20 「嵐の中で」
白い空間の中に照らし出された光の道を、真と案内人は進んでいた。
時間の感覚は、とっくになくなっている。ただ、ひたすらに前に進んではいるはずだが、果たして前に進めているのかも、今となってはあやふやだった。
右も左も、上も下も、景色に変化は見られない。虚無とも思える冷え切った世界の中で、足元の光だけが、唯一の拠り所となっている。
この道を疑えば、その時点でこの空間から弾き出されることだろう。
目の前の小さな背中も、迷うことなく、疲れを知らぬように進み続けている。
もっとも、彼女の場合は自分の心の中であるのだから、迷う必要などないのかもしれないが。
「――ハナコは」
そして、彼女はときおり思い出したように言葉を発し、ちらりと首を振り向かせて真を見上げて来る。
「あなたと一緒に過ごす内に……疑問を抱くようになりました」
「…………」
光の道は、ハナコが真を受け入れようとする心の表れだという。彼をより、深くへと導くための道標。
それを証拠づけるように、真は道を進むにつれ、自分のものではない感情が心に流れ込んで来るのを感じていた。
――なんだ……。あなたは、ちゃんと想われているんじゃないですか。
最初に感じたのは、嫉妬だ。
生きることに対して執着の薄れていた少年。いったい、彼がどうしてそんな思考を得ることになったのか、少女は疑問に思うった。
もしかすると、彼は自分と同じく孤独な身なのだろうか。
だが、少年を取り巻く環境はそうではなかった。彼には、きちんと帰る場所があり、彼を想い、待ってくれている人がいた。
千島珊瑚。
少女よりも前から、少年とともに過ごしてきた女性。
彼女は、少年の家族だった。その情の深さと重さは、少女と比べるまでもないことだった。
女性としても、自分よりも遥かに魅力的だと思われる珊瑚の存在。
どこの馬の骨とも分からぬ霊を受け入れ、それどころか少年を救ってくれたと感謝さえもしてくれたこの女性に、少女は戸惑った。
それは珊瑚にというよりも、少年に対する感情だ。
珊瑚が少年のことを心から案じ、想っていることは、少女にも簡単に読み取れることだった。
ここまで想ってくれている人がいるというのに、何故、この少年は自分の命を蔑ろにするような真似ができたのか。
理解ができない。
この憤りは、持たざる少女から、持てる少年への嫉妬であった。
「つまるところ、贅沢なんですよ。あなたは」
苦笑を伴いながら、幼い瞳がからかいの色を含み、真を詰る。
「あぁ……。珊瑚さんには、いくら感謝しても足りないくらいだ」
その当時、少年は自分のことしか考えられなかった。
いったい彼女の優しさにどれほど甘え、迷惑をかけて来たのか、計り知れない。
それは、今も変わっていないのかもしれないが……。
――お知り合いも、増えましたよね。
そして、少年を案じるのは珊瑚だけのことではない。
凪浜市開発区における封魔省との遭遇。その現場において、彼は芳月柄支を助け、彼女の友人である古宮麻希とも縁を深くした。
ただの上辺だけの付き合いであった、新堂進とも分かり合えたことで、少年を取り巻く環境は、大きく変わっていった。
――わたしを救ってくれたように……。
誰かを救うこと。それはきっと、少年にとって特別なことではなかったのだ。
例えそれが、何かを救えなかったことへの代償行為だとしても、彼は己に関わることで、危機に陥った者を見過ごすことはできやしない。
だから、少女は思う。自分は、何も少年にとっての特別ではないのだと。
少年には、彼を想ってくれている人たちがちゃんといる。彼はその人たちと、生きるべきなのだ。
死者が生者を縛り付けることは、間違っている。そんな当たり前の理屈に、今更ながら少女は気付かされた。
今は、少年の隣に並んで、彼に付いていけている。けれど、いつか自分は消えなければいけない。
この身は、たまたま、彼の現実に割り込んでしまっただけの存在なのだから。
