07 「答え合わせ」
緑で覆われた円形の島の外周は、剥き出しの岩肌が切り立っていた。その中で一部浅瀬になっている部分に、コンクリートの桟橋が掛けられている。そこが唯一のまともな上陸ポイントだった。
慎重に船は桟橋に寄せられて、真たちは順に陸地へと降り立った。人工的に造られた場所はここだけのようで、桟橋の先はごつごつとした岩の転がる狭い砂浜となっている。左右には崖が入口を象る門のように聳えていた。
「それで……、ここからはどう進めばいいんだ?」
どう見ても一方通行ではあるのだが、真は沙也に訊ねてみる。彼女は睨むように彼に横目を向けて、肩を竦めた。
「さて……ね。あたしは、ここに来るように言われただけだし」
「ここは敵地です。闇雲に動き回りたくはないところですが……」
周囲を鋭く観察しながら珊瑚が言う。島の外周は五キロメートル程の大きさで、隈なく調べようと思えばそれなりの時間を取られることになる。加えて、中に足を踏み入れれば生い茂る草木によって視界も悪くなるだろう。奇襲する側からすれば、うってつけに違いない。
「向こうが仕掛けて来ないなら、こちらから行くしかあるまい。突っ立っていても始まらん」
気の短い発言は静のものだった。それは浅慮に過ぎるのではないかと思われるが、彼女の言う通り、立往生をしていてもどうしようもないのも事実である。
「――心配するこたあねえよ。案内なら、俺がしてやるぜ」
その声が聞こえたのは、早速これからの行動に対して意見が分かれようとした、その時であった。
砂浜の奥に広がる森林より、二人分の人影が現れた。先頭を歩くのは白衣姿の老人。そして、カーキ色のロングコートを羽織った長身の男が彼の後を追随している。こちらは、目深にフードを被っているため顔は見えない。
「如月……!」
「こいつが?」
真は先頭を歩く老人があまりにも堂々と姿を見せたことに驚きながらも、咄嗟に身構えた。如月の顔を知らない沙也が、怪訝に眉を寄せる。敵の大将がいきなり登場したことに、少なからず動揺しているようだった。
「ちゃんとハナコを連れ戻したみたいだな。安心したぜ」
しかし、真たちの動揺を意に介さず、真とハナコに目を向けた如月は愉快そうに口端を持ち上げていた。
「しかしよぉ、真。連れないじゃねえか」
「何がだ……!」
「何が、か。もう俺のことを、『先生』とは呼んでくれねえのかよ?」
如月がそう言い切るかどうかの刹那、真側の大気が爆音を轟かせた。砂が粉塵さながらに巻き上がり、一瞬何が起きたのか判断が遅れる。
「――静さん!!」
そして、珊瑚の叫び声を聞いて、ようやく真も状況を理解した。地面を蹴った静が、恐るべき勢いで如月に突っ込んで行ったのである。
容赦も仮借も何もない。煮え滾らせた感情の矛先をただ一点にぶち撒ける。如月の顔を眼前に捉えた静は、引き絞った拳を稲妻の如く刺し穿とうとしていた。
まさに彼女の憤怒を体現したかのような打音が轟き、拳を中心として嵐でも吹き荒れたかのような状態であった。真たちは声など上げる暇もなく、砂塵から視界を取り戻すまでの間、静の奇襲の結果を愕然とした思いで見守ることしかできなかった。
「あぁ、もう! 何なの!? バカなの!? 何も情報を引き出さない内に突っかけるなんて!!」
「俺に言うな!」
「ま、真さん! 見てくださいっ!」
怒鳴り合う真と沙也の間にハナコの声が割って入る。徐々に視界が晴れていき、ハナコが指し示す先を真は見た。
静の拳は如月に届いてはいなかった。その一歩手前で、コートの男が右腕を差し込み、拳を受け止めていたのだ。あの一瞬の最中に静の動きに対応出来るだけでも、只者ではないと思わせるには十分な動きである。
「……ッ」
