13 「矛と盾 2」
時間が少ない。端的に告げられたその事実に、珊瑚はまず己の耳を疑った。
「侵されている……、そう言いましたか?」
「そう言いましたが? 清言はかつて無色の教団にその身を捧げ、実験に協力していた。その際に、彼は強大な力を手に入れる代わりに魂の寿命を縮めたのです。いえ、今も力を使う度に、彼は命を消費しているのですよ」
凍てつく霊気に照らされるレイナの顔は、白く透き通っているみたいだった。薄灰色の眼差しを射るように珊瑚へと向けた彼女は、苦虫を噛み潰したように口元を歪める。
「私は清言に生きていて欲しい。そして、延命するには、もう教団の持つ力に頼るしかないのです」
それしかない――紡がれた言葉は血を吐き出すかのような辛酸をなめる響きがあった。それだけで、彼女がどれほどの懊悩を抱えているのかが窺い知れる。
「……だから、なんだと言うのですか」
しかし、珊瑚は息を深く吐き出して言いながら、両腕を持ち上げて身構えた。
「今更そんな事情を話して、同情でも誘おうとでも?」
全ての事情が開示されたわけではないし、清言とレイナの関係性を詳らかにしようなどとは思わない。そんなことをしても相手を惨めにさせる以上の意味はないし、自分の取るべき行動は変わらない。優先順位は――何一つとして変わらない。
「酷いですね。事情を訊いてきたのは貴女の方なのに。でも、そうですね。同情などは御免です。私は私の意思に基づく行動に、後悔など一つもないのですから」
レイナの霊気がいよいよ臨界へと達したかのような輝きを迸らせる。白金の髪と白磁の如き肌はまるで氷像。だが、剥き出しにした気性を宿すぎらついた双眸は、獲物を狩る猟犬のそれだ。
「これ以上の説明は不要ですね。さあ、回復するのに十分に時間は稼げたでしょう。覚悟を決めて死になさい」
珊瑚は霊気を少しでも補充するため、綻びてとっくに使い物にならなくなった結界を解いた。じとりと全身に汗が滲む。意識を集中しながら、今の気分はまるで逃げ場を失った鼠のようだと自嘲した。
「覚悟の決め時ですね。ですが……生憎と死を覚悟する気はありません」
守るべきものがあるのはこちらも同じだ。何でもいい。全身全霊を傾けて活路を開け。敵を打倒しろ。
「……よかった」
「何ですか?」
ふと漏らした珊瑚の呟きに、レイナが怪訝に片眉を上げた。珊瑚は微かな苦笑を返して、全身に霊気を練り上げていく。
「一つだけ訂正させてもらいます。あなたは私の優先順位に私情がないと言いましたが、そんなことはありませんよ。真さんを行かせたのは、彼がいては邪魔だったからです」
ここに真を留めておきたくはなかったのかと問われたのならば、黙秘するだろう。しかし、彼にハナコを助けに行かせたかったというのも嘘ではない。それが合理的であり、現状取れる最善の手だと信じたからだ。そして、何より本気を出す必要があるのであれば、彼の存在は足枷にしかならないと判断したからに他ならない。
真を行かせて、本当に良かった。心からそう思う。
「彼には、私のこのような在り方を見せたくはありませんから」
魂の底から力を総動員する。深く、深く、自我をも埋没させるほどに深く、研ぎ澄ませろ。今からこの身は誰かを守る盾ではない。障害を撃滅するための矛となる。
――かつての自分の戦い方を、思い出せ。
「……なるほど。これが、貴女の本来の戦闘形態ということですか」
大気が轟と唸りを上げ、燐光が火花を散らして弾け飛ぶ。レイナは目を眇めて、燐光に包まれる珊瑚の姿を捉えていた。それはこれまで珊瑚から感じていた繊細さからは掛け離れた、荒々しさを前面に押し出している様相である。しかし、その実態は堅牢にして無駄がない。内側から迸る白の閃光は珊瑚の全身あらゆる箇所に最適な強化を施している。重量に反して緩やかに浮かび上がる髪さえもが、千島珊瑚という一つの武具を形成するバランスを演出していた。
「行きます――!」
身を深く沈めた珊瑚の姿が、レイナの視界から消えた。最短を最速で埋める刹那。眼下に白光が躍ったかと思えば、下腹部に衝き穿たれる掌底に肺腑から息が引きずり出された。
「――ッッ……!!」
レイナは腹に風穴でも空けられたかと錯覚した。咄嗟にガチリと歯をかみ合わせ、無様にも声を上げることを避ける。瞬時に高めた霊気を放射しながら飛びずさり、次の攻撃が来る前の牽制とした。
だが、それで珊瑚は止まらない。霊気を纏った右腕を振りかざし、レイナの放つ霊気を突き破りながら肉迫する。当然だ。後退はない。この身はただ振るうため。敵を倒すことのみに特化した武具である。
刺せ。穿て。薙ぎ払え。目の前のあらゆる障害を駆逐しろ。手を緩めるな。そんな意志は介在しない。霊気を満たせ。最適に余すところなく全身を駆動させろ。一片でも肉体に鋭さが残る限り、止まることは許されない――!!
