サクラ咲ク季節
二〇××年四月
早朝、犬の散歩中だった三十代女性が、突然の呼吸困難に襲われ意識を失った。通行人に発見され、搬送されるが、搬送先の病院で死亡が確認される。持病もなく健康体だったはずの彼女の死因は、
サクラアレルギーによるショック死
それまで数件ほどしか確認されていなかった症状による初めての死亡者だった。
この記事が紙面を賑わせてから十数年が経った今、桜はこの国から姿を消した──
「咲いた……」
ふと見た窓の外、どんよりとした曇り空をバックにぽつんと珠のような鮮やかな色が目に入った。玄関先に植わっているのは梅だ。二月に入って数日、暖かな日が続いたせいかピンク色の梅の花がいくつかほころんだらしい。しかし、冬とは違う、爽やかな春先の香りをかいだのは短い間で、また今日のように冬がしぶとくも舞い戻って来た。
(でも、咲いた)
資料を抱えたまま樹里は廊下を早足で進みだした。用のある資料室はこの廊下の突き当たりだ。だが、樹里は資料室の前を素通りし、突き当たりを左に曲がった。すると途端に廊下は暗くなる。右側に続いていた窓が途絶え、両側には灰色の壁しかない。所々申し訳程度に花の描かれた絵画や同じように花をかたどった折り紙が飾られている。それは誰が見ても何の花かわかる馴染みの形をしていた。全て送られてきたものだ。
まるで古い病院のように、清潔さだけ保たれた味も素っ気もない廊下の奥に、それだけ真新しい木目のドアが現れた。そのドアノブに手をかける。
先輩から聞いた。あの梅の花が基準だと。あの梅の花が咲く頃に試運転を始める、それがいつの間にか恒例になったのだと。
樹里は少し乱れた息を整えた。そして、ゆっくりとドアノブを回す。カチリと開いた。一年のほとんどは鍵がかかっているはずのドアが開く。口元が緩むのを自覚した。こんなことではしゃぐなんて子どものようだ。わかっていても胸の動悸は抑えられなかった。ドアを押し開くと暗い廊下に明るい光がこぼれる。嬉しくなって樹里はそのまま勢いよくドアを開けた。
眩しさに僅かに目を細めて見た先には、青空が広がっていた。そして、どこかの山奥と思しき景色の中、あの梅の花とは異なる、霞みがかった薄紅色が真っ青の空に揺らめいていた。
桜だった。満開の桜──
何重にも植わった桜の全てが見事なまでに満開だった。新緑が美しい若葉の絨毯の上で、その輝きを見守るように静かに佇んでいる。その姿は何にもまして高貴な雰囲気を纏っていた。
「きれい」
思わず呟いて足を踏み出す。
しかし、進むたびに感じずにはいられない違和感。その違和感が胸の底に広がり、喉の奥にツキンとした痛みをもたらすことに気付かないふりをした。ただその鮮やかな色だけを目に映して進んだ。足元に近づく無粋な赤い三角コーンにも気付かなかった。
「そのまま行くと壁にぶつかりますよ」
背後から声がして、はっと振り返る。若い男性が一人、木製のベンチに座っていた。その彼の後ろには丸太小屋。その小屋の入口は開けっぱなしになっており、その向こうには無機質な灰色の廊下が続いていた。それは今、樹里が入って来たドアだった。
「北……川さん? ですか。その三角コーンの向こうは壁ですよ、分かっていると思いますけど」
「どうして名前……」
を知っているのかと問おうとして、白衣の上に付けた名札に気づいた。職員が皆付ける名札には、自分のフルネーム、『北川樹里』の名が書かれている。そう言う彼は名札を付けていない。それどころかジーンズにダウンジャケットというラフな服装だ。それに小規模で、皆が顔見知りであるこの研究施設では見ない顔だった。
なんとなくばつが悪く、少し赤らむ顔をごまかすようにコホンと咳払いをして、男性に数歩近付いた。
「申し訳ありませんが、このバーチャル映像投射室はまだ試運転中で、一般公開は三月末からです。それまでは失礼ですが、関係者以外は立ち入り禁止になります」
そうだ、この部屋の全てがただの映像だ。この美しい桜に触ることは叶わない。試運転中だからか、わざと漂わせる草の香りもしない。桜の香りはさせる必要はなかった。桜には香りらしい香りなんてないのだから。あれだけ慣れ親しんだはずなのに、この部屋の存在を知ってから、この映像を見てから、そのことに気付いた事実が最初ショックだったのを覚えている。
男性は慌てる様子もなく、立ち上がった。
「すみません、今日、見学させて頂く予定の高宮です。事務所で待っているように言われたのですが、担当の方がなかなか見えられなくて、つい……歩きまわっていたら、偶然この部屋を見つけてしまいまして」
「見学?」
聞いていない。施設は確かに見学を受け入れている。そして、そのような広報活動は新米で、かつ、数少ない女性研究員の樹里に回されるのが常だった。その樹里が知らないというのはおかしな話だ。
「お名前をもう一度伺っても宜しいですか?」
「高宮です。高宮有」
「高宮様ですか。ご確認いたしますので、まずはご一緒に事務所の方まで……」
そこで低いだみ声が樹里の名前を呼んだ。その声が似合いすぎる下駄のような大きな四角顔を乗せたメタボ体型の男が、フーフー息を切らして廊下の向こうからこちらに走って来る。
「所長、どうなさったんですか」
姿かたちそのものがコメディーのような所長が、汗をたっぷりかいて目の前に来る。酸欠で少し目が回っている様子が何だかおかしくて、クスリと笑ってしまった。もっとあからさまに笑っても、人の良い所長は嫌な顔をしないのだが、部外者の前でそれは憚られた。所長が傍にいる高宮に気づき、慌ててペコペコと頭を下げた。
「ああ、高宮さん、こちらにいらっしゃったんですか。すみません、お待たせしてしまって」
「いえ、こちらこそ、事務所で待たずにすみません」
高宮も樹里と同じことを感じたのか、笑いを堪えて応えた。
「いやいや、良いんですよ。高宮さんが歩きまわっても大丈夫なくらい安全管理はきっちりしていますので、ご安心ください」
その言葉を聞いて予想される事実に、笑みを浮かべていた樹里の表情が消えた。温度の下がった声音で樹里は尋ねた。
「所長、その方ってまさか……重度のサクラアレルギーの方ですか」
「そうです」
応えたのは所長ではなく、高宮だった。顔がこわばっている樹里に対して、笑っているわけではないが、穏やかな表情をしている。何を考えているのかわからない。
「所謂、『十万分の一』で現れるアレルギー症状で死に至る体質の人間です」
「所長」
高宮が言い終わるかどうかというところで、樹里は所長を睨むようにして見た。
「確かに安全性は確保されていますが、だからといって万が一ということもあるじゃないですか。なぜ、重度の、『十万分の一』の方の見学を許可されたんです」
「まあまあ、落ち着きたまえ。お隣のサクラ被害者支援センターには全ての情報を開示するというのが決まりだ。彼はセンターからの紹介なんだ。それに先日の騒動もやはり相互理解が不十分だったせいでもあるのだから、高宮さんのように、こちらのアレルギー症状を出さない桜開発に関心を持って下さる方は貴重じゃないか。重度アレルギー患者の多くは恐がって近付きもしないというのに」
まだ納得できない樹里だったが、ここで言い募るのはただの子どもの我儘と同じだ。深くため息をついた。
「……わかりました。それで、いつものように私が中を案内すれば良いんですね」
諦めて樹里がそう言うと、良いかね? と所長は確認した。本心はどうあれ、そんな風に気遣ってくれる所長を困らせたくはなかった。樹里は黙って頷いた──
「では、次は地下に行きます」
施設内を粗方回ったあと、樹里は地下に通じるドアの前に高宮をいざなった。案内している間、高宮は熱心に樹里の言葉に耳を傾け、二、三差しさわりのない質問をしただけで、あとは素直に樹里のあとを付いて来た。事務所の前を通ると、精悍な顔立ちをした、見るからに好青年の高宮に数少ない女性職員は色めきたった。いつもの年寄りや子ども相手じゃなくて良かったわねと耳打ちまでされた。そっちの方がまだましだとはさすがに本人の前では言わなかった。
関係者以外立ち入り禁止の張り紙がしてあるドアを開けようとして、樹里は後ろの高宮を振り返った。
「本当に良いんですか」
「何がですか」
「この先には研究サンプルの桜があります」
「はい。さっき説明でおっしゃってましたね」
「……恐くないんですか」
「はい?」
「桜は厳重に隔離していますが、もしも何かあれば、命にかかわりますよ?」
「こちらの安全管理を信用していますから。それとも見られたくないものでもあるんですか」
わざとらしく高宮はにっこり笑った。いつもニコニコしている人間も信用ならないが、こう笑顔を使い分ける人間も信用できない。ふいと顔をそむけた。
「あるはずありません」
語気を強めて樹里は言い、IDカードを通して解錠する。そのままドアを開けて、足元にお気を付け下さいと機械的に声をかけると暗い階段を下りて行った。
階段を下りたそこは短い通路になっており、通路の一方の壁いっぱいにガラス窓があった。二人は大きなガラス窓の前に立った。唯一、ここから室内を見ることができた。既定の見学コースの最終目的地、今では簡単に見ることは出来ない本物の桜がそこにはある。だが、特別嫌いなわけではない見学の案内も、ここに来るという一点だけが樹里には憂鬱だった。
(こんなもの桜じゃない……)
