02 「仮初の協力」
如月健一。浅霧家との知己であり、翼の主治医であった男。
今となってその老人の名前は、真の心に重く圧し掛かる枷となっていた。
彼が何故、此度の凶行に及んだのか。この場に至るまで幾度となく真は考えてはいたが、答えなど出るはずもなかった。
……違う。今回だけじゃない。
もう誤魔化さず認めるべきだと、頭ではとっくに理解している。初めから、全ては仕組まれていたと考えるのが自然な流れだ。
その『全て』が、何時からで――何処までのことを指すのかは、まだ分からない部分が多い。
真は奥歯を強く噛むことで、様々に混ざり合った感情を押し殺そうとする。それでも抑えきれない気持ちの発露として、彼の周囲で蒸気のように青白い霊気が立ち昇り始めていた。
「……押さえましょう、真さん」
汗を滲ませる真の肩に、たおやかな掌が触れる。落とされた珊瑚の冷静な声が、彼の意識を冷やす役割を果たしていた。
「すいません。もう、大丈夫です」
首を振り向かせて、珊瑚と目を合わせて頷く。声こそ冷えてはいたが、彼女の瞳は雄弁に、気持ちは同じだと彼に語り掛けていた。
ならば、ここで取り乱すような愚は犯すまい。
「あたしは、その如月って奴の顔も、あんたたちとの関係も詳しくは知らないわ。でもまあ、身内に裏切られたって意味じゃ、あたしと立場が似ているかもね」
前に向き直った真に、沙也が皮肉に口を歪める。真は何か言い返そうと口を開きかけたが、その前に彼女は彼から視線を外して、続きを促すようにラオを鋭く睨んだ。
「言いなさいよ。残りの敵を」
吐き捨てるような口調は、自ら言うことを忌避しているようだった。声に募らせる憎悪は隠されることなく、真たちを身構えさせるには十分な凄みを放っている。
ただし、ラオは口端に刻んだ不敵な笑みを崩すことなく、彼女の要求通りに先を引き継いだ。
「はい。滅魔省に所属する芳月清言、レイナ・グロッケン、フェイの三名も組織を離反し、如月に与していたとの報告を受けています。今、御自身で言われた通り、貴女の身内の方々です」
「ええ、そうよ。良く知っているじゃない」
淡々と事実を述べる姿勢がせめてもの救いだと、沙也は目を伏せて嘆息する。彼女の態度は、ラオの言葉が真実だと認めるものに他ならなかった。
「やっぱり、本当なのか……」
呻くように真は声を漏らす。如月のこともそうだが、語られた今の面々が同時に敵になったことについても、まだ現実味の湧かない話ではあった。
言葉の上だけで理解しろと言われても、やはり限度はある。
何より、芳月清言とレイナは、一時共闘した関係だ。思い返しても、二人が教団の手先を屠ることに躊躇いはなかったように見えたが、それさえも偽りだったというのか。
「例の会談の何処までが自作自演だったかは分かりません。しかし、お教えした方々が裏で糸を引いていたことは、間違いないでしょうね」
「ふん、過ぎたことはどうだっていいわ。これで分かったでしょう。問題は、これからどう動くかということよ」
これでようやく本題に入れると、沙也は身を乗り出した。
「あたしは清言から情報を預かっている。それを教える代わりに、あんたたちはあたしの目的のために力を貸しなさい」
「お前の目的? どういうことだ?」
「…………説明は任せるわ」
訊ねる真に対して、彼女は再び続きをラオに丸投げする。ラオはそれが自分の役割だと心得ているようで、説明を始めた。
「そうですね。沙也さんを保護させて頂いている経緯から、順序を追ってお話ししましょうか。以前、真さんたちと教団の拠点跡に赴いた際、同時に各組織もチームを組み、個別に調査に向かったことはお話しましたね?」
「……ああ。それで、後になって滅魔省のチームが消息を絶ったって聞いたが」
「その通りです。詳しい経緯は省きますが、捨て置くわけにもいかず、捜索は退魔省主導で行われました。そして、その末に負傷した沙也さんを見つけたのです」
そこまで聞いて、真は沙也を見た。露出している顔や足には傷らしいものは見当たらないが、手傷を負わされたのは見えない場所ということだろうか。
視線から逃れるように、沙也は鬱陶しそうに顔を背けて舌打ちする。一瞬、咎めるように空気が変化して、慌てて彼は目を逸らした。
「さて、当然ながら、沙也さんを見つけた我々は事情を聴くことになります。そこで、清言氏を始めとする三名の離反が発覚したわけです」
「まさか……。おい、負傷って」
真の問い掛けるような声に、沙也は答えなかった。その代わりに、ラオの言葉が続く。
「お察しの通りです。沙也さんは清言氏たちに追われ、命からがら逃げ伸びたということです」
「……不意打ちみたいなものよ。三対一じゃ、逃げるのが精一杯だったわ」
自らの名誉のためか、沙也は釈明にもならない台詞を呟く。
だが、そこで真はふとした違和感を覚えた。
「待て。お前はさっき、清言から情報を預かってるって言ったよな。それは、どういうことなんだ?」
