序章(六) 来訪者 下
「アスラさん、この島で一人暮らしかよ。
すげえな」
と、ドーブがいった。
他の者らも相当に驚いていた。
集落への道行でのことである。
なだらかな坂道が、上へ上へと伸びている。
左手には、青い海原が広々と望める。
低い低草が地面を覆い、穏やかな海風によってそよいでいる。
この坂の頂上に集落があるのである。
アスラは、黄虎を担ぎながら、からからと笑っていた。
その足取りはとても軽く、大人数人分はあろうかという体躯の大虎を担いでいるとは到底思えない。
小柄な身長が、より一層の違和感を感じさせていた。
「はっはっは。
もう慣れたことよ。
おれ一人でも、どうにかやっていけるのでな。
まあ、寂しくないといえば嘘になるが、仕様のないことさ」
「へえ。
でもさ、始めは人がいたんだろう?
どうしていなくなったんだ」
「そうさな…。
まあ、遠くに行ってしまったのさ。
残ったのがおれ一人でな」
「どこへいったんだ?」
「遠いところは、遠いところよ。
正直なところ、おれもどこへ行ったのか分からないのだ。
海をずうっと渡って行けば、あるいは、そこへ着くのかもしれない。
そんなところさ」
ふうん、と唸ると、何をしにいったんだ、とドーブが続けて訊いてきた。
セーレンは静かに話を聞いている。
他の者らは、きょろきょろと視線を泳がせており、ときおり会話に混じってくる。
どうにも辺りを警戒しているようである。
殊勝な心がけだが、ここは見通しが良いし、主だった危険生物もいない。
もう少し気を緩めてもいいのだが、先ほどの虎騒動がよほど堪えたらしく、変な緊張が抜けていないようである。
そういった意味では、このドーブという男は図太い神経の持ち主といえるだろう。
「何をしに、か。
ううむ。
難しいな」
と、今度はアスラが唸った。
死んでいった皆は、どんな思いを抱きながら天に召されていったのだろうか。
恐怖か。
怒りか。
それとも、喜びか。
難解な質問である。
「そうさなあ…。
ある者は、安息を求めて。
ある者は、未来を望んで。
ある者は、幸せを願って。
まあ、それぞれさ」
と、アスラは曖昧に答えた。
死んだなどといえば、気を使うに違いない。
別にアスラはそんなことなど望んでいないのだ。
「そうか。
色々あるんだな」
「そうさ。
色々あるんだよ」
ドーブは饒舌な男であった。
性格もやはりというか明朗快活で、話しやすい。
ゆっくりと歩を進めてはいるが、もう随分と話している気がする。
どうにも、黄虎を倒したことで、少なからず尊敬の念を抱かれたようである。
ドーブの中で、あの虎は相当な相手だったらしい。
ドーブが、黄虎のことについて訊いてきた。
アスラは、虎の大きな奴よ、と返した。
そんな訳があるか、とドーブが喚いた。
なので、黄虎がこの島で一番強い獣であり、賢く、気高い生物だということを話した。
虎の大きいのとはいえ、彼奴は獣の王であり、森の守り手なのである。
ドーブは頻りに頷くと、そうかやっぱりちょっと異質な奴なんだな、と納得したようだった。
「あれは、この島に一頭だけか?」
と、ドーブがへんな質問をした。
「いいや。
森の奥にいけば、それなりにいるさ」
「本当かよ。
ここ、なんだかおかしいんじゃねえか?」
「あっはっは。
まあ、そうかもな」
ドーブはその後、すごいだの、強いだのと、アスラを褒めちぎった。
興奮が冷めやらぬらしい。
何か呪いを使っているのかと尋ねられたりした。
アスラは、一瞬、どきりとした。
無論、認知していないだろうが、アスラはつい最近不可思議な力で若返った。
そのことを訊いているのではないかと、邪推したのだ。
結局、アスラの高い身体能力のことを分析したいだけのようで、アスラは勝手に肩透かしをくった。
馬鹿馬鹿しいと、内心苦笑した。
話題を変えることにした。
ドーブの家族の話になった。
嫁と子供があるらしい。
子供は今年で五歳になるらしく、玉のように可愛いのだとか。
女子かえ、と尋ねると、
「おうよ。
そりゃあもう、女の子らしい女の子でなあ」
と、喜色満面で語ってくれた。
幸せが溢れ出てくるような語り口であった。
アスラもそれを感じ、楽しくなった。
