08 「異界の門 1」
何が起きたのかを理解しようとする前に、静は周囲の風景が切り替わっていることに気が付いた。
仲間たちの姿はそばにない。更地のような広場に彼女は取り残され、ただ一人で足を着けていた。しかし、広場を囲む森林と鉛色の空は記憶と繋がっている。微かに香る潮の匂いからして、この場は先程辿り着いた無人島であるらしい。
「何だこれは。奇術か魔術の類か……」
肉体の感覚にずれもなく、気を失って運ばれたというわけでもなさそうだった。可能性は否定しきれないが、己の感覚を信じるならばそれはない。
にわかには信じ難いが、どうやら自分は島の入口から瞬間的にこの広場に『移動』させられたらしい。
直前で見た空間の歪みと、崩れ去る風景。理屈や条理を無視した超常だが、何らかの業で如月は自分たちを散り散りにしたのだろう。おそらくは、彼が口にした実験とやらに繋がるに違いない。
「――それで、お前は答えを知っているのか?」
と、そこまで予測した静は、背後から忍び寄る存在を振り返って問いを投げた。
「なんじゃ、気付いとったか」
カーキ色のコートを羽織った痩身の男――紺乃剛はそう言いながらも、さして驚いた様子もなく足を止めて肩を竦めた。それ以上近づけば一足のもとに静に飛び掛かられるだろう、絶妙な間合いだった。
「動揺はなし……と。冷静なようじゃのぉ。理屈を聞かされとる儂でも、中々奇妙なもんじゃと驚いておるんじゃがな」
「その言い草だと、知っているみたいだな。私たちに何をした?」
「わざわざ種明かしをする阿呆もおらんじゃろうが……と言いたいところじゃが、まあええわい。受け売りでよければ、特別に教えちゃろう」
わざとらしく紺乃の左頬が吊り上がり、前髪に隠れた目が細められる。静はその一挙手一投足を見逃すまいと、拳を固めて油断なく身構えながら、次の言葉を待った。
「儂らは、俗に言う『あの世』を通って移動したと……そういうことらしい」
「……ふざけているのか?」
眼光を剣呑に光らせる静に、紺乃は口元に片手をあてて俯き気味に笑い声を漏らす。だが、彼も冗談で言っているわけではなさそうだった。
「ふざけちゃあおらんよ。お前さんも退魔師なら分かるじゃろう。浄化した魂が行き着く先……死後の世界の存在をな」
死した魂がこの世から消え去り、次の命へと生まれ変わる時を待つ場所。
この世とあの世、天国と地獄、霊界。呼び方は様々だが、そうした概念の世界があることは知識の上では知っている。しかし、生きている以上その世界を見たことなどはないし、この目で確かめることなどできるはずもない。
「あの爺さんは『異界』、なんて呼び方をしとったがな。どうやらあの世っちゅうのは、この世と表裏一体に存在するものらしい。薄皮一枚剥いで見れば、そこはもう別世界とな。よく言うじゃろ? お花畑とか、三途の川が見えよったとかな」
「だからなんだ? それがこの移動とどう結びつく」
「じゃからの、その世界の境目を捻じ曲げて、こう――」
紺乃は両手を広げると、軽くに掌を叩き合わせた。パン、と乾いた音が小さく響く。
「異なる地点を強引に重ね合わせることで、僅かの間、世界を繋げよったわけよ。あの空間の歪みは、いわば異界の門じゃな。儂らはその門を潜って、捩じれて重なった別の地点へと吐き出されたっちゅうことじゃ」
「……正直、訳が分からん。しかし、こうして移動してしまった以上、現象そのものは信じる他ないようだな」
