22 「消せない想い」
――――――……。
――――……。
――……。
……。
落ちている。
底なしの暗闇の中へと、落ちていた。
ただ、ゆるやかに沈んでいく感覚以外には何もない。
全身に絡みついていた泥は消え、清らかな水の中にいるようで、何の抵抗もなく落ちていく。
心が、抗うことを諦めようとしていた。
(無理……だったのか?)
摩滅した魂が、ゆらゆらと揺れながら落ちていく。
(抗い……切れなかったのか?)
闇よりも濃い、無数の昏い眼差しが、落ち逝く魂を見つめている。
(俺も……ハナコに繋がれた魂と、同じ末路を辿るのか?)
彼らの眼窩には何もない。両目は洞で、その中にあるのは虚無でしかない。
水底には、朽ち果てた魂の残骸が広がっている。
死が、そこで待っているのだ。
(待て……よ……)
意志は叫べと身体はない。
(俺は……まだ……!)
どれだけ喚こうとも、応える心が死んでいる。
彼が、居並ぶ『彼ら』と同化するのに、もう幾らの猶予もない。
擦り切れ、輝きを失った彼の魂は、枯れ葉のように暗い闇を舞い落ちていく。
そして、どれほどの時間が流れたかも判然としないまま、落下は停止した。
止まりはしたが、ここが底ではない。積み上がった残骸の上に、彼の魂は空っぽの中身を曝け出すように転がった。
肉体を失い、感じるのは凍てつくような闇のみ。
ここは、酷く寒い場所だった。
「ひとつに……なりましょう」
不意に声が闇に反響したかと思うと、熾火のような血色の少女が、残骸の上で横座りになっていた。
驚くほど穏やかに、彼女は仲間として彼を迎え入れようとしている。
あれほどまで苛烈に、生者を憎む絶望に歪んだ感情は、消え去っているかのようだった。
(一つに……なるだと……)
それはすなわち、積み重なっている屍の一部となり、魂ごと彼女の中に閉じ込められるということか。
「そうよ。そうすれば、今度こそあの子も生きることに諦めがつくでしょう。それに、大好きなあなたと永遠に一緒にいられるのだもの。本望でしょう?」
彼女は目の前に転がった彼の魂をそっと拾い上げ、目を細めて微笑んだ。
「もう分かったはずよ。あなたが見つけるべきあの子の記憶なんて、最初からなかった。解決するべき心残りなんて、何もないのよ」
少女がかつてどのような人格だったのか。何に喜び、何に怒り、何を哀しみ、何を楽しんでいたのか。
その答えが、屍の山なのだ。
掬い取るべきものなど、何もない。
故に、何をもって救えるのかさえ分からない。
あまりにもやり切れない。こんなことがあっていいのか。浮かばれないにも程がある。
「さあ、満足したでしょう? もうあなたが、わたしたちのために心を砕く必要なんてないわ。わたしたちは、このまま静かに消え去りたいだけなんだから……」
少女の口元が歪む。瞳の奥に、ぱっと感情の火が点いたような光が宿った。
「あなたが、わたしたちと一緒にいる意味はもうないわ。あなたが必死になることなんて何もない。だから、ねえ……約束を果たしてよ」
哀願するように、少女は目を伏せて死にゆく心から祈りを捧げる。
(約束……)
少女の姿は霧のように掻き消えて、彼女の手から離れた彼の魂は、再び残骸の上に落ちて転がった。
――それができないなら、今すぐ消えて……。
遠く、儚い声を残し、少女の気配は闇の中へと去って行く。
(それが……お前の、望みなのか……)
取り残された魂にこびりついた意識の残滓で、彼は思う。
ここが少女の終着点。全ての輝きが消え果てた、魂の墓場。
繋がっているからこそ、消え去りたいという願いが真実であるということが、分かってしまう。
彼自身、その死を浴びてこの有様だ。
こんな記憶を持ったまま生きることに、何の意味があるというのだろう。
(だったら……いい、のか……)
このまま、この世界を受け入れてしまってもいいのか。
少女を今日まで生かしてしまい、残酷なだけの真実を突き付けてしまった、その責は彼にある。
ならば、ここで彼女と一つになり、最後まで共に居続けることは、そう悪くないことなのかもしれない。
魂が消えて無くなる、その日まで。
彼女を止める資格など、彼には最初からなかったのだ。
(――……ッ! そんなの……いいわけねえだろうが……!!)
