序章(七) 月夜 上
今回は多少長くなったので、上下に分割しました。
そのため、文字数が少なくなっております。
客人らが全員水浴びを終えると、太陽は完全に沈んでいた。
光源がなくなった空はみるみる黒くなり、いまでは藍の色である。
月が明るく輝いていた。
やや欠け落ちた下弦の月である。
月が形を変えるようになったのは、五千年ほど前だという。
こんな御伽噺がある。
月には女神が住んでいた。
女神メテルヴァである。
夜を優しく照らす役目を持っていた。
メテルヴァは、優しく、美しい、偉大な神だったが、一つ悩みがあった。
太陽の神ウジャベに、住む所を莫迦にされたのだ。
太陽神ウジャベのいますところは、光の大神殿である。
雄大な空を照らしつくす太陽の輝きは、その神殿の頂きにある燭台に燈った《大いなる炎》によるものである。
メテルヴァの神殿は大きかったが、ウジャベの大神殿に比べれば小さかった。
メテルヴァは悔しくなって、自分の神殿を大きくしようとした。
…が、材料がなかった。
そこで、月の土を削って、自分の神殿を増築した。
完成した神殿は、ウジャベの大神殿よりも大きく、メテルヴァは満足した。
これで、住む所を莫迦にされることはないだろう、と。
しかし、今度はウジャベが、庭の広さを莫迦にしてきた。
ウジャベの神殿の庭は、とても美しく、広大であった。
一方、メテルヴァの庭ときたら、土を削り過ぎたのか、みすぼらしく、小さかった。
メテルヴァは悔しくなって、庭を大きくしようとした。
…が、土がたりなかった。
そこで、神殿の壁を崩し、埋め立てて庭を作った。
できた庭は、ウジャベのものよりも一層大きく、美しいものであった。
メテルヴァは今度こそ満足し、ウジャベに報告しにいった。
しかし、今度はウジャベが、住む所を莫迦にしてきた。
壁をほとんど崩してしまった神殿は、とても小さくなってしまっていた。
メテルヴァは、また悔しくなって、庭の土を削り…。
…と、こんなところだという。
女神メテルヴァが土を削ると、月が欠ける。
女神メテルヴァが神殿を崩すと、月が満ちる。
太陽神ウジャベは、それを笑いながら見ているらしい。
全くもって間抜けな女神様である。
どちらかを良くすれば、どちらかが悪くなる。
それに気付かないのだ。
二つは選べない。
アスラは、今日も女神さまは月を弄っているのかのう、と空を仰いだ。
体を洗いながらのことである。
沼の水面に、少女の艶姿が映っていた。
闇に溶け込んで消えてしまいそうな長い黒髪に、無垢な赤子のような白い肌が映える。
胸は形よく膨らみ、腰はすらりとくびれてい、水に濡れて艶めいている。
肉付きの良い太ももより伸びる脚も、細い鎖骨から伸びる腕も、指の一本一本まで、実にしなやかで、繊細だ。
滴り落ちるただの水滴すらも、至極の宝石のように見えた。
水面に波が立った。
少女の姿が揺らいで消えた。
アスラは水から上がった。
客人らは、アスラが行水をする間、番をしてくれるというので、好意に甘えた。
本来ならばいらぬところではあるが、こういうのも偶には良い。
なんとなく気持がほっこりする。
爺の感性だといえばそれまでだが、それがいいのだから、それでいい。
相も変わらず乱雑に体を拭くが、髪だけは念入りに、丁寧に拭いた。
膝の裏にまで達するような長髪なので、拭くのだけでも一苦労である。
それを丁寧にやるものなので、大いに時間がかかる。
だが、濡れたままでは敵わないので、少なくとも水滴は無くさねばならない。
地に着けば泥がつくし、宙を舞えば埃がつく。
それでは、身体を清めた意味がない。
拭き終えると、近くの岩の上に畳んで置いてある服を引っ掴んだ。
少し汗臭いような気もするが、まあ、気にしてはいけない。
そのまま上着を着た。
サラシは巻かないでおく。
下に身につけるのは、下着のみである。
