15 「規格外」
朽ち葉色の更地に、濃密な血色の霧が立ち込めていた。
浅霧静と紺乃剛が相対する二人だけの戦場。暗黒の空をも覆い隠すほど厚く支配する霧ではあったが、不思議と両者は互いの姿を見失うことはなかった。これは戦いの始まった直後に紺乃が敷いた陣であり、彼の特性を活かした戦術でもあった。
「――ん?」
「貴様……! 余所見をするな!」
戦いの最中であるにも関わらず、ふと紺乃は何かに気付いたように視線を遠くへと向けた。緊張の欠片も感じさせないその行為に、静は苛立ち交じり叫びに拳を撃ち出す。しかし、紺乃の顔面に向けて伸ばされた彼女の渾身の拳は、その寸前でバチリと血飛沫のような火花を散らす赤黒い霊気の障壁に弾かれた。
「ち――!」
壁一枚先では口端に薄ら笑いを浮かべた紺乃の顔がある。続けて乱打を繰り出していくが、分厚いコンクリートでも殴っているかのようでまるで崩せる気がしない。殴る反動で骨が軋る音がするばかりで、静の攻撃はまるで通る気配はなかった。
それもそのはずである。戦いを前にして高めていた静の霊気は、見る影もなく雲散霧消していた。今、彼女は霊気の強化を一切施していない生身の肉弾で敵に向かっているのである。
「くく……なんぞ、どでかい花火が打ち上がったみたいじゃのぉ。姉さんも感じんかったか?」
視線を前に戻して、紺乃は笑みと共に前髪の奥に隠れた切れ長の目を細める。静は舌打ちして一旦紺乃から距離を置き、周囲の気配を感知しようとした。しかし、血色の霊気に阻害されて失敗する。その問い掛け自体が揶揄の一部だと気付き、憎々しげに紺乃を睨み据えた。
「くはっ! そう怖い顔をするもんじゃあないぞ。綺麗な顔が台無しじゃろうが」
煽るような哄笑に、静は瞳にますます剣呑な気を宿らせていく。殺気で殺せるのならとうに相手の命はないのだろうが、気合だけで人は殺せない。まるで堪えた様子もなく、紺乃はニヤついた笑みを引っ込めようとはしなかった。
「ここから離れた場所で、膨れ上がる霊気の波を感じるわい。こりゃあ、滅魔の嬢ちゃんたちのもんか。ぼちぼち、決着がつくんじゃなかろうかいのぉ」
「珊瑚か……」
「お仲間が心配か? まあ、どう足掻こうが行かす気はないがな」
「馬鹿を言え。貴様は自分の心配をしていろ。今すぐその鼻っ柱を叩き折ってやる」
「そりゃあまた、怖い怖い……。しかし、姉さんも阿呆ではなかろう。威勢だけではどうにもならんことくらい分かるじゃろうが」
闘志の衰えを一切見せぬ静に、紺乃は呆れ交じりの吐息を零す。彼の言葉を無視して、静は深く腰を落として身構えた。
紺乃の展開した陣の特性――それは、霊気の相殺である。
強化、形成、放射、侵食、略奪。霊気の行使の形は様々であるが、いずれも基本の流れとしてまず霊気を体外へと出す工程が存在する。
強化ならば外皮のように霊気を纏わせることで。形成は霊気を術者のイメージにより別の物質に見立てて変換。放射は霊気そのものをエネルギーの塊として使用する。侵食、略奪にしても自身の霊気を他者の霊気へと干渉させるため外へと撃ち出す必要がある。
だが、充満する血色の霊気は、その術者の体内から出された霊気を即座に打ち消す。それは即ち、この陣の中では、あらゆる能力が封殺されることを意味していた。
「荒事は好かんのじゃ。早う諦めてもらいたいもんじゃがのぉ」
「勝手なことをほざくな!」
怒号と共に静が地を蹴る。強化がなくとも彼女の動きは素早く、単純な格闘戦であれば十二分に通用するものと思われた。しかし、恐るべき殺気を纏う拳も、脚も、届く前に霊気の壁に防がれる。陣を敷きながらも紺乃は自らの周囲に堅牢な盾を築いており、生身でこれを壊すのは至難である。せめて拳分でも強化が施せれば話は別だが、それすらも叶わない。霊気を拳に纏わせるイメージをした瞬間に、残らず練り上げようとした霊気が霧散するのだ。