しかし、魂の奥底から突き動かされるように、彼の思考は弾けていた。
こんな結末を受け入れられるはずがない。
たとえ、少女がそれを望んだとしても、自分だけは抗わねばならないのだ。
この繋がった死に損ないの魂が、彼女を求めている限り、彼は行かなければならない。
――……。
なぜなら、聞こえるのだ。
摩耗した意識では、もはや彼は自分自身が何者かさえも考えられない。
それでも、気付けば歩くための足が生まれていた。
――ないで……。
生まれた立てのおぼつかない足取りで、彼は死の海を歩く。
朧な肉体は微細な粒子を漂わせ、不安定に揺れている。形は曖昧で、動かすだけでやっとだった。
闇は、静かに彼を見ていた。
たとえ微かに残った残滓で肉体を得ようとも、食い尽くされた彼の魂はもう死に体だ。ここから自力で這い上がることはできない。
その命が、風前の灯火であることに些かの変化はない。
後はただ、世界に取り込まれるのを待つしかないのだ。
それはもう、彼とて本能で理解しているはずなのに。
――いかないで……。
声が、やまないのだ。
魂の奥で燻るように囁かれている声は、彼の意識が闇に削ぎ落とされるごとに、はっきりと聞こえるようになっていた。
(……お前は、誰だ……)
その声が誰のものだったかさえも、彼は判別できなかった。
だが、心が無言で応えようとしている。その先に何かがあるのだと、衝動に駆られるままに、本能が彼の足を動かしていた。
――て……いかないで……。
やがて、彼は立ち止まった。
周りの景色は変わらず闇一色で、足下には積み上がった残骸しかない。
しかし、ここであるという確信があった。
彼は残骸の上に膝をつき、爪を立てる。
(ある……はず、なんだ……)
そこに何があるというのか、一心不乱に彼は掘り続けた。
枯れ果てた魂と骸に硬さはなく、弱り切った彼の薄れた身体でも容易に掘ることはできた。
だが、掻き分けた先から出るものは、闇の水をより濃く染み込ませた屍ばかりだった。
一つ掘る度に色は強みを増し、静寂であった世界に悲鳴が響き渡る。
己の死を突き付けられた者の、嘆き、哀しみ、怒り……そうして、ようやく終わるのだと言う、諦めにも似た喜び。
突如掘り起こされた『彼ら』は、純粋な怒りを彼にぶつけた。それは当然だろう。穏やかに眠っていたはずのところを起こされ、最期に味わった感情を喚起させられたのだから。
それでも、彼は一つ一つ残骸を取り除き、掘り続ける。
進んだ道は端から閉ざされ、彼はもう残骸の山の中へと埋もれていた。戻ることは叶わず、闇の底へ底へと沈んでいく。
もはや掘っているのか、落ちているのかも分からない状態のまま、夥しい黒い激情に曝されて深い場所へと落ちていく。
ただ前に進む。それ以外の意識はもう削り取られていた。しかし、彼がまだ消えずにすんでいられたのは、魂の奥から滲むように湧き上がる輝きのお陰だった。
闇の中でなお、彼を守るように内側から照らしてくれる、生きた光。
そこから発せられる声が、何より彼の魂を震わせるのだ。
――置いて……いかないで……!