ラオの口振りでは、清言たちは沙也の命を狙っているように聞こえた。しかし、沙也はその本人から情報を受け取ったと言う。小さな齟齬ではあるが、これは矛盾ではないのか。
「そこが、彼女の微妙な立場なところでしてね」
果たしてその疑問は織り込み済みだったのか、ラオは軽く肩を竦めた。
「敢えて清言氏は、我々への伝言係とするために、沙也さんを逃がしたのでしょう。ですが、ここでまた一つ疑問が生まれます。それをそのまま、鵜呑みにしても良いものかと」
示された疑問に、数秒の沈黙が降りる。それを沙也は当然と受け切っているようだが、真にとっては胸が悪くなる流れだった。
いったい、この短期間でどれだけの人を疑えばいいのか。疑心暗鬼に捕らわれるとは、このことだ。
「あんたは、こいつが持ってる情報を疑ってるのかよ。清言たちと同じで、俺たちを騙そうとしているって?」
「そこまで明け透けには言いませんが、百パーセントの確度をもって信ずるには足りないでしょうね。彼女は清言氏の血縁者です。微妙な立場というのは、その点ですよ」
庇い立てする気はなかったが、真の声は自然と低いものになっていた。ラオはゆっくりと沙也に目線を移し、なお続ける。
「彼女は自身では裏切り行為はしていないと主張していますが、それを証拠づけるものはありません。故に、嫌疑が晴れない限り、滅魔省は彼女の受け入れを拒否するという結論を出しました」
「――組織が、彼女を見捨てたというのですか?」
その台詞に反応したのは珊瑚だった。彼女は信じ難いと感情を言外に含ませているようだったが、それで事実が揺らぐことはない。
「見捨てるとは、些か語弊がありますね。滅魔省が沙也さんに課したものは一つ。汚名をそそぎたければ、清言氏らをその手で捕え、身の潔白を証明せよということです」
「馬鹿な……彼女一人に、それを成せと……?」
珊瑚が不審さを隠さずに言う。もはや無理難題というレベルの話ではない。見捨てられる方が、まだマシとさえ言えるのではないのか。
「……じゃあ、お前の目的っていうのは、清言たちを捕まえて組織に戻ることなのか?」
「そういうことよ」
沙也は端的に頷く。その表情からは悔しさが滲み出ており、本来ならば一人ででも立ち向かわんとする危うさが窺えた。
いや、ここで真が協力を拒めば、実際に彼女は一人でだって行くのだろう。一度交戦したことで、この少女の気性を真は理解していた。
彼女がやられっぱなしのまま、大人しく引き下がる性分だとは思えない。
「あたしの事情は、そんなところよ。もしも組織の指示を無視していれば、容疑を認めたとみなされて、いずれあたしを含めた清言たちの討滅の任務を誰かが受けるでしょうね」
口振りから察するに、猶予はそう長くはないのだろう。そして、滅魔省の本陣が事に乗り出すとなれば、如月と共にいるだろう翼の無事もまた、保障の内ではないということだ。
「その顔は理解したみたいね。あたしは清言たちを倒すため、あんたたちは妹さんを取り戻すために、力を貸し合う。悪い取引じゃないはずよ」
つまるところ、情報を彼女が握っている限り、どうあったとしても真たちに断る理由は作れないということになる。
しかし、もとより真に断る選択肢などなかったし、協力関係になれるのなら戦力も増す。確かに、悪い話ではない。
悠長に構えていられる時間がないのは、お互い様と言ったところだろう。
「ああ。分かっ――」
「お待ちください。真さん」
だが、真が了承の意を返そうとしたまさにその瞬間、彼の声は珊瑚によって遮られた。
彼女は隙のない表情で沙也を見据えている。その視線を受けて、沙也は不機嫌そうに瞳を上向けた。
「何、千島珊瑚。これは、あたしと浅霧真の交渉よ。あんたが口を出す権利はないわ」
「いいえ。同席を許された以上、私にも発言する権利はあります。あなたの事情には、まだ続きがあるのではないのですか?」
沙也の申し出に対して、珊瑚にはまだ懸念すべきことがあるらしい。視線を一切逸らすことなく、珊瑚は妥協を許さぬ声音で続けて問うた。
「何故、協力者が私たちである必要があるのですか?」
「――……ッ」
痛いところを突かれたのか、沙也の唇が微かに歪む様を真は見た。
「え……、でも、それは、翼さんのことがあるからじゃ……」
と、成り行きを見守っていたハナコが空気の流れが変わったことに困惑して、思ったことを口にする。しかし、彼女の疑問に珊瑚は首を横に振った。
「それは違います。翼さんのことは、あくまで私たち側の事情に過ぎません。本来、沙也さんが斟酌すべきことではない。違いますか?」
「……ええ、そうね。あたしだって、出来ることならあんたたちを頼りたくはなかったわよ」
珊瑚の質問を肯定するように、沙也は苦々しげに言葉を返す。その意味について、真は思考を巡らせた。