その後は大いに盛り上がった。
歩き出したのはいつだとか、好きな物はどうだとか、笑うと女神さまのようだ、とかとドーブが話すので、アスラは聞きに転じた。
すると、他の者らが口を開き、
「もう、それは聞いたよ、ドーブさん」
「ああ、耳にタコができそうだ」
「娘と結婚でもするのか、この子煩悩めっ」
と、茶々を飛ばし始めた。
どうにも、この話題は正解のようである。
若者らの緊張を解くのに活用させてもらいつつ、幸せの飛沫を分けてもらおうかや、とアスラは思った。
アスラの目論見は成功した。
一行の空気が少なからず明るくなった。
男らの口数は多くなったが、女らは相変わらず寡黙であった。
呪い師は気難しいのであろうか。
それでも、ぽつりぽつりと会話に加わってくれていることから、ある程度打ち解けてくれたのではないかと思う。
いずれにしても、久しぶりの会話はとても楽しかった。
♢
集落についた。
相変わらず人気がない。
荒廃しているというのは言いすぎであるが、物寂しいのは純然たる事実である。
いくら湿潤な海風が絶え間なく吹き付けていたとしても、この家並みが過去の姿を取り戻すことはない。
時の流れとは、人の儚さとは、まことに厳しいものがある。
「なんか、寂しいな」
と、ドーブである。
心に浮かんだ言葉をそのまま口にしたようである。
否定はしない。
むしろ、大いに賛同できる感想である。
「ま、否定はせん。
こっちだよ。
廃屋など見ていてもしかたあるまい」
と、アスラは足を止めた来訪者らを促した。
家へと招待するつもりなのである。
粗末な家かもしれないが、野晒しで歓迎するよりはましであろう。
七名では人数が多いが、入りきらないこともないだろう。
元々は四人で暮らしていた家なのだ。
一人二人増えた所で大事はない。
一行は、アスラの自宅へと入った。
ドーブらは、
「お邪魔します」
などと言って家へと入った。
靴を脱ぐようにいった。
「汚いところだが、くつろいでおくれ」
と、アスラはいった。
様式美のようなものである。
やがて、アスラを含めた七人が円を囲むように座った。
椅子などはないので、床に直に座ってもらった。
客人らは、失礼のない程度に屋内を見回している。
家の内部は、芳ばしい匂いで満たされていた。
松明のケシ油の匂いである。
多少薄暗いが、埃っぽくはない。
アスラは、
「少し待っておれ」
と、言って茶を淹れた。
セルウ草を乾燥させた茶葉を使って淹れたものだ。
鼻に抜けるような清涼感のある味わいである。
甘みはないが、じんわりとした柔らかさがある。
茶葉を入れた鍋を火にかける際、呪いを見た。
火打ち石を探すアスラを見て、来訪者の一人が火を付けますよ、と手を挙げたのだ。
弓を背に挿した男である。
確か名を、トッテといったか。
火を起こせる道具を持っているとは思えない。
果たして、アスラの考えとは裏腹に、その者が、むにゃむにゃと何やら呟くと、三度火花が散り、四度目で竈に種火が点いた。
アスラは驚いた。
魔術である。
(何度見ても、普通ではないな)
呪い師しか扱えないとものと思っていたのだが、射手らしき様相をしたこの男も魔術の心得があるらしい。
しかしながら、どういった法則が成り立って火が起こっているのだろうか。
火打ち石を打つというきっかけがあるからこそ火が燈るのであって、何もない所からは火が立つはずがない。
賊らの扱うそれを幾度も見てきたが、自然の摂理に叶うものとは到底思えない。
便利なものではあろうが、原理が全くもって不明である。
今度訊いてみるのもよいか、とアスラは思った。
皆に茶を淹れると、アスラは外へと出た。
黄虎を捌くのである。
傷んでしまったら、もったいない。
屋内はそれなりに広いが、獣を捌くのには向いていない。
血の匂いが籠るのも不快である。
来客らに失礼でもある。
アスラは大ぶりの刃物を手に取ると、くるくると振り回し、黄虎の解体を始めた。
来訪者らは手伝うといったが、やんわりと断った。
わざわざ血生臭くなることもあるまい。
スッと、鋭く刃を入れると、飴色の毛皮に切り口がつく。
そのまま皮と肉の間に刃を通す。