サクラアレルギーの最大の原因は花粉だ。もちろん桜自体に問題があるのだが、花粉が被害を拡大させている。そのせいもあり、研究対象はほぼ花粉に絞られる。分厚いガラス向こうにある、背の低い、上から押しつぶされたように蹲る桜には、餅花のようなものが数多くぶら下がっている。葯だ。花粉を多く採取できるようにと改良された桜は数多くの不気味なほどに大きな葯に引っ張られ、枝が垂れ下がっていた。
さきほどのバーチャル映像の桜が脳裏をかすめる。日の下できらきらと輝いていた桜、幼いときの記憶のように心奪われる美しさを持った桜。それに比べて、暗闇の中でひっそりと生命をつないでいるこの桜の姿が憐れだった。葯に特化するために人為的に花弁を奪われ、花を咲かすことの出来ない桜は春の到来に歓喜することもできない。本当にただ生きているだけだ。
「かわいそう」
声とも言えないかすれ声で無意識にぽつり呟いていた。この気持ちを表すために稚拙な言葉しか出てこない自分の貧相な語彙を恨んだ。この状況だけでも同情に値するというのに。三ヶ月前の出来事を思い出して樹里は鬱屈した気分に嘆息した。
そんな樹里の目の前にすっと人差し指が現れた。その指先が桜の下にいる人影を指し示す。
「あの人は何をしてるんですか」
高宮が尋ねる。薄闇の中で防護服姿の人間が一人、枝に手を伸ばして何か作業をしていた。おそらく、さきほどから姿を見かけない先輩の西野だろう。
「花粉の採取をしてるんです」
こちらに気づいた西野が片手を上げる。樹里も片手を上げて応えた。
「あんな格好で? そんなに危険なんですか」
「彼には危険ではありません。ここの研究員は皆、アレルギー症状のない『二割』の人間ですから」
そう言って高宮を見た。
「花粉を外に出さないためです。他にもいくつもの段階を経なければ、あの部屋まで行けません。また、気圧を変えて常に外から中へと空気が移動するようにもしています。全て高宮様のようなアレルギー患者の皆さんのためです」
感傷に浸っていた直後のせいだろうか、言葉に棘があった。それを高宮も感じとったのだろう。「恩着せがましい言い方ですね」と桜を見つめたまま呟いた。
「気を悪くされたのなら謝ります」
「いいえ。事実ですから」
じっと桜を見つめる高宮を樹里は見た。まだ短い時間しかいっしょにいないのにこう思うのはおかしいのかもしれないが、傍にいる人をおいてけぼりにしているなんて彼らしくない気がした。ガラスに映る高宮の瞳に静かな熱情が見え、それが樹里の胸をちりちりと焼いた。あの男と同種の熱だ。
「……侵入しようだなんて考えないで下さいね」
「え?」
そこで初めて高宮は樹里に目を向けた。そして、樹里の表情に怒りが現れているのを見てとって、幾分か驚きを見せた。
「そのガラス、人の力じゃ割れませんから。割って入るなんて無理ですからね。変なこと考えないでくださいよ」
一言一言、力を込めて言った。高宮はやっと、ああと納得した表情を浮かべた。
「そんなことするつもりはありませんよ。私個人としては、あの抗議活動自体は褒められることではない。間違っていたと思っていますから」
「当然です」
樹里は怒りに震えた。
三ヶ月前、重度のサクラアレルギーの男性がこの研究所に侵入してきた。彼自身は重度とはいえ、『十万分の一』の人間のようにアレルギー症状で死に至るということはなかったようだが、アレルギーは遺伝性が高い。彼の子どもが『十万分の一』の人間だったらしい。『十万分の一』の人間の行動はかなり制限されている。安全が完全に保証された地区にしか住めない、行くことはできない。人が住まないような山奥にはまだ桜が残っている可能性があるからだ。その桜の花粉がどのようにして『十万分の一』の人間に到るかわからない。彼らの命を守るために必要な処置だった。だが、親として、不自由な子どもが憐れだったのだろう、そんな体質にしてしまった自分が許せなかったのだろう、その思いが桜への憎しみに変わったようだ。単身研究所に乗り込み、警備をかいくぐり、地下の桜を切り倒そうと試みた。『運良く』アレルギー症状で自分が死ねば、研究自体がストップするとも思ったようだ。結局、彼は駆けつけた警備員と職員の手で取り押さえられた。その様子を樹里も目撃した。押さえつけられながら、それでも暴れて抵抗し、獣のように吠えて割れないガラスを必死に叩いていた。
狂っていると思った。
「……頭、おかしい」
言葉が口をついて出た。
研究所に入りたての樹里にはそれはショッキングな光景だった。それまで、樹里はここで桜に好意的な人にしか会ったことがなかった。桜の映像を見て、きれい、きれいと喜ぶ本当の桜を見たことのない幼い子ども、また吉野の桜が見たいと呟いた老婦人。日本中から、桜の絵や折り紙、寄付金が桜の復活を願う手紙と共に届く。みんな桜が好きなのだ。
(それなのに──)
目の端に涙が滲んだ。感情を制御するのが極端に苦手だった。
「わけわかんない。なんでそんなことするの。おかしいよ、絶対。あんなに綺麗なのに、何で嫌いなの。アレルギーが出なければ良いんじゃないの。何で邪魔するの」
自然に一人言は音量を持つ。
「バカだ……いかれてる」
止まらなかった。
「……死にたいなら勝手に一人で死ねばいいじゃない」
「ストップ。──それ、言いすぎ」
高宮の声の冷たさに思わず樹里ははっとした。視線の先にいる高宮は感情を表に出してはいなかったが、少なくとも笑ってはいなかった。
「間違っていると言ったのは、その行動が、です。彼を否定したわけじゃない。俺はあの人を知ってる。君は彼を知ってますか。知らないよね、断言しても良い。知ってたら、そんなこと絶対言えない。いつもの林さんがどれだけ穏やかな人か、そんな人がどれだけ追い詰められていたのか、知らなくても、考えもしないんだ。皆が皆、同じ考えだとでも思ってるの? そっちの方がおかしいんじゃ……」
少しずつ熱を持っていく言葉がそこでふつりと途切れた。高宮はまだ何か言いたげに唇を震わせたが、最後には押し黙ることを選んだ。樹里は言葉を失った。一時、静寂がその場を支配した。しかし、それも長くは続かなかった。ドアが開く音と同時にガラス窓の傍にあるドアが開いて、そこからメガネをかけた生真面目そうな顔がひょっこりと現れた。
「よっ、北川。見学者の案内か」
見た目とは違う気安い声音で、同じ大学の先輩でもある西野が声をかける。しかし、樹里はすぐに反応できなかった。その間に高宮がくるりと西野の方を振り返った。
「こんにちは、お邪魔しています」
先程までの人の良い語り口に戻っている。背中を向けられているので、わからないが、恐らくあの笑顔も復活しているのだろう。ドアから完全に出て、いつものように少し猫背気味に西野が歩みよってくる。
「いやいや、見学者は大歓迎ですよ。私たちの研究に興味を持って下さる方がいるから、この研究所も成り立っているんです。陰気なところですが、ゆっくりしていってください」
「ありがとうございます。でも、もう終わりましたから。これ以上、北川さんの研究の邪魔をするわけにもいきませんし」
西野は手をひらひらと振った。
「研究なんて、まだペーペーのこいつに出来ることなんて高が知れてますよ。もともとは別分野にいたのを、『二割』の人間だからって、俺が引っ張り込んだんですから。今はまだ案内が仕事みたいなもんですよ」
「そうなんですか?」
「そうそう。だから、こき使ってやって良いんですよ」
「いや、でも、そろそろ帰らないと私の方に用事があるものですから、これで失礼します」
「それは残念。良かったら、また来てください」
「ぜひ」
こちらに向きを変えた高宮はやはり笑っていた。樹里と目があうと、しかし、口元にだけ笑みを残して、目にあった柔らかな光は凍りついた。それはたぶん樹里にだけわかる変化だっただろう。高宮が横を通り過ぎてもまだ固まっていた樹里だが、西野に「お送りしろよ」と言われ、やっと高宮の後ろに付いて歩き出した。
高宮が勝手に事務所まで行き、職員にあいさつしてから、玄関に向かうまで、樹里は本当に後ろを付いて行っただけだった。
もう研究所の外に出るというところで、高宮は樹里を振り返った。気まずそうに頭をかいていたが、意を決したように樹里をまっすぐに見た。
「俺も、言いすぎました。それに関しては謝ります。でも、他のことは……」
しかし、最後は尻すぼみになっていった。反応のない樹里に高宮はいたたまれなくなった。
「怒って、いますか」
「……いえ」
樹里はぽつりと言った。弱々しいというより、肩の力が抜けた声だった。
「怒っては……いません。なんというか、どう言えばいいのかわからないんですが、その……」
さっきからこのことばかり考えていたのだ。今まで自分が知らなかった色をぶちまけられて、無視しようとしても、それは勝手に目に入ってしまう。でも、その色を汚点と呼ぶ気にはなれなかった。なぜこの色は出来たのか、なぜこの色を知らなかったのか、なぜこの色を拒否できないのか、疑問だけが溢れて、今漂っている感情を説明できなかった。ただ──
「怒ってはいません。あなたが私に怒っていないので……」
高宮から自分への怒りは感じなかった。声を荒げたあのときも樹里個人というより、もっと抽象的な対象に、樹里はただその象徴として、高宮は怒っていたにすぎないのだ。
(何に怒っていたのだろう。そして、怒っていないのなら、どうして、あの時、私には笑みを消したのか……)
別のところから違う疑問が湧き上がった。でも、それを訊くことはできなかった。
高宮は樹里の答えに意外そうな顔をした。そして、ふっと息を吐いた。その表情に樹里はきょとんとした。さっきまでのにこにことした笑顔ではない、でも──
(笑った?)
