16 「浅霧静 1」
自分のことを強いか弱いかの二択で言うのなら、浅霧静は間違いなく己は弱いと断言することだろう。
無力でさえあると言ってもいい。彼女は偽らず、本気でそう思っている。
浅霧家の長女として生を受けた静は、その名に込められた親の願いのおよそ半分も叶えられないまま、実に活発な女の子へと成長した。
よく遊び、よく食べ、よく寝る。じっとしているのは一分が限度で、目を離せばすぐに何処かへと姿を消してしまうという、落ち着きがない子であった。
母の浅霧結はやや行動が突飛な娘を心配していたが、父の浅霧信は元気なのは良いことだと、暢気に笑っていたものだった。
子どもにしては目つきが悪いのが玉に瑕だが、両親は将来間違いなく美人になるだろう愛娘を、それぞれ接し方は異なるものの慈しんで育てた。そして、親の愛を一身に受けてすくすくと成長した静であったが、やがてとある悩みを抱くようになる。
それは、彼女が物心ついて間もない時のことだった。
当時、母は既にその身に二人目の子を宿しており、大きくなったお腹を抱えていた。静は弟ができるのだと聞かされていたが、いまひとつピンときておらず、何となく母の愛情がお腹の中の弟に吸い取られているようで面白く思っていなかった。
『お姉ちゃんなのだから』という、納得できない理由で母からの遠ざけられている気がする。負けん気の強い静はそんな胸の内を吐露することはなかったが、『礼』と生まれる前から名付けられた弟に妙な対抗心を燃やしていたのだった。
そして、そんな娘の気持ちを見抜いていたのは父だった。
「静、弟が産まれるのが気に入らないのか?」
そう訊ねられたのは、浅霧家の離れにある道場でのことだった。
静はここで日課の鍛錬をする父を見るのが好きだった。しんと静けさが胸に満ち、微かに手足が痺れるような緊張感。逞しい両手に握られた竹刀が宙に様々な軌道を描く音が幾重にも響く。汗を流す父の精悍な横顔を、道場の片隅で正座をしながら飽きることなく眺めていたものだった。
中でも、一通り鍛錬が終わった後に座禅を組むのがお気に入りだった。父は静が道場に入ることを許しはしていたが、幼い娘に竹刀など握らせるはずもなく、あくまでも認めていたのは見学だけ。だが、座禅だけは父の隣で見よう見まねで行える唯一のことだったのである。
この日も静は、鍛錬を終えて木板の張られた道場の床で精神を統一させる父の隣に近付き、足を組んで目を閉じていた。父の近くは、母とはまた違った温かさがある。静は心に感じることを上手く言葉に表現できなかったが、どっしりと支えられているみたいでとても安心できるのだった。
そして、不意に父の声が聞こえたところで、先の問いである。目を開けて顔を横に向けると、片目を開けて見下ろす父と目が合った。口元は緩められていて、何だか見透かされているみたいで言葉に詰まった。
「…………」
静は答えなかった。嘘を吐くのは嫌いだった。かといって、本音を言うことが正しいことだとも思えない。父は苦笑して、ぎゅっと唇を噛んで瞳を揺らす娘の頭に手を伸ばした。
「そんな顔をするものじゃない。母さんが厳しいのは、これから静にもっとしっかりしてもらいたいからだ。静を嫌いになったわけじゃない」
ぐしゃぐしゃに頭を撫でつける手はごつごつとしていて痛いくらいだったが、静はこの感触が嫌ではなかった。撫でられながら、静は真っ直ぐに父の瞳を見詰め、小さく口を開いた。
「……おとうさん。おとうとができたら、はんぶんになるのか?」
父の言いたいことは頭では理解していた。母の愛情は変わらない。多少厳しくなったとはいえ、甘えようと思えば応えてくれるだろうし、抱き締められたときの陽だまりのような匂いは堪らなく好きだった。
ただ、今まで自分一人だけのものだったのが、変わってしまうことに戸惑っていたのだ。嫌だというよりも、これは寂しいという方が近い。
お姉ちゃんだから。一人増えれば分けなくてはいけない。食事も、布団も、親の愛も――色々なものを分け与えなくてはならなくなる。それは、とても寂しいことのような気がした。
「それは違うぞ、静。半分にはならない」
「わ――!」
父は言うと、不意に静の両脇に手を差し入れると軽々と持ち上げ、肩車して見せた。「ちゃんと掴まっていろよ」と言われ、咄嗟に静は父の頭に腹を押さえ付けるようにしてしがみ付く。ぐんと身体が持ち上がって道場の天井が近くなり、視界が大きく広がった。
そのまま父は静を連れて道場の外へと出た。日が暮れ始めた空は藍色に移り変わろうとしており、白い月と星が浮かんでいる。レースのリボンで結い上げた静の小さな尻尾が、冷たい夜風に揺らされた。
「綺麗だろ」
「うん、きれー」
「そうだろう。一人で見るのも乙なものだが、こうして静と見る景色の方が父さんは好きだ」
「わたしも、とうさんといっしょがすきだぞ」
