序章(五) 来訪者 上
八日後のことである。
精霊の木の奇跡からは十四日たったこととなる。
アスラは静かに日々を過ごしてした。
旅をすると意気込んでも、色々と準備が必要だ。
食料であったり、応急用の薬草であったり、移動手段であったり…。
アスラは着々とそれを進めながら、静かに日々をおくっていた。
♢
カランと薪が転がった。
散らばった薪を一纏めにすると、次の丸太を石の台に乗せた。
再び鉈が振り降ろされ、薪が散らばった。
アスラは薪割りの最中である。
かれこれ四半刻はこの調子だ。
鉈が木に突っかかることはないし、下の台が傷つく様子も微塵もない。
実に見事な樵ぶりである。
長年の経験、歳の功は伊達ではない。
薪は生活の必需品である。
火を扱うのならば、燃料がなければならない。
枯れ枝を拾い集めてきても良いが、そのつどやっていては面倒である。
蔵の薪が少なくなって来たので、アスラはこうして薪割りに時間を割いているという訳である。
永久に燃え続ける燃料があれば楽なのだが、あいにく薪は消耗品なのでそうはいかないのだ。
しかしながら、この薪というやつは厄介である。
存分に乾燥させなければ良く燃えないのが薪というものであり、新しく斬り倒してきたものなど全くもって火が点かない。
使用するためには、蔵で幾ばくか乾燥させなければならないのだ。
果たして、そこが大いに問題なのである。
この島は晴天も多いが、それと同じくらいに嵐も多い。
嵐三日に晴れ三日などという天気にまつわる諺が存在するほど天候が変わりやすいのだ。
当然、湿気が少ない方が薪の乾燥期間は少なくて済むが、この島ではそうはいかない。
晴天の間隙を縫って、嵐やら大凪やらが吹くのだ。
仕様のないことだと割り切るしかないが、何とも煩わしい。
(近頃のような晴天が長く続けばよいがな…)
そんなことを考えながら、最後の丸太を細かく裁断してアスラは鉈を置いた。
辺りは薪で埋め尽くされている。
薪を貯蔵しておく蔵は目の前である。
アスラは徐に薪を掴むと、軽いスナップをつけて蔵へと投げ込んだ。
カラン、という衝撃音が聞こえ、薪は見事に蔵の中へ入った。
続いて薪を投げる。
カラン、カラン。
また投げる。
カラン、カラン、カラン。
その後も、ぽいぽいと薪を放っていき、程なく最後の一本を投擲し、薪割りは終了した。
アスラは、うーむ、と大きな伸びをきめて腰に手を当てた。
薪割りを終えると、えもいわれぬ達成感がある。
面倒な作業だが、この一時のためにやっていると思えば、そう悪いものでもない。
アスラはどっこらしょ、と立ち上がると、集落を出て西へと向かった。
昼間はやるべきことが多いのだ。
天候が変わりやすいとはいったものの、今日は晴天である。
頭上には憎々しいほどに青い空が広がっている。
最近は晴れが多い。
昨日はどうにも天候が崩れたかとも思ったが、海が多少荒れるに留まった。
沖の方では嵐だったかもしれないが、島は一貫して蒼穹に包まれていた。
今日も今日とて、海風は相も変わらず穏やかであり、陽光もいつも通りの眩しさである。
アスラは南西の入り江へと向かっていた。
何故かと云えば、そこには船があるのだ。
もっとも、乗れそうもないような残骸ではあるが。
旅に出るため、アスラは善は急げと、廃船の修繕を始めたのである。
地面を蹴って目的地へと駆ける。
わずか一歩の踏み込みで、風を纏うように加速する。
耳にひゅるひゅるという音が鳴って、編んだ髪の毛が躍り出す。
目まぐるしく景色が変化し、程なく視界に青が広がった。
アスラは足を止めた。
入り江へと到着したのだ。
南西の入り江である。
内側に窪んだ陸地に、海の青が映えて美しい。
アスラの好きな場所の一つである。
