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退魔師の二度目の生は幽霊少女と  作者: 尾多 悠
第五部 遠き背中
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18 「救い」

 翼の魂の中は、さながら荒れ狂う海の底であった。

 本来ならば、静謐さの漂う空間であろうことは想像に難くない。しかし、今この場は夥しい黒い霊気の波動によって汚染されている。それらは全て、最奥にある翼の魂本体に繋がれた魂たちが、如月の手によって浄化されることで発せられる余波であった。

 その内から外へと向かう奔流に触れるだけで、ハナコは肌に焼け付くような痛みを感じる。彼女は全身から青白い霊気を薄い膜のように放つことで防御とし、外へ外へと押し戻されそうになりながらも、掻くように手を動かして深部へと潜っていった。

 どれほど時間が経ったのかも定かではない。進めば進むほどに、波動は強まり、流れも激しくなる。浄化された魂の波をその身に直接叩きつけられる度に、ハナコの脳裡には忌まわしい記憶が甦りつつあった。

 山奥の教団の拠点跡で体験した、被害者たちの魂の群れ。その記憶。

 肉体はないのに指の先から身体が食い潰されていく不快な感覚。血管と言う血管に蟲でも流れ込んだかのような悍ましさ。今すぐにでものた打ち回って自らの頭蓋を破壊したくなる衝動。

 救いなどない。絶望さえも奪われた。白濁とした意識はやがて漆黒に塗り潰されて、奈落の底へと落ちていく。

 ハナコは込み上げる屈辱に身体を熱くし、霊気の守りを強くした。浄化され、通り過ぎていく思念とも呼べない魂の残渣。最後まで良いように扱われた挙句、このような形で浄化されることが、被害者たちにとっての唯一の救いだとは思いたくはなかった。

 けれど、消されていく魂を前にして、ハナコには手を差し伸べることもできなかった。油断すれば、この余波は彼女自身をも道連れにせんと焼き尽くす熱を持っている。彼女にできることは、この激流に身を任せぬよう一心に耐え忍び、深くにと潜り続けることとだけだった。

 心が削られるほどに痛むが、そこに気持ちを割く余裕はなかった。それに、一つの懸念があったのである。



 ……翼さん!!



 ハナコは魂の深くに潜るかたわらで、必死に翼へと呼びかけ続けていた。声に出さずとも、思念は魂の中に直接響くはず。しかし、翼の魂が彼女の声に応える気配はまるでなかった。

 翼は精神的な病から声を出すことができずにいるが、それは問題ではなかった。魂の内側から思念を送っているのだから、届いていないはずがない。身じろぎ程度の反応でもあれば、それだけでも救いになるというのに、それすらもない。

 潜り続けることができている以上、最悪の事態ではないことは分かる。だが、余波の激流に対してもまるで無抵抗で、無反応。ともすれば、何もかもを――自身の魂がこのまま消え去ってしまうことさえも受け入れてしまっているかのような。



 ……どうして応えてくれないんですか!!



 徹底した反応の無さが、ハナコの焦りに拍車をかける。時間は一刻の猶予も許されないというのに、肝心の翼に抵抗の意志がないのだとすれば、それは――



 ……翼さん!!



 一瞬でも脳裡を過る嫌な予感を打ち砕くように、ハナコは翼の名を叫ぶ。応えないのならそれでもいい。呼びかけ続けることしかできないのなら、続けるしかないのだ。ハナコは浄化の熱源を辿り、文字通り身を焦がす思いをしながら、ようやく眼下にその源泉を見つけることに成功した。

 斑に輝く、両手に抱えられるくらいの小さな球状の塊。それが翼の魂の核であり、心なのだろう。そこに無数の茨のような黒い触手が像を成し、浄化から逃れんと絡みついている。

 強力な浄化の力によって触手は毟り取られるように剥がれ落ちているようだった。しかし、強引に引き剥がされることで絡みつている翼の心が傷つくことまでは考えてられていない。如月の言っていた丁寧ではない方法とはこのことかと、ハナコは身の毛のよだつ思いだった。



