19 「暗影」
「ここが、診療所ですか」
新堂進は、初めて訪れることとなった二階建ての白い建物を見上げて、そんな風に呟いた。
田舎の畦道を抜けた先にある、如月診療所である。
「ああ。そうだ」
彼の言葉に短く答えたのは、浅霧静だった。その彼女の隣には翼がおり、義理の姉妹二人は手を繋いでいる。
進はちらりと静の横顔を盗み見る。彼も決して背は低い方ではないが、自分よりも長身の女性を見上げることに、微かな奇妙さを覚えた。
「出るときもそうでしたけど、気乗りしていないみたいですね」
診療所を睨むように見る静の眉間には、薄く縦皺が刻まれていた。なんとなく、彼女とこの診療所の老医師とは反りが合わないことを、進も薄々とは感じていたのだが、根は深いのだろうか。
「いや、すまないな。私のことは気にするな」
進に突っ込まれ、しかめっ面の己に気付いた静が、ふと表情を和らげる。翼にも軽く笑いかけた彼女は、妹の手を引き診療所へと歩き出した。
真が如月診療所に入院し、既に三日が経過していた。
山奥にあった無色の教団の拠点跡で回収された遺体の身元についても、芳しい成果はあがっていない。浅霧家の面々は、悪戯に時が過ぎてゆくのに身を任せている状況にあった。
そして、この日彼らが診療所を訪れたのは、真の様子を見ることと、翼の定期受診のためである。
いつもなら翼の引率は凛の役目なのだが、一応の警戒ということで、戦える者がそばに居た方が良いという人選だった。
珊瑚も候補の一人ではあったのだが、彼女は今、診療所の中にいる。
結局、初日は日帰りで家に戻って来た彼女だったのだが、翌日再び診療所へと赴き、その日の内には戻ってこなかった。
無断外泊である。
そういうわけで、この日の静は妹の引率と、弟の見舞い、そして珊瑚の出迎えという三役を課せられていた。
弟の礼は、「姉さんにしかできないことなんですよ」などと言っていたが、単に人手が足りなく、普段暇を持て余している姉に目を付けただけの話である。まったくもって、極端な仕事の割り振り方だった。
診療所に行きたいですと顔に書いてあった凛については、可哀想ではあるが黙殺した形になる。静も可能なら代わってやりたかったが、状況が許さないのだからこればかりは仕方がない。
とりあえず、まずは昨夜無断外泊をした珊瑚に一言文句を言ってやろうと、静は診療所の正面玄関から中へと入った。
「おい! 爺! 来てやったぞ!」
午後は休診のため、既に院内に人影はない。入る前はだいぶ渋っていた静ではあったが、一度足を踏み入れると遠慮なく大声をあげ、大股で白い廊下を進んで行った。
病院独特の薬品の臭いが漂う院内を見回しながら、進も彼女の後を追う。翼も姉に手を引かれながら、小さい身体を懸命に動かしていた。
そして、再三の呼び掛けに応じる声のないまま、三人は真がいる病室の前までたどり着く。静がノックをすると、中から如月の声が聞こえた。
「ちっ、居るならさっさと返事をすればいいものを」
小さく舌打ちをして、静は扉を引き開ける。病室には白いベッドが一台据えられ、その両脇に如月と珊瑚が座っていた。
「おう、静。院内であんまり大声を出すんじゃねえよ」
如月は首を少し振り向かせただけで、挨拶もおざなりにし、すぐに視線を前に戻した。
彼の視線の先――ベッドには真が眠っている。
左腕に点滴が打たれており、静たちがやってきた気配に起きる様子もない。
この三日間、彼は目を覚ますことなく眠り続けている。
診療所に来る前から聞かされていたが、状況を目の当たりにして進は何と言えば良いのか分からなかった。
こうして見てみれば、ただ眠っているだけのようにしか見えない。しかし実際の所、そうではないことは雰囲気から察するには余りある。
それは特に、如月の対面で彼を見守る、珊瑚の姿を見れば尚更だった。
「皆さん……」
顔を上げた珊瑚はようやっと静たちの来訪に気付いたようで、慌てた様子で立ち上がり頭を下げた。
肩に毛布を掛けており、昨夜はここで過ごしたのだろう。目は少し腫れぼったく、いつもの如才ない彼女とは思えなかった。
「まったく、酷い顔をしているな」
静はこれみよがしに溜息を吐き、珊瑚をじろりと見る。どうやら、機嫌の悪さに拍車が掛かったようだった。
「すいません。ですが、大丈夫ですので……」
「大丈夫なものかよ」
微笑もうとする珊瑚だったが、すかさず如月の厳しい声が飛んで来た。
「交代が来たんだから、お前はさっさと帰れ。無茶をしている奴の大丈夫ほど、信用ならないものはねえよ」
「ですが……」
「珊瑚、医者の言うことは聞いておけ」
静は剣呑な目つきのまま珊瑚に歩み寄ると、彼女の肩に片手を置き、顔を耳元へ近づけた。
「隙があるのは良い傾向と言うべきか判断に困るところだがな。時と場所を選べよ」
「……何のことですか」
少しは頭に血が巡り始めてきたのか、ややぼうっとしていた珊瑚の目が抵抗の色を帯びる。
