25 「最後の案内」
それから、真とハナコが落ち着きを取り戻すまで、少なくない時間が流れた。
己の内面を曝け出してしまい、今更ながら二人の間には、何とも言えない気恥ずかしい空気が漂っている。とはいえ、真はハナコから離れるつもりもなかったし、ハナコもまた然りだ。
お互いに言葉は掛け合わず、くすぐったくも気持ちの安らぐような沈黙を共有しているのだった。
「さて、と」
しかし、このままここに留まり続けることをよしとせず、ついに真が口を開いた。
現実では二人を待っている人たちがいる。どれほどの時間が経っているのか感覚もあやふやであったため、早く戻るに越したことはない。
「それじゃあ行くか……と言いたいところだが、どうやって帰ればいいんだ?」
変わることのない魂の空間をぐるりと見渡す。直面した問題は、それだった。
試練を乗り越えれば自動的に戻るというような便利な出来事は起こらず、かといってどう脱出して良いのかも分からない。
「ハナコ、お前の魂だろ。何とかならないのか」
「そう言われましても。わたしも、勝手に連れてこられたようなものですし……」
真は空間ごと排出される形で、ハナコは案内人の手によって連れ出された。この場には二人とも半ば強制的に招き入れられていたため、帰り道など知りようもないことだった。
「それとも、まだ何かあるって言うのか? まだ、俺に何か言いたいことがあるとか」
「真さん。もしかして、意地悪で言ってます?」
「違うって。そいつは穿ち過ぎだぞ」
不審そうに睨むハナコに真は苦笑を返す。彼女に好き放題に罵倒されはしたが、それもこれも全て身から出た錆。厳粛に受け止めているつもりだった。
「本当ですかね……」
ハナコは懐疑的な視線を向けてはいたが、彼女としてもそれ以上は蒸し返したくない話題だったため口を噤む。
今の自分は、そういった感情が漏れやすくなっている。真に対する想いを隠し切ることができない人格なのだと、落ち着いたところで理解していた。
油断して開けた口から、何が飛び出してくるか分からない。今も彼のそばにいるだけで、胸の奥が妙にそわそわとしているのであった。
「――ふむ、まだ自制心の方が強いと見えますね。やれやれ、です」
「うぇ!?」
顔のすぐ近くで降って湧いた声に、ハナコはぎょっとなって振り向いた。彼女の肩あたりに、案内人が浮かんでいたのである。
自分の顔を少し幼くした幼女の姿。その存在は認識しているが、何の前触れもなく現れてもらうと、心臓に悪いことこの上なかった。
「また来たのかよ、お前は」
三度の登場に真はもう慣れたのか、驚きも少なに案内人へと目を向けた。
「ふふ、もう少し密室に閉じ込められた二人を観察していても良かったのですが、そうも言っていられなくなりましてね。最後のご案内に参りました」
「なな! 何を不穏当なことを言っているんですかっ。わたしと真さんは、そんな――」
そこまで言って何を口走ろうとしていたのか、思考に急ブレーキをかけて、ハナコは慌てて両手で自分の口を塞いだ。見れば、案内人は微笑ましそうに、どこか生温さを感じる笑みを口端に刻んでいる。
「はいはい。あなたの決断も全て見ていましたから承知していますよ。よぉく、分かっていますから、何も言わなくても大丈夫ですとも」
「~~~~~~」
ハナコは何か言いたげに唇をぷるぷると震わせ、瞳を怒らせた。しかし、そんな今にも沸騰しそうな彼女を鎮めたのは、真だった。
「その辺でやめとけ。最後の案内っていうのは、どういうことだ?」
「ああ、はい。そうでした。わたしとしたことが、ついうっかり」
彼女が自らの分身と口論しても傷口が広がるだけであり、見ていて愉快なものではない。真は二次災害で自分に火の粉が飛んで来ても敵わないため、横合いから口を挿んだのだった。案内人も、もとからそのつもりであるため、小さく舌を出して彼の舵取りに便乗する。
何故か恨みがましい視線をハナコから感じたが、彼は強い心を持って無視した。
