14 「矛と盾 3」
珊瑚は拳を突き出した姿勢のまま、荒い呼吸を繰り返した。背後では粉々になった宝石が散らばり落ちる音がして、光も収束していく。元の暗がりとなった森の地面に倒れ、動かないレイナを見てようやく残心を解いた彼女は、慎重に足を前に動かし始めた。
全身はボロボロで悲鳴を上げていたし、気を抜けば意識は崩れ落ちそうになる。とてもではないが勝利したと胸を張って言える状態ではなかったが、それでも何とかもぎ取ることはできた。
最後の一手はほとんど博打に近いものだった。レイナが虎の子と称して全力を掲げたときに、珊瑚もまた自分の奥の手を出すことを決意したのである。その結果、彼女はなんとか一撃を届かせ、生き延びることができた。
心が――魂に刻まれた古傷が痛む気がして、胸に手を添えて指を立てる。僅かの間、珊瑚は目を伏せて亡き人の影を想った。
「は……」
仰向けに倒れたレイナから、微かな息遣いが漏れ出た。珊瑚は顔を上げ、動く気配のないレイナを見下ろせる距離にまで歩み寄る。レイナは重たげに瞼をどうにか持ち上げながら、瞳を珊瑚に向けていた。
「そうでしたね……。貴女は昔、接続者の魂を喰った。その咎で組織を出たのでしたね」
失念していました。とレイナは震える唇で言葉を紡ぐ。彼女は自分の最後の一撃が躱されたのは、そこにしかないと解答に至っていた。魂を捕食して力の底上げをする行為。滅魔省が敵対関係のある封魔省を外道と口を憚らせない理由の一つだ。
「ええ……正解です。あなたの手が虎の子なら、私の場合は禁じ手ですね」
勝敗の明暗を分けたのは微小な力の差でしかない。しかし、その差を読み切れなかったレイナは計算を狂わせ、勝ちを逃した。
「私の敗北のようですね……。想いの強さでも……力でも……。ふふ、このような結果になるのなら……つまらない誇りも捨てて、貴女にさっさと止めを刺しておくのでした」
「残念ですが、想いの強さにしても、勝てたとは思いませんよ……負けたとも思ってはいませんがね」
「……小憎らしいですね。まったく。ですが、負けは負けです。好きになさい」
「見損なわないでもらいたいですね。決着はついたのですから、命を取ることはしませんよ」
潔く目を閉じようとするレイナの姿に、珊瑚は半ば呆れながら息を零す。生きるか死ぬか。成すか成さぬか。そういう両極端な気性なのだろう。そう言う意味でも、やはり性格は合いそうにはなかった。
「もう分かっているでしょうが、先の一撃であなたの魂には一時的な楔を埋め込ませてもらいました。霊気の巡りを阻害して動きを封じるだけのものです。命に関わるものではありませんので、安心してください。しばらくすれば拘束は解けるでしょう。とはいえ、これだけ消耗したのですから、まともに動けるとは思えませんが……」
全力を賭した上で戦った結果である。珊瑚とて今からすぐに次の戦いに臨めるほどの余力は残っていない。だから、レイナに対する処置はあくまで保険だった。
「……一つ訊ねますが、どうしてあなたは最後まで接続を使わなかったことですか?」
そして、その保険が正しく機能しているか確かめるためにも珊瑚は訊ねた。レイナは芳月清言と接続している。既に戦いを終えているのだろう彼に訴えれば、霊気の供給を受けることも可能であったはずだ。そうなれば、戦いの結果は異なったものになっていたに違いない。
「ふん……それは貴女とて同じでしょう。言ったはずです。つまらない誇りだと」
「……そうですか。愚問でしたね」
直接会話こそできないが、珊瑚も真と接続をしている。今は回線を切っているが、スイッチを入れることはいつでもできた。
珊瑚とレイナは互いの顔を見合う。それをしなかった理由は、語るまでもないことだった。
「では、質問を変えましょう。芳月清言はこの戦いの中で、何を成そうとしているのですか?」
珊瑚は静かに片膝をつき、レイナの肩を支えるように持ち上げた。気の合わない相手ではあるが、彼女なりに敬意を示したつもりのことである。
こんなにも愛する者のために、狂おしいまでの感情を表現することなど自分にはできない。おそらく、この先その在り様に届くことは決してないのだろうとも思う。だからこそ、そのような想いを向けられる清言が、ただの悪道に落ちただけの存在とは思えなかった。
「復讐ですよ。清言の命はもう長くありません。戦えば戦う程に、彼の死期は近くなる。その前に、彼は成し遂げたいのです」
「それは、無色の教団に? ですが、それでは今の状況は……」