――わたしは、あなたと共にいるべきじゃないんですよね。
そんな少女の気持ちは、次に訪れた事件において、より強くなっていった。
「滅魔省との戦いで、ハナコは霊気を消耗しすぎた結果、一時的に姿を表に出せなくなりましたよね」
「……そうだな」
それは、彼女の心の奥底に潜む『死』を、少年が初めて目の当たりにした時だった。
表層の少女が薄れ、少年自身が死の淵に瀕したとき、彼女の魂はその本性を剥き出しにする。
完全に打ち勝ったとは言えない。けれど、少年はそのとき、確かに少女を取り戻した。
――生きろって言ってもらえて……嬉しかった。
少女が自分の内側にある、少年に対する浅からぬ想いに気付いたのは、きっとそのときだ。
彼のことを思うと、胸の奥が温かくなり、満たされる。
こんな気持ちを、きっと幸せと呼ぶのだろう。
でも、だからこそ、他の想いに対して気付けることもあった。
この戦いの中で、少年の魂と繋がった――もう一つの彼を想う心の存在。
少女の自惚れでなければ、きっと、それは同じ形をしている気持ちだ。
――ちょっと悔しいですけど、安心しました。
これなら、いつ別れの時が来ようとも、問題はない。
後は、ほんの少し、もう少しだけ、少年が前を向いて生きることを考えてくれれば、それでいい。
この気持ちは、この身体には過ぎたもの。抱けたことが、奇跡のような出来事だ。
あなたには、生きていて欲しい。
だから、どうか……。
「どうか……わたしを救わないで」
案内人の足は、そこで止まった。
光の道は途切れており、その先は、一言で表すならば断崖絶壁だった。
地平の先まで続く白い空間は、この地点で分断され、眼下には赤と黒が歪に混じり合う巨大な渦が広がっている。
少女の魂が救済されれば、少年の魂は再び死に至る。
それでは、少女の望みは叶わない。
彼がちゃんと、少女の魂を必要とせずとも生きていける方策があるのなら、そのときは潔く消え去ろう。
けれど、今はまだ、そのときではないはずだ。
「あなたは、あなたを想ってくれる人たちを裏切らないためにも、命を簡単になげうってはいけないのです」
少年には家族がいる。友人がいる。彼を大切に想ってくれる人が大勢いる。
そして少年もまた、彼らをきちんと想っている。
少年のことを知れば知るほどに、少女はその気持ちを強くしていった。
――ねえ、引き返すなら今しかないですよ?
「……だから、言ってんだろ。今更だって」
真は流れ込む気持ちに対し、返事をした。
――だって……この先に進めば、もう止まれない。
「もとから、止まる気なんてないからな」
崖の先へと踏み出し、吹き荒ぶ感情の嵐を臨む。その刹那、崖下から巨大な黒い暴風が彼の顔面を打ち付け、耳を引きちぎらんばかりの唸り声を上げた。
放たれる明確な拒絶の意志に、真の脳髄は揺さぶられる。しかし、それすらも心地よいと彼は笑った。
少年から少女に言えることがあるとするなら、一つ彼女の考えには抜けているところがある。
少年には、彼を大切に想う人がいて、彼もまた彼らを大切に想っている。
その考えは正しいが、それは少女にも同じことが言えるのだ。
少女の存在を知った者は、皆、等しく彼女のことだって大切に想っている。
そこに生きているだとか、死んでいるだとかは関係ない。
いや、少年にとって、少女は間違いなく生きた存在なのである。
ならば、命を賭けてでも、救って当然ではないか。
「ここから先を案内することは、わたしにはできません」
もはや真の覚悟を問い質すこともせず、案内人は彼を振り仰いだ。
「飛び降りれば、後は落ちるだけです」
「ああ、わかった……。また、お前には会えるのか?」
「この先の『彼女』が、あなたを認めれば……それも十分考えられますかね」
「そうか。なら、別れの挨拶はいらないな」
「ずいぶんと自信満々ですね。一度会ったことがあるから知っているでしょうが、『彼女』は甘くはありませんよ」
――本当に……行くの?