「北川さん」
「はい」
高宮の呼びかけに応えた。
「俺も、桜、嫌いです」
唐突に高宮は言った。だが、嫌悪感はなかった。抵抗もなく、『嫌い』という言葉はすとんと高宮の存在と共に胸に落ちた。樹里は頷いた。
「そうでしょうね」
今度こそ高宮はそれと分かるように微笑んだ。
「案内してくれてありがとう──じゃ、また」
そう言って踵を返し、高宮は出て行った。
『じゃ、また』
その言葉通り高宮が研究所を訪れたのは、四日後だった。また見学を申し込んだのだと今度は事前に樹里に知らされた。もう案内するところはありませんよと言う樹里に伝えに来た所長は、仕事の様子を見るだけで良いらしいと苦笑した。相手が相手なので無碍にはできないが、粗さがしを心配しているようだ。今回もいっしょに付いていてくれないかと頼まれた。
樹里は断らなかった。
「本当はもっと早く来たかったんだけど。でも、大学があって」
「高宮さんは大学生なんですか」
樹里は驚いて隣りを歩く高宮を見た。高宮は周りの自分と同年代の男性に比べるとひどく落ち着いた印象があり、まさか年下だとは思わなかったのだ。
「と言っても、専門学校を出てから社会人をやって、その後に大学に入り直したんだけど」
樹里の言いたいことがわかったのか、くすりと笑って高宮は言った。
「ということは、高宮さんはおいくつなんですか」
「二十七」
「やっぱり」
「北川さんは?」
「二十五です。大学院を去年卒業してこの研究所に」
「へー、院出てるのか、すごいなあ、インテリだ」
高宮に嫌みはなかった。先日よりだいぶ砕けた口調も何だか好ましく思えた。
「何を勉強してたの」
「え?」
「ほら、あの人が言ってた。別分野にいたって」
「あ、ああ……ここにいる研究者はだいたい桜や同系統の植物を研究していた人が多いから。私みたいなのは特殊なんです。でも、同じ動植物の生態を」
「だから、何?」
ほらほらと促す高宮に樹里は口ごもった。
「……笑わないで下さいね」
「うん」
「……カエル」
ぼそりと樹里は言った。はい? と高宮が訊き返す。
「だから、カエルです。特にイシカワガエルという」
やけっぱちになって言うと高宮は吹き出した。何度も経験したことだが、やはり顔が熱くなった。
「笑わないでって言ったのに」
「でも、カエルって……女性で、カエル……」
声が震えている。
「あ、バカにしてますね。イシカワガエルって絶滅危惧種で、日本一美しいカエルと言われて」
意地になる樹里にごめんごめんと高宮は笑いながら謝った。なかなか収まらない笑いに、樹里は高宮に対する落ち着いた男性というイメージを撤回しようと思った。
「そういう高宮さんは何を?」
「俺は教育学部だよ」
「教育? 教師になるつもりなんですか」
「教師でも良いんだけど、教育心理をね。サクラアレルギーでの差別をなくすには、まず教育現場からかなって……今は桜自体がないから、サクラアレルギーが騒がれた当初よりは収まっているけれど、それでも、行動が制限されているアレルギー患者を公然と不採用の条件にする企業や入学を認めない学校もある。そして、それが仕方ないという空気もね。彼らの権利を守るには法だけではなく、人々の心構えから変える必要があると思うんだ」
「高宮さんもそういう経験が?」
「そうだね」
その言葉に特に感慨らしきものはなかったが、逆に、それが日常なのだと思い知らされた。樹里も生活の中でそんな差別を感じることは間々あったが、樹里が中高生だったときには、まだそれほどサクラアレルギーに対する教育は確立されていなかった。社会問題としてきちんと学んだのは研究所の研修でだ。それでも体験した本人から話を聞くのとではだいぶ差があった。重くなった空気を振り払うように高宮は笑った。
「でも、その前は映像をやってた。専門学校も映像関係」
「映像って映画ですか?」
「友人の映画制作を手伝ったことはあるよ。でも、俺の場合は本当に純粋に映像。ストーリーがあるものもあれば、そうでないものもある」
「興味あるなあ。見てみたいです」
「でも、最近のはだいたい同じだよ。『あいつ』ばっかり撮って……」
楽しそうに話していた高宮はそこでしゃべりすぎたと思ったのか言葉を切った。
「あいつ?」
「えっと、モデル……かな。俺専用の」
しかし、ここまでしゃべって止めるのは逆におかしいと思ったのだろう。苦笑して高宮は言った。
「モデルですか」
「プロのモデルってわけじゃないんだ。バイトで少しはやってたみたいだけど。でも、すごく背筋が良くて、立ち姿が違うんだ。黒髪が綺麗だから、日本人形みたいで、初めて近所の藤の木の下に立っているのを見たとき、本当に藤の精かと思って……でも、夢中になってビデオ回してたら、こっちに来て、『いきなり何ですか、肖像権があるのを知らないんですか』って怒鳴られた」
まくし立てる高宮に樹里はぽかんとした。
「その方って、高宮さんの彼女ですか」
それしか考えられない。この熱っぽさは惚気のなせる技のような気がした。
そこで高宮は我に返ったようにはっとした。そして、微妙な顔をした。照れたような、嬉しいような、悲しいような──
「彼女『だった』」
「別れたんですか」
「一方的に振られたよ。いきなり『さよなら』だ」
「何それひどいです」
「ひどい、か……確かに、ひどいな」
それ以上は触れてほしくなさそうだった。高宮がまた見たいと言って向かっていた地下の桜に着いたこともあり、樹里は尋ねるのを止めた。そこまで他者のことを根ほり葉ほり聞いて、ほじくり出す趣味はなかった。よく言えば、寛容、悪く言えば、無関心。そんな樹里に、「そういうとこ、少しあいつに似てる」と高宮は苦笑交じりに言った。
それから、高宮は少なくとも週に一度は必ず研究所を訪れた。四月の、存在すれば桜が盛りの季節には、何度かサクラアレルギーの子どもたちを連れて来て、例のバーチャル映像の桜を見せた。高宮は隣りにあるサクラ被害者支援センターで、特に重度のサクラアレルギーを持つ子どもたちのカウンセリングをしているとそれまでに聞いていた。
部屋の中できゃっきゃ、きゃっきゃと遊び回る子どもたちは、個人差はあれど、サクラアレルギー患者だ。そんな子どもたちが笑って桜の中を遊んでいるのは何か不思議な感じがした。しかし、そんな風に遊んでいる子どもたちは高宮が連れてこようとした子どもたちの一部でしかない。恐がって部屋どころか研究所にも入ろうとしない子もいれば、その前に親が研究所訪問を認めなかった子もいると高宮から聞いた。壁にぶつかって怪我でもしないように気を配りながら、樹里は隣りに立ち、同じように子どもたちを見る高宮を伺った。
「どうして、こんなことを?」
ぼそっと樹里は言った。子どもたちの声でうるさい室内で、聞こえないのならそれでも良いと思って言ったことだった。しかし、ちらりと高宮は樹里を見た。すぐに子どもたちに視線を戻したが、少し逡巡したのち、「桜を好きになるか嫌いになるか、選択の自由くらい、この子たちに与えたいんだよ」と言った。
「このままの環境では、この子たちは桜を嫌いになるしかなくなる。親や周りの大人から桜は恐いものだと教えられ、近付いてはいけないと言われる。ある子は桜に怯え、ある子は桜を憎む。そんなのかわいそうだ。悲しいよ」
「高宮さん……」
その時、目を細めて子どもたちを眺めながら、「出来るなら、嫌いなものは少ない方が良い」と聞かせるでもなく呟いた高宮の声を、樹里は忘れられなかった。一見、無機質なのに、その裏には何かしらの体温を持っているそれは、祈りたくないのに、祈らずにはいられないというような矛盾を孕んでいた。その声にひっかかりを覚えながら、季節は桜の散る時期を迎えていた。
『樹里』という名前は祖母が付けた。祖母は同じ県内に住んでいたが、市街に住む樹里やその家族とは別にもっと山の方で一人暮らしをしている。昔はお盆や正月には祖母の家で過ごすことが多かったが、大学に入学したくらいから、顔を見せに行くだけになっている。
祖母の住む村には小さな神社がある。その境内に御神木として樹齢五百年と言われる桜が植わっていた。つまり、『樹里』、樹の里とは祖母の住む村のことであり、樹はその御神木のことだ。樹里は自分の名前のもととなったその木に、子ども心に親しみを覚え、祖母の家に行くと毎日のようにその桜を見に行った。神社は丘の上にあって、桜の木の上に登っては、眼下の水田ばかりが広がった山間の村を眺めていた。時々、村の人に桜の上にいるのを見つけられて、怒られもしたが、やっぱりその桜に触れながら、村を眺めるのが好きだった。村の子どもたちとも仲が良く、よく遊んだが、神社で遊ぶと必ず誰かが気分が悪くなったので、その木といるときはいつも一人だった。その時はサクラアレルギーなんてものは知らなかった。アレルギー患者の数自体がその頃はまだ少なかったのだ。だが、樹里が小学校高学年くらいになると、その数は爆発的に増え、国民の八割が桜に対して何かしらのアレルギー症状を示すようになった。樹里が『二割』の人間と呼ばれる、桜に対して全くアレルギー反応のない人間だという検査結果が出たのはそのずっと後だが、桜の近くにいても平気な樹里は変わらず、境内の桜と共に時を過ごした。その桜も樹里が中学生の時に、全国で始まった桜伐採で切り倒されてしまった。どうして患者が急増したのか原因はまだ不明だったが、人はその原因を自分たち人間ではなく、桜に求めたのだ。環境破壊による異常現象が桜にも現れたのだとする意見が大多数を占めた。その結果が国による桜の大伐採。桜の名所では、地元住人と機動隊との衝突もいくつかあったらしいが、結局、十数年かかって、今ではどこに行っても桜を見ることは出来ない。
よく晴れたある日、樹里は電車に揺られていた。連休前の平日は人が少なく、緩やかな時間が流れていた。窓から差し込む陽光がぽかぽかと暖かく、ついウトウトしてしまう。