行水をした後はすっきりと気持ちいいので、ズボンは履かないのだ。
残りの服と剣を忘れずに持ち、アスラはサッパリとした良い機嫌で沼を後にした。
沼から少し歩くと、ドーブらの姿が見えた。
ドーブと、セーレン、トッテの三人が番をしてくれたようだ。
残りは船の番であろう。
そこらから集めてきたのか、焚き火をたいている。
魔術で着火したに違いない。
楽しげに会話をしている。
少し耳を澄ませてみた。
「しっかし、俺達運がよかったよなあ。
こんなに精気が濃い所で人に会えたんだからなあ」
と、ドーブがケタケタ笑った。
「ええ。
それも、とてつもない達人に」
セーレンが相槌をうった。
「そうですよね。
あんな、怪物を一太刀ですもんね、あの人。
僕なんか、震えちゃってどうしようもなかったですよ」
トッテである。
「全くだぜ。
本当にあの虎にゃあ、血の気が引いたよ。
結構腕に自信があったんだが、俺もまだまだだな」
「例外ですよ、ドーブ。
あれほどの圧を放てる存在が、世界に何頭もいるものですか」
「でもよ。
何頭もいるって、アスラさんが言ってたぜ」
「それは、ここが異常なだけです。
こんなに精気の濃度が高い場所なんて、私も初めてです。
あるいは、霊峰のそれよりも勝るやもしれません…」
「ええ!?
ほんとうですか、セーレンさん。
確かに凄いとは思いましたけど、十字山の聖域よりも凄いんですか…!?」
トッテが大いに驚いた。
精気という単語は、昼間に、この長身の呪い師に質問済みである。
大地が、海が、空が生み出す、『この世界の血』ということらしい。
ようするに、生命の源であり、豊かな地は例外なく精気で溢れてることから、〈豊穣の脈〉、〈見えざる宝物〉とも呼ばれるという。
アスラは、目に見えないものは信じないことにしている。
事実、〈見えざる宝物〉の名の通り、視界には一切捉えられない。
だから、この話は、はっきりといって眉唾である。
…しかし、ウバークヒアレンのハイリヤとはなんであろうか。
「断言はできませんが…。
上陸した時は、並の聖域レベルかとも思いましたが、どうも違うようです。
森に近づいてみて、はっきりと分かりました」
「まあなあ…。
お前の話だと、ただの着火魔術でさえも失敗したんだろ?
全くもって理解不能だな、ここは」
「そうなんですよ。
窯に火を点ける時なんか、三回も失敗しましたから。
驚きましたよ」
「はっはっは。
元天才魔術師が聞いて呆れるな」
やはり、トッテは呪い師だったようだ。
元、らしいが。
「いいんです。
僕には弓があるんですから」
「まあ、兎にも角にも、ほんと運がよかったぜ。
魔術が碌に使えない状態で森に入ってたら、どうなっていたことやら」
「ええ…。
私も予想外でしたから」
「でも、セーレンさんは一回で出来ていたじゃないですか」
「ぎりぎりでしたよ。
精気があれほど扱い辛いものだとは…。
人生初の体験です」
「流石は、現天才魔術師殿だな」
と、ドーブが大げさに笑った。
三人とも、喋ること喋ること。
特に、セーレンがこれほど話すとは驚きである。
普段はもの静かだが、話す時は話すタイプなのだろう。
…それにしても、不明なことが多い。
ハイリヤがどうしたとか、ウバークなんちゃらとか。
どうにも、知識不足は否めないようだ。
「それにしても、アスラさんは不思議な人だよなあ」
と、ドーブが話題を振った。
アスラのことが会話の話題に上がったようだ。
当のアスラは、ゆっくりと顎を撫でながら、なおも盗み聞きを続けている。
「そうですよね。
まず、格好が少なからず不思議ですもんね」
「おおっ。
ほんとに変だよな。
第一印象が、包帯巻いた三つ編みのチビだもんな」
それを聞いたトッテがにやにやと含み笑いをし、
「それは案外的を射ているかも…。
三つ編みの包帯チビですか?」
「ああ、三つ編みの包帯チビだ」
と、二人でけらけら笑っている。