沙也は所属する組織から梯子を外されかけている状況。滅魔省の協力を得られるわけもなく、退魔省も彼女の提供する情報に懐疑的なところがある。
封魔省にしたところで、おそらく同じだろう。よしんば受け入れられたとしても、反目する組織相手に沙也が頭を垂れることはあるまい。
……だから、俺たちしかいないのか。
真っ向から沙也の情報を信じ、協力をしようという組織はいない。だからこそ、身内を攫われた真たちに目を付けた。
そして、唆したのはおそらく――
「ラオさん、あなたは沙也さんと私たちの仲介をすることで、彼女の情報の真贋を確かめようとしている。違いますか?」
次に、珊瑚の言葉の矛先はラオへと突き付けられる。疑いを向けられた彼は、悪びれた様子も見せずに、片側の口角を僅かに上げた。
「否定はしません」
「あっさりと認められるのですね」
「誤魔化す必要もありませんからね。我々組織側の思惑を知ったところで、貴方がたの取るべき行動に変わりはないでしょう?」
「あなたは……!」
眦を吊り上げて珊瑚はラオを睨むが、いかほどの効果もなかった。そして、それらのやり取り全てを、鼻白んだ風に眺めていた沙也が、仕切り直しと言わんばかりに口を開く。
「話の腰を折られたわね。ま、概ねそういうことよ。あたしの持つ情報が罠であることを警戒してかどうかは知らないけど、三組織は互いの出方を静観しているってところかしら? でも、あたしが選んだ理由は、あんたたちがただ都合の良い存在だからってばかりじゃないわ」
「どういうことだよ?」
「簡単なことよ。名指しで言伝を預かったってだけ。妹さんを取り返したければ、ここまで来いってね」
真は瞠目した。まさか彼女の握る情報が、ずばりその場所を指すものだとは思っていなかったためだ。
「もちろん、待ち構えられている以上、乗り込むとなったらこっちが不利よ。けれど、あんたたちは行かざるを得ない。それは、あたしも同じよ」
例え罠であろうとも、真たちは翼を救うためには行かなければならない。それは確定事項だ。沙也もまた、自らの立場のために清言を捕えなければならず、行かないという選択はない。
そして、おそらく三組織はその動向を裏で見張るつもりなのだろう。真たちが首尾よく事を進められるのならばそれでよし。でなければ、体よく囮に使い、あわよくば美味しいところを掠め取ろうという算段なのか。
「完全に、足下を見られてるってわけか……」
今回の各勢力の様相を思い描いて、真は自分たちの立ち位置を理解する。珊瑚が安易に了承の返事をしようとするのを止めた理由が、よく分かった。
翼を救うために沙也に協力するのだとしても、全てを理解した上で臨むことと、何も知らぬままに利用されることは大きく違う。
それは、会談の一件でも学んだことだ。
「わかったよ。俄然やる気が湧いて来た。俺はお前に、協力する」
自分たちは、誰かに操られる駒ではない。この戦いの決着は絶対に誰にも邪魔はさせないと、真は静かに闘志を燃え上がらせた。
「そう、分かってくれて嬉しいわ。千島珊瑚、御主人様はそう言っているけど、あんたはどうするの?」
「……真さんがお認めになられた以上、私に否やはありません。ですが、それとは別に、あなたのことを信ずるに足るとは思いませんが」
「いいわよ。余計な口出しをしないでくれるなら、あたしはそれで。あとは――」
思い出したように、沙也は真の傍らにいるハナコへ目を向けた。
「ハナコ……だっけ? あんたも、浅霧真に付いて行くんなら、覚悟はできてるんでしょうね?」
まさか話し掛けられるとは思っていなかったのか、ハナコはまじまじと沙也を見つめ返してしまっていた。しかし、すぐに彼女は正気を取り戻し、しっかりと頷いた。
「もちろんですっ。翼さんは、必ず助け出して見せます」
勢い込んで返すハナコに何を思うのか、短く息を吐いた沙也は改めて真を見据え、片手を差し出した。
「とりあえず、これで意見は一致したわね。仮初の協力関係だけど、よろしく頼むわよ」
「こちらこそ……だな」
真も応じて片手を伸ばし、沙也の手を握る。
「ああ、そうだ。俺からも一つ言っておくけどよ」
「何? まだ文句でもあるの?」
「そうじゃねえよ。お前が俺たちのことをどう思っているかは聞かねえが、俺は、一応お前のことは信じるぞ」
「は?」
唐突に向けられた言葉に虚を衝かれて、沙也は面食らった顔をした。
「少なくとも、お前は芳月先輩……姉さんに害を成すような組織に与するとは思えない。その信念だけは、信じるに値するものだと思っている」
彼女の姉、芳月柄支は一度教団に関する者に襲われている。何があったとしても、この少女はそこだけは曲げないだろう。そういう確信が、真にはあった。
「あっそ。ふん、何よ……好きにすれば」
握られた手を乱暴に振り解き、居心地が悪そうに沙也は腕組みをして顔を背ける。
その態度が、これまでのこちらを試すような強気な姿勢とは違うものであることに、真は内心頬を緩めて苦笑していた。




