序章(八) 月夜 下
「こりゃあ、洒落にならんな…」
と、ドーブがいった。
頬杖をつきながら、ぼうっとアスラを眺めている。
それを見つめているアスラの面も、ほんわかとした橙の色に染まり、あどけない顔立ちがくっきりと闇夜に浮かび上がっていた。
長い睫毛が、ぱちくり、ぱちくりと瞬きの度に上下していた。
「なにがかえ?」
アスラは訊いた。
今のちょっとしたやり取りで、何が洒落にならないのであろうか。
特におかしな所はなかった筈である。
強いていえば、トッテの叫び声は解せないが、若さゆえにそういうことをしたくなる時もあるのだろう。
ただし、ここは森に近いので、場所を弁えてほしかった。
あんなに大声を出したら、獣でなくとも気づく。
番をしている者が、わざわざ獣を刺激するような行動を取るなど、本末転倒も甚だしい。
「いや、アスラさん、顔が…」
トッテである。
顔がどうしたのであろうか。
アスラは右手に荷物を抱え直し、左手でぺとりと顔を撫ぜた。
洗顔はしっかりとしてきたので、汚れはついていないだろうし、特に異物もない。
それほど驚くべき要素がどこにあるというのであろうか。
「変なものでもついておるかや?」
「そうじゃなくてだな…」
と、今度はドーブが返した。
どこか夢見心地である。
声も硬い。
やはり、相当に驚嘆していると見える。
(もしや、齢か)
と、アスラは思いついた。
自己紹介では爺といったが、アスラの外見年齢は十歳そこそこの少女のものである。
顔には当然の如く幼さが残っているので、それに驚いているのではないだろうか。
一応、性別のこともあるだろう。
(だがまあ、先の会話でも、奴らは包帯の下はどうのこうのと冗談を飛ばし合っていたからな。
これだけ驚けば、ドーブもトッテも満足したのではないかえ)
と、アスラは自己完結した。
「なんだ?
おれが若くて驚いておるのか?
なに、こう見えても六十五の爺ゆえ、気にするな」
「いやいや…。
こんなに可憐な六十五の爺がいるわけねえだろ…」
ドーブがそんなことをいった。
吹き出しそうになった。
面白いことをいう若者だ。
可憐とは、何とも愉快である。
六十五になってそのようなことをいわれるなど、誰が予想したか。
(おれには一生縁のない言葉よ)
と、アスラは思った。
今となっては、剣を振り回すことくらいしか生きがいのない爺が可憐とは。
全くもって似合わない。
(しかし、今いわれたのう)
そう思うと、腹の底が余計に震えてきて、遂にこらえきれず…。
「くくく、あっはっはっは」
と、笑ってしまった。
「な、なんだよ」
「くくく、お前さんがあまりにも面白いことをいうのでな。
思わず笑ってしもうた…くく」
と、浮ついた声でアスラは返した。
黒い髪が青白い月光を浴びて白銀の煌めきを纏っている。
ほんのりと残った湿り気が、実に艶やかである。
「か、可愛い…」
トッテが何事か呟いたが、笑っているアスラには聞こえなかった。
「ったく、折角褒めてやったのに。
何が面白いんだか」
「くく、悪い。
気を悪くしたのなら謝るが…くくく」
「なんだ、なんだ。
どんだけ面白かったんだよ」
「いや、済まぬ。
くくく、愉快でならんのよ」
「なんだ?
可憐ってのが面白かったのか。
ならば、それっ、可憐、可憐、可憐~っと」
「くっくっく、や、やめんか。
あっはっはっはっは、だめじゃ、と、止まらぬ…」
ドーブの連続可憐攻撃で、アスラはツボに入った。
適当な言い方が、また面白いのである。
そんな時、浜の方から声が聞こえた。
走るような足音も伴っている。
「どうかしたのですか…!?」
小さな呪い師イマイと、若い青年が駆けてきた。
恐らく、トッテの叫び声が原因である。
突然あんな大声を出すものだから、何か大事があったのではないか、と勘ぐったに違いない。
「あ~、なんでもない。
トッテが驚いただけだ」
ドーブが状況を説明した。
アスラはまだ笑っている。
「そ、そうなんですか…。
なにか起きたのかと思って心配しました…」
イマイはそういって胸を撫で下ろした。
そして、笑っているアスラを見つけると、息を呑んだ。
隣の青年もである。
ドーブがやれやれといった感じで頭を抱えた。
「くくく、ああ、笑った、笑った。
ようやっと収まってきたわい…」
アスラは漸く笑いのツボから抜け出し、はーっと息を吐いた。
ドーブという男、中々にできる。
まさか、妙な手口で笑いを取らせようとするとは。
可憐という言葉、恐るべしである。
落ち着いて辺りを見回してみると、駆け付けた者らを合わせた五人全員がアスラの方を見つめていた。
奇妙な雰囲気が醸し出されている。
誰も口を開かない。
なので…。
「どうした?