「最後と言うのはそのままです。お帰りの案内です」
「ということは、本当にもう終わったってことでいいんだな」
「はい。なので、これ以上ハナコの心の中に居座られても面倒なだけですから、早いところご自身の場所へ帰って下さいな」
不意の毒舌に真は一瞬笑みを引きつらせたが、すぐに気を取り直して短く息を吐いた。
「用が済んで出て行きたいのは山々だが、帰り方が分からないんだ。案内してくれるのか?」
「ええ、お任せください。とは言っても、今回は道案内ではなくて方法だけお教えしますね」
ころりと気前よく笑い、案内人は答える。
「簡単ですよ。真さんが、意識を外に向けて帰りたいと強くイメージすれば良いだけです」
「そんなことでいいのか?」
「はい。今まで真さんは、ハナコの奥へと進むために意志を傾けていましたよね? ですから、その逆というわけです。自分の中に帰る意志を強くすれば、自ずと道は開けます」
そこで、彼女はちらとハナコに視線を移した。
「あなたも、お手伝いしてくださいね」
「え、わたしも?」
「そうですよ。魂の繋がりを通じて真さんは戻るんですから、あなたのサポートも必要ですよ」
当り前じゃないですか、と両手に腰を当てて態度で示す案内人に、気後れしたようにハナコが一歩後退りする。自然、彼女は真に寄り添う形となり、案内人はじとっと目を細めた。
「ちょっと。あなた、わたしの話を理解しましたか? 真さんを送り出すのに、くっついてどうするんですか」
「あ、いや、そんなつもりでは……」
「いいから、こっちに来てください」
ふんすと鼻を鳴らして、案内人は小さい体に見合わぬ迫力でハナコに手招きをする。ハナコは視線を彷徨わせた後、心細そうに真の横顔に目を止めた。
「ど、どうしましょう、真さん」
「どうしましょうって……お前。そりゃ、言う通りにしないと駄目なんじゃないのか?」
他に言いようもなくそう言うと、ハナコは明らかにショックを受けた風に仰け反っていた。案内人にこちらを騙す意図があるわけでもあるまいし、抵抗する理由などないだろうに。
「はい、おふざけもその程度にしましょうねー。あなたも、真さんをこのまま虜囚にして、永遠に魂の中で飼うことを望んでいるわけではないでしょうに。外に出ればまた会えるんですから、ぐずぐずしないでください」
「……わかりましたよ。ええ、わかりましたともっ」
何故か不機嫌そうに真に一瞥をくれてから、ハナコは彼から離れて案内人の隣に立つ。こうして並ぶと、年の離れた姉妹にも見えた。
「では、真さん。後はあなたの意志次第です。いつでも始めてくださって結構ですよ」
「ああ。分かった」
とはいえ、案内人の示した方法をはっきりと理解したわけでもないので、真としてはぶっつけ本番もいいところだった。
しかし、文句を言っても始まらない。ひとまず彼は瞳を閉じて、自身の魂へと帰還するイメージを思い浮かべようとした。
今、自分の肉体は如月診療所で眠っているはず。意志を魂へと戻し、目覚めるのだ。
珊瑚と凛。礼に静、翼。待ってくれている家族。そして、進、柄支、麻希――学友たち。如月にも随分と手間を掛けさせたに違いない。
真は、己の中に確たる光を感じる。その輝きは彼の不安をあっさりと振り払い、晴れ晴れとした高揚を心に与えてくれた。
この絆の光を手繰れば、間違いなく皆の待つ場所へと帰ることができるだろう。
そして――
「ハナコ。お前もちゃんと、出て来いよ。目が覚めて、またお前がいないなんて状況は御免だからな」
「分かっていますよ。子供じゃありませんから、ちゃんと帰ります」
目を開けてハナコを見つめ、真はからかうように笑みを作る。彼女は苦笑し、約束を違えることはないと、確かに彼の瞳をしっかりと見つめ返した。
「それじゃあ……行くか。そっちのハナコも、世話になったな」
心構えも十分にできたところで、最後に案内人の幼女に声をかける。彼女は、屈託のない笑顔で頷いた。