そんな会話を盗み聞ぎしていたアスラは、
(な、なんと……)
と、いった風に戦慄していた。
他ならぬ『チビ』という単語にである。
子供の頃は体格が小さく、言われ慣れていた言葉だが、外の言語を持って、あるいは、六十五にもなって言われるのでは、訳が違った。
かつて、これほどに威力を持った悪口があっただろうか…。
いいや、無い。
がっくりとアスラは肩を落とした。
確かに身長は小さいが、チビとやらは酷い。
言葉の響きが実に悪い。
もう少し老人に優しくしてくれないのだろうか。
そこでセーレンが、アスラの心中を汲んだように、
「でも、悪い人には見えません」
と、いった。
「お、それは俺も思った。
人がいい朗らかな爺さん…って感じだ。
飯も奢ってくれたし、少なくとも悪人じゃあないぜ。
あんなに凄え剣の腕を誇らないのも、何か渋くていい感じだ」
と、ドーブ。
どうにも、第一印象は散々たるものであったようだが、今はそう悪くないらしい。
アスラはちょっぴり持ち直した。
落としてから上げるとは、憎めない奴である。
「まあ、お人よしそうですよね。
顔は目しか見えませんでしたけど、優しそうな綺麗な目をしてました」
まあ、目だけじゃ人は判断できませんけど、とトッテがはにかみながら続けた。
こちらも、落として上げる戦術を取ってきた。
目が綺麗とは、初めて言われたな、とアスラは思った。
「クレントに聞いた話だと、六十五歳らしいからな…。
どこにでも超人爺はいるもんだ」
「デオ侯爵は確か、六十歳でしたっけ」
「デオ・エクスカリバーか?
あれは別格だぜ。
あんなのが何人もいたんじゃあ、たまったもんじゃねえ」
「確かに…。
古龍を単騎で討伐したという武威は、間違いなく歴史に残りますからね」
今度は、デオなる人物が話題に上がった。
侯爵というのは、何らかの階級だと推察できる。
なんでも、エンシェント・ドラグニルとやらを単独で討ったらしい。
歴史に残るということは、相当な偉業なのであろう。
デオ老人は、外の世界で一角の英傑とみた。
そこで…。
「まあ、あれだよな…」
「そうですね…」
ドーブとトッテがニヤリと笑った。
アスラは何故か嫌な予感がした。
これがまことに悪い笑みなのである。
二人は息を合わせると、
「アスラさんの方がちびっこいけど」
と、いった。
はっはっは、と笑っている。
愉快でならないといった体だ。
セーレンはしれーっとした目で男二人を見ている。
(こ、こやつら…)
どれほど身長のことを触れるのであろうか。
もうちっこいのは分かった。
確かに今のアスラの身長は小さい。
目算だが、八十エルデくらいだろう。
十三、四歳の女子並の身長だ。
…だが、そんなに執拗にいわなくてもいいではないか。
こちとら、好きで身長が縮んだのではないのだ。
…そもそも、沼は目と鼻の先であるからして、耳を澄ませば行水中でも聞こえただろう。
番をしている最中に番をしている者の悪口を垂れるなど、一体どのような神経をしているのであろうか。
大した度胸であるが、褒められることではない。
トッテは誠実な印象だったのだが、以外にも悪戯小僧のようだ。
悪乗りをするタイプであろう。
「二人とも、アスラさんに聞こえますよ。
それに失礼です」
セーレンがドーブらを諌めた。
実によくできた娘である。
「いや、悪い、悪い。
なんかさ、やっぱりアスラさん小せえなあ、と思って。
あんなに強えのに、小人みたいな体躯だからな」
このドーブという天真爛漫な若者は、妻子があるというのになんとも子供っぽい。
三つ子の魂百までとはいうが、本当に子供の心を忘れぬ男である。
そんなところが魅力なのかもしれないが、人をチビチビと揶揄するのは戴けない。
万が一、コンプレックスのある者がいたらどうするのか。
どうせポッコロというのも、碌な比喩ではなかろう。
「すいません。