「嬉しいねえ。つまり、そういうことだよ。父さんは静が綺麗だと感じる気持ちを、いっしょに感じることができる。だから、綺麗って思う気持ちが一人でいる時よりも大きくなるんだ」
「……あ」
「気付いたか? 飯だって皆で食った方が美味い。寝るときだって一緒の方が温かい。静を想う気持ちだって、弟が増えたからって減るわけじゃない。むしろ増える。父さんも母さんも、静が可愛くてしかたないんだぞ」
「ほんとーか!?」
「ああ、心配するな。守るものが多ければ多い程、人間ってのは強くなれる。父さんは、そう信じているんだよ。だから……、静にもそうあって欲しいと思っている」
「つよく……わかった! じゃあ、れいはわたしがまもる! そんで、とうさんと、かあさんも、わたしがまもる! それくらい、つよくなる!」
「はは、それじゃあ父さんの立場がなくなるなあ」
空は徐々に深みを増し、月と星が瞬き始める。その夜の月は満月で、周りに散りばめられた星々を瞳に映しながら、笑っているみたいだと静は思った。
何てことのない日常の記憶。だが、この一瞬こそが浅霧静の起源であり、父から受け継いだ意志なのだった。
そうして、弟の礼が産まれた。色々と思い悩んでいた静ではあったが、初めてできた我が弟を、結果として彼女は両親以上に可愛がっていた。
父との会話が大きかったのも事実ではあるが、娘のその様子には、この年にして母性にでも目覚めたかと、両親も冗談半部に視線を交わすほどであった。
「静が赤ちゃんだった頃を思い出すわね。あなたの方が、よっぽど暴れん坊だったけど」
弟の面倒を見ることで静と母の交流も増えた。母にからかわれるのは気恥ずかしいものだったが、すんなりと受け入れることができていた。その深い愛情を肌で感じることで、静の不安や恐れは、気が付けばもう何処かへ消えて無くなってしまっていた。
それから更に時は流れ――静が小学生の四年生に上がった頃である。
その頃の彼女はと言えば、体つきも少女のものへと移り変わりつつあった。ただ、「強くなれ」という幼き日の父との約束を胸に秘めた少女は、生来の性分もあったのだろうがとにかく負けず嫌いだった。
特に、喧嘩であれば男だろうが年上だろうがおかまいなしの負け知らず。他の子よりも成長が早く上背もあり(背の順では常に最後尾だった)、畏怖と揶揄をこめて喧嘩相手からは『メスゴリラ』などと呼ばれていた。無論、そんなことを言う奴らの泣き顔は全員拝んできた彼女である。
とはいえ、静の容姿がそうした蔑称に類するものだったわけではなく、少し大人びた風貌は性別を越えて憧れの対象であったことは言うまでもない。弱きを守る頼りになる存在として、静は己の信ずるところの強さを誇示し続けていた。
しかし、弟の礼が同じ小学校に上がってきたその年、事件は起きた。
出る杭は打たれると言うが、それら全てを跳ね返して沈まなかったのが静である。良くも悪くも目立つ彼女の弟の存在は、あっという間に噂になった。
そして、利用された。静を快く思わない柄の悪い上級生の男子たちに礼は連れ去られ、彼女をおびき寄せる餌にされたのである。
自分よりも弱い者を利用して優位に立とうとするなど、静が最も嫌う愚劣な行為であった。ましてや弟を巻き添えにされた彼女の怒りは尋常ではなく、絶対に許すことはできなかった。
静を呼び出した上級生たちからすれば、ちょっと痛めつけてやろうというくらいの軽い気持ちだったに違いない。振り返ってみても、幼い子どものすることだから、大事になることもなかったはずだ。
だが、結果だけを語るとそうはならなかった。それは子どものする喧嘩などではなかった。泣き叫ぶ弟に止められ、静が我に帰った時には上級生たちは残らず地に伏していた。
殴った相手の歯は砕けていた。折れた鼻からは血が噴き出ていた。引っ掴んで投げ飛ばしたであろう腕は、あらぬ方向へとねじ曲がっていた。
いくら静が強いと言っても、それは子どもの中での話である。これは明らかに異常だった。静は拳にべっとりとついた相手の血を呆然と見詰め、やがて自分がしでかした惨状に戦慄した。
静は意識していないことだったが、このときこそが彼女にとって初めての霊気の発露であった。文字通り怒りに髪を逆立たせて相手を蹂躙する彼女の姿を、幼いながら記憶していた弟は、後に鬼のようだったと語ることになる。
その後、大人たちの間でどのような話し合いが行われたかは静も聞かされていない。ただ、静はしばらくの間学校へは行かず、自宅で謹慎をすることになった。
「父さん。私は間違っていたのか?」
謹慎からしばらく経ったある日、静は道場にて父と向かい合っていた。父は胡坐をかいた姿勢で腕を組み、難しい顔をしている。静は背筋を伸ばして正座をし、必死ささえ感じさせる真剣な眼差しで問いを投げた。