ふっと静は口端を吊り上げ、声を潜めたまま言った。
「同じことを凛がしていたとして、お前は認められるのか? わかったら、一度家に帰って休め」
静の説得に、珊瑚はしばし言葉を失くして立ち竦んでいた。腹の底に何か苦いものを飲み下すかのようにきつく目を閉じ、拳を握り締めている。
「……わかりました。お見苦しい姿を見せてしまい、申し訳ありませんでした」
そして、次に目を開けたときにはいつもの彼女の表情へと戻っていた。
一度決断したあとの行動は早く、彼女はさっと荷物をまとめ始める。最後に真を数秒見つめた後、全員に深く頭を下げてから退室していった。
「やれやれ、あいつはもう少し落ち着いた奴だと思ってたが、あんなに頑固だったかよ?」
「さてな。それは私の口から言うことじゃない」
首と肩を回して凝りをほぐしながら、如月が張り詰めていた気を散らす。静ははぐらかすように答え、珊瑚が座っていたパイプ椅子に腰を下ろすと、膝の上に翼を乗せた。
落ち着きを見せ始めた空気にほっとしながら、進も静の隣に置かれている椅子へと座った。
そして、改めて真の方へ目を向ける。
「如月先生……浅霧の容体は悪いんですか?」
彼の家族がいる中、それを自分が訊くべきか迷うところもあったが、先ほどの珊瑚の姿が頭をちらつき、訊かずにはいられなかった。
大勢で押しかけるのは迷惑ということもあり、友人代表として進は静に同行している。しっかりと浅霧家に残った先輩たちに状況を伝えるためにも、それは訊いておかねばならないことだった。
「ま、そうだな……」
如月は思案顔になりながら、静に視線で問い掛けた。彼女は彼の目を見返し、ゆっくりと頷く。
ならばと、老医師は眠る真を一瞬見やり、先を続けた。
「決して良いとも言えねえが、別段問題があるってわけでもねえ」
「……つまり、どういうことですか?」
どうとでも捉えようのある、煙に巻くような説明に進は戸惑う。それを聞いた静と翼も、反応に困ったような顔をしていた。
「命に別状はないって意味では、容体に変化はねえ。ただし、まだ目覚める兆候も見られねえってことだ」
顎を撫でつけながら、如月は言葉を変えて説明した。
「何せ病気で寝込んでるってわけでもねえからな。外からできることは、せいぜい見守ることくらいしかねえんだよ」
「普通は、どれくらいで目を覚ますなんですか?」
「わからねえ……しかし、ハナコの心にあっさり拒絶されたってんなら、さっさと目覚めてもおかしくはない。だからこうも長いとなると、それなりに深いところまで行っていると見ていいのかもしれねえな」
それは、やはり危険なことなのかと問おうとしたが、進は言い辛そうに口を閉ざす。そこまで憚らず口にするのは躊躇われたし、そんなことは百も承知で真もことに臨み、彼の家族も了解はしているはずだ。
「そうしけた顔をするな。心配するなとは言わねえが、信じてやりな」
神妙な顔をする進に軽い調子で笑いかけると、如月は席を立って腕を伸ばした。
「さて、今日は翼の診察だ。借りていくぞ」
如月が手招きすると、兄を見つめていた翼は名残惜しそうな顔をしながらも静の膝から降り、とことこと如月の下へと歩み寄る。
聞き分けの良い妹に静は苦笑しつつ、「もう少し真の様子を見てから行く」と二人を見送った。
「……良い子ですね。翼ちゃんは」
「もう少し子供らしくても良いとは思うがな」
静が長い足をゆったりと組み、腕を組んでパイプ椅子の背を軋ませる。真は目を覚まさないため、実質二人だけになってしまった状況に、進は少しばかり気後れした。
先輩の柄支や麻希には感じ得ない、緊張感と言うべきか。
そして、そんな進の気持ちを見透かしたように、静は口元を緩めた。
「なんだ? 今になって緊張することはないだろう」
「ええ……そうですね。すいません」
少々人を揶揄いたがる癖のある人だが、気さくで面倒見の良い、好感の持てる人。評価と言うにはおこがましいが、進は静のことをそう思っていた。
この緊張感は、年上の――それも大人の女性に対する免疫のなさから来ているものだろう。
「そういえば、君は真が凪浜市に行ってからの友人なのだったな」
「え? は、はい……そうなるんですかね。いや、でも……」
唐突に話題を振られて進は思わずそう返事をしたが、すぐに思い直して言葉を濁した。
「最初はあくまで形だけです。僕は、市長……父からの依頼を浅霧に渡すだけの使いでしかありませんでしたし、霊とか、その手の与太話は信じていませんでしたから」
「なんだ、そうだったのか。しかし……まあ、そうか。それが普通の反応だろうな」
「あ、すいません。けど、今は違いますから」
「いや、構わないよ」
取り繕おうとする進に、静は笑って首を横に振った。
「退魔の生業など信じられるものではないだろうからな。この世界に身を浸からせていると、たまには一般との感覚の擦り合わせは必要になってくる」