完全に術中にはまっている。未だ一発も浴びせることのできていない己の不甲斐なさに、静は歯噛みする。何より苛立たしいのは、圧倒的に優位な立場にいるにも関わらず、悠然と佇んでいるだけの敵の姿勢であった。手合わせなどと言ってはいたが、紺乃の行っていることはこちらの攻撃の手段を封じ、のらりくらりと攻撃を防ぎ続けるだけの時間稼ぎでしかない。闘志だとか、殺気だとかいう戦いにあるべき姿勢がまるでないのだ。
「貴様……勝つ気があるのか! 少しは攻めてきたらどうなんだ!」
血色の火花を炸裂させながら、静は紺乃の薄ら笑いへ向けて攻撃を繰り返す。実際のところ、この状況で紺乃に攻めに転じられれば静にとっては致命的なのだが、彼女はまだそちらの方にこそ活路があると思っていた。
「冗談抜かせ。虎の檻に不用心に手を突っ込むなんざできるかいな」
静の挑発にもまるで応じる素振りも見せず、紺乃は失笑を返す。霊気を封じたとはいえ獰猛極まる獣に不用意に近づくことは避けたいところであるし、放っておいてもジリ貧になるのは静の方だ。決着を急ぐ必要のない彼からすれば、この状況が長引くことは望むところである。
その思惑が態度からして如実に物語っているがため、静はますます腸を焦がさんばかりの思いを滾らせるのだった。
「それにまあ、言葉を返させてもらうなら、姉さんも覚悟を決めたらどうなんじゃ? 儂のこの陣の仕組みには流石に気付いとるんじゃろう? 勝つ気があるなら、腕の一本や二本くれてやるつもりで来たらええじゃろうが」
「何だと……」
「前にもこの陣を敷いた時に相手にした爺さんがおったが、そんくらいの気概はあったがのぉ。もっとも、それで結果が出る保障にはならんがな。――そら!」
不意を突くように紺乃が片手を突き出すように振りかざすと、彼を守っていた霊気の壁が急激に厚みを増して静を弾き飛ばした。同時に放射される霊気の圧力に、静は風に弄ばれる紙屑みたいに地面に転がされる。紺乃はその場から動かず、全身を砂埃で汚して立ち上がる彼女を見下し、肩を竦めて見せた。
「時間稼ぎは望むところじゃが、そろそろ羽虫のようにまとわりつかれるのも面倒じゃからのぉ」
「ふん……獣だの、虫だの、好き勝手に言ってくれる……」
静は頬の汚れを手の甲で拭う。すると、微かに血が付着していた。どうやら転がったときに擦りむいたらしく、傷口からじわりと熱が滲む。傷ついたことに多少の驚きはあったが、そんな内心はおくびにも出さずに、真っ向から闘志をぶつけて構え直す。
……さて、どうするか。
実際のところ、紺乃の懐へと踏み込む方法はあるのだと静は考えていた。腕の一本や二本。その言葉通りに自分への被害を度外視すれば、守りを突き破ることはできるはず。
その方法とは、霊気を纏うのではなく肉体の内側に張り巡らすことだ。この陣は体外へと放出された霊気を相殺する。ならば、内側から肉体を強化してやれば良いという理屈だ。しかし、当然ながらそうしない理由がある。単純に内側だけを強化しても、外側の肉体の強度はそのままのため、強化の衝撃に耐え切れないのだ。
霊気で形成されたものは霊気をもって壊すのが常套。それを肉体のみで物理的に破壊しようというのだ。普通に考えるなら有り得ない選択だが、選択の余地をなくすことこそが敵の策略でもあるのだろう。撤退の二文字がない以上、やらざるを得ない。
もう一つ考えられるとすれば一時的にでもこの場に漂う霊気の量を超え、相殺し切れぬ霊気を放出することであるが、これは不可能だろう。紺乃本体からも常に霊気は放出されており、陣の維持は完璧だ。これは大量の魂を喰らい、悍ましいまでの霊気を蓄えている彼ならではの芸当。物量による圧殺だ。仕組みとしては至極シンプルなもの。しかし、だからこそ隙もなく打ち砕くのは容易ではない。封魔省副長の名は伊達ではないと言うことだ。