静は歯噛みして、握り止められた拳を更に捻じ込もうと身体を前に押し倒そうとする。だが、それよりも先に男が口を開いた。
「おいおい、まだやる気かい。空恐ろしい姉さんじゃのぉ。何も聞かん内に殺す気か」
男の空いている左腕が閃くのと、静の拳が解放されたのはほぼ同時だった。静は後方に飛びずさり、男の攻撃を躱す。拳を放したのは、本気であてるつもりではなく距離を取らせるためのものだったからだろう。男は右手を軽く擦りつつ、不敵な笑みを浮かべていた。
「不意打ちは悪役のすることじゃろうが。もうちっと大人しゅうしとけ」
先の静の拳圧により、男のフードは後ろに流されていた。黒い髪は烏のようで、長く伸びた前髪の間から覗く切れ長の両目が、狡猾そうに細められている。
その男の素顔を、この場で真とハナコ、珊瑚の三人が知っていた。
「お前は……紺乃!」
「おぉ、坊主。名前は覚えとってくれたようじゃのぉ。こないなところで会うとは、奇遇よな」
「紺乃? それってまさか、紺乃剛?」
目を見開く真のただならぬ様子に、沙也が訊ねる。真は黙って沙也の目を見返し、頷いた。
封魔省副長、紺乃剛。その顔と名は忘れようはずもない。真の頭の中で苦い記憶となって刻み込まれている。
「滅魔の嬢ちゃんにも名は売れとるようじゃのぉ。結構、結構。以後、お見知りおきを願おうかい」
「ふざけてるの? 封魔省が……それも副長クラスの人間が、どうしてその男と一緒にいるっていうの!?」
紺乃は如月の盾になるように立ち位置を入れ替えていた。その様子を見れば答えは明らかなのだろうが、真偽は問わねばならない。
「嬢ちゃんと一緒じゃが? 互いに利するところがあるから、行動を共にしとるだけのことよ。ま、儂には嬢ちゃんのように己のプライドを曲げてまでやっとるわけではないがのぉ」
「――なんですって!」
「おい、やめろ! お前まで下手に突っ込もうとするんじゃねえよ」
いやらしく口角を吊り上げる紺乃に、瞬間的に沙也は激昂しかかる。だが、真が彼女の腕を引いて阻止した。
安い挑発だ。沙也が真たちと共にいることを恥じているのだとしても、それは成すべきことを成すためで、非難されることではない。
「静さん、あなたも下がってください。今は、まだ……」
「そ、そうですよ静さん! 翼さんのことだって、まだ何もきいていないんですよ!」
そして、両者の間で身構えながら立っている静の背に、珊瑚とハナコが説得の声を投げる。ハナコが口にした翼の名前に、僅かではあったが静の肩が震えた。
「霊の嬢ちゃんは良いことを言うのぉ。人質はこっちが握っとるっちゅうのに問答無用で実力行使とは、下手打てば殺されても文句は言えんっちゅうのにな」
「……その時は、お前らを八つ裂きにしてやる」
地の底を這うような声音で静は言い、ようやく真たち側のラインまで退いた。それから更に珊瑚が彼女の肩を掴んで、自分の後ろへと下がらせる。
「何か言う前に黙らせられれば、一番だと思ったのだがな……」
「二度としないでください。静さんのそういう気性も、向こうは見抜いていたはずですよ」
バツの悪そうに視線を逸らす静に、珊瑚が厳しく言い放つ。ともあれ、これで両陣営ともに初めの立ち位置に戻る形となった。
「紺乃、それ以上煽るな。話ができねえだろう」
「おいおい、最初に坊主を煽ったのはあんたじゃろうが。まったく、図太い爺さんじゃわ」
呆れた調子で肩を竦める紺乃の横を素通りして、再び如月が前へと出る。
「さて……それじゃあ、ちょいと真面目な話をしようじゃねえか。改めて、よく来たな。歓迎するぜ」
「待ちなさい。その前に、清言はどこにいるの? あたしに言伝を寄越した張本人は」
「清言の姪か。お前のことは聞いているぜ。だが、話には順序がある。まあ、お膳立てはしてやるから心配するな。少し黙ってな」
「……ちっ。浅霧真、ここはあんたに任せるわよ」