「ああ、それでええわい。細かい説明は儂の領分じゃないからのぉ」
論より証拠とはこの事だろう。起こってしまったものは仕方がない。与太話だと一笑に付すわけではないが、静は理解不能な現象への関心をあっさりと切り捨て、紺乃を睨み据えた。彼もそれを受けて、肩の荷が下りたように楽な笑みを浮かべている。
排除しなければならない問題は、今こうして目の前に立ちはだかっているのだ。
「私の相手は、お前だけか?」
その問い掛けに、紺乃は大仰に頷いた。
「あぁ、そうじゃとも。とんだ貧乏くじじゃが、駄賃分の働きはせにゃならんからのぉ。ちょっくら時間を稼がせてくれや」
戦力の分断の意図は、集団戦闘における連携を取らせないためと考えてよいだろう。如月はこちらの戦力を十分に把握しているはずだ。それを踏まえた上で、各個撃破する相手を選んでぶつけてきた。他のメンバーも、今頃別の場所でそれぞれの敵と相対しているに違いない。
正直、静はほっとしていた。心配ではないのかと問われれば是と答えるだろうが、珊瑚の実力は静も知っていることだし、真とて男だ。今更、姉の助けを乞うて泣くような玉ではない。
信頼して任せれていれば、それでいい。
だから、今は自分の戦いに専念できる、この状況がありがたいのだった。
「そう言えば、お前はさっき面白いことを言ったな」
「あ……何の事じゃ?」
「私が冷静だと、そう言っただろう。お前には、そう見えるのか?」
静の纏う空気は凪いでいた。しかし、紺乃は鋭く細めた瞳で彼女の心の内を暴くように見つめながら、酷薄な笑みを刻む。
「くく……冷静じゃろうとも。あんたは、恐ろしい程にな……冷静に怒り狂っとる」
「あぁ、その通りだよ。今から、分かり易いように表現してやる――」
その紺乃の笑みに対して、静は奥歯を噛み締めて口元を歪めた。
「思い知らせてやる。あの爺を前にして一番怒っているのは、この私だッ!!」
見開かれた静の瞳が藍色の霊気に燃え上がる。爆発的に放出された気迫が渦を巻き、彼女のコートの裾を激しく躍らせた。逆巻く霊気の旋風に靡く一括りにされた髪は艶やかに染め上げられ、その一本一本が強靭な刀剣と化していく。
「ようやくだ……仇がすぐそこにいるのだ……! そこをどけッ! 私の道を阻むなッ!!」
「どけと言われてどくかいな。まったく、えらいモンを押し付けてくれたもんじゃが、まぁこれも仕事じゃ。現の奴も世話になったようじゃし、一つ手合わせ願おうかい」
並の使い手ならば、その勢いだけで呑み込まれるだろう静の放つ霊気の奔流を前にして、紺乃が浮かべる笑みは、あくまで余裕を含んだものだった。
だが、静を止める者はもういない。彼女は己の本懐を遂げるべく、全霊をもって目の前の障害を打ち砕かんとするのだった。
◆
沙也は暗い茂みを掻き分けながら、潮の香りに混じる気配に誘われるように駆けていた。
自分が一人であることに気付いて早々に、敵の奸計に嵌ったのであろうことを彼女は理解した。どのような理屈で分断されたのかは想像すらできないが、今の彼女にとって、それは些末な問題でしかない。
お膳立てとは、よく言ったものだ。
前進するにつれて、ここへ来いと語り掛けるようなその気配はより濃密になっている。そして、それは彼女がよく知る男のものだった。
抑えようもなく逸る動悸が求めるまま、肺に酸素を取り入れ、全身に血を巡らせる。思考が行き着く先はただ一点。
……もうすぐだ。この先に、あいつがいる!