「わかってるよ。だから、乗り越えて見せる」
――わたしは、あなたを殺してしまうかもしれないんですよ?
「お前に殺されるほど、軟な鍛え方はされてねえよ」
もう一度、真は絶壁を見下ろす。
ここから先、今までのような甘い感情は絶無だ。
赤々と、黒々と蠢く地獄の窯。さらにそこへ行き着くまでの間には、無間の嵐が生贄を噛み砕かんと牙を剥いている。
飛び降りれば、死は確実。
だが、それでいいのだ。
少女に辿り着くために、少年は死なねばならない。
その覚悟が、この場では問われている。
「またな。案内助かったぞ」
「……ご武運を」
笑いかける真に、案内人は短く頷く。彼が踏み出そうとするとき、彼女は顔を悲しげに歪めたが、もう彼の身体はその場から飛翔していた。
「――――――ッ!!」
そして、真の全身は一瞬にして粉々にされた。
声を上げる暇などない。
荒れ狂う風に全身が穿たれ、毟られた箇所から零れた血液が霧散する。皮が剥げ、筋肉が解かれ、骨まで残らずこそぎ取られる。
耐えて見せるだと。馬鹿な。これはそんな次元で語れるものではない。
考えるための頭はコンマ数秒で吹き飛ばされている。司令塔を失った肉体は痛みの信号を発する前に肉の塊と化していた。
「…………ァアッ!!」
だが、それでも真は思考の残骸を繋ぎ止めていた。それを可能としているのは、ここが心の中であると彼が理解していたからである。
あくまでも、ここは精神の内側。意識は本物だが、肉体は仮初に過ぎない。
しかし、意識が本物である以上、感じるものもまた本物になり得る。
逆を言えば、意識を繋ぎ止めてしまったがために、彼はその身に受けるあらゆる激痛を感じることになっていた。
風に嬲られながら、真の魂は落ちていく。
意識はあり、心が保つ以上、肉体は再生する。再生した端から身体は吹き飛び肉片が滓となって飛び散っていく。
彼が先を求めれば求める程に、風の抵抗は激しくなる。
伸ばした手は瞬時にへし折られ、引きちぎられた。少女の名を叫ぼうと口を開けば、喉を穿たれ顔が消し飛ぶ。
死という暴力をひたすらに叩きつけられ、自分の身体の原型さえも思い出せぬまま、真は落ちた。
そして、不意に風が止む。
嵐は過ぎ去ったが、落下は続いていた。再生した視界で真は下を見て、息を呑む。
眼前には、一面に赤と黒に渦巻く、マグマのような底なしの沼があった。その表面のそこかしこが盛り上がり、夥しい数の汚泥に塗れた手が伸ばされている。
まるで、救いを求めるように。
真は全身のあらゆる箇所を掴み取られ、瞬く間に沼の中へと引きずり落とされていた。
渦に呑まれ、触れた途端に肉体は焼け焦げ、溶けだしていく。呼吸など考えるだけ無駄だ。肉体は再生する間に毟られ、食われ続けていた。
肉体を留めておくことすらままならない。剥き出しの魂から輝きを迸らせながら、真は必死で手を伸ばすイメージをした。
意識を切らせば――その時点で心が壊れる。
「――ふふ」
その彼の足掻きが、果たして功を奏したのか。
真は死の熱が暴れ狂う中で、そんな涼しげな笑い声を耳にした。
「本当に飛び込んで来るなんて……やっぱり、あなたはバカなのね」
彼の魂を見つめる瞳は闇に染まっている。全身を覆うドス黒い血色の霊気は、破滅的な印象を彼女にもたらしていた。
しかし、横に引き裂いた冷笑を浮かべる顔は、間違いなく少女のもの。
「こうして面と向かうのは、これで二度目ね。真さん?」
そう――ここより先は、彼女の領域。
今の人格が生まれるまでに、積み重ねられた幾多の死により形成された、もう一人のハナコだった。