「そんな顔もできるのですね……面白いッ!」
好戦的な笑みを浮かべたレイナが突貫する珊瑚に合わせて拳を振るう。激突する両者の熱と冷気が螺旋を描いて鬩ぎ合う。一歩でも引けばその時点で負けだと言わんばかりに、互いの身体を鍔迫り合わせる。
珊瑚は正確にレイナの動きを見切りながら、最短の軌跡で抜き身の刀のごとき拳を、蹴りを繰り出していく。だが、レイナも負けてはいない。最適であるが故にその軌道を見切るのもまた容易い。並の者ならばついて来られやしない神速の域に達そうとしているが、追い付けぬものではない。
――まだだ。まだ、足りない!
一撃放つたびに珊瑚の中から余分な精神は削ぎ落とされた。我が身を研磨し一心不乱に鋭さを加えていくその行為に、確かな悦びを感じていく。
過去を捨て、浅霧家に来てからの珊瑚の戦いは守るためのものへと変容していた。搦め手に特化し、極力対象を傷つけずに無力化することに長ける戦い方。それが新しい自分の生き方であると戒めるように、韜晦するように。
レイナの力が障害を砕く矛ならば、珊瑚は盾だ。しかし、今必要なのは盾ではない。矛と盾では決着がつかない。それでは駄目だ。
ハナコの心の中から帰還した真。彼とハナコに再会したとき、珊瑚は二人の絆が強まりに気付かされていた。もう寄り添うだけの二人ではなく支え合うことを覚えたように、その成長は分かり易いものだった。
守らねばと、堅く誓っていた両手の力が僅かな喪失感と共に緩むような心地だった。それを寂しいとは思うまい。彼がその先の段階へと進んだのであれば、自分も信じて託さねばならない。何処までも疾走する彼に追いつくためには、彼の隣に並び立つためには、ここで負ける訳にはいかないのだ。
「――――ッ!!」
感情のままに珊瑚は吼え猛る。本当に足枷なのは自分の方なのだ。ハナコを想う彼を見るだけで、心は無性に掻き乱された。そんな自分を許せないし、彼と共にあるべきではないとすら思ってしまう。
この胸の内を悟られることが怖い。まったくもって、自分でも呆れ果てるしかない。家族同然に過ごしてきたと言うのに、今更彼に拒絶されるかもしれないなどと愚にも付かないことを考えるなんてどうかしている。彼の隣に立てない未来を思うことが、こんなにも胸を締め付けるものだとは思いもよらぬことだった。
まるで理解できない、未知の自分が生まれたみたいで不安になる。このような幼く、未熟で、惰弱な姿を彼には見せたくはなかった。己のあまりの矮小さに心から嫌気がさす。
まだ芽生え始めたばかりの、育ち切らないこの想いをどう扱えば良いのかなんて分からない。だから、全てここで吐き出していく。心のままに叫ぶのだ。
届けとは言わない。どうか、その背中を見守らせて欲しいと――。
「子供みたいに……鬱陶しいのですよッ!」
対するレイナも負けてはいない。珊瑚の霊気に食い込まんと、自らの激情をも凍りつかせんばかりの凍結を振るう。願うことはただ一つ。それ以外のあらゆる情は切り捨てた。彼がこの戦いの果てに何を望んでいるのかも知っている。しかし、それさえもこの願いの前には関係がない。
これは裏切りだろうか。忠義をはき違えているだろうか。だが、彼が生きてくれることに較べれば全てが些事だ。取るに足らない感傷だ。そのためならば、たった一人を想い幾らでも狂って見せる。
「身も心も捧げる覚悟のない貴女に、私は負けない……! 負けてなるものかッ!!」
「重いのですよ……! そんなものは!」
「愛が重くて何が悪い!」
珊瑚の拳を受け止めたレイナは、そのまま爪を立てんばかりに握り締める。そのまま片腕を凍らせてへし折らんばかりの凄絶さであったが、珊瑚の熱はそれすら溶かさんと前進しようとする。均衡は崩れない。どちらも一ミリだって引く気はない。緻密な駆け引きの応酬はいつしか泥臭い力のぶつけ合いとなり、爆ぜるような攻防が延々と続くかに思われた。