「それじゃあ、僕は一般人代表ってところですか」
進は苦笑気味に笑って答える。ここまで関わってしまった以上、必ずしもそうとは言えなくなったが、おそらく一般に近い感覚を持っているのは自分が一番なのだろう。
「あの、気になっていたことがあったんですけど、訊いてもいいですか?」
「ふむ……? 私に答えられることなら構わないが」
そこで、進はせっかくなのだからと思い立ち、この場を借りて静に疑問をぶつけてみることにした。
「父さんは、浅霧家と何か繋がりがあったんですか? つまり……父さんが、浅霧家に依頼を出した経緯というか……」
真と進の関係は、そもそも進の父――凪浜市市長、新堂誠二が浅霧家に依頼を出したことが発端となっている。
何故、父が浅霧家に依頼を出すに至ったのか。
当時は所詮一時の付き合いに過ぎないと思い、気にもしなかったのだが、今にして進はそのことに疑問を抱くようになっていた。
「うーむ……そのような話はとんと聞いたことはないな」
だが、静に思い当たる節はないようで、彼女は一瞬考える素振りを見せるもすぐに首を振った。
「親父殿は、仕事の依頼は基本的に退魔省を仲介していたからな。君のお父上の依頼も、その筋からだったと記憶している」
滅魔省や封魔省とは異なり、退魔省は霊の浄化を日々の糧を得るための生業としている部分がある。そのため、組織が窓口となり、所属する退魔師に依頼を斡旋、ないし打診しているところがあるのだ。
もっとも、その窓口は当然のことながら一般的に公開されているものなのではなく、誰かれかまわず依頼を受け付けているというものでもない。
「そこは市長という立場なのだから、それなりの伝手はお持ちだったのではないのか?」
「そうですか……。じゃあ、浅霧家が父の依頼を受けたのは、やっぱり偶然だったということですね」
「どこまでを偶然と捉えるかにもよるだろうが……何か気になることでもあるのか?」
念押しされるように言われ、静も訝しんで進を見た。進も考え過ぎだろうと思うのだが、どうにも頭の片隅に引っかかっている懸念がある。
「凪浜市で静さんに助けられる前に、父に匿名の電話があったことはお話しましたよね?」
静は頷く。浅霧家で落ち着いてから、進は再度父に連絡をとってその相手のことを確かめようとしたのだが、結局何者かは分からずじまいで、奇妙な謎だけが残っていた。
それが善意の第三者による忠告だと思えるほど誰もが平和ボケはしていなかったが、他にもやるべきことが多くあるため疑問は棚上げしている状態なのである。
「気に留めてはいるが、糸口さえも掴めない話だからな。向こうの出方次第だろう」
次があればの話ではあるが、と付け加えて静は気休め程度に笑って見せた。
「そうですね……。気にし過ぎていたのかもしれません」
過去を遡って自分がこの世界に関わりを持つようになった因果を考えるなら、父が霊に襲われ、退魔師に助けられたという出来事までいかなければならない。流石にそこまで思考を巡らすのは考え過ぎだろうと、進は内心で吐息した。
だが、もしも存命であるのなら、一度会ってみたい気もする。それこそ叶わないことだろうが。
進は真の寝顔に目を向ける。今、彼が行なおうとしている辛酸の一分も舐めることもできない身ではあるが、一刻も早く目を覚ましてもらいたいと、心から願わずにはいられなかった。
「……さて、こいつの変化のない寝顔ばかり見ていても暇だな。爺と翼の様子を見て来るか」
「大丈夫なんですか? 誰かがついていなくて」
立ち上がる静に進は訊ねたが、彼女は眠りにつく弟を一瞥しただけで、気楽そうに口端を持ち上げた。
「そこまで軟な鍛え方をしたつもりはない。じろじろと見られていれば、こいつもやり難いだろうしな」
それが彼女なりの信頼の示し方なのだろう。進は自分だけでも病室に残ることも考えたが、結局彼女に付いて行くことにした。
これまでも数々の危地を脱してきた彼である。今回もそうであると信じ、待つ他はないのだ。
そして、二人は翼が診察を受けている最中であろう診察室の前へと着いた。
「爺、もう診察は終わったか――」
静が呼び掛けながら、扉に手を掛ける。それは、極々自然な流れで行われたことだった。
しかし、扉を開き、室内の様子を見た静の動きが一瞬止まる。
進は、にわかに変化した彼女の気配にすぐさま気付き、心臓の鼓動を跳ね上げていた。
「静さん……?」
「私のそばを離れるな」
進が恐る恐る声を掛けると、すぐさま静の硬い声が返される。
彼女は何かを警戒している。
その理由が診察室の中にあることは明らかだった。彼は静の背中越しに、ゆっくりと身体をずらして中の様子を窺った。
雑多に物が置かれた作業用のデスクに、カーテンの開けられた簡素な患者用のベッド。室内は広くなく、人が隠れるような余地はない。
しかし、そこにいるべきはずの如月医師と浅霧翼の姿は、どこにも見当たらなかった。