悪乗りが過ぎました。
でも、小柄ですよね、アスラさん。
声も高いし、実は結構若かったりして」
トッテが冗談混じりにそういった。
そりゃあ傑作だな、とドーブ。
セーレンは何処か思案顔である。
(強ち間違っておらんよ)
と、アスラは思った。
「でも、ありえるかもな。
クレントの話じゃ、歳を訊いたら六十五歳って答えた、つうことだからな。
本当かどうかはわからん。
その実、包帯の下は見目麗しい少女…な~んてな」
トッテが、それは夢がありますね、などといって笑っている。
いった本人も、くつくつと笑っており、楽しげである。
セーレンは相も変わらず思案顔だ。
パチパチと燃える焚火を見つめている。
「あの包帯は日よけらしいからな。
行水が終われば、その御顔が見れるって訳だ。
いやあ、なんか楽しみだな」
と、ドーブが狂言めいていった。
「それで、背中を流しに行かなかったのですか」
セーレンがぼそりと突っ込んだ。
「おう。
本当はもう一回突撃しようとも思ったんだが、それで思い留まってな。
楽しみに待っておこう、ってな」
この男、どこまでも少年のような心を持っているらしい。
「まったく…。
恩人に対しての態度ではありませんよ。
本来なら、あの虎が姿を現した時点で相当な被害を蒙っていたのですから」
セーレンが、溜息交じりにいった。
それはそうなんだけどよ、とドーブはポリポリと頭を掻いた。
トッテはくすくすと笑っている。
果たして、それを盗み見ているアスラの顔にも微笑みが浮かんでいた。
チビうんぬんの件は置いておくとして、仲良さげなこの若者らを見ていて元気が出たのだ。
和気藹々と、まるで家族のようである。
年齢によるものだか何だかは知れぬが、アスラはそんな暖かい関係を見るのが大好きであった。
(ああ、おれにもそんな頃があった。
キイロ、ジネ、トーニャ、そして親父…。
懐かしいことよ…)
さて、いつまでも話を盗み聞くのも悪いか、とアスラは思い、藪から出た。
話に夢中である三人にゆっくりと近づいて行くと、
「これこれ、そんなに話していて、番ができるのかえ?」
と、言葉をかけた。
包帯に遮られることのない声は、澄んだ清水のような透明感をもって闇夜にしみ込んだ。
「おおっ、アスラさん出たのか……い?」
「……え」
「……あえ?」
アスラの姿を見つけたドーブらは、三者三様の反応を見せた。
ドーブは、薪をくべる手を宙に留めたまま静止し、セーレンは目を丸くしている。
トッテに至っては、珍妙な声を上げている。
対するアスラは、あくまでも優しげな微笑みを浮かべている。
先ほどの会話を聞いたおかげで、ほっこりとしているのだ。
生命の神秘をそのまま落とし込んだような深緑の瞳が、月明かりの下できらきらと輝いていた。
「いや、お主らは実に仲がよさそうだな。
なにより、なにより」
とアスラは、改めて柔らかに笑った。
包み込むような笑みであった。
三者はより呆然とした。
アスラとドーブらの間を、夜の涼風が通り過ぎた。
薪の燃える音だけが、パチパチと鳴っている。
暫しの沈黙の後、
「妖精…か?」
と、ドーブがぽつりと零した。
「テルフェ?
ふむ、知らんな…」
アスラは冷静に返した。
いつもの癖で、ほっそりとした顎に手を当てている。
テルフェなどという単語は、聞いたこともない。
恐らくは何らかの固有名詞であろうが、生憎と解せなかった。
アスラが返答をした後、また沈黙が下りた。
そしてセーレンが、二、三回瞬きをすると、
「あの、アスラさんですか?」
と、尋ねてきた。
焚火の光に照らされた顔は、橙の色と驚愕の色に染まっている。
アスラは不思議なことを訊くな、と思いつつも、
「そうさ。
おれは他ならぬアスラだよ」
と、けらけら笑いながら答えた。
そして…。
「ええーっ!!」
というトッテの叫び声が、闇夜を切り裂いた。
7月8日 内容を微修正