「いえいえー、とんでもない。もうお会いすることはないでしょうが、中々に楽しいひと時でしたよ」
と、そこまで言ったところで、唐突に何かを思い出したように「あ、そうでした」と、案内人は真の目を覗き込むように身を乗り出してきた。
幼い黒い瞳が、何やら悪戯めいた輝きに光ったように見える。真は思わず身構え、眉をひそめた。
「なんだ?」
「いえね。最後に大切なお話があるので、ちょっと耳を拝借させてくださいな」
とても大事な話です、と念を押しながら、案内人は真へとにじり寄るように近づいて来る。それだけで何か危うい雰囲気を感じたが、これが最後だと思えば彼女の願いを無下にすることも躊躇われた。
「ま、真さんっ」
取り残されたハナコに名を呼ばれる。しかし、屈んだ彼がその声に反応するよりも早く、幼女は軽く跳ねて彼の首周りに抱きついていた。
「えいっ」
頬に、綿のような溶けて消える感触。
見開かれた視界のすぐ近くには、幼い顔があった。
肉体的な縛りがないため、その行為は真似ごとに過ぎない。何をされているのか理解に及んだ真の脳裏に浮かんだのはそんな言い訳めいた理屈だったが、勿論そんなもの、視界の先で彼と同じく目を見開いている少女には通じるはずもなかった。
「な、なな、何をやってんですかあああぁぁーーーーッ!!!」
彼女の怒号をそのまま体現するように、空間が激震する。咄嗟に真は耳を塞ぎ、嵐が過ぎ去るのを待った。
「何と申されましてもねー。お別れの挨拶ですよ」
真の首から手を解いた案内人は振り返り、おかしそうに笑いを堪えていた。
「くふふ。自分に嫉妬なんてみっともないですよ、わたし」
「こ、この……!」
――騒々しいわね……。
そして、言い表せない感情を持て余して、ハナコが案内人に迫ろうかというときだった。
「え?」
「はい?」
突如として聞こえた謎の声。それは、真の――それも内側から響いて来たように思えた。
それは気のせいではなかった。真の胸の奥から溢れ出す霊気の光が、ゆっくりと人の形を成していく。
「まったく、おちおち眠ってもいられないわ」
若干赤味を帯びた黒い髪をふわりとなびかせて、現れた少女は片手を口に添えて欠伸をしていた。
ドス黒い血色の霊気こそ纏わなくなってはいたが、その異質な雰囲気は健在で、彼女がハナコの心の中でも特殊な存在であることが、十分に伝わってくる。
「お前……どうして」
驚きに固まる三人を尻目に彼女は真を振り返って、どこか蠱惑的な笑みを彼に向けた。
「あら、心外ね。わたしは、あなたに心を預けたのよ。消えたわけじゃないわ。まあ、こんな早過ぎる再会になるとは思わなかったけれど」
口元を綻ばせながら、少女は寄り添うように真の胸に手を添えて、顔を接近させる。思い掛けない事態に真は赤面し、石化が解けて残された二人が、泡を食って動き出した。
「ちょっと、あなた! 一度退場したくせに戻って来るなんて、ルール違反ですよ!」
「ルール? 案内人だとか言って、その都度何度も彼に会う口実を作っているあなたに言われたくはないわね」
「なんですとー!?」
真に密着したまま首だけ振り向かせる少女に、案内人が詰め寄る。ハナコはおろおろと彼女たちの様子を見ており、その威勢に気圧されて一歩踏み出せずにいた。
「ま、真さんっ。いつまでそうしているつもりですか!」
「あ、ああ……?」
ハナコの訴えに、ようやく真の頭は状況に追いつきを見せ始める。とはいえ、どうすれば収拾がつくのか、彼には皆目見当もつかなかった。
「悔しかったら、あなたはもう少し素直になることね」
そして、そんな彼をよそに少女たちのやり取りは続く。冷たい指先で真の頬から顎先にかけてなぞり、少女はハナコを流し見た。
「何なら、これから誰がハナコの表の顔になるか、ここで争ってみるのも面白いかもしれないわね?」
「ほう――」
「んな――!?」
少女の投下した爆弾に、場が一瞬凍りつく。だが、流石にそこまでだった。
「いい加減にしろよ。そんなこと、許してたまるか」