しかし、気持ちは途切れずとも肉体の限界は訪れる。無尽蔵に溢れる力などないし、使い続ければいずれ底は見えてしまう。
「く……こんな……ッ!」
レイナが表情を引きつらせる。精細さが欠け始めるのは消耗からの疲労。最初から攻撃に全力を注ぎ続けていたことが、ここに来て響く結果になったのである。いくら威力を調整しようとも、放射と防御とでは使用する霊気の量は前者の方が大きい。術者の力が拮抗すればするほどに、その差はじわじわと明らかになっていく。
無論、レイナとて理解していないわけではなかった。珊瑚の両腕を封じた時点でさっさ止めを刺しておけば、勝利は確実であったはずだった。
完膚なきまでに叩き伏せたいと思ったのが仇となったと言えるだろう。しかし、けれども――レイナは己の迂闊さを呪いはしたが、同時に奇妙な清々しさも覚えていた。
徹頭徹尾、この珊瑚とは考え方が合わない。愛する者のいない世界など想像できない。その隣に並び立つのは己でなければ我慢がならない。求めて、求めて、心が捩れる程に求めてやまないこの渇望こそが我が命である。阻ませやしない。壊させやしない。自分は愛する者の隣にいなくてもいいなどと阿呆の戯言、世迷言。敵前逃亡の哀れな自己弁護。そんな綺麗ごとに価値はない。戦う覚悟がないのなら舞台に立つな。目障りだ。
「ですが――認めましょう」
レイナは凄絶に笑みを刻んだ。戯言であろうと、世迷言であろうと、それは確かに美しい。その輝きにこうして押されかけているのだから、それは事実として認めようではないか。
やはり、止めを刺さなくて正解だった。己とは真逆の意志の輝き。そんな綺麗な想いは必要ない。叩き潰した上で、己が真であると証明してみせる。目の前の敵は、そのための踏み台だ。
「これで最後です」
「――何を!?」
言うやレイナは士官服の上着を引きちぎるように脱ぎ払った。素早く裏地とポケットに潜ませていたある物を指の間に挟むように掴み取り、服はそのまま打ち捨てる。珊瑚はレイナの五指の間で光を放つ宝石の一群を見て顔色を変えた。レイナは躊躇わずそれを中空へと放り上げる。すると、宝石は内部から罅割れの音を高く上げ、決壊寸前の霊気の輝きを迸らせた。
「虎の子です」
人一人の身体に収められる霊気の量には限りがある。宝石などを媒介に霊気の貯蔵庫とするのは、接続と同様に、膨大な量の霊気を扱うために編み出した滅魔省の技術の一つだ。レイナはこの戦いの先のことをも考えて温存していた手札を切ったのである。
これで掛け値なしの全力。損耗した霊気の差はこれで十分に埋められた。打ち上げられた宝石は全方位から珊瑚を焼き尽くす霊気を放つ。避けることは不可能。仮に防ぎ切れたとしても霊気の消費は計り知れないものとなろう。突っ切ってこようが、足を止めて防ごうが関係ない。レイナは次に珊瑚の姿が見えたその瞬間に、一撃を見舞うつもりで身構えた。
白金の閃光に焼き尽くされた視界の端が一瞬膨れ上がる。今更立ち止まることはすまいとレイナの予想した通り、珊瑚は守りを固めて灼熱の閃光の中を突っ切って来た。顔を苦悶に歪め、纏う霊気からは煙のように蒸気が昇って損傷を表している。
ここが勝機であると、レイナは己の中にあるなけなしの霊気を込めた拳を引き絞った。閃光に霊気諸共に焼かれた珊瑚の動きは明らかに鈍くなっている。ここで、今度こそ確実に仕留める。
「終わりです!」
絶対の意志を込めて拳を放つ。狙いは胸の心臓部。そこへ霊気を打ち込み侵食することで、全身を機能させなくする必殺の一撃。流れるように一閃を描く己の拳をレイナは自覚する。もう一秒にも満たぬ内に届く――はずであった。
「――ええ、終わりです」
余力などないはずの珊瑚の声がレイナの耳にはっきりと届いた瞬間には、もう目の前から姿を消していた。レイナの予測からは有り得ない速度で身を屈めた珊瑚は敵の懐へと飛び込み、鋭いカウンターの拳を撃つ。真白き一条の光輝がレイナの心臓部に突き刺さり、身体ごと吹き飛ばしていた。