「いいだろう。やってやるさ!」
突撃姿勢となった静は、足を踏み鳴らして肉体の内部へと血流のごとく霊気を練り上げた。短く息を吐き出して蹴った地面から土煙が舞い上がり、瞬時に彼女の姿は掻き消える。そのまま一気に紺乃の背面に回り込み、満身の力を籠めた右の拳を振るった。
紺乃は静の動きに反応し切れておらず、遅れて振り返る。一見すればこの時点で静の勝ちであるが、紺乃の張った障壁が彼女の拳を堰き止めた。
拳の皮膚が裂け、骨を削るような歪な音が鈍く響く。噴き出す鮮血が拳を濡らすのも構わずに静はそのまま万力のごとく捻じ込もうとする。傷口からは霊気の藍色が染み出しては消えていた。
「オオォ――――――――!!」
静は猛獣もかくやという雄叫びを迸らせる。そして、ミシリッ――と内に向けて崩壊する破砕音が鳴り、彼女の拳は血色の障壁を削り取った。
「くは……やるのぉ!」
守りを崩された紺乃は口の片側を剥いて哄笑を上げる。そして、初めて自ら足を動かして攻撃を避けた。上体を仰け反らして静の腕を払い除けて、後ろに飛びずさり距離を取る。その最中に追撃を防ぐため、彼はすぐさま障壁を再構築していた。
「…………ん? なんじゃ。攻めて来んのか?」
しかし、紺乃が肩透かしをくらった風に目を眇めて訊ねる。静は紺乃を追わずにその場に留まり、裂けた右手を左手で握り込んでいた。痛みに耐え兼ねたわけではなく、彼女はじっと己の拳を見つめていた。
「なるほど……大体分かった。次で仕留める」
そして、納得したように頷くと、再び腰を落とした。左腕を盾にする形で半身を前に置き、血の滴る右手を腰に溜める。今の攻防で何を掴んだというのか、静の鷹の目は決意と自信に満ち溢れていた。
「……大きく出たもんじゃな。何が分かったのかは知らんが、その右手でもう一発当てる気か? 次はそんなもんじゃ済まんぞ? 流石に儂も、反撃せざるを得んかもしれんしのぉ」
「今更そんな脅しが通用するとでも思っているのか。くだらないことを言うな」
「は……そら、そうかもなぁ」
獲物を狙い定める静の気迫は緊張に高まっていく。紺乃は不敵な笑みを浮かべて彼女が動き出すのを待った。血色の霧は無言のまま、彼女が霊気を発しようとするならば即座に打ち消さんと揺蕩っている。
その一瞬の静寂の間隙をつくように、静は疾走した。コートの裾を翻し、真正面からの突貫。両者の距離は即座に詰められ、視線が交錯する。
「特攻か。なんぞ考えがあるかと思えば、やぶれかぶれかのぉ?」
「勘違いするな。ぶん殴るのなら、正面からの方が気持ち良いというだけだ!」
血管の浮き出る程に握り締めた静の拳が空間ごと抉り取る勢いで放たれる。しかし、どれだけ気迫や殺気を込めようとも、その一撃はこれまでの攻めと何ら変わるものがない。少なくとも、紺乃はそう判断していた。
だが、静の拳が紺乃の周囲に展開された障壁に触れた正にその瞬間である。拳から目も眩む藍色の霊気が血潮と共に迸り、障壁を崩壊させていた。
否――正確には、相殺したのである。紺乃は崩れ去る障壁を目の当たりにして静の自身に満ちた瞳の意味を悟ったが、その時点で彼の視界には迫る拳が一杯に広がっていた。
全体重を乗せて身体を沈める勢いで静は、紺乃の左頬を捕えた鉄拳を振り抜いた。たたらを踏んで耐えた紺乃の足下の地面が、数センチ陥没して亀裂が走る。
「なんとまぁ……、やってくれるのぉ……」
「喋っていると舌を噛むぞ」