沙也は自身の目的である清言がここに居ないと知るや、舌打ちをして真に交渉役を譲った。
自分で良いのかと一度真は振り返ったが、それには珊瑚は頷きを返した。彼女は彼女で、静を抑えるのに注意を払っている。静を再び矢面に出すわけにもいかず、仕方なく彼はその役目を請け負った。
「ハナコ、お前も下がってろ。周囲の警戒は怠るな」
「……はい。任せてください」
真は傍らのハナコに声を掛けてから、腰に差した黒塗りの木刀にそっと手を添えて数歩前に進み出た。如月との距離は、十メートル程といったところか。近いようでいて、もう両者の間には埋めようもない溝がある。彼は気の遠くなる思いだったが、両脚に力を入れて前を見据えた。
「……あんた、どういうつもりで俺たちの前に出て来たんだ? 翼は何処にいる?」
「出て来てやったのは、ちょっとした親心だよ」
前半の問いに、皮肉な笑みを浮かべた如月が応じる。彼は真の後ろに並ぶ面々にも視線を移して、噛み殺したような笑いを零した。
「お前たちの中に、俺が何らかの理由があって裏切ってるんじゃないかと、まだ間抜けにも思っている奴がいるんだとしたら、その心配を失くしてやろうと思ってな。俺は、俺の意思で翼を攫ったし、最初からお前たちの味方でもねえ。そこだけは間違えるなよ」
「じゃあ、あんたはやっぱり、教団の……」
「ああ、そうだ。司祭だなんて呼ばれ方もしてたか」
認める如月の声には、一握りの感傷も未練も存在しない。分かっていたことではあったが、本人の口から聞くことで、その真実はまた重みを増すかのようだった。
「初めから、俺たちを騙していたのかよ。浅霧家に近付いたのも、全部あんたの計画だったのか」
「その通りだ。お前たちの父親、浅霧信とは退魔省のときの後輩でな。有能だったぜ。何事にも体当たりって感じでな。当時、退魔省に潜ませていた団員の炙り出しなんかも随分やられたもんだ」
そう言いながらも、如月の口調はどこか興じるような色があった。さりとて、それで笑いなど起こるはずもない。
「俺が早々に組織を引退したのは、このままだといずれ俺にまで辿り着きやがると踏んだのも一つの理由だな。だから、個人的に信は始末することにした。開業医なんてのを始めたのもそのためだ。そして、重要な役割を担ってくれたのが、もう一人」
もう分かるだろう、と如月の笑みが深くなる。真は激しくなる動悸を、両の拳をきつく握り締めて抑えるのに必死だった。
「それが翼だ。信が教団の拠点から連れ帰った孤児。あいつは役に立ってくれた。優し過ぎるのが、信の欠点だったな」
「――お前が親父殿を語るな! 下郎めッ!!」
激憤に駆られた静が怒鳴る。珊瑚の制止がなければ今一度襲い掛かられてもおかしくはない状況ではあったが、檻の中の猛獣でも見るかのように、如月の目には圧倒的な優越感が宿っていた。
「感情的になるなよ、静。でないと、あの日の夜みたいになるぞ」
「何だと!」
「お前が信を止めなければ、あいつは死なずにすんだだろうぜ。違うか?」
「――な……」
その問い掛けに、静の顔色は明らかに変わった。怒りに燃えていたはずの感情が、一転して青ざめたものに成り果て、言葉を失っている。
「静さん?」
静の変わりように、珊瑚が怪訝に眉を顰めた。如月は嘲るように一笑して、静から視線を外して真に向き直る。
「あんた、静姉の何を知ってるんだ。あの日の夜って……まさか」
「訊いてやるなよ、真。誰にだって隠しておきたい秘密の一つや二つはあるもんだ。ただ、そうだな。俺はお前たちの両親が死んだ日の出来事の、一部始終を見ていたってことだよ」
「見ていた……? 嘘だろ。あの時、あんたは家にいなかっただろうが!」