げんなりと息を吐き、真は少女を追いやるように手を振った。じろりと彼に睨まれて、彼女は含みを持たせた笑い声を零す。
「酷い人ね。わたしたち、全員がハナコなのよ。贔屓をするというの?」
「当たり前だろ。それとこれとは話が別だ。俺は――」
一番遠く離れ、心配そうに見つめてくるハナコへと、真は顔を向ける。
「こいつを取り戻しに来たんだ。そこがぶれたら、何のためにここまでやってきたんだって話だろ。それくらい、お前らだって分かってんだろうが」
真顔で反論する彼の弁には、異論を差し挟む余地はなかった。それを聞いた少女と案内人の顔には、一様に安堵の色が窺える。
「ええ、そうね。後の問題は、あの子があなたの気持ちをちゃんと受け入れる覚悟を持てるかどうか、なのだけれど」
「ほんとにほんとに。世話の焼ける子ですよ、ハナコは。ま、自分なんですけどねー」
「……その辺で勘弁してくれ。俺はそれで良いって決めたんだ」
どうやら二人はハナコの出した結論に、不満がある様子だった。真の気持ちを完全に受け入れきれない態度にもどかしさを覚えているのか、その目には詰るような気配がある。
しかし、真は首を横に振って二人の言葉を跳ね退けた。それに、他ならぬ二人がそう思っていてくれているという事実が、可能性の芽が全くないわけではないという証左だろう。
それだけ分かれば、十分だ。
「あははー、そうですね。良かった。真さんは分かってくれているようで、安心です」
「そう言われると、仕方ないわね。少し妬けるけど。――ねえ、ハナコ」
少女は黙りっ放しのハナコに呼びかけ、こちらを見るように目で促した。ハナコは驚いて彼女に目を向け、視線を交わらせる。
「彼に免じて引いてあげるけど、これだけは言っておくわ」
そして、一切の甘えを許さない、叱り付けるような厳しい声で彼女は宣告した。
「わたしを負かしたんだから、中途半端は許さないわよ。どんな形にしても、悔いだけは遺さないようにしなさい。それが、わたしたちにとっての最低条件よ」
「……はい、約束します。後悔はしません」
「ふふ、良い返事ね。信じるわよ」
目を逸らさず、決然と返された言葉に少女は満足そうに頷くと、真への抱擁を解いて案内人の脇を抱えるように持ち上げた。
「はわ! ちょっと、何すんですか!」
「煩いのがいたら、いつまでも終わらないでしょ。ハナコ、ちゃんと真さんを帰すのよ」
真とハナコに軽く目配せをする少女と、抱かれた案内人の気配が希薄になる。まだ何か言い足り無さそうに、案内人は少女の胸で何事かを喚いているようだったが、その声も徐々に遠くなり、やがて霊気の粒子を余韻として消え去った。
結局、残ったのは二人だけ。最初の状態に逆戻りである。
「……それじゃあ、また後で、だな?」
しんみりとなりかけた空気をほぐすよう、肩を竦めて口端を持ち上げる真に、ハナコは微笑した。
「はい。また後で、です。あ……でも」
「なんだ? お前まで、何か言い出すんじゃないだろうな」
「いえ……その。もう! 意地悪を言わないでください」
少し頬を膨らませて真を睨むと、ハナコはおずおずと両手を広げた。真は頬を指で掻きつつ、「やらないとダメか?」と言葉にはせずに、目で問い掛ける。
「彼女たちだけなんて……ずるいです」
ふいと拗ねた様子で視線を逸らす彼女に苦笑して、真は観念して歩み寄る。一息胸に吸い込むと、広げられた彼女の両腕の下に自らの腕を回した。
「えへへ……」
ハナコも彼の肩に、はにかんだ顔を寄せるようにして、広げた腕をそっと彼の背中に触れさせる。実体がないため強く抱き締め合うことはできないが、その行為だけで彼女の心は満たされた。
繋がった心の糸が二度と解けないないように、二人は心に互いの存在を沁みこませるよう、しばらくそうしていた。
やがて、意識と身体は溶け合うように、微睡みの中へと消えて行く。
魂で約束した事が、夢でも幻でもないことを確かめるために、二人は現実へと帰還した。