子供の頃は妻や悪友らとよく遊びに来たものだ。
下の岩場には数隻の船が見受けられる。
件の廃船らである。
賊たちの乗ってきたものだ。
何れも随分痛んでおり、まともに使えそうなものなどなさそうである。
アスラが最近こつこつと修理をしているのは、その中で一番小ぶりの船であった。
アスラは岩場を下りて、船の近くに寄った。
恐らく定員数十名程の小型の船である。
見事な廃船ぶりだが、これでもマシなほうなのだ。
外観はボロボロでひどい有様なのだが、中身はそれほど腐食していなかった。
帆を掲げるマストは折れており、直すのに手間取った。
船底の水漏れもあったが、それも同じく直した。
もっとも、詳しい船の修繕の仕方など知る筈はないので、全てが木板を使ったものであるが。
その他に目立つのは、甲板の穴や傷みである。
一応直しておいた方がいいように思える。
帆の張り替えもしなければならない。
今張ってある帆は穴だらけで、風を受けることは到底できなそうである。
(甲板の修理はまだいいが、帆の修理は時間がかかるぞ。
もっとも、この小さな船は腐食が少なくて助かったのは事実だ。
他のものなど、かろうじて海に浮いているに過ぎぬものだったからな)
船の修理を始めてから七日程だが、中々良い速度で進んでいる。
この調子で行けば、そう遠くない時期に船は直るだろう。
そうすればこの思い出の島を出て、旅に出られるという訳だ。
アスラは船に乗っかると、早速修繕を始めた。
道具一式は船の中に置いておいたのだ。
修理に使っている木板は、その辺に流れ着いたものや、他の船の腐食していない部分をつかっている。
問題は釘だ。
釘は今あるもので全てであるが、もう百本もない。
船底の修理に随分使ってしまったのだ。
近々、鉄を打って拵える必要がありそうである。
今日は甲板の修理だ。
トントンと木板を打ち、ときには傷んだ甲板を引きはがしながら作業を進める。
揺れる船と金槌が別々のリズムを刻む。
時に重なり、時に乖離し、時間だけが過ぎる。
波の音と潮の薫がアスラの聴覚をしめる。
ときおり海鳥の囀りが響いて、波と金槌の二重奏に華をそえる。
海風が湿り気のある空気を運んでくる。
清涼感のある風に押されるように、ただ金槌を振るい続ける。
そのまま暫く作業を続けると、太陽が真上へと昇った。
昼時だ。
アスラは今打っている釘を最後にして作業を止めた。
太陽を見上げると、ギラリと光に睨み返された。
今日も陽光は眩しい。
(飯にするか)
アスラは金槌や釘を片すと、船から降りた。
♢
昼餉を終えたアスラは日向ぼっこの最中である。
僅かに草の生えた岩場に横になっている。
肌は弱くなったとはいえ、好きなものは好きなもので、これはアスラの日課である。
顔には包帯を巻いているし、手袋も付けている。
日焼けは怖くないのだ。
昼飯は茸だった。
森に入れば沢山の茸が生えている。
中には恐ろしい毒を持つものもあるが、外見を知っていれば問題ない。
茸は焼いて食うのが一番だというのがアスラの持論だ。
茸を火で炙って、それに軽く塩を振ると何とも格別だ。
種類にもよるが、茸は薫りが良く味も良い。
濃厚な口当たりは、肉に勝るとも劣らない。
「ふうむ…」
風は穏やかにそよぎ、疎らに生えている草がそよそよと揺らぐ。
透けるような空には一点の濁りすらない。
心地良い眠気が寄せてきて、瞼が重みを増す。
このまま昼寝をするのも悪くないか、とアスラは思った。
そうして寝返りをうつと、寝ぼけ眼に海が映った。
そのままぼうっと眺めていると、青の色の中にぼんやりと黒いものが浮かび上がる。
髪の毛かとも思ったが、違う。
水平線の彼方であろうか。
本当に薄らとであるが、確かに何かがある。
(なんだ…?)