(……あぁ、見つけたよ……)
淡い輝きを散らして擦り切れそうな指先に、温かな熱を感じる。それは残骸の果てに埋もれ、今にも消えそうになりながらも、懸命に瞬きを繰り返していた。
両手を皿のようにして、彼はそれを掬い上げた。
ひび割れ、砕けた魂の破片。
幾多の死を経ても、残骸を築き上げて埋め尽くされても、輝きは魂の底にあったのだ。
欠けた魂に、意志などない。とっくに使い切られた中身に、かつての彼女を示すものが皆無であることに変わりはない。
だが、それでも。
彼女が最期に残した想いの残光は――彼を支える輝きと同じものだ。
(お前の願いは……ここに、ちゃんとあったぞ)
その想いに触れた瞬間に、彼の意識と彼女の想いの歯車が噛み合った。
再び色を取り戻した、浅霧真の意志が起動する。
「あぁ……そうだ。俺は、一人で生きているわけじゃ……ないんだったな」
たとえ浅霧真の意志が死んでも、この魂に宿る想いは一つではない。
まったく呆れてものも言えない。何度同じことを気付かされるというのか。
救いに来たつもりが、救われている場合じゃないだろう。
真は手にした魂の欠片を、己の胸に押し当てた。それは、彼の魂に宿る彼女の意志と融和し、目映い光を彼に与えた。
「俺も同じだ……。俺も、お前と一緒に生きたいんだ」
死など、潔く受け入れてやるものか。
「俺は、あいつに会わなきゃいけないだよ……! 道を……開けろおおおおッ!!」
死の底で、迸る生きた咆哮が光条となり、突き上げられた燃え立つ意志の柱が天を貫く。
その眩しさに、世界が揺れた。
真は噴き上がる光の中へと飛び上がり、世界から浮上する。蠢く世界は彼を妬ましげに、恨めしそうに見つめていたが、その光に触れることはついになかった。
◆
「――――ッ!!?」
泥の上に身を横たえた少女は瞠目し、己の下腹部を見つめた。
あり得ないものが脈動している気配がする。確かに食らったはずの彼の意志が――魂が、喚いていた。
「あ……あぁッ!!」
少女は、己の纏う闇を穿つ閃光を見た。
彼女の叫びは瞬時に輝きに呑み込まれ、血色の霊体が四散する。その中から飛び出してきたのは、青白い空のような輝きを従えた浅霧真だった。
彼を覆うその光に、闇の獣たちは怯み、潮が引くように泥が逃げていく。
「どう、やって……!?」
散り散りになった霊気を再構成し、少女が血色の闇を振り乱して叫んだ。
泥に呑まれた彼の意志は、確かに消えかけていたはずだ。そこに寸毫の余地もなく、感情でどうにかできる問題ではなかったのだ。
では、何故彼は生きている。肉体の再生のみならず、彼の中から溢れ出す生命力に漲る力はなんだというのか。
「簡単だ。これは、ハナコの力だ」
むしろ、何故お前が分からないのかと、真は少女を見据えて言い放った。
「ここはハナコの魂だ。そして、俺はあいつと繋がっている」
「まさか……あの子が、力を貸しているというの!?」
少女の顔に疑念が満ちるが、彼の復活の原因はそれ以外には考えられなかった。それこそあり得ないことだと思いながらも、そうとしか説明がつかず、彼女は唇を噛み締める。
「嘘よ……! あの子は今……あなたを受け入れられるような状態じゃないのに……!」
「ああ、そうだな。けど、俺はもうあいつから貰ってるんだよ」
「え……」
「始まりの――俺と最初に出逢ったときのハナコから、生きたいという意志は貰ってたんだ」
それが、この魂から溢れる輝きだ。浅霧真に取り憑き、刻み込んだハナコの願い。
全てを食い尽くされ、失って、死に奪い尽くされても、それだけは残っていたのだ。
ならば、それで十分だ。たとえ千であろうと、万であろうとも――数多の死が襲いかかろうと、問題ではない。
「この命は、あいつが照らしてくれる限り、いくらでも取り戻せる」
彼女が生きたいと願う限り、この身体などいくらでもくれてやろう。自分はただ、ひたすらに前を向いて進めばいい。
胸に宿った光が教えてくれる。それを頼りに、真は己の姿をイメージする。たとえ幾度殺されようとも、ハナコの魂が彼の姿を――意志を知っている。
彼女の魂が力を与えてくれる限り、この身は不滅の炎となって刹那を駆け抜けよう。
「残念だったな。あいつが導いてくれる限り、俺は……何度殺されたって戻って来れるぞ!!」
「――ッ! 血迷ったわね! 勝てないと、十分に思い知らせてあげたっていうのにッ!」
霊気を逆立たせた少女は、狂ったように渦巻く泥を従え、真を凄まじい勢いで睨みつけた。彼は彼女の激憤を正面から受け止め、右手をかざす。
その手には、霊気で編まれた小ぶりの得物が発現していた。手に馴染むそれは、彼が愛用する木刀の形に近い。
「来い、ハナコ。今度こそ、お前を受け入れてやる。それでも俺たちの意志が倒れなかったのなら、そのときは、あいつに会わせろよ」
「……ッ! いいわ……! 調子に乗ったことを、後悔しないことねッ!」
一つの魂の中において、二つの異なる意志が火花を散らす。少年と少女は、それぞれが抱える譲れぬ想いを振りかざし、激突した。