「彼の誇りに懸けて、これ以上私の口からは言えません。無念ですよ……。貴女を止められなかった私には、もう清言を止めることもできない。私は、あの人が望んだたった一つの願いさえ、そばで見届けることができなくなる」
語るレイナの言葉からは、徐々に力が抜けていくようだった。意識を落とすのも時間の問題だと思われる。だが、その前に彼女は霞みかけた瞳に光を戻し、珊瑚と視線を結んだ。
「私からも……聞かせてもらえますか?」
「……何でしょう」
「貴女は、あの少年が少女と共に生き、共に死ぬと知ってなお、その選択を赦すと言うのですか?」
「それを決めるのは、私ではありません」
「そのような賢しらな答えを……誤魔化しを聞きたいのではありません。選択を他人に委ねるのは愚かなことです。好きなのでしょう? 愛しているのでしょう? ならば、手を伸ばすことを恐れてどうするのです」
「…………」
珊瑚は黙って首を横に振った。その考え方に羨望を抱かないわけではないが、やはり、相容れないことには変わりない。
「私は……ハナコさんと共にあろうとする彼の姿こそが、好きなのです」
この気持ちは嘘ではないし、解ってもらおうなどとは思わない。自らの命を懸けて真はハナコを救いに行った。そうまでしてまで共にありたいと願う存在が、彼にはいる。たとえどんな理由があるにせよ、彼のその心を奪うことなどできるはずがないのだ。
そうなれば、きっと彼は彼でなくなってしまうから。
「彼が望むこと。それを私の全てをもって支えることこそが、私の至上です。私の望みです」
自分を殺しているなどと、間違いなどとは言わせない。珊瑚は強く微笑んだ。この願いに打算なんてない。何より利己的で、自分がそうしたいから、そうするだけのものなのだ。
「……どうやら、何を言っても無駄なようですね」
処置なしだと言わんばかりの溜息を吐き、レイナは珊瑚から目を背けた。
外野の言葉で変わる程度の気持ちならば世話はない。となれば、この戦いは結局は八つ当たりでしかなかったのだろう。
「あなたの流儀に倣うならば、この気持ちを愛と呼べるほど私には自信はありません。しかし、これが偽らざる私の心です」
珊瑚は返答を求めずに、支えていたレイナの肩を下ろして立ち上がった。まだ戦いは終わっていない。次に取るべき行動はもう決まっていた。
「――待ちなさい」
が、先行した真を追うべく踵を返そうとした珊瑚の背にレイナが待ったをかけた。まだ何か言うことがあるのかと、珊瑚は一応足を止めて振り返る。レイナは横たわりながら珊瑚の主に上半身に視線を走らせて、ふと意地悪そうに口元を緩めていた。
「貴女、そんなはしたない恰好で行くつもりですか?」
「え――」
言われて視線を下げた珊瑚は、そこで改めて自分の今の状態を客観的に見ることになった。
戦いの中で気にしている余裕などなかったが、特に上半身が酷かった。肉体的な損傷は防御で最低限に抑えていたが、最後に全方位からのレイナの閃光を受けたのが決定的だったのだろう。服の大部分が焼け焦げているような有様だった。直截に言えば、ボロ布を纏っているのと大差ない。下着は丸見えだったし、危うくすれば色々と零れ落ちそうで人様の前に出られる姿ではなかった。
「痴態を晒したいと言うのなら止めはしませんが……、少年にはいささか刺激が強いのではないですか?」
「な、なにを馬鹿な――!」
「やれやれ……仕方ないですね。私の上着を使いなさい。まだ、その辺りに落ちているでしょう」
首を巡らすと、レイナの言う通り彼女が脱ぎ捨てた士官服の上着が少し離れた場所に落ちていた。頬を赤らめながらも何か意図があるのかと眉を顰めて見返す珊瑚に、レイナは底意なく言葉を返す。
「同じ女として、見ていられません。それだけです」
「…………では、ありがたく使わせてもらいます」
「返さなくてもいいですから、好きに使いなさい」
上着のないレイナはシャツにネクタイ姿であるため、遠慮は無用のようであった。こくりと素直に頷いた珊瑚は、上着を拾い上げていそいそと着替えを始める。袖も無理なく通せ、前もきっちりと閉じることができた。
「まあまあ……ですね。もう引き止めはしませんから、行きなさい」
褒めているのだか貶しているのだかよく分からない感想を述べて、レイナは力尽きたように目を閉じた。珊瑚は小さく頭を下げて、今度こそ彼女に背を向けて振り返らずに走り出す。
「まったく……自信がないとは……愚かですね。十分過ぎる程、あなたは……愛しているのではありませんか……」
その気配が完全に消え去るまで待ってから、レイナの意識はとうとう落ちる。暗い森の中に、誰にも届かぬ掠れた呟きが染み込んでいった。