二、三時間も乗っていただろうか、住宅やビルが立ち並ぶ街並みは途絶え、窓から見える景色はのどかな田園風景に変わっていた。そして、周りに家が全くない無人駅に樹里は立っていた。
(おばあちゃんの村に似てる)
ここに来るたびにそう思う。そうは言っても、特に縁もゆかりもないこの土地に来るのは数回で、今年に入ってはまだ三度目だ。樹里はゆっくりと歩きだした。駅前の通りから外れると、すぐ道は舗装されていない状態になり、車のタイヤ痕がはっきりと付いている。泥臭さの混じった土の匂いが鼻をつく。水田は田植えが終わったものとまだのものが半々くらいだった。田植えがされたものは、苗が行儀よく等間隔に並んでいた。山の入り口に来ると、傾斜に僅かに不規則な形の水田があり、それは機械が入れないのか、少し列が乱れて並んでいる。こちらの方が、愛嬌があると感じて樹里はくすっと笑った。その姿を目の端に置き、そのまま樹里は山の中に入っていった。
始めは人工的に植えられたのであろう杉の木が並んでいたが、上へ上へと行くと次第に木や植物の種類が多彩になっていく。その頃には道はほとんど獣道になっていた。少し本格的な山登りになるとわかっていたので、シューズに動き易い服装、ナップザックと準備万端だ。
腐敗した落ち葉が柔らかい地面を踏みしめれば、先程の田園地帯とは異なる瑞々しい土の香りがする。少し顔を上げると、どの木も若葉が茂り、美しい緑が滴るようだった。少し木が途切れ、足を踏み入れた日が差す場所に樹里は見覚えがあった。前回来たときにはカタクリの花が群生していた場所だ。
(さすがにもう枯れちゃったか)
あの綺麗な紫の花をもう一度見たかったが、仕方ない。だが、ここがカタクリの花が咲いていた場所なら、目的地はすぐそこだ。すでに息が切れ、日々の運動不足を痛感していたのだが、元気が湧き、また歩き出した。
大した距離も歩かず、樹里は足を止めた。
(ここだ……)
目的地は知らない人が見れば、何の変哲もない場所だった。しかし、樹里は迷わず、まっすぐに一本の木に向かって行った。他のがっしりした木々に隠され、それでも、陽の光を分けてもらえる場所にその木はあった。蕾をつけたその木は花を咲かせるようだったが、どれもまだ咲いてはいなかった。その木の幹にそっと手を添えて、樹里は安堵の息をこぼした。
「無事だったね」
他の木に紛れて息づくそれは、桜だった。
大きさからして、まだとても若い。去年、ここでこの木を見つけたのは偶然だった。菌類でも、担子菌門を専門とする後輩のサンプル採取に付き合ってこの山に入ったのだ。こんな日当たりの良い所に後輩のお目当てのものはなかった。だが、付き合いで来た樹里は、五月の気持ちの良い日にどうして好き好んでじめじめした所にいなければいけないんだとこの辺りを散策していた。そして、花を咲かせるこの木を見つけたのだ。花がなければ、桜を専門としていない樹里にはきっとわからなかっただろう。だが、見つけたときも半信半疑だった。まさかこんなところに桜が残っているとは思わなかったし、桜が咲いているには時期も遅かった。だが、それはやはり桜だった。その後も何度も行き、確認した。種類としてはカスミザクラ。比較的遅咲きの種類だが、この木は特別花を咲かせるのが遅い。だからこそ、難を免れたのだろう。
前回来たときは固く閉じられた蕾は少し緩んではいたが、花が咲くにはもう少しかかりそうだ。
「あなたはいつになったら咲くの」
蕾に触れながら、樹里は問いかけた。待ち遠しい。だけど、咲いて欲しくないという気持ちもどこかにあった。今までは無事でいられた。でも、咲けば、見つかるかもしれない。桜を見つければ、役所に知らせなければならない。そう法律で決まっている。怠れば、罰則がかせられる。でも、知らせれば、この木は切り倒されてしまう。そんなこと出来なかった。
(あの人もきっとそうだったんだ)
今日も会ったこの山の所有者と思しき男性の顔が浮かぶ。初めて会ったとき、男性は樹里を見て恐怖に顔をひきつらせた。来るべきときが来たとでも言いたげな顔だった。もし、樹里がここで他の誰かに会えば、同じ顔をしたに違いない。だが、その後も桜があることを確認して、樹里が通報するつもりがないことを悟ったのだろう。樹里を見かけても怯えることはなくなった。言葉を交わしたこともない。会えば、会釈をする程度の間柄だ。しかし、秘密を共有した、言わば、同志だった。この桜の若さ、もしかしたら、彼によって意図的に植えられたのかもしれなかった。桜を扱うには自治体どころか国の許可が必要だ。そうまでして国は国花であった花を撲滅させたいらしい。あの男性がそこまで危険をおかすようには思えなかったが、そんなこと樹里にはどうでも良かった。ただ、この桜を守りたかった。
そこまで考えて、ふと浮かんだのは、なぜか高宮の顔だった。週に二、三度やってくる高宮は研究所ではもう馴染みの顔だった。樹里もだいぶ親しくなった。彼を通してサクラアレルギー患者のことを知っていく。原因がはっきりしないためか、この症状に効果的な治療法はなかった。ただ酸素マスクを付ける程度しかできない。一番の対処法は桜に近づかないこと、それだけだった。重度の患者になれば、移動に許可が要り、場合によってはまるでガスマスクのような大掛かりなマスクを付けなければいけない。そんなものを付けてまで遠出をしようなんて考える者はごく少数だ。少しでも『十万分の一』の人間とばれないように生活しているというのに。
皮肉にも、まれに見つかる桜は患者が体調不良を訴えることによって見つかることが多い。伐採初期では犠牲になった人も少なくない。
(あなたも、誰かを苦しめているの?)
心の中で問う。しかし、まだ見つかっていないということは、誰も体調不良を訴えていないということだ。来る途中にあった小さな茶店でも、店主のおばあさんに訊いてみたが、そんな話は聞かないという。少ししか話せなかったので、詳しいことはわからないが。
本当はもっといろいろ訊きたかったのだが、きのこ狩りの時期ならともかく、こんな時期にこの山を訪れるなんてと不審がられて、それ以上は訊けなかった。他にも似たことを訊く男性がいたそうだ。山の所有者の男性だろう。二人がかりで訊くのもさすがに怪しいだろうと思って、その時は黙ってお茶を口にした。
樹里はこつんと桜の木の幹に額を当てた。そのまましばらく動きを止める。近くで触れていれば、この木の命を感じられる気がした。目を瞑ると、自然とその茶店の寂れた店内が浮かぶ。テーブルにあったお品書きに貼られた切り絵は桜の花だった。柱にあったほこりをかぶった造花も桜。
「桜ですね」となんとなく言えば、店主は一瞥もせずに「ああ、春だからね」とさも当然のように言った。
『ああ、春だからね』
その言葉が脳内に響く。それが全てを物語っている気がした──
資料の整理をしていた樹里は、後ろから西野に肩を叩かれた。
「北川、今日は高宮さん来てるのか?」
「来てますよ。さっき声をかけられましたから」
答えて首をかしげる。
「なぜですか?」
「いや、なんとなく今日は来てないのかなあと思ってさ」
今は手持無沙汰なのだろう。そう言えば、さっきからぶらぶら歩き回っていた。
「あいつ、話上手というかさ、しゃべってておもしろいからさ。それにセンターの人間って感じ悪いけど、あいつは違うだろ。良い奴だよな」
「そうですね」
樹里は笑った。気のせいかもしれないが、高宮が来るようになって研究所が明るくなった。建物は別として、職員間は皆仲が良く、陰気な職場だったわけではないが、それでも笑い声が聞こえれば、だいたいそこには高宮がいた。もう誰も高宮が研究所内を歩いていても特に何も思わない。案内係兼お目付け役として樹里が彼についていることもなくなったが、研究所に来れば、高宮は必ず最初に樹里のもとを訪れた。だから、西野は樹里に尋ねたのだろう。研究所の職員の中でも、自分が特に彼と親しいと公認されているようで、なんとなく嬉しかった。
「また研究室に顔を出すと言ってました。ちょっと忙しかったので、それくらいしか話していませんが」
「わかった。サンキュ」
そう言って西野が自分のデスクに戻って行くのを目で追った。
確信がなかったので、西野にはああ言ったが、実は樹里には心当たりはある。高宮がいるところと言えば、高確率であの桜の映像が見られる部屋だった。時期が外れたせいか、まだ一般公開はしているものの、訪問者は格段に減った。職員にとっては物珍しいものでもないので、彼と樹里がいなければ、ほぼ無人だ。二人だけの部屋と言っても良かった。高宮といるあの空間は樹里にとって居心地が良いものだった。西野にあの部屋にいるかもと言わなかったのは、その空間を他人に侵されたくないという心理が働いたせいかもしれなかった。
樹里は整理に戻ろうとしたが、高宮の名前を聞いて足がむずむずし始めた。
(ちょっと行ってみようかな)
今は少し時間に余裕がある。勤務時間なので、本当は、自由行動は許されないのだが、少しだけと言い聞かせて樹里は研究室を出た。
例の部屋に向かっていた樹里だが、高宮の姿を見つけたのはその途中にある玄関だった。そして、彼は一人ではなかった。女性といっしょにいる。樹里は彼女に見覚えがあった。
壁の陰に隠れたのは無意識だった。彼女はセンターの受付をしている女性だった。あまり友好的とは言えないが、研究所とセンターはその役割から交流はあるのだ。だから、樹里も気がのらないとはいえ、仕事で幾度かセンターには足を運んだ。戸田と名札を付けた彼女はかなりの美人だ。そして、その切れ長の目でいつも樹里たちを睨むようにして見ていた。だから、もともと苦手であったのに加え、彼女は高宮に対して声を荒げていたので、つい隠れてしまったのだ。だが、そのおかげで、彼らから距離があっても何を言っているのかだいたい聞きとることができた。彼女がヒステリックになって叫ぶ。
「聞いたわよ。頻繁にここに来るそうじゃない」
「だから?」