 ……ごめんなさい。



 ハナコは深い哀しみを、祈るように胸の中に押し込めた。そして、決然と瞳を燃やして触手の中へと身を投じる。

 彼女の生きた輝きに、翼の魂に絡みついていた触手たちが鎌首をもたげ始める。それが死したものの習性であるかのように、消されまいと生きるものと繋がろうとしてくるのだ。

 しかし、身体を搦め取ろうとする触手の群れを、ハナコはものともせずに焼き払った。全身から放つのは霊気の輝き――浄化の光だ。

 何の意志もなく、ただの本能で襲いかかってくるようなものに、今のハナコが負けることはあり得なかった。真が引き上げてくれたこの魂を、二度と侵させなどはしない。自分の生きる意味を見失わないために、それは絶対に譲れないことだった。

 ハナコに取り憑くことができないと悟ったのか、彼女の放つ光から逃れるように触手は翼の心へと戻ろうとする。その隙間を掻い潜り、振り払うようにしてハナコはその中心にある翼のもとへと舞い降りた。

 届く。翼の心を目前にして、その弱々しく今にも消え入りそうな輝きへと、ハナコは目一杯手を伸ばした。



 ……!!?



 だが、触れようとしたその刹那、反発するかのような閃光が瞬いたかと思うとハナコは凄まじい勢いで弾き飛ばされていた。慌てて空中で姿勢を制御して急ブレーキをかけて、信じられない思いで離れてしまった翼の心を見下ろす。黒い触手の群れはハナコの光が遠ざかったことで、なおも必死に翼の心へと絡みつこうとしていた。



 ……どうして。



 明らかな拒絶の反応に、ハナコは身を竦ませる。条件反射のようなものではなく、今の反応は間違いなく翼の意志に基づく行為に思えた。反射であるならば、触手に対しては無抵抗な意味が分からないからだ。

 つまり、翼はハナコのことを認識しており、彼女に触れられることを拒んだということになる。自身を救おうと伸ばした手を払い除けたのだ。

 だが、これではっきりした。翼の意志はちゃんと生きている。どういうわけかは分からないが、彼女は頑なに頃を閉ざし、この状況を受け入れてしまっている。

 ハナコは決意に固めた拳を胸に当て、霊気を燃え上がらせた。それだけ分かれば十分だ。生きているのなら、やることも自ずと見えてくる。そして、再び触手の群れを薙ぎ払い、両手を大きく広げて翼の心へと触れるために猛進する。



 ……教えてください。あなたが、どうして救いの手を拒むのか……!



 触れる瞬間に反発する力がハナコを襲ったが、今度は負けなかった。抵抗を必死で抑え込み、その心を胸へと掻き抱く。悲鳴のような眩い閃光に視界が覆い尽くされて、全身が粉々に吹きとばされそうなほどの衝撃を受ける。