アスラは身体を起こして海を望んだ。
眠気が一気に抜けた。
アスラは目を凝らした。
薄らと見えるその姿。
あれは――。
「船だ」
間違いない。
船である。
アスラは両の眼を大きく開いた。
もう一度目を凝らして、水平線を睨む。
帆の形がクッキリと見える。
やはり船だ。
(船だと…?)
アスラは右手で顎を弄った。
包帯のざらついた感触を、手袋越しの掌がうけた。
船といえば真っ先に思いつくのは賊どもだ。
あの傲岸不遜な不届き者らが、戻って来たとでも言うのか。
(何故だ、もう随分前に奴らは姿を消した筈だ。
いや、この島に向かっているかどうかも分からぬ。
もうしばし待つか)
アスラは剣を佩びて背を真っ直ぐに張った。
顔の包帯の間から覗く表情は厳しい。
これは当然の反応である。
船には本当に碌な思い出がない。
まともな奴らなど、最初の船乗り位だった。
後は酷いものだ。
「船乗りは賊である」という発言が過去にあったことをアスラは記憶している。
偏見に満ち満ちた意見ではあるが、ある種的を射ているといえる。
島での船乗りのイメージとは、船を着けるや否や、帝国だなんだと威張り散らし「お前らの島を寄越せ」と喚く者らである。
…まあ、賊でよいだろう。
逆に、賊ではなかったらなんなのか。
断る意を伝えると、いつも決まって戦になる。
何もかも、力でどうにかなると思っているのだ。
何故島を襲う、と何度も訊いた。
が、答えは返ってきた例がなかった。
答えるつもりがないのだ。
彼奴らは、戦の度に相当な被害を被っていた。
どの戦も、島側の圧倒的勝利で終わったからだ。
それでも賊どもは執拗に島を襲い続けた。
賊どもが完全に姿を消した今、何が目的だったのかは今となっては分からない。
だが…。
(碌でもないのは確かであろう。
いたずらに武力で訴え続けた何かなのだ。
或いは、おれの身に起きた奇跡がそれに関しているかもしれん。
しかし、分からぬ。
おれには学がない。
この島を出たら、そのことも調べたいところではあるな)
何も、船乗りが全て下種の類だとは思ってはいないが、印象は良くないのも確かである。
息子を含めて、幾人か島民も討たれているのだ。
人の命とはやはり重い。
遥か先に見えた船は、大分近づいて来た気がする。
やはり、この島を目指しているのだ。
もう間違いはないだろう。
あの船の針路はここだ。
この島だ。
(賊か何かは知れぬが、おれの目の青い内は好きにはさせぬ。
この島に居るならば、おれは似非でも守人だ)
アスラは鋭く海を睨むと、海岸へ急いだ。
この島に上陸するのなら、南の海岸だ。
南の海岸は恐らく最も船を着けやすい。
島に来た賊どもも、大半はそこからやって来た。
海岸に着くと、近くの茂みに入って自然体に構えた。
何時でも剣を抜けるようにする。
ここ最近の鍛錬で大分勘を取り戻した。
小さな身体や、揺れる乳にも幾らか慣れてきた。
状態は万全だ。
千の数で攻められてもこの島を守り抜ける自信がある。
幸い船の数は一隻。
追い返すのは容易だ。
悪辣極まりない者らであったなら、斬り捨てればよい。
(さて、何が飛び出すかな)
船は既に沖の近くまで迫っている。
海風がアスラの三つ編みを揺らす。
依然として、垣間見えるアスラの表情は険しい。
が、その佇まいは自然体そのものだ。
全く緊張していない。
風に揺らぐ花を思わせる穏やかさである。
暫くして船が座礁した。
砂が擦れる音が鳴る。
錨が下ろされた。
大きな船だ。
旗は掲げていない。
全体的に白っぽい造りで、所々に彫刻が施してある。
中々に趣があるな、とアスラは思った。
(ふむ、感じが違うな)
違うというのは船の印象である。
賊どもの船は、決まって黒であった。