「俺自身の身体はな。だが、意識は在ったんだよ。ここまで言っても解らねえか? ちったあ考えて見な。お前たちが今まで得てきた知識を組み合わせれば、答えは導き出せるぜ?」
不意を突く謎かけに、怒りと混乱に埋め尽くされた真の頭では答えに至ることが困難だった。パズルのピースは全て用意された。挑むような如月の視線に焦りを植え付けられ、上手く考えることが出来ずにいる。
「――そんな……」
そうして、真が思考を鈍らせている後ろから、呆然としたハナコの声が聞こえる。解答にいち早く辿り着いたのは、どうやら彼女のようであった。
「ハナコ……、何か気付いたのか」
「は、はい……でも」
確信が持てないのか、その事実を口にするのが恐ろしいのか、振り返る真に、ハナコはくしゃりと表情を歪める。しかし、真の目に促されるように、彼女は恐る恐る自分の考えを口にした。
「……翼さん、なんですか。彼女の意識に、乗り移っていたんですか……?」
それは三組織の会談で、松枝という術者が行なっていたのと同じ発想だった。松枝はラオの配下の警備の男の意識を乗っ取ることで、自身がその場に居ない状態にも関わらず事を成そうとしていた。
ならば、松枝の上の立場である如月が同じことを出来ても、全くおかしくはない。そして、彼は自らの手を汚すことなく、浅霧家に惨劇を引き起こしたのだ。
「正解だ。やるじゃねえか」
ハナコが答えに至ったことが意外だったのか、如月は愉しげに声を躍らせ、両手を軽く打ち合わせていた。
「もっとも、俺がやったのは暴走の引き金をちょいと引くことだけだ。あとは、翼の意識の片隅で成り行きを見守っていただけだぜ」
如月は言いつつ白衣の内ポケットを探り、真の目の前に何かを放り投げた。それは、中身が空の注射器だった。
「翼を定期的に診察していたのは、あいつの記憶をある程度制御しておくためだった。薬と、気功による調整でな。教団のことや、あの夜のことを下手に思い出されても厄介だったからよ」
「…………そう、だったのかよ」
真はあまりの熱に目の前が眩んでいた。記憶が揺さぶられ、彼の両手にあの夜、翼を突き刺した感触が蘇ってくる。
黒い霊気を両目から滴らせ、口から泥のように吐き出しながら、最後まで翼は言っていた。
「お前だったのか……。翼はずっと言ってたんだ。助けてって……。全部……、全部、お前のせいかああああッ!!」
数分前に沙也を引き止めたことも忘れて、真は吼えた。冷静でなどいられるはずもない。それでも、身を引き裂かんばかりの激情が内側から迸る中、彼は辛うじて如月に襲い掛かることだけは留まっていた。
「翼はどこにいる! 絶対に返してもらうぞ!!」
抜いた木刀の切っ先を如月に突き付ける。一触即発の空気に、真の後ろの面々も彼を後押しするように、覚悟を決めた。
「いいぜ。答え合わせはこれで終わりだ。翼は、この島の中央にある施設に隔離している。連れて帰りたけりゃあ、好きにしな」
ただし、と如月は付け加える。
「もちろん、ただってわけにはいかねえ。お前たちには、実験に付き合ってもらうぜ」
その言葉を合図とするように、にわかに大気がざわついた。
「お前たち! 散れ――!!」
静が咄嗟に上げたであろう声が真の耳には届いていたが、その時にはもう手遅れだった。
周囲の景色が捩じ切られるように形を崩している。足場は掬われたように不安定になっており、まるでここに自分が居ないかのような空虚な感覚が四肢に広がっていた。
空間全体が歪んでいる。目の前に居る如月と紺乃の姿もぐちゃぐちゃに混ざり合った風景に溶けて、真にはまともに捉えることができなかった。
「取り戻したけりゃあ、越えて来な。記憶の枷が外れた翼が、お前たちと一緒にいたいと思えればの話だがよ」
ノイズが混じる如月の声が遠く響く中、混濁する世界の中に真たちは呆気なく呑み込まれた。