やり過ぎてしまったことは認める。けれども、静は弟を守ろうとした己の行動そのものが間違いであるとは認めたくはなかった。心のどこかで、それを父にだけは分かってもらいたかったのかもしれない。
父は沈黙を破り、細く長い息を吐いた。眉間に寄せられた縦皺は、父が悩んでいることを如実に物語っている。静は固唾を呑んで父の返答を待った。
「静、礼を助けようとしたお前の心根は間違ってはいない」
父の肯定に静は表情を明るくしかけた。が、機先を制するように「だが」と父は抑えつけるような視線を娘に向けた。その目は深い憂慮を含んでおり、なおかつ今までに見たこともない程に厳しい色を湛えていた。
「力は誇示するものではない。恐怖を与える力とは、ただの暴力だ」
「暴力……?」
「そうだ。お前は周りに恐怖を与えた。それは間違ったことだ」
強者が弱者を虐げる恥ずべき行為。暴力とはそういうものだと静は思っていた。だから、自分は違う。弟を守るために振るった力をそんな風に言われるなんて、到底納得できなかった。
「ただ、静は悪くない。今回のことは、お前に力の使い方を教えなかった父さんの責任だ」
そう言うと、父は膝の上で硬くなっていた静の手を取り、そっと包み込むようにした。驚いて身を竦ませる娘の目を、父は真摯に見詰めた。
「人を本気で殴って、痛かったか?」
「…………」
静はすぐに答えることができなかった。痛いのは殴られた方であって自分ではない。だから、父の質問はおかしいはずだった。
けれど、それならばどうして無骨な手に包まれている拳が、こうもじんじんと沁みるのか。
目頭が熱くなり、頬に雫が伝っていた。心の奥から湧き上がるのは、とめどない恐怖。血を噴いて倒れた上級生たち。顔を歪めて泣き叫ぶ弟。赤くなった拳。
父の瞳は、そこから目を逸らすことを許さなかった。得体のしれない力が自分の中にあって、それを使って地獄みたいな光景を生み出してしまった。
もし、もう一度同じようなことが起きたら、また繰り返さなければいけないのか。本当にそれは、守ったと言えるのか。そもそも、何を指して守ると言うのか。
何も知らない。何も分からない。分かったような気がして、いい気になっていただけだ。そんな浅はかな考えしか持っていなかった自分に、静は愕然とした思いだった。
「すまなかった。これからは、間違わないようにちゃんと教えてやる」
父の分厚い胸板に抱き寄せられて、静はぽろぽろと感情のままに涙を零した。彼女の記憶の中で大泣きをしたのは、後にも先にもこれが初めてのことであった。
そして、その日から父と娘は師弟となった。
父はまず静に霊気の存在について教えた。それは人が無意識に使う生命力のようなもので、誰にでも等しくあるものだから恐れる必要はないのだと。
上級生たちに振るった異常な力は、静が己の霊気を一時的に膨れ上がらせたもので、使い方を知らないが故に暴走した結果だった。
「どうやら静には、才能があるらしいな」
いつも隣で座禅の真似事をしていたせいかもしれないなと一応の理由をつけながらも、父は誰の教えもなく霊気を扱って見せた静のことをそう評した。
その予想はどうやら当たっていたらしく、父の鍛錬を毎日のように眺めていたことで、ごく自然に静は自分の中の力を感じ取ることができるようになっていたのだろう。コツを掴めばすぐに霊気を引き出すことに成功した。
深い海のような鮮やかな藍色の霊気を目にして、これは他人にぶつけていいものではないと静は本能的に悟った。しかし、父は全力でぶつかって来いと笑って見せたのだった。
「恐がる必要はない。まずは、自分の力を認識するところから始めるんだ」
躊躇いはしたが、両手を広げる父の胸に飛び込むように向かった静は、それが杞憂であることをすぐに思い知らされた。父は赤子の手を捻るように、圧倒的な力の差で娘を叩きのめしたのである。
師の立場となった父は、こと鍛錬においては容赦がなかった。父は静の本気をいつも受け止め、限界を叩き込んだ。静は自分の力がどれほどちっぽけのものかを身に沁みこまされ、同時に父の強さを知ることになった。
それは悔しくはあったが、とても安心できることだった。そして、静は強さに対して漠然と抱いていた思いを確かなものへと変えていく。
いつか父親の背中を越える。およそ同年代の女子とは掛け離れた思考だったのだろうが、ある意味では彼女も夢見る少女だったのかもしれない。ヒロインよりも、ヒーローの背中に憧れる子供だった。
その翌年、弟がまた一人増えた。更に時が流れて中学生となった静は退魔師という父の仕事についても教えられ、将来の選択を迫られることになるのだが、彼女に迷う気持ちはなかった。
強くなる。父の背中に追いつき、家族を守るにはこの道以外には考えられないのだった。
だが、静が追い付けたと実感を得る前に、父は逝ってしまった。未だ追い付けぬその影を、彼女は今も追い求めている。