力の加減を誤らぬよう、注意を払って毛皮を取り除く。
黄虎の毛皮は、良い素材となる。
強靭で艶もあり、重さもない。
暑苦しいのが玉に傷だが、服にするのも悪くはない。
大した時間もかけずに、黄虎を捌き終わった。
一番大きな胴の皮。
次いで尻の皮。
これらは使えるので取っておく。
後で、丁寧に肉を削ぎ取る必要がある。
そうしないと腐ってしまうのだ。
皮を鞣のは存外大変なことであり、労力と時間を要するものである。
故に、皮を使った用品は大切にする必要がある。
皮は一端置いておいて、肉を捌く。
骨から肉を外すのだ。
内臓はもったいないが、捨ててしまう。
黄虎の内臓は、滋養強壮に良く、味も悪くないが、調理に時間がかかる。
中途半端にするくらいならば、初めから捨ててしまったほうがいい。
残った骨は、足の部分を除いて捨てる。
足の骨は武具を拵えるのに良い。
アスラの剣の柄も、この骨で作られている。
因みにではあるが、頭は浜に置いてきた。
牙などが取れるが、使い道がないのである。
置いておけば、船の獣除けにもなる。
頑丈な木の棒を見繕ってくると、肉を刺し通して竿にかけた。
このまま焼くのである。
蔵から持ってきた薪を下に並べて、枯れ草を撒く。
火打ち石だが、酒壺の上に置いたことをアスラは思い出した。
今朝使ったきりだったのだ。
火打ち石を取りに家へ入ろうとすると、中から人が出てきた。
栗毛の女、セーレンである。
「火をつけるのですか」
と尋ねられた。
質問からして、どうにも火を点けてくれるようだ。
中から様子を窺っていたらしい。
それらしい気配はあったのだが、進んで爺の手伝いをするなど、なんと心馳の行き届いた者らなのであろうか。
このセーレンという呪い師も、口数は少ないが、どことなく優しげな雰囲気がある。
(賊どもに、こ奴らの爪の垢を煎じて飲ませてやりたいわい)
と、アスラは思った。
やはり、むにゃむにゃとすると、薪に火が点いた。
セーレンに礼を言い、肉を焼いた。
回しながらゆっくりと焼くのである。
その間に、皮を綺麗にしておく。
刀の刃を押し付けて、肉を丁寧に削いでゆく。
やはり、皮を切らぬように注意を払う。
「お上手ですね」
と、セーレンが言ってきた。
アスラの作業をしげしげと眺めていたのだ。
手の器用さに感心しているようである。
「うん?
そうかえ」
アスラはあくまでも素っ気なく返した。
集中しているのである。
慣れていたとしても、気の抜けない作業なのだ。
破れた皮は著しく強度が落ちるし、見た目も悪くなる。
時たま声をかけてくるセーレンに反応し、肉にも気を配りつつ作業を続けた。
刀の切れ味が落ちてきた。
しかし、問題はなかった。
作業が終わったのである。
近くにあった植物の葉で、脂と血を拭い落とした。
こうしなければすぐさま錆びてしまうのだ。
肉から良い匂いが漂ってきた。
アスラは肉を回した。
上側を焼くのである。
因みに、台に乗っかってのことである。
何度もいうようだが、低身長は厄介なのだ。
(もう慣れたことだわい)
と、思いつつも、包帯の下で渋い表情をしているのはアスラである。
本来の身長であれば、この程度の高さなど苦にもならないのだが、今はそうでない。
背伸びをしても、竿に僅かに届かない。
身長よ伸びろ、とアスラはつくづく思うのであった。
香りが強くなってきた。
肉が焼けたのである。
用意した薪が余った。
アスラは先ほどの刀を火で炙ると、肉に切り口を付けた。
じゅうじゅうとなめらかな脂が溢れ出てくる。
少し切り分けて、口に入れた。
味見である。
「っ――」
熱かった。
しかし、我慢してはふはふと噛みしめた。
ひと噛みごとに、口当たりの良い肉汁が染みだしてくる。
淡白な印象だが、どこか深みがある。
歯ごたえのある肉質を、歯の軍勢が、一度、一度しっかりと迎えうつ。
不快感を抱く弾力ではなく、生命の強靭さを表したような力強い歯ごたえである。
じわりとした熱さを残したままの肉を、胃へと導く。
口内にはあっさりとした風味が残った。
実に素晴らしい余韻である。
(や、相変わらず黄虎の肉は美味い。
特に、焼いたものは格別の味よ)
アスラは舌をベーっと出しながら頷いた。