 翼の心を抱き締めたまま、ハナコの意識は一瞬の間に、白く塗り潰されていた。





「――しっかりしろ!!」


 誰かに呼び掛けられている。その記憶から、今のわたしは始まった。

 とても、哀しい色にあふれている声。必死で、一生けんめいで、耳が痛い。

 無理矢理に頭をゆさぶられるみたいで、うっすらと重たいまぶたを持ち上げると、泣きそうな顔と目が合った。


「よかった……! 生きてるな!? 気をしっかり持つんだぞ!」


 目に映る景色はぼんやりとしていて、はっきりとしない。でも、たぶん男の人だ。影と声で、なんとなくそう思う。

 何か答えないといけないような気がしたけれど、何も言えなかった。唇はカサカサで、のども前と後ろがくっついたみたいで動かせなかった。


「無理に答えなくてもいい。今すぐ安全なところまで連れて行ってやるからな」


 わけのわからないうちに、その人の腕に抱えられた。でも、もう考える力なんて残っていない。

 どうして、こんなに冷たい床に転がされていたのかも。

 どうして、自分のことが何一つ思い出せないのかも。

 なにも、なにも、わからない。

 空っぽの体の中で、心臓の音だけが震えているみたいだった。

 こわい、こわい、こわい。

 この音を聞きつけて、お化けがくる。わたしを食い殺しにやってくる。わけもなくそう思って、身を丸める。


「……何も怖がることはない。安心していい。君は、俺が守る」


 抱き支えられる腕の力が強くなって、その人の厚い胸板を感じる。とくとくと、心臓の音が聞こえていた。

 わたしの音とは違う、血の通った、とても熱い音。

 その音を聞いていると、不思議と守られている気がして、とにかく安心できた。温かな体温と、ゆられる感じが心地よくて、うっとりとする。

 眠っても、お化けは来ない。もう、大丈夫なのだ。

 こわばった全身から力が抜けていく。

 とても、眠い。

 わたしは……とても、とても、つかれていた。





 そこからしばらく先までの記憶は、ずっと怖い夢でも見ているかのような時間だった。

 ただ、辛くて、苦しくて、わたしの中でたくさんの何かが暴れていた。

 不安。痛み。哀しみ。色んなものがぐるぐると激しくかき混ぜられて、もとが何だったのかさえも分からなくなってしまう。

 わたしが、わたしでなくなってしまう。ううん、もう、わたしは、わたしがどこの誰なのかなんて、とっくに分かっていなかった。

 わたしの中のたくさんのそれは、自分こそが『わたし』なのだと声を大きくして、わたしを追い出そうとしているようだった。

 いやだ。助けて。消えたくない。そういいながら、みんながわたしに助けを求めて、わたしの足を掴んで引きずり落とそうとしている。

 怖かった。暗くて、水の中にいるみたいに息ができない。でも、わたしだって、消えたくなかった。だから、助けて、助けてともがいて、必死に手を伸ばしていたのだ。


 ――翼!


 そうしたら、また男の人の声が聞こえた。すると、わたしを捕まえようとする別のわたしたちは、わたしから手を離して逃げていく。暗がりにお日様みたいな光が射して、苦しさが少しおさまった。

 伸ばした手が光の先で握られる。つばさ、つばさ、と何度も呼んでくれている。

 つばさ……それって、わたしのことなのかな。


 わたしは、つばさ。


 わたしを呼んで、いつも支えてくれている人がいる。それだけで、もう少しだけ、わたしはわたしのまま、頑張れる気がした。





「繋がれた魂の一通りの除去はすんだ。あとはリハビリだな。ゆっくり、身体を慣らしていくことだ」


 おじいさんがそう言った。まだ自由に身体を動かせなかったけれど、目もはっきり見えるようになったし、耳だって聞こえるようになっていた。

 おじいさんはお医者さんだった。わたしは、長いあいだ、真っ白なベッドで横になっていて、やっとのことで病気から治りつつあるらしい。


「如月先生。これまでの御助力、本当に感謝致します。翼も、よく頑張ったな」


 そして、もう一人。おじいさんにお礼を言っている男の人がいた。おじいさんに頭を下げたその人は、わたしの方を向くと、やさしく笑いかけてくれた。

 大きな手がほっぺたに、おでこに、頭を包んでくれて、くすぐったくて、何だかうれしい。

 この手の感触は、覚えている。この男の人は、わたしを、ずっと呼んでいてくれていた人。

 お礼を言いたかったけれど、のどに何かが引っかかっているみたいで、声はうまく出せなかった。


 あなたは、だれですか?


 それだけが知りたくて、じっとその人の顔を見つめていた。すると、その人はふと口元をゆるめて、両腕でわたしを抱き上げた。


「おい、無茶はさせるなよ。まだ安静にだな……」

「まあまあ、少しだけですよ」


 おじいさんが何か言っているみたいだったけれど、胸がどきどきして何も聞こえなくなっていた。

 窓からそよぐ風に、カーテンがゆらゆらと揺れている。ぽかぽかと温かい光がまぶしかったけれど、わたしはもっとその人の顔がよく見たくて、まばたきをするのも忘れていた。

 背中とおしりを支えられて、胸に抱きとめられて、まるでお話の中のお姫様みたい。


「何も心配することはない。俺は浅霧信。お前の家族だ」


 あさぎり、しん。


「そして、お前の名前は翼。俺のだ」


 つばさ。

 ああ、やっぱり、つばさって、わたしのことだったんだ。

 家族……じゃあ、あなたは、わたしの――お父さん?

 目を丸くしていると、その『しん』さんは、ちょっとだけ目の奥が不安そうだった。

 そんな顔を見ていると、何だか胸がちくちくした。


「…………っ」


 だから、わたしはうなずいた。

 ぎゅっと『しん』さんの胸に顔を押し付けて、何度もうなずく。何も言えないから、これくらいでしか気持ちを表すことができない。

 あのとき聞いた、心臓の音。あのとき感じた、温かな音。


「翼」


 名前を呼ばれて、顔を上げる。すると、『しん』さんは、とても、とても幸せそうな笑い顔で、わたしを見つめてくれていた。


 つばさ……それが、わたし。


 そう呼ばれることで、救われたのだと――わたしは思ったのだった。

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