静は振り抜いた勢いを利用して上半身を捻り、左腕を振り被って力を溜めた。そして、有無を言わさず豪快な左フックを下がった紺乃の顔面へと叩き込もうとする。だが、紺乃も二発目は許さず、右腕を顔の横に立て防御した。衝突して派手に飛び散る両者の霊気が視界を焼く。紺乃の押し返す力を受けた左腕全体がへし折れそうになっていたが、静は構わず押し切ろうとする。
「如月の爺さんの言うた通り……やっぱり姉さんが一番厄介みたいじゃのぉ。まったく、割に合わんくてかなわんわい」
口から顎にかけて血を垂らしながら、紺乃は鋭い犬歯を覗かせる。長い前髪が衝撃の余波に触れて持ち上がり、切れ長の暗い瞳は言葉とは裏腹に愉快そうに細められていた。
「今の私の前で、その名を口にするとは良い度胸だなぁ!!」
如月の名を耳にして静の中の感情の温度が上昇する。捻じ込もうとしていた左腕を素早く引かせ、血濡れた右の拳を握り直して交互に乱打を撃ち放つ。対抗して紺乃は障壁で防ごうとするが、もはや用を成してはいなかった。だが、打ち砕かれる障壁を見てもさしたる動揺も見せず、見切りと体術で躱してのける。
「なるほどのぉ、まぐれあたりっちゅうわけじゃあなさそうじゃな」
静の猛攻を往なしつつ、紺乃は感嘆する。まさかこのような形で懐に飛び込まれるとは、彼にとって思いもよらぬことだった。
紺乃は別段戦いを好む性格というわけではない。組織の性質上、血の気の多い封魔省の中でもおいて彼の性分は特異であり、だからこそ副長と言う面倒な立場に据えられているとも言えた。自らの手を汚さないことに越したことはなく、極力必要最低限の力でことを成したいとさえ思っている。彼はそういう男だった。
故にこの陣は、紺乃にとってはうってつけのものなのだ。どれだけ修練した霊気の技も、力も、この陣の中では全てが無力化される。手も足も出なくなった者が取る道は、大人しく降参するか、今の静のような肉弾による突貫しかない。だが、それは所詮破れかぶれの悪あがきだ。自滅を招くだけの行為に過ぎない。そんな相手を彼はごまんと見てきた。
この陣に弱点などない。真正面から霊気の物量で勝負されて相殺し切れず負けたことはあるにはあったが、そんな規格外の怪物は数に含めてはいけない。純粋な人の身である以上、この陣を崩すことは不可能と――そう自負してきたはずだったのだが。
「お前のその相殺は自動なのだろう。利点でもあるのだろうが、それこそが弱点だ」
「あぁ、そうじゃとも。姉さんにとっちゃぁ、大きな隙だったようじゃのぉ」
陣に張り巡らせた霊気は、中にいる紺乃以外の術者の霊気を自動的に感知して相殺する。紺乃の仕事はあくまでそうした性質の陣を創っただけであり、相殺に関しては彼の意志は関係がない。だからこそ奇襲にも対応できるし、致命的な隙をも潰すことができる利点となる。
だが、裏を返せば相殺に用いられる霊気の取捨選択を、紺乃は自分の意志で行うことができないとも言える。静はそこを突いたのだ。
陣を満たす霧と、防御のために構築された障壁。触れた瞬間に相殺されるというのなら、己の拳が障壁に触れるその寸前に霊気を爆発させる。そうすることで、霧の方ではなく障壁の霊気を相殺に利用させたのだった。
「見事しか言いようがないわい。力技なんてもんじゃあないわな」
少しでもタイミングを誤れば成立せず、言う程簡単なことではない。止まっている的と狙うわけではないのだ。ぶつかる瞬間を見極める判断力と動体視力。霊気の放出を遅れさせない圧倒的な戦闘技術。何より驚嘆に値するのは、この短時間で陣の特性を看破し、それを弱点として利用しようとする感性である。
「まったくもって、恐れ入る。どうやら、別の意味で姉さんも規格外のようじゃのぉ」
魂も喰らわず、接続などで他者の力を利用することもない。ただ一人の武のみでここまで肉迫された記憶はついぞない。紺乃は最大級の賛辞を込めて、静のことをそう呼んだ。