何度も食べてはいるが、飽きがこない肉である。
それは、味が淡白だからとか、下らない理由ではない。
何か、魔性の魅力によるものである、とアスラは思う。
「美味しそうですね」
と、セーレンである。
切れ長の双眸は、優しげに細められている。
心なしかそわそわとしているように見える。
やはり、お腹が減っているのだろう。
食糧の調達をするため、この島に立ち寄ったという話であったので、空腹であることは必然といえるかもしれない。
肉を切り分けると、木の串に刺し通して、セーレンに渡した。
セーレンは、いたただきます、といって肉に口をつけた。
アスラは微笑ましくそれを見守った。
「美味いかえ?」
と訊いた。
セーレンは、
「ええ、おいしいです」
と答えた。
二人で少し笑った。
風が優しくふいた。
♢
肉を来訪者らに振舞った。
実に好評であった。
腹も空いていたようだし、量もあったので、皆沢山食べた。
虎の肉は嫌いでないらしい。
それでも、やはりというか肉が残った。
黄虎は大きいので、当たり前といったら当たり前である。
アスラは、
「船の者らに食わせてやるとよい」
と提案した。
肉を残すのは良くない。
もとより、食いきれないと踏んでいたので、予想通りなのだ。
ドーブは、
「ああ、そうさせてもらうよ。
恩に着る」
と、言った。
船の者らは酔っているといったが、大丈夫かえ、と尋ねると、
「なに、口に捻じ込んでも食わせてくるぜ」
と、言って、ドーブは船へと向かった。
肉を食ったことで、元気が増したらしい。
心なしか、声も大きくなった気がした。
何人かドーブについていった。
アスラは剣を簡単に検めた。
先ほど黄虎の首を刎ねたので、一応刃こぼれがないかどうか調べるのだ。
アスラほどの名人ともなってくると、剣を傷めずに敵を斬ることも可能だが、相手は黄虎である。
表皮の頑強さもさることながら、骨格の丈夫さといったら、もう、凄まじいものである。
鈍らの剣くらいであれば、容易く欠けさせる程の強度があるのだ。
研ぎ澄まされた剣身を確認してみても、主だった損傷はなかった。
良く見てみると、細かい傷があるが、それは仕様がない。
元からである。
剣の表面を布で軽く拭うと、アスラは剣を鞘へと戻した。
「素晴らしい剣ですね」
と、セーレンが言った。
陶器の椀を手にしている。
元々娘の使っていたものである。
食後に淹れた茶が入っている。
「まあ、な。
おれの生命線よ」
と、アスラは鞘を軽く叩いた。
この場に居るのは、長杖のセーレン、もう一人の呪い師らしき女子イマイ、弓のトッテである。
呪い師イマイは恐らく最年少である。
まだ二十歳にもなっていないのではなかろうか。
童顔であり、ぱっちりとした大きな目が可愛らしい。
鮮やかな茶の髪を一本に結っており、下ろすと長さがありそうだ。
身長は今のアスラとそう変わらない。
小柄である。
僅かにあちらの方が高い気がするが、あくまでも気のせいである…。
口数はかなり少ない。
トッテは、先ほど魔術を使った射手である。
身長はアスラより大きい。
細身だが、射手らしく、見える腕は鋼のような筋肉に覆われている。
クセのあるくすんだ金髪を短く切りそろえており、爽やかな印象だ。
目は綺麗な青色で、優しげな輝きがある。
「あの、笛を吹かれるのですか?」
と、小さな――といってもアスラよりは大きい――呪い師イマイが、恐る恐るといった感じで訊いてきた。
遠慮がちな視線を追ってみると、壁にたどり着いた。
壁には出っ張りがあり、そこに短笛が静かに置かれている。
あれを見てのことであろう。
うむ、嗜むよ、とアスラは返した。
「そ、そうなんですか。
わたしも笛、やるんです」
と、イマイは少し嬉しそうにした。
小さな呪い師は、人見知りの気があるらしい。
顔がほんのりと赤くなっている。
伏し目がちである。
セーレンはゆったりとお茶を啜っている。
落ち着いた雰囲気である。
一方のトッテは、そわそわとしていた。
どうしたのかと思えば、立てかけてある弓を凝視している。
狩りに用いる短弓である。
そういえば、家に入ってきた時から興味を持っていた気がする。
「なんだ?