そんなにキョトンとして」
と、アスラはすかさず訊いた。
すると、沈黙を保っていたセーレンが、意を決したような顔をして、ひたひたとアスラに近づいてきた。
表情は相変わらず鋭いが、杖は置いてきてあるので、害意はないように思える。
アスラは静かにセーレンを見つめた。
セーレンは何も語ることなく歩を進める。
遂に、目前まで迫った。
セーレンは長身なので、アスラは必然的に見上げる形となる。
上目遣いになるのも自然である。
暫し、ぼーっと見つめていると、セーレンの手が不意に伸びて――
「失礼します」
――アスラの頭を撫ぜた。
「……?」
今度はアスラがキョトンとする番であった。
何をするのかと少し警戒したのだが、本当に何をしているのだろうか。
アスラは肩透かしを食らった気分であった。
撫でる手は驚くほどに優しい。
なぜ頭を撫でるのであろうか。
「…お主は何をしておるのだ?」
「なんでしょうか…。
こうしたくなってしまって」
「ふうん…。
これは楽しいのかえ?」
「ええ。
楽しいです」
セーレンが薄く笑った。
切れ長の目が、柔らかに細められている。
この者は、笑うと印象が変わる。
とても優しげになるのである。
「そうか…。
変わっておるな、お主」
「そうですね…」
と、暫し、なすがままに撫でられていた。
ほどなく、セーレンが立ち上がり、満足げな顔でドーブらの方へ歩いて行った。
なんとも不思議な若者である。
おれなどの頭を撫ぜても仕方あるまい、とアスラは思った。
あるいは、なんらかの癖なのかもしれんな、とも思った。
そう一つ頷くと、
「ふむ…。
さて、もう飯時であろう?
夕餉は、おれが腕によりを掛けて作るゆえ、期待しておいてくれ」
と、アスラははにかんだ。
ドーブが照れくさそうに鼻の頭を掻くと、
「あ~、悪いな…。
生憎、主だった礼ができそうにないが…」
と、いった。
他の者らも照れくさそうにしていることから、この若者らの謙虚さが伺える。
素晴らしいことだが、若い内は少々横柄な位がよい。
若さとは、そういうものである。
「はっはっは。
若い者が気にすることではないよ。
それはそうと、船の者らは大事ないかえ?
薬膳をこさえるから、その者らにも食わせてやっておくれ」
「いや、本当に助かる」
「ふふ、なんだ?
急によそよそしくなったな」
「う~む、そういう訳じゃないんだが…」
と、難しそうな顔をした。
そこで、トッテがこんな質問をしてきた。
「あ、あの…。
本当に六十五歳なのですか?」
「うん?