一方で高宮は落ち着いていた。それが気に入らないのだろう。ますます声を荒げる。
「どうして!なんでここの奴らと慣れ合ってるのよ」
「それがいけないことか」
「当然じゃない。桜を復活させるなんて馬鹿げたことしようとしてる奴らよ」
「落ち着け。ほら、いつまでも立っていても仕方ない。あそこに座って……」
高宮が近くのソファにいざなおうとして伸ばした手を彼女は振り払った。
「嫌よ、ここにいることでさえ気分が悪いっていうのに」
「じゃあ、来なければ良かったのに」
「あんたがいるからでしょ、あんたが……」
声をつまらせて俯いた。そんな彼女を見て、高宮は困ったようにため息をついた。
「……俺は出来るだけ客観的に今の状況を見たいだけだ。完全には無理でも。ただ敵対視するだけじゃ何も変わらない。彼らにだって理由がある。桜を愛している。だから、また見たいと願っているんだ」
はっとして彼女は高宮を見た。
「まさか、あんたも桜の復活を望んでるって言うんじゃないでしょうね」
黙る高宮に掴みかからん勢いで彼女は迫った。
「バカじゃない。あんた、桜を好きになることはないって言ったじゃない。桜なんてもののせいでどれだけ私たちが苦しんだことか。忘れたの? それに、あんなもののせいで」
「忘れた? 本気で言ってるのか」
わずかに届いたその声に樹里は身を硬くした。彼女も同じなのか、声が途切れた。高宮が彼女の肩に手をおいて距離をとる。高宮の声はかすかにしか聞こえなかったが、それでも、樹里の耳に紡がれた言葉を届けた。
「忘れてない。忘れられないから、俺はここにいるんだよ……詩帆」
彼女を呼ぶ声は優しかった。そして、樹里は気づいてしまった。整った容姿の二人が並んで立っている様子がとても絵になっていることに。きっと自分が隣りにいるよりも。樹里が目を逸らした瞬間、同じように優しい声で高宮は言った。
「俺は桜が嫌いだよ」
知っているはずの事実が質量を持って樹里の胸に沈んだ。その重さに耐えきれず、樹里はその場を離れた。しかし、波立った心に囚われた樹里は、高宮の声が優しいだけではないことに気付かなかった。
投射室の桜は満開だった。一時期は散る映像が映されていたのだが、訪問者が途絶えてからは満開の映像で固定されている。都合の良い桜だ。見たいと思えば、満開の桜も散る桜も見ることができる。それならばいっそ今は散らせたかった。そうすれば少しは泣けるだろう。泣きたいと思うのに泣けなかった。
心の隅ではバカらしいと感じていた。高宮と彼女がどんな関係であろうと関係ないではないかと。自分と高宮は親しくとも特別な関係ではない。世に言う恋人という関係を望んでいるのかもわからない。ただ、泣きたいと思っているのは本当だった。そして──
(桜が嫌い、か……)
中学生のときに、慣れ親しんだ桜の木が切り倒されてから、たまたま西野が樹里のいる研究室に来て、樹里をこの研究所に誘うまで、樹里は桜とは疎遠な生活をしてきた。いつもいつも桜のことを考えていたわけではなかった。それでも、心の隅にいつもあの桜はあった。素直に桜を綺麗だと思う気持ちはある。だが、それだけではなく、樹里の存在に桜は必要不可欠な要素だった。そういう意味で桜は樹里にとって特別な存在と言えた。だからこそ、西野に誘われた時、二つ返事でその誘いを受けた。運命的なものを感じた。
しかし、高宮は、樹里にとってそういう存在である桜が嫌いなのだ。初めて直接嫌いだと言われたとき、納得したはずだった。彼の事情を考えれば、仕方ないと。だが、今は仕方ないという思いを別の思いがかき消そうとする。
その時、背後から声がした。
「サボり?」
振り向けば、高宮が部屋に入って来るところだった。
「有……」
悪戯っぽい微笑みを浮かべて高宮が樹里に近寄る。
「所長さんはともかく、西野さんに見つかったら、怒られるよ」
告げ口をするつもりはないけどねと言って、ますます高宮は笑みを深くした。こういう風に過ごすことは数回なんてものではない。少し後ろめたい秘密を共有する仲間意識のようなものが混ざった笑みだった。だが、じっと高宮を見つめながら、反応のない樹里に高宮は首をかしげた。そして、樹里? と名前を呼ぶ。ぐっと息が詰まった。
(卑怯だ)
下の名前で呼びあうようになったのは、いつからだっただろう。高宮が先だった。言葉遣いを崩したのも高宮が先だ。高宮が先に近づいてきたのだ。それなのに、こんなのってない、卑怯だと思う。あっちから近付いて来たのに、離れられなくなったのはこっちの方なのだ。
涙を流さないにしても、涙目になるのは仕方ないはずだ。本当はそんな軟弱なところを見せたくはないけれど、俯けば、表面張力が引力に負けてしまいそうで、そのまま動けなくなってしまった。
「樹里、何かあった?」
何かあったかだって? 何かあったと思うから、そう言うのだろう。だけど、悔しいから理由なんて教えてやらない。それに実際のところ、涙の直接的な原因が分からないのだ。あの女性のこと? 桜が嫌いなこと?
「有は……」
「ん?」
涙を落とさないように慎重に言う。
「私のことどう思う?」
高宮は目を見開いた。それを見て、やっとバカなことを言ったことに気付いた。しかし、取り繕うにも、これ以上何か言うのは無理そうだった。
高宮は困ったように頭をかいた。だが、ぴくりとも動けず、目をそらすこともできない樹里の視線をまっすぐに受けた。今はそんな優しさなんていらなかった。そんなことされたら、ますます──
(好きになるじゃない)
口に出さずとも、はっきりと思ってしまった事実に樹里は激しく動揺した。やばい、泣くと思った瞬間、薄紅の影が二人の間を舞った。
「へ?」
二人いっしょに見上げれば、満開だった桜が風に吹かれて一斉に散り始めた。それはまるで雨のよう、大盤振る舞いで花弁が舞い落ちる。大量の花弁で景色が曖昧になり、ついでに頭の中も曖昧になる。そんな曖昧な意識の隅で、この都合の良い桜を操作している黒幕の存在を思った。見かけに寄らず茶目っけのある西野が、どうもいらぬ誤解をしたようだ。可愛い後輩を、サボったお叱りの代わりにこういう形で励ましているらしい。
(まあ、当たらずも遠からずか)
そう思いながら、幻想的な薄紅色の世界に酔う。いつの間にか涙は引っ込んでいた。
花弁が降り積もり、地面をその色で染めるほど、心の中にも何か言いようのない気持ちが積もっていく。同時に、その何かが積もる隙間、『孤独』という隙間を感じずにはいられない。それは人間ならどうしようもなく感じてしまうものではないだろうか。いつもは何かで紛らわせるそれを、桜は抽出して見せつける。桜が他とは別格の美しさを持つと感じるのは、人の根源とも呼べる、そんな普遍的なものを教えてくれるせいなのかもしれない。だから、惹かれるのか。だから、毎年、その姿を確かめずにはいられないのか。だから、儚いこの花が心から消えないのか。
「……綺麗だ」
ふっと吐息のような静けさで、その言葉は頭上から落ちてきた。ゆっくり隣りの高宮を見上げる。だが、実際は心臓が痛いほどに早鐘を打っていた。花を散らす桜に見惚れた横顔から、自分と同じものを高宮が感じていることを知る。同じ美しさを感じている。
それでも、「綺麗だな」と言う高宮の言葉に嘘はなかったが、高宮にとって桜はそれ以上でもそれ以下でもなかった。桜が好きか嫌いかを選択する自由の中で、高宮は『嫌い』であることを選んだ。それを思い知って、樹里はまた涙があふれそうになった。
(……嫌だ)
我儘だとはわかっていた。それでも、自分にとって特別な『桜』という存在を、高宮に好きになって欲しい。そう願わずにはいられなかった。
それから、高宮とは相変わらず言葉を交わしていたが、二人の間にはどこかぎこちなさが漂った。自然と会話も少なくなる。樹里の気まずい思いを察したのか、高宮は研究所に訪れても、樹里には顔を見せるくらいのことしかしなくなっていった。
その頃、研究所が突然忙しくなった。理由がわからないのだから、偶然の産物と言っていいだろうが、経過を見守っていた実験サンプルの一つからサクラアレルギーの原因とされている化学物質が消滅していたのだ。研究所を上げての調査が始まった。更にどこから漏れたのか、公式発表の前に新聞やテレビでそのことが報道されてしまったのだ。国民の期待という重圧に、なんとしても結果を出さなければいけないという空気が研究所を満たした。雑務とはいえ、そのサンプル作りに関わった樹里も何かと忙しかった。
忙しい中でも、例のカスミザクラのことが樹里には気がかりだった。もう、五月も終わる。さすがに花は咲いただろう。自然の中にある桜を見たいという気持ちもあったが、何より見つかっていないかが心配だった。次、見に行ったら、跡形もないなんてことになっていたら、悔やんでも悔やみきれない。
事件が起きたのは、そんなときだった。
突然、研究所が停電になったのだ。全ての機器、設備がストップし、研究所の機能は完全に麻痺した。
数ある研究室の一つで作業をしていた樹里は、突如、視界が暗くなったことに目をぱちくりさせるだけだった。西野が何か怒鳴りながら、素早く動き、隣りから気配を消したときも固まっていた。やっと顔を上げると、まだ昼間だったので、真っ暗闇ということはなかったが、室内特有の薄暗さの中で、人々が右往左往しているのが見えた。近くの窓に近寄り、カーテンを開けると隣接するセンターには何の変化もなかった。研究所だけが停電になったのだ。
どうしてと思いながら、その時には樹里にも徐々に事の重大さが飲み込めてきた。研究所には、繊細な扱いを必要とするサンプルや重要なデータが蓄積してある。データに関してはバックアップをとっているので、全て失うという悲惨なことはないだろう。しかし、サンプルがダメになれば、研究が大幅に遅れる可能性があった。
大変な事態に呆然とした。が、その時、ふと別のあることに気付いて、樹里は一気に血の気が引いた。
(有はどこ?)