あの弓に興味があるのか」
と、尋ねてみた。
「あ、はい」
短い返事が返ってきた。
「お前さんは、射手だろう?」
「はい。
弓を修めています」
「ならばあんな短弓など、珍しくもなかろう。
お前さんも背に挿しているではないか」
「いえ、あの。
どういった材料で作られた弓なのかな、と思いまして」
なるほど、そういうことか、とアスラは思った。
いかにも射手らしい考えである。
この若者は相当に弓が好きらしい。
その後は往々に盛り上がった。
トッテがアスラの許可を得て、短弓を引こうとしたが、筋力が足りずに失敗した。
ムキになって顔を真っ赤にするトッテを、アスラを始めとした者らは微笑ましげに見守った。
イマイとも話した。
好きな物は、イロウリという果物だそうだ。
甘くて美味しいのだとか。
程なくすると、みな一旦船へと戻っていった。
様子を見てくるらしい。
付いて行くのも無粋なので、普通に見送った。
アスラはその間に椀の片づけなどを行った。
♢
日が傾いてきた頃に、ドーブらが戻ってきた。
人数は増えていなかったが、面子が変わっていた。
船の番をやっていたものを入れ換わりで連れてきたらしい。
互いに自己紹介をした。
凄い腕をお持ちのようで、と尊敬の目で見られたので、曖昧に頷いておいた。
ドーブらが何をしていたかというと、色々と世話を焼いていたらしい。
無論、船の者らのことである。
手伝った方が良かったかや、と尋ねると、
「いやいや、大丈夫さ。
幸い薬もあった。
酔いは酷いが、二、三日寝かしておけば直るさ。
肉も食わせたしな」
と、ドーブがはにかみながら答えた。
船酔いとやらには薬があるらしい。
しかし、いかな酔いも、二、三日もすれば自然治癒しそうなのが普通である。
実際に酒の二日酔いも、夜になる頃には概ね治っている。
船酔いとは、その薬とやらを用いたとしても、二、三日掛らねば治らないものだというのか。
実に恐ろしい話である。
アスラも、自分が船に乗る時は注意せねば、と心に誓った。
アスラは、疲れておるなら行水でもしたらどうかえ、とドーブらに進めた。
ドーブは乗り気であった。
なんでも、この島は暑くて敵わないらしい。
汗ぐっしょりだという体は、確かに汗臭かった。
セーレンとイマイの女呪い師二人が微妙な顔をしている。
男らの体臭に囲まれているからのようである。
どうにもさっさと体を洗わせた方が良さそうだ。
アスラは、
「森の入口に綺麗な沼がある。
そこで体を清めるとよい」
と、ドーブらを森の入口まで案内した。
茜色の空に、じんわりとした黄色い月が浮かんできた。
月の輝きに導かれるように、星々もポツリポツリと現れる。
辺りの木々の影も、細く長く姿を変え、滲むようになってきた。
勇ましかった陽光も段々と弱まり、今にも消えてしまいそうだ。
もうじき夜である。
「おおっ、綺麗な場所だな」
ドーブが言った。
沼を見て驚いているようだ。
銀鏡のように澄んだ水面が、黄昏を帯びた空を切り取っている。
端の方に茂っている水草などが水面に投影され、逆さまの世界が存在しているかのような錯覚を受ける。
風が吹けば、波紋が立ち、宝石が散りばめられたような瞬きが生まれる。
小さな呪い師イマイは、沼がお気に召したようで、目をキラキラと輝かせている。
セーレンも心なしか表情が緩んでいる。
男らも、それなりに感じる所があったらしく、綺麗だな、とかといっている。
「ここは森に近いが、殆ど獣はでない。
件のものは例外だと思ってくれてよい。
その上、この辺りには黄虎の匂いがある。
まず獣は出ないだろうから、ゆっくりと体を洗っておくれ」
と、アスラは言った。
「おう。
アスラさんも一緒にどうだ。
裸の付き合いってやつ。
背中、流すぜ」
と、ドーブが誘ってきた。
魅力的な提案である。
戦士の友情は、汗を流し合うことで生まれるといって良い。
試合の後、互いの武勇を讃え合いながら身を清めるのは、武を志す者の楽しみでもある。
ドーブは中々分かる男だ。
背中の流し合いなど、何年ぶりのことだろうか。
アスラとしては誘いに乗りたい。
…しかし、大きな障壁がアスラを阻んでいた。
(ううむ。
まだ日があるわい…)
それが唯一絶対の問題であった。
憎むべきは肌の弱さである。
この幾日かの間に改めて実感したが、この白い肌は実に敏感である。