本当さ。
おれは六十五歳になるよ。
まあ、外観は少しばかり若いが、な」
それを聞いてトッテが黙り込んでしまった。
間違ったことはいっていない。
精神は、今年で六十五になるのである。
肉体の方は知らないが、十と幾つかであろうか。
無理があるような気もするが、仕方がない。
これで押し通した方が、色々と都合がよいのである。
ここで、再びトッテが質問を飛ばしてきた。
「では、失礼ながら、性別は…」
失礼というより、難解な質問である。
精神は男そのものであるが、肉体は女子のもの…。
本来なら男といいたい所ではあるが、乳がぶら下がっている以上、男という訳にはいかない。
相棒もないのである。
性別とは、身体的特徴によって決定されるものだ。
つまり、暫定的ではあるが…。
「女だよ」
と、答える他はない。
それを聞いたトッテの顔が、心なしか赤くなった気がする。
あくまで、気のせいであろうが。
…それはそうと、その程度、顔で判断できなかったのであろうか。
一応、それなりに女らしい顔をしていた気がするのだが。
この顔は、他人から見ると、どのような造形になっているのか、甚だ疑問である。
驚かれたり、性別に疑問を持たれたり、散々ではないか。
今しがたの可憐とやらも、冗談というよりは皮肉なのではないだろうか…。
ドーブという男なら、やりかねない感があるのが怖い。
まあ、顔など、特に重要ではないのでどうでもよいのだが…。
「おいおい、アスラさん。
あんた爺さんじゃなかったのかよ。
嘘ついたな」
「爺さんだとも。
女だけれども、爺さんなのさ」
「なんじゃ、そりゃ」
ドーブが呆れたような声を出した。
対するアスラは、にやにやと顔を綻ばせており、
「ふふん、そういうことなのよ」
と、堂々としているのである。
「……ぷっ。
くっくっく、そうかい」
「うむ、そうなのだ」
ドーブと二人でけらけら笑った。
やりとりを聞いたセーレンも、クスクスと笑っている。
段々と小さくなってきた焚火が、暖かく燃えていた。
♢
薬膳とは、即ち、料理と薬学の夢の共演である。
生きるということに措いて、食ほど重要なものはない。
体を構成する血肉は、まさしく食によって培われている。
力がでないときは肉を食らえばよいし、体調が優れないときは菜を食えばよい。
むろん、病を患い食欲が希薄な時も、しっかりと食事を取らねばならない。
旨い料理を口にすれば、自ずと元気も出るものだ。
食とは、健康と密接に関わっているのである。
一方、薬学は、健康を維持するための学問である。
薬草や、それを煎じた薬湯などを用い、傾いた健康状態を立て直すのだ。
薬を正しく用いれば、よほどの大病でない限り治るであろう。
しかし、薬は不味いのが自然の摂理であり、積極的に服用したくないのも事実といえる。
良薬は口に苦いのだ。
だが、薬学と料理が協力すればどうか。
健康状態を良くする薬草を、上手く調理して料理にすることができれば、これは無双である。
体にもよく、更に美味いとは、夢のようである。
…が、癖のある薬草や、生薬の類を調理するのは、一筋縄ではいかない。
正しい薬学の知識と、高い料理の腕が必須である。
そういった者も中々いない。
しかし…。
「うめえ!」
「ええ、素晴らしい味です」
「おいしい…」
「うまっ」
アスラという人間は、その少数派に当たる人物であった。
アスラの自宅で振る舞われた夕餉の薬膳は、大好評である。
「はっはっは、美味いかや。
それはなにより。
量も作ったゆえ、たんと食うとよい」
アスラは料理上手であった。
妻に生前、これでもかというほど腕を仕込まれたのである。
もともと母がいなかったので、それなりに高い料理の腕を持っていたアスラは、結婚後妻の料理の技術を瞬く間に吸収していき、今では相当なものになっていたのだ。
もともと手先が器用であったし、飯を食うのも好きであったので、当然の流れだったのだろう。
アスラは、薬学の知識にも明るかった。
熟練の薬師には及ばなかったが、それに追随するものはあった。
アスラは学者連中とそれなりに懇意で、もともと物覚えのよい方であったアスラは、それを長年の内に暗記してしまったのだ。
薬膳は妻の得意料理であった。
薬草をつんでくると、精が出るようにと、よく作ってくれたのだ。
ドーブらの反応を見る限り、妻直伝の薬膳の腕は衰えていないらしい。
それにしても…。
「こりゃあ、ほんとにうめえ」
「ふふ、そうか。
まあ、お食べ」
これほど喜んでくれると、作った方としても鼻が高い。
自然と顔が緩むのも仕方がない。
アスラは完全に子供を見る目になっていた。
面に浮かぶ笑みが、優しいものであることはいうまでもない。
薬膳の仕込みには時間がかかるのだが、今回は、予め 仕込みをしておいたので、さして問題がなかった。
ドーブらが船に引き上げた時に、準備をしておいたのである。