立ち入ることを禁止されたこの部屋に彼がいるはずがないのに、思わず周りを見回した。
(いない……でも、今日は来てる)
それは確かだった。樹里のいる研究室に顔を出した。近くには寄って来ず、遠くから樹里に手を振るだけだったが。だが、最近ではそれが普通になっていた。
混乱しながら考える。停電したということは、地下への入り口のセキュリティーは? 桜を隔離するための安全機能は? もし、それらが止まっていて、彼があそこにいたら。そう考えると、いてもたってもいられなくなった。付けっ放しだったゴーグルをはぎ取り、部屋を飛び出そうとする。そんな樹里の腕を誰かが掴む。勢いよく振り返れば、西野だった。
「どこ行くんだ。お前もさっさと手伝え」
「有が!」
周りの騒音にかき消されないように西野は叫んだが、それをも超える悲鳴のような声で樹里は叫んだ。その声に西野が唖然とする。
「地下にいるかも。もし、そうだったら」
「落ち着け、あそこは別電源だ。この停電の影響はない」
「そんなのわからないじゃない。もしものことがあったら」
そう言って、西野の手を振り払うと駆け出した。
無我夢中で走った。そして、一分もかからず辿りついた地下へと通じる扉のドアノブに跳び付いた。それがわずかに開いていることに気付いた。階下から明かりがこぼれている。誰かいる。それが高宮だと信じて疑わなかった。そして、頭に浮かぶのは彼が倒れている姿だけだった。必死に階段を駆け下りて、あの巨大なガラス窓がある通路に飛び出した。
高宮がいた。
別電源に切り替えられた通路の明かりは、いつもより暗く、真っ暗ではないがシルエットがわかる程度だった。でも、樹里には高宮だとわかった。あのガラス窓に向かって立っている。
「有!」
叫ぶと影がこっちを向く。「樹里」と彼のあの声が名前を呼ぶ。
駆け寄って傍に行くと、やっと彼のぼんやりとした間の抜けた顔が見えた。そのまま彼に掴みかかる。息もかからんばかりの間近にある彼の顔は、驚きで固まった。無事だ。そのことにほっとすると同時に、それまで胸を満たしていた心配、恐怖が怒りへと変わった。
「あなた、死にたいの!」
「え……」
「あの男みたいに桜で死にたいの? 危ないの。あなた桜で死んじゃうの。五分もほっとけば、助からないの。なんでここに来たのよ! 機能が止まってたらどうするつもりだったの、ばか!」
「……ごめん」
めちゃくちゃに叫ぶ樹里に圧倒されて、でも、心配させたのだと気づいて、高宮は小さく謝った。
「そんなつもりじゃなくて。ただ、この桜を見たかったんだ。ずっと見られなかったから……君に頼める感じでもなかったし。さっき停電になって、もしかして、ドアが開いてるかもと思って……ごめん」
俯いた樹里から嗚咽が聞こえて、高宮は謝罪を繰り返した。
樹里は肩を震わせながら、本当のところ、高宮の声を聞いているうちに、もうどうでも良くなっていた。無事だった。それで良いじゃないか。頭ではそう思っているはずなのに、一度、制御が外れるとダメだった。体はすでに泣く態勢に入っていた。涙が止まらない。
本格的に泣きだした樹里に、高宮は少しの間どうすれば良いのかわからなくなった。しかし、やがておずおずと樹里の背中に手を回し、その体を優しく揺すってなだめ始めた。その振動と、傍で謝罪を繰り返す声がひどく心地良い。次第に落ち着きを取り戻し始めた樹里は、目を瞑ってゆりかごの赤ん坊のように身を任せた。
しばらく続いていた振動がぴたりと止んだとき、前触れもなく、それまで樹里を揺すっていた腕が、ぎゅっと強く彼女を抱きしめた。樹里は驚いて目を開けた。そんな樹里の耳元に高宮は顔を近づけた。
「……君の気持ち、少しわかった…………かわいそうだ」
樹里以外の誰にも聞かせたくないとでもいうように、本当にかすかな囁きで呟き、高宮は樹里を離した。
「え?」
ぱっと高宮を見上げたが、高宮は素早く樹里の手をとり、何事もなかったかのように歩き出した。
「西野さんたち、たぶん心配してる。行こう」
「う、うん」
樹里は高宮に従って足を踏み出した。最後、ガラス窓を離れる際に、高宮は暗闇に息をひそめて立つあの桜を一瞥して、目を細めた。何の濁りもないその瞳は、しかし、すっと瞼に閉ざされ、振り払うように彼は桜から顔をそむけた。
停電は短い時間ですぐに復旧した。だが、最小限に抑えたものの、研究サンプルへの被害は免れなかった。重要なものほど繊細な扱いを要する。長い時間をかけて経過を見守っていたもので、一から始めなければいけないものもあり、研究が大幅に後退することは確定だった。
停電の原因ははっきりせず、結局、施設の老朽化、つまり、事故として片づけられた。
そんな理由で研究所の人間は納得なんてできなかった。実質的な被害に加え、メディアからのバッシングもひどく、精神的に追い詰められた。そんな中で自然に犯人探しは始まった。そして、皆の意見はすぐに一人に集約される。高宮だ。『十万分の一』の人間として、センターの人間として、桜に恨みがあり、かつ、研究所内部をよく知っている。これ以上の犯人はいなかった──
「どういう意味ですか」
声は抑えつつ、それでも、怒気をにじみ出して樹里は言った。
「ゆ、高宮さんのアリバイ探しですか。いえ、アリバイがないことを探しているんですか」
「そういうわけではないんだ。北川君」
力なく所長は言った。
「確かにあの停電は事故と片づけるには不審な点が多いけど、私は高宮さんが犯人だとは思っていない。でも、皆納得しないんだ。今の状態は研究所に悪影響だ。なんとかしたいんだよ。だから、事実を知りたいんだ。あの時、彼は何をしていたのか。君は停電のあと、彼といっしょに現れたじゃないか」
それが疑っていると言うんだと思ったが、言えなかった。所長は見るからにやつれていた。代表として、批判の矢面に立っているのは所長だ。弱っているところに、追い打ちをかけるなんてことは樹里には出来なかった。それに、樹里は高宮を信じていたが、それは感情論でしかなく、論理的に相手を説得させるだけの証拠を持っていなかった。
「……本当に、知らないんです。停電のとき、彼が何をしていたのか。直後に地下に行ったら、彼がいただけで。本当に、それだけしか、知らないんです」
「そうか……」
所長は大きくため息をついた。そして、少し微笑んで、ひらひら手を振った。
「うん、わかった。もう、下がって良いよ」
「はい……失礼します」
一礼して、退室する。所長室から出た樹里は、偶然、部屋の傍にいた職員二人と目が合った。二人は慌てて目をそらし、いそいそと歩き去ったが、一瞬見えたそれは好奇の目だった。皆、どうして樹里が所長に呼ばれたのか、見当はついているのだ。誰もがあの時、高宮は何をしていたのか知りたがっているのを樹里は知っている。しかし、誰も訊くことが出来ず、樹里もそのことに関して何も言わなかった。だが、静かな研究所でひそひそ声はどうしても聞こえてくる。歩いていると気のせいではなく、距離をとられる。嫌な空気が充満している。所長が悪影響だと言いたいのもわかる気がした。それでも、どうしても樹里には高宮が犯人だとは思えなかった。
「ねえ」
ぼんやりとしていた樹里は、舐めるようなねっとりした声を耳にし、途端、背筋にぞくりと寒気が走った。見ると、いつの間にか入り口のロビーにいて、高宮が詩帆と呼んだセンターの女性がそこに立っていた。
「……あ、えっと、どうなさいましたか?」
予想外の人物に声をかけられたことに驚き、しどろもどろに言った。
(何を恐がっているんだろう……事務的な用事で来たのかもしれないのに)
言ってから、そう思い、彼女に近づく。
「あの、センターからの用件でしたら、事務所の方に」
「今日よ」
「はい?」
唐突に彼女は言った。向けられた視線に樹里はびくっと震えた。目ばかりがぎらぎらしていて、けれど、口元はさもおかしいと言わんばかりに、にたりと裂けるように笑っている。
「今日、またなくなる」
「何を言ってるんです」
「あんたの大切なものよ。あんなもの大切にする気が知れないけれど」
「大切?」
「情報が入ったの。あれがあるって」
(……まさか)
ここまで聞けば明らかだった。あのカスミザクラのことだ。樹里は真っ青になった。その顔を見て、我慢できないとばかりに彼女は哄笑した。
「悲しい? 悲しいわよね。大切だものね。愛しているんだものね。だから、こんなところでこんなことしてる。ばっかみたい。悲しめばいい、苦しめばいい。愛するものを失うのがどんなつらいか知ればいい!」
最後まで聞いてなんていられなかった。樹里は走り出した。
樹里の姿が、遠く、門の外へと消え、視界の中が無人になっても、彼女はそのまま立ちつくしていた。夕方の光の変化は速い。だから、それほど時間は経っていなかったのだろう。景色が絵のように変わらない中、一つの影だけが、絵に加わり、こちらに向かって歩いてくる。