この前など、家の中で裁縫をしていたら、窓から射してくる光をちょっぴり右手に受けてしまい、日焼けをしてしまった。
重度のものではなかったが、日に当たっていた時間を考えれば、十分に重度のものといえる。
そんな折、いくら弱まった陽光とはいえ、油断はできない。
日焼け地獄になってしまってからでは遅いのである。
「や、ありがたい誘いだが、ここはやめておくよ」
と、アスラは断った。
「お、そうかい」
「はっはっは、悪い。
生憎おれは日に弱くてな。
この包帯も、それでなのさ」
「へえ。
すると、その怪しい格好は、好きでやってる訳じゃあないんだな。
俺はてっきり、そういうのが趣味かと思っていたぜ」
「なんと、それは困ったな。
おれがまるで変人のようじゃないか」
「おお。
始めて見た時は、三つ編みのミイラが出てきたと思ったからな」
「それは怖いな。
茂みの中から、三つ編みのミイラが出てくるなど。
まるで怪談…。
いや、狂言の間違いか」
はっはっは、と皆で笑った。
「では、おれは番をしておくよ。
お前さんらは、ゆっくりとしておくれ。
おれは最後に行水をするのでな」
と、アスラは一応ここらの警戒をすることにした。
行水など、気を抜いている時に襲撃に遭う可能性もある。
アスラならば、徒手空拳で獣を葬り去ることもできるが、皆が皆そうとは限らない。
客人は大切にする必要がある。
客人らは、どうにも三組に分かれて行水をするらしい。
入れ替わりで、船の動けるものを連れてくるそうだ。
男三人、女二人、男三人でローテーションを組むという。
女子二人が行水をするときは、厳重に監視するとのこと。
アスラはこれに小首を傾げた。
第一陣が入るのに際し、男が一人余った。
クレントと名乗った男であった。
アスラは女衆の待遇に疑問を持ち、女とは一緒に水浴びをせんのかえ、と順番を待っているクレントに訊いた。
「お、あんたスケベ爺だな。
こりゃあ、思わぬ伏兵がいたもんだ」
という反応を貰った。
アスラはビックリした。
今の発言のどこに助平な所があったのだろうか。
アスラにしてみれば、女子と一緒に行水をしない方がおかしい。
親睦を深めるのに、裸の付き合い以上のものはないといってよい。
島では、男子も女子も関係なく行水をしていた。
別に恥ずかしがることではないのだ。
そのことを言うと、
「げげ、そりゃあほんとうかよ。
少し前は楽園だったって訳だ。
乳とかも、揉めたのかなあ」
などと漏らした。
男女が一緒に行水をするとはいったが、乳がどうのとはいっていない。
アスラは、お主の方が助平なのでは、と思ったが、口には出さなかった。
とりあえず、じと~っとした視線を送っておいた。
クレントはそれに気付くことなく、乳の話を続けた。
アスラは適当に返していたが、段々とクレントが高揚してきた。
とても楽しそうに乳のことを語る。
よほど乳が好きだと見える。
アスラは、服を引っ張って、自らの乳を見た。
揺れないようにサラシが巻き付けられている。
島の女らの真似をしたのである。
胸の隆起はそれなりにあるといえる。
…が、羽織っているケープと、着ている服がかなり大きい――正確には体の方が縮んだ――ので、外観からは膨らんでいるように見えない。
「そんなに乳が好きかえ?」
「そりゃあなあ。
乳が嫌いな男なんていないだろうし…」
このクレントという男、中々に若い。
精神的にも、見た目的にも、だ。
「お前さん何歳だ?」
と、訊くと、二十五歳だという。
納得の若さである。
それも、男女の経験に薄そうな若者だ。
初という奴であろうか。
乳でこれほど盛り上がれるのだから、間違いない。
青春の薫りが漂ってくるようで、アスラは微笑ましくなった。
「くっくっく、なんとも若いな。
おれにもそんな頃があったよ」
「へえ…。
そういえば、アスラさんって何歳なんだ?」
「今年で六十五になるよ」
「おおっ。
その年であんなに強いのか。
達人は違うな」
「これこれ。
褒めてもなにも出んぞ」
アスラとクレントは意外にも気が合うようで、和気あいあいの会話を交わし合った。
辺りがますます赤く染まっていく。
遠くの空に雲が立ちあがっている。
風を齎す綿雲だ。
そしてその雲のてっぺんには、星が輝いていた。
真っ赤な真っ赤な明るい星が。
3月26日 誤った表現を修正 気の置けない⇒気の抜けない
同日 誤字を修正 答えた⇒堪えた 以外⇒意外