浅霧真たちには多少悪いとは思ったが、最初から彼女の目的はここにあった。その機会が、思うよりも早く来てしまっただけのこと。彼らは彼らで、事を成すために全力を尽くすことだろう。ここに至って自分にできることは、それが上手くいくことを精々祈るだけだ。
茂みを抜けると、身を切るような潮風が沙也の頬を打った。
抜け出た先は島の外周部で、地面には短い雑草がまばらに広がっており、高い崖に押し寄せる波の音が一定の間隔で鳴り響いている。
黒い外套を風に揺らしながら彼方を見つめるその背中を、沙也は視界の先に捉えていた。
「清言……!」
彼女が追い求めた男は名を呼ばれ、身体ごと振り返った。近付く気配はとっくに感じていたはずなのに、その余裕のある態度が彼女の気持ちを逆撫でする。
この叔父は、沙也にとって初めから敵だった。
同じ組織に所属して彼に師事していたのも、全ては己の無力さ故。そうしなければ、彼女が目的は果たすことなど夢のまた夢だったからだ。
例え無様であろうと、這いつくばって泥を啜ろうとも、成し遂げなければならないことがある。
「言伝は守ったようだな。沙也」
そして、それは清言も承知していること。滅魔省に引き入れ、今日まで戦士としての沙也を育て上げたのは彼自身に他ならないのだから。彼女がどんな気持ちで己の前に立っているのか、手に取るように伝わっているだろう。
今すぐにでも斬りかかってやりたいと、沙也の心は奮い立つ。
「そんなどうでもいいことを、言ってるんじゃないわよ」
こちらを見下ろす冷徹な叔父の瞳を烈火のごとく睨み返して、沙也は右手に意識を研ぎ澄ませた。煌めく霊気によって瞬く間に形成されるのは、彼女の心を体現するかのような、燃え立つ緋色の太刀である。
「言葉は不要か。お前らしいな」
焦げ付くような鬼気を宿す切っ先を突き付けられ、清言は苦笑と共に腰に佩いた軍刀を抜き取った。
沙也の鮮やかな刃に比べれば、その鈍色に深く輝く刀身は無骨そのものである。しかし、清言の刃もまた彼女と同じく霊気で精巧に編まれたもの。両者の刃は、何者にも屈さぬ信念を投影した己そのものだ。
「は……! いつも無口のあんたが、今日に限って何を話すっていうのよ」
「お前と言葉を交わすのも最後になると思えば、多少の時間は惜しんでもバチは当たらんだろうさ。だが……無粋だったようだな」
「当たり前でしょ。あたしが、この日を来るのをどれだけ待ち望んでいたか……知らないあんたじゃないでしょう」
沙也は両手に構えた太刀を自分の顔の左側に水平に持ち上げ、右足を前へと踏み込ませる。
「あんたが如月と何を企んでいるのかなんて関係ない。あたしは、父さんと母さんを殺した、あんたを殺す。それが、あたしの全てよ!!」
「無論、知っている」
清言は半身をずらし、軍刀の先端を地面に降ろすようにして腰だめに構えを取った。
「だがな、沙也。ここで私に挑むということは、私を殺す算段が整ったということか? 自棄を起こしているのなら、考え直すことを勧めるぞ」
「ふざけるな。あんたがこうして敵に回った時点で、もう遠慮はいらないってことでしょ。見え透いてるのよ、殺しに来てみろってね」
沙也の台詞に、清言は精悍な笑みを湛えた。彼女はそれを肯定と受け止めて、腹の底から湧き上がる衝動を刃へと滾らせていく。
「この日を待っていたのは、私も同じだ。私を殺そうとするお前を絶つことで、私の復讐は成されるのだからな」
清言は沙也の気に呼応するように、自身の闘気を鋭利に尖らせた。
触れれば断たれる――。彼への憎悪を滾らせる沙也をもってしても、背筋に悪寒を走らせる冷厳な威圧。修練の手合わせなどではなく、遊びの一切ない殺し合いのための意志しかそこにはない。
「これは、私とお前の復讐だ。誰にも邪魔はさせん。来るがいい」
「上等よ……!!」
復讐の時は来た。
今日こそ自分は、目の前の“鬼”を討つ。
次に荒波が岩礁に砕かれる音を合図に、沙也は緋色の意志を振りかざした。