「詩帆?」
傍に来た高宮が不思議そうに声をかける。
「なんで、ここに……」
「残念ね」
高宮を見上げた彼女の声は、さきほど樹里に聞かせたものとは打って変わって静かだった。
「あんたが、あんなに迷っていた役割……私が取っちゃった」
「なっ」
高宮は大きく目を見開いた。
「それとも良かったのかしら? 直接あんたがあの女を傷つけなくて済んだんだし」
淡々と言葉を口にする中、高宮の目に怒りが閃く。
「お前……!」
言葉もろくに口に出来ない怒りを向けられても、平然としている。しかし、それ以上彼女に何もできない高宮を見て、かすかに笑った。その顔は憑き物が落ちたようで、それでいて、ひどく悲しげだった。俯いた彼女の耳に遠のいていく足音が聞こえた。
「……あんたも、愛するものを奪われたのは同じなのにね……」
一人佇む彼女の言葉は誰にも聞かれず、黄昏の光に溶けた。
山に入ったころには、辺りは真っ暗になっていた。明かりも何ない中、道らしい道もない。昼間ならなんとも思わずに通っていた獣道も、夜目ではまともに見えない。根に足を取られては何度も転び、体中泥だらけだった。いつも履いているパンプスではずっと走り続けることなど出来ず、木の幹に手をついて立ち止まった。呼吸が荒く、肺が痛い。粘り気のある唾液が喉に絡んで、尚更、呼吸が苦しかった。
(行ってどうするというのだろう……)
行っても桜がないことを確認するだけだ。それなのに、行く必要なんてないのではないか。走っていれば背後に残しておけた思いが、立ち止まれば、無情にもすぐに追いついて来る。
(そんなの分からない。あるかもしれない)
だとしても、すでに桜の存在はばれている。遅かれ早かれあの桜は切り倒される。まだ成長しきっていない若い桜。子どものような桜。他の木々に隠され、ひっそり生きる桜。あの桜が誰かを苦しめているなんて今だけは思いたくなかった。何もしてない。あの桜は静かにあそこにいるだけだ。誰も苦しめてなんかいない。前のめりになってまた樹里は走り出した。よろめいているのが自分でもわかる。またすぐに息が上がる。
(お願い、もうちょっとだから)
ぎゅっと目を瞑り、ぱっと開ける。
自分の影が落ちた。
思わず樹里は立ち止まった。見上げれば、満月が煌々と輝いていた。今まで木の枝が頭上を埋め尽くしていたので、気づかなかった。見回したそこは見知った場所だった。
(ここ、カタクリの花の群生地だ)
そう、あの紫の花が咲く地。
(この近くに、あの桜が……)
樹里は疲れも忘れて身を翻し、桜のある方向に向かって走り出した。大した距離も走らず、目の前に明るい場所を見つけた。日当たりの良い、あの桜が生きる場所。樹里は光の中に飛び込んだ。
そして、薄紅の影を見た。
「まん、かい……?」
場違いな呟きに樹里ははっとして頭を振った。違う、そうではない。
(あった……)
桜はまだあった。切られてはいなかったのだ。樹里は桜に歩み寄った。
もう春も終わりだというのに枝いっぱいに花をつけた桜が、そよ風に揺れていた。そんな風にさえこぼれ落ちてしまいそうな儚い花が、枝の先で踊るように揺らめく。その姿はその名の通り霞のようだった。
(でも、何で?)
彼女が嘘を言うようには思えなかった。それなのに、なぜ、桜はまだ無事でいるのか。それとも、この桜のことではなく、別の桜のことだったのだろうか。自分が勘違いをしただけなのか。そう思いをめぐらす樹里の耳に聞きなれた声が届いた。
「やっぱり、そっちから来たか」
樹里は硬直した。
木々が作る陰の一部が光の中でその姿を形作る。見るまでもなかったが、まるで軋む音が聞こえそうなぎこちなさで、樹里は声のした方を見た。高宮の姿を認めた瞬間、息が止まった。まるで金縛りにでもあったかのように、指先一つ動かせなかった。少しでも動けば、世界が壊れると思った。
(なんで、なんで、なんで……)
壊れたオルゴールのようにそれだけが頭の中で繰り返された。もっと考えるべきことがあるはずなのにと心ばかりが急く。しかし、その考えるべきことすら、何なのかわからない。
目の前に高宮が立つ。樹里を見下ろして、彼は泣きたくなるような優しい声で囁いた。
「樹里」
その声で呪縛が解けた。樹里は弾けるように高宮の腕を掴んだ。
「有、ダメ、ここは!」
「樹里、俺」
「桜が」
「樹里、落ち着いて」
ぐいぐい引っ張る樹里の腕に、掴まれていない左手をそっと添えた。そこで樹里はやっと気付いた。ふらつきながら高宮から距離をとる。驚愕する樹里を見て高宮は眉を曇らせた。
「なんで……もう、症状が出てるはずなのに……」
「ごめん」
「なんで……」
それは問いの意味を持たない、ただの呟きだった。何も考えられなかった。
「樹里、俺……」
高宮は僅かに視線を落としたが、意を決して樹里を見た。
「俺、『十万分の一』の人間じゃないんだ。ほんとは君と同じ、『二割』の人間なんだよ」
樹里は空気を食むように口を動かした。言葉が喉元までせり上がってきているのに、あと一歩で声にならない。何も言えない樹里に高宮は申し訳なそうな顔を向けた。その顔は別の感情、夜の闇のような静かな悲しみに染められていく。
「『十万分の一』の人間は俺じゃなくて、俺の恋人……だった、戸田詩織」
「……恋人、って……あの藤の精……」
やっと口にできたのは、そんな間の抜けた言葉だった。高宮は苦笑を浮かべた。
「ああ、綺麗な子だった。詩帆、センターの戸田詩帆と話したよね。詩帆は詩織の姉。感じは違うけど、彼女を見ればわかるだろ。妹の詩織も整った顔立ちをしていた」
気づかずにはいられない。彼女の名前を口にするとき、高宮は何より愛おしそうな顔をする。
「あの藤の下にいるのを見かけて、近所に住んでいるのを知った。大学生で、英文学を学んでて、読書家だった。あまり外に出ないから、肌が白くて、少女のような細い体をしてて、繊細そうな見た目のくせに、気が強くて、意地っ張りで、いつも強がってて……」
高宮は苦笑を深くした。
「どうしてかわからないけど、好きにならずにはいられなかった」
高宮の目は樹里を通り越して、どこか遠くを見ていた。
「何度も、何度もアタックした。詩織は断るときに、いろんな理由を持ちだしたけど、結局言いたいのは『十万分の一』の人間であるということだった。だから、いろんなことが制限されると。そんなこと関係ないと思った。別に遠出なんて出来なくても良かった。普通に生活できる彼女を見れば、何も問題なんてないように思ってたんだ……でも、やっと受け入れてくれて、付き合うようになって初めて彼女の言いたいことがわかった……彼女はいつも怯えていたんだよ、人々の心から決して消えない桜の影に」
高宮の視線が樹里に戻ってくる。不純物のない視線が樹里の心の奥を貫く。
実物がなくとも、毎年春には見かける桜の飾り、本物を見たことのない幼い子どもが作る折り紙の桜や桜の絵、他の植物では考えられないバーチャル映像の設備、そして、あの研究所の存在自体がその証拠だった。
(そうだ。桜が特別なのは、私だけじゃない)
日本人の心には桜の存在が巣食っている。実物が消えても、桜は人々の心から消えることはない。それを研究所の人間である樹里は誰よりも感じている。桜を愛する者にとって、それは何より心強いものだ。だが、もし、反対の立場だったら──
「桜を望むことは、『十万分の一』の人間にとって、自分を否定されることと同じだ」
「そんなこと……」
「違うと言えるかい? 全身で桜を拒否する彼らは、自由を制限され、進学、就職で社会的な差別を受けた。そして、桜大伐採の大義名分として使われた彼らに、桜を望む人々、つまり、ほとんどの日本人の恨みが集中した。誹謗中傷、嫌がらせ。自分の命を危険にさらすだけでなく、桜によってそんな精神的なプレッシャーまで与えられる。どうやって桜を認めろと? 出来るはずない。そして、そんな彼らを周りは認めないんだ」
高宮は苦しそうに顔をしかめた。
「初めはどうしてそんなに怯えるのかわからなかった。町に出るとはびくびくしている。もう桜はないのに、どうしてって思ったさ。どんどん縮こまっていく彼女をどうにかしたかった。あの藤の木の下で見たようにしゃんと背筋を伸ばして彼女らしく立っていてほしかった、それだけを望んだ。それなのに……それを邪魔する桜を、俺は、憎んだよ」
樹里は何も言えないままだった。今ならわかる。高宮から教えてもらったサクラアレルギー患者についての様々なこと、その裏には常に戸田詩織の存在があったのだ。樹里には高宮のその気持ちがよくわかった。光の下でのびのびと。樹里の桜に対する気持ちと同じだった。
高宮の瞳に影が落ちる。
「詩織は鬱になった。そう診断された直後に自殺したよ」
樹里は息をのんだ。
「自殺する前にメールしてきた。『さよなら』ってさ」
高宮はふられたと言っていた。確かにそれは諦め悪く引きとめることすら許されない、一方的な別れだ。
