい……人、なんですね」
ハナコには翼の気持ちが痛いくらいに分かった。自分のために大切な人が傷つくことが許せない。それが翼自身のせいではないのだとしても、彼女を中心として引き起こされてしまったことには違いはない。
こんなにも必死で、救われたくないのだと頑なに心を閉ざすのは辛いことだ。翼と自分は似ていると、ハナコは思う。境遇にせよ、過去に直面してとった行動にせよ、似た者同士で放っておけない。
けれど、今の翼を本当の意味で救うことはできない。手を差し伸べたとしても、立ち上がるべき翼がその足で立たなければ意味がないからだ。
こんなことを思えば叱られるのだろうが、やはり自分は浅霧家の人間ではないし、適任ではない。彼女を救うには、もっと相応しい人がいるのだ。
「翼さん、よく聞いてください」
ハナコは指先に力をこめて、きつく胸元に抱き寄せた翼の心を見下ろしながら呟いた。
「これから、わたしは命懸けで時間を稼ぎます」
翼の心が起こす僅かな震えを、ハナコは指先に感じる。直接の応えはなくても、やはり翼には聞こえている。
「わたしも一度、大切な人の前から逃げてしまいましたから、あなたの気持ちは分かります。でも、それじゃダメなんですよ。そんなのは、やっぱり何の解決にもならないから」
今も皆は死力を尽くして戦っている。翼を救わんがために、この因縁に終止符を打つために抗っているのだ。
「ええ、そうです。みんな、翼さんを助けたいって、戦って、傷ついています。だからあなたは、その事実に向き合わないといけないんです!」
それは確かに翼のためでもある。だが、それがただの同情や憐憫からくるものではないことも、ハナコは知っている。
「このまま耳を塞いで、何も見ずにあなただけ傷つくことが、一番みんなが不幸になるんですよッ!!」
不幸の連鎖を断ち切って、皆で幸せになるのだ。そこに翼の存在はもう組み込まれている。今更救われたくないなんて、往生際の悪いことを誰も聞く気はないのだ。
どんなに遠ざけても、繋がった縁はそう易々と切れるものではない。少なくとも、求める心がある限り、絆は連綿と受け継がれていくものなのだから。
「死んでいるのに命懸けというのも変ですかね。なら、この魂を懸けてわたしも抗いますよ。だから、翼さんもどうか、心を開いてください」
全てに怯え切ってしまった少女を奮い立たせるために、ハナコにはただ語り掛けて、己の信ずる心を示すことしかできない。何の不安もないのだと。何も恐れることはないのだと。
翼の反発の力を押さえている間に、勢いを取り戻しつつある黒い触手の群れがハナコとの距離を詰めようとしていた。依然として浄化の勢いは留まるところを知らず、翼の心を庇う彼女にもその熱は迫っている。
そのことを危惧するように、翼の心から発せられる光が悲鳴のように鋭くなる。しかし、ハナコは動じず、穏やかに微笑んでいた。
「大丈夫ですよ。こんなの、地獄の内に入りません。もう一人の『わたし』だったら、鼻で笑っちゃうくらいに、へっちゃらなんですから」
魂を懸ける。その言葉に偽りなどない。ハナコは一心に祈りを捧げるように瞳を閉じて、翼の心を更に深くその胸に抱き締める。
「わたしの大切な人の家族に、これ以上手を出させません!」
浄化の勢いを上回る勢いで、ハナコの全身から青白い霊気が光条のごとく迸る。それは触手を根こそぎ消滅させ、翼の魂に巣食うあらゆる病魔をも駆逐する清浄な光であった。
◆
「こいつは……!」
如月は寝台に横たわる、昏い霊気に包まれた翼の変化を、逸早く察知していた。
翼の魂に繋げていた被検体たちの魂が消えていく。浄化としての目的は叶っているのだが、どういうわけかその勢いが急激に膨れ上がっていた。
今回に限っては、浄化に巻き込まれることの懸念もあるため、如月は自身の意志を翼の魂にまで食い込ませてはいない。だから、内部で何が起きているのか正確なところを知ることができなかった。
しかし、推測は容易に成り立つ。今まさに、翼を救わんと彼女の中へと飛び込んで行ったハナコが、何か仕掛けたのだ。
繭のように翼を覆い尽くしていた霊気の層が、内側から亀裂を立てて崩壊する。青白い霊気の奔流が炎のように立ち昇り、如月の霊気を猛然と焼き払って室内を光で満たす。
その凄まじい圧力に、如月は眼前に手をかざして後退せざるを得なかった。やがて光が薄れ、寝台の上に視線を戻した彼の視界に信じられない光景が映る。
翼が起き上がり、如月に見開いた目を向けているのだった。
「馬鹿な、まだ目覚めるはずは……。いや、その目は、まさか――」
肉体は翼で間違いない。だが、ここまで敵対の意志を宿した瞳を翼が見せたことなど、ついぞなかった。如月は青白い霊気を灯したその瞳の奥に、別の人格を見出す。そして、焦りを掻き消すように口端を吊り上げた。
「お前は、ハナコか!」
『ええ、そうです』
如月は翼の小さな身体の背後から、ハナコの姿を幻視する。口こそ開いていなかったが、はっきりと少女の思念の声が耳に届いた。
「翼が動けないなら、自分で動かすってわけか。しかし、身体を乗っ取ってどうする気だ。まさか、俺と戦うつもりだとでも……言う気じゃないよな?」
『これ以上、あなたの好きにはさせません。それだけですよ!』
翼の身体を寝台から飛び降りさせて、ハナコは真っ向から如月を睨み据える。翼を救うための、ここが正念場だった。