そのため、ごく短時間で調理が終わった。
行水の前から、薬膳を振る舞う予定だったのだ。
アスラという人物は、基本的に手際がよいのである。
「あ、熱い…」
と、イマイが舌を出している。
汁が熱いらしい。
猫舌なのであろう。
「急がんでも大丈夫さ。
汁は逃げんよ。
大鍋で作ったから、一杯ずつ位ならばおかわりもできるだろうしな」
今回は、薬膳汁と、薬草と香草をすりこんだ肉を夕餉とした。
汁に用いた具は、トイジュルの若芽と、グンドル椎茸、イゾヘレハッシア、イボレの種である。
この内、後者三つは薬の類であり、中でもイゾヘレハッシアは貴重なものである。
イゾヘレハッシアは、人の掌くらいの大きさを持つ植物で、七色に輝く綺麗な花を咲かせるのが特徴である。
非常に優秀な薬草で、大抵の病はこいつで治すことができる。
こいつは森の奥の方にしか生えておらず、本気で取ろうとすれば、黄虎や赤蛇の縄張りに入ることは必須であり、面倒である。
森の中央付近の窪地にも生えているが、そこは白鳥の縄張りであるからして、どの道同じである。
…が、今回は偶然にもそう深くない所で、二、三本生えているのを発見したので、摘み取ってきた。
これは思わぬ収穫であったと、アスラは頷いたものである。
イゾヘレハッシアは苦いが、塩水に存分に付けると、刺々しい苦みが綺麗さっぱり抜ける。
苦みを抜いたイゾヘレハッシアは、歯ごたえが良く美味しい。
きつけということもあって、奮発して汁に入れたのだ。
グンドル椎茸は風味がよく、胃腸に良い。
腹を下した時には、これを煎じて飲むのだ。
摂取しすぎると、逆に腹を下すこともあるが、滅多にないことであるため無視して良いことである。
「この柔らかい実が美味しいですね」
と、セーレンが、レンゲで細長い実のようなものを掬った。
…が、実というのはハズレである。
細長い実のような具は、イボレの種だ。
イボレの果実には毒がある。
ある時期になると、その木に咲く花からは得も言われぬ良い香りが漂ってくる。
甘いような、酸っぱいような、ともかく良い香りが。
その香りに引き寄せられた生物は、実を食べ、毒を受ける。
相当に強い毒で、一かじりもすれば体が痺れて動けなくなってしまう。
そして、その毒で仕留められた獲物はやがて土に還り、その一帯に根を張るイボレの養分となるのだ。
なんとも恐ろしい木だが、イボレの実から取れる種には毒がない。
それどころか、木の養分がたっぷりと込められたそれは、疲労回復に優れた薬となるのだ。
これもまた苦みが強いが、軽く炒ることによって、その苦さは甘さに変わる。
なんでも、成分の一部が熱によって変質するらしいのだ。
薬効は大分落ちるが、美味くて体によいのだから、こちらの方がよいといえる。
「しっかし、全然薬みたいな味がしねえなあ。
こりゃあ、何杯でもいけるぜ。
あ、アスラさんおかわり貰っていいか?」
「はっはっは、よいよい。
男はそうでなくてはな」
「へっへっへ、そうだろ」
ドーブとそんなやり取りをして、おかわりを盛ってやった。
むしゃむしゃと肉を頬張るドーブを、微笑ましげに見ていると、不意に視線を感じた。
アスラがそちらに顔を向けてみると、トッテがぼうっとこちらを見つめていた。
視線を合わすと、慌てたように目を逸らす。
トッテだけではない。
よくよく観察してみると、何人かの者がそういった行動を取っている。
(ふむ…。
なんとも変わった若者らだ)
まあ良いか、とアスラは酒の入った椀を手にとった。
椀には白濁した酒がなみなみと注がれている。
アスラは酒を口へと運びながら、屋内の喧騒に耳を澄ませた。
そして、じっくりと見回した。
ケラケラと笑いながら飯を旨そうに食う者。
ボーっとアスラの方を見ていたことをからかわれて、曖昧な笑顔を浮かべる者。
静かに微笑みながら、汁をすする者。
大きな肉を前に、あたふたする者。
楽しげに肉を齧る者…。
そこには、団欒の風景があった。
久しく、触れていない、人の暖かさがあった。
胸が一杯になった。
遠い記憶の彼方にある、家族との思い出がよみがえり、アスラは目を細めた。
(皆で囲む飯、か…)
そんなことを思い、ちびちびと酒を飲んでいると、
「どうした、アスラさん?
肉食わないなら、俺が貰っていいか?」
と、ドーブが皿に乗った肉を指さしてきた。
自分の物は、既に食った後らしい。
「うん?
おお、これはいかん。
この肉は、おれの楽しみなのだ」
「そうですよドーブ。
自重しなさい」
と、セーレンが諌める。
「いや、これが美味くてとまらねえんだ」
と、ドーブが申し訳なさそうに言った。
アスラはそんな光景を目に焼き付けながら、
「ああ、本当に楽しいのう…」
と言って、肉に齧りついた。
その顔には、肉汁と満面の笑みが張り付いていた。
7月23日 気になったところを僅かに修正