「彼女が死んで、ありふれた言葉だけど、目の前が真っ暗になった。なんで彼女は自殺なんてしなくてはいけなかったのか。それが知りたくて、彼女が何を見ていたのか知りたくて、だから、『十万分の一』の人間になってみようと思った。それで、俺のことを知らない研究所に近づいた。そうした途端……」
一度、言葉を切る。夜の色に染められた彼の顔に、その時、かすかだが、確かに笑みが浮かんだ。そして、樹里を見つめた。
「君に怒鳴られた」
「え……」
そこで自分が出てくるとは思わず、樹里は小さく声をもらした。
「いきなり洗礼を受けた気分だったよ。彼女もこんな風に罵られてきたのかってね。でも、君のあの叫びは違ったんだ」
樹里は無意識に頭を振った。力をこめた手に爪が食い込んで痛い。
「違わない、私も、同じだよ……」
「違うんだよ。そうでなければ、俺は桜という存在をもっとまっすぐ見ようだなんて思わなかった。君の桜を見る目に感化されたんだ。一途に桜を見つめる君に……」
高宮はすっと傍にある桜を見上げた。風に吹かれ、葉が擦れ合う音にしばし耳を貸す。涼やかな空気が二人の周りに漂った。今、この場所には恨み辛みといった負の感情はなかった。なんのしがらみもなく素直になれる気がした。高宮は樹里に向き直った。月の光に照らされた瞳に陰りはなかった。
「桜をまっすぐに見つめる君に、惹かれた」
樹里はあっけにとられて、うん、好きなんだ、きっと、と自分に言い聞かせるためだけの高宮の一人言を聞いていた。
「初めは詩織を失った後でそんなこと認めたくなかった。ただ、さっぱりと気持ちの良い相手だと思った。この人が相手なら、今までのことをチャラにして桜を見れるんじゃないかって。だから、近くにいたいと思うんだろうって。そんな風に言い訳していたんだよ。でも、例え、初めは本当にそれだけだったとしても、途中で変わっていた。好きになってた」
ガラス細工を扱う繊細さで高宮は言葉を口にした。繊細だから、繊細すぎるから、樹里はその言葉を受け取れずにいた。高宮の言葉は綺麗過ぎた、現実味がわかないほどに。それはまるで──
(思い出を語るよう……)
不思議とまったく色めいた感情が起きなかった。それは彼の言葉の裏側をなんとなく感じとっていたせいかもしれない。
桜が風でざわめく。その姿を見ると、まるで鈴がシャラシャラと鳴っているようだ。その音が隙間を駆け抜ける。そう、『孤独』という隙間を。樹里の表情を見て、高宮はくしゃっと顔をしかめて笑った。まるで泣いているようだと樹里は思った。
「最後に、君に自然の中にある桜の花を見せたかった。それで、今日──俺、センターの責任者の人とは仲が良いんだ。だから、頼んで、明日まで役所に知らせるのは待ってほしいって……本当はずっと知ってたんだよ。ここに桜があることも、君がここに桜を見に来ていたことも。センターに桜かもしれない木があると相談があって、調査していたのは、俺で、その時、君がここにいるのを見つけてしまったから。でも、ずっと、どうすることもできずにいた。役所に通報することも、君に本当の事を言うことも」
淡々とした高宮の語りは一段ずつ終わりへの階段を登っていた。それを遮ることはできなかった。止めたかったけれど、止めれば、そこが終わりになるだけだと気づいていた。
「詩織を亡くしてから初めて素直に桜が『綺麗』だと言えた。君の隣りだから言えたんだ。でも、それは偽物の桜で。それで、ほんと、衝動的にだけど、地下の桜が見たいと思った……あの停電は俺じゃない。言えないけど、誰がやったかはなんとなく見当はついてる。おかげでって言うのも変だけど、見ることが出来た。そして、ふっきれた」
「でも、有はかわいそうだって」
最後の一段を登ったことがわかって、樹里は我慢できずに言った。高宮はこくりと頷いた。
「うん、かわいそうだと思った。暗闇で縮こまって、本当はもっと綺麗なのに、光を浴びて、輝いているはずだったのに…………詩織と同じだ」
ピシッ。今まで大事に守っていたガラス細工にヒビが入る。醜い白い傷跡が浮かんだその中で感情が乱反射する。
ごめん。何に対してかわからない謝罪を高宮は口にした。それは、言うなれば全てへの謝罪だった。
「『さよなら』だ。樹里」
詩織という女性が言ったものと同種の別れの言葉だと瞬間的に気付いた。
「詩帆が君にこの桜のことを言ったと聞いて、君はここに来ると思った。そのとき、やっと決心できた。ここで言おうって」
一言で終わらせない彼は彼女より優しいのだろうか、それとも、残酷なのだろうか。麻痺した頭で思ったのはそんなことだった。
「君は好きだ。でも、桜は嫌いだ。どうしても……」
乱れ散る感情が刃となって、内側から樹里をずたずたにしていく。痛みさえもわからなくなる中で、反射的に涙があふれた。そして、思う。
(この人はどこまで卑怯なの)
最後の最後ではっきり好きと言うなんて、ひどすぎるだろう。
「桜だけ……」
嗚咽ですぐに言葉が途切れる。肩を震わせてしゃっくりを上げる樹里に、何? と優しく声をかけて先を促した。
「違うの、桜だけ。それだけじゃない。なんで、全部、同じ必要、ない、じゃない……」
「そうだね」
同意とも否定とも取れる言葉を返す。そして、それは静かな最後だった。
「だけど、それが致命的なんだよ……」
高宮も内から溢れる衝動に耐えるように少し口を閉ざし、唇を噛みしめた。だが、震える息で深呼吸をし、すでに二人には自明の事柄を形にする。
「君はきっといつか桜を復活させるだろうね、何があっても。だけど、その時、俺は隣りでそれを喜んではあげられない。それは何よりも君を傷つける。だから──」
いっしょにいられないよ、とぽつり見えない涙が落ちた気がした。その涙が胸に落ちたとき、乱反射していた感情がその涙に集中して、その暴走を止めた。
嗚咽が少しずつ収まっていく。なんとか最後の嗚咽を飲み込むと、樹里は涙をごしごしと拭いた。彼のことを卑怯だ、卑怯だと言ってきたが、
(私も卑怯だ。つらいこと全部言わせてる……)
諦めというには未練が多すぎるけれど、樹里も高宮と同じ思いだった。どうすることも出来ない。桜はそれだけ、樹里とは切っても切れない一部なのだ。それと同じように、戸田詩織の存在も、彼女を通して見てきた桜への思いも、高宮にとって、自分から切り離すことのできない一部なのだ──
ここまでだった。
樹里はすっと手を差し出した。少し呆然とその手をみていた高宮だったが、樹里の顔を見て、泣きはらした目で、それでも笑っている彼女を認めて微笑んだ。そして、その手を握り、握手を交わした。
「さよなら」
「ああ、さよなら」
別れる二人の頭上で咲く満開の桜は、結局、ひとひらの花弁も落とすことなく、風に静かに揺れていた。
数日後、見に行くと、桜は跡かたもなく、なくなっていた。根こそぎ持って行ったようだ。若木が占めていた空間は僅かで、きっとさほど時も経たずに別の植物がそこを居場所とするだろう。そうやってこの山の隙間は埋められる。埋められないのは、樹里の心の隙間だけだ。あの桜はどうなったのか。しばらく迷っていたが、ずっともやもやとした気持ちでいるのも嫌だった。どうせ焼却処分されたのだろうとは思ったのだが、役所に問い合わせてみた。あの山の近くの住人で、あの辺りで大掛かりな作業をしていたようだが、桜の伐採だったのではと言えば、あちらは疑うこともなく、逆に、ご心配をおかけして申し訳ありませんと電話口でぺこぺこと頭を下げる様子が見えるように謝った。桜は国の専門機関が処理するので、どうなったかはわからないとのことだった。恐らく通例通り焼却処分されているので、ご安心くださいという言葉が返ってきた。「そうですか」と返す樹里の言葉が虚ろだったからだろう。役所の対応に対する苦情で電話をしてきたのではないと悟ったのか、役所の職員はなんとなしに言った。
「そういえば、あの桜、よくはわからないんですが、検査された結果、サクラアレルギーを出さない桜だったようですよ。珍しい珍しいと担当の人が言ってました。こんなこと言うのも不謹慎ですけど、それなら、切り倒さなくても良かったのにと……あ、これは個人的な意見ですよ。でも、ちょっと残念かなあって」
その軽い口調に、樹里は相手がわからないようにふっと笑った。怒る気力もなかった。全てが憐れなほどに滑稽だった。
ただ、頭の中であのカスミザクラがやっと散った。また花をつけるには、一度散らなくてはならない。「そうですね」と言って樹里は電話を切った。遠くで、西野が大声で樹里を呼んでいるのが聞こえた。
あとから知ることになるのだが、この時、研究を大きく進めることになる貴重なサンプルが手に入ったのだ。今では、手に入れることがほぼ不可能な天然の日本の桜。そして、それはサクラアレルギーを引き起こす化学物質を持たない特殊な桜だった。
終