それに、紅蓮の旗を高々と掲げていた。
実に威圧的で、不穏な印象を抱く船に乗ってくるのだ。
しかし、この白っぽい船ときたら、むしろ対極といえる。
無骨で凶悪な感はなく、えもいわれぬ風情がある。
どことなく上品なのだ。
船上には人の影が確認出来る。
気配を探ってみると、ざっと十名はいそうだ。
船の甲板の上でしきりに何かを叫んでいる。
聞き覚えのある言葉だ。
外の言語のようである。
船から縄が下ろされ、それを伝って人が降りてきた。
がっしりとした体格に、短い金の髪を生やした若い男だ。
身に纏う服は簡素なものだが何処となく高級そうだ。
腰には剣を佩びており、中々できるとみえる。
その男を皮きりにして、次々に人が降りて来る。
全体的に男が多いが、女も混じっている。
格好はやはり軽装で、動きやすそうである。
合計六人が降りて来た。
船の上や内部にはまだ人がいる。
全てが島に降り立った訳ではなさそうだ。
恐らくは偵察といったところであろう。
(ううむ。
ますます賊らしくないぞ。
彼奴らならば、全員で降りてきて威嚇してきても良いものだが…)
降りてきた者らは、何ごとかを話し合っている。
若そうな者が多い。
表情は明るいが、どことなく緊張の色も見える。
あれやこれやと話し合う姿は、下卑た雰囲気を欠片も感じない。
少なくとも、アスラの良く知る賊どもではなさそうである。
とりあえずは安心であろうか。
(そうなると、こ奴らは何者か。
新手の賊でないことを祈るが…)
と、アスラは茂みから姿を現した。
隠れていても仕方がないのだ。
あちらに接触をしなければ、此方はどうすることもできないのである。
持て成すにしても、追い払うにしても、だ。
金髪の若者がアスラに気付いた。
先陣をきって降りてきた、剣士風の男である。
驚いたような表情だ。
人がいたことによる驚愕であろうか。
それともその他の要因によるものであろうか。
「誰かいたぞ、おい」
と、その金髪がいった。
話し合っていた者らが一斉にアスラの方を向いた。
中々に面白い光景だ。
顔にはやはり、驚嘆の色が見えた。
金髪の言動からすると、人がいたことに驚いているようだ。
アスラは来訪者らを一瞥した。
剣を佩びているものが三人。
杖を携えているものが二人。
弓を背中に挿しているものが一人。
驚きつつも警戒を忘れていない。
どうにもひよっこではなさそうだ。
杖を持っているのは何れも女である。
呪い師の類だな、とアスラは思った。
手に持つ杖は、相手を打擲する為のものではなく、呪いの道具なのだ。
賊どものそれを何度も見てきた。
あの杖を振りかざすと、何処からともなく火や水が出現するのだ。
中には、凄絶な術を扱う者もいたので、十分に注意をする必要がある。
びしびしとアスラに視線が突き刺さる。
相当に凝視されている。
呪い師風の女など、目がまん丸である。
珍獣でも見つけたとばかりだ。
アスラは、とりあえず挨拶をすることにした。
「や、いい天気だな」
アスラは良く通る声でいった。
大きな声ではなかったし、包帯で多少くぐもっていたが、そよ風のような穏やかな声質だ。
来訪者らは驚愕の色をより一層強くした。
今度は喋ったことに驚いているのだろうか。
「お、おう。
いい天気だな」
と、金髪の男である。
なるほど、言葉は通じるようだ。
外の言葉を使うのは実に五年ぶりであったので、通じるかどうか心配であったが、一先ず問題ないようである。
良く考えてみれば、人と会話をするのも二年ぶりのことだ。
島に人がいなくなってからはアスラ一人で暮らしていたので、会話の相手がいなかったのだ。
「今日は海風が心地良いと思わんか。
涼しくて、なんともすごしやすい」
「そうか?
結構暑いと思うが」
「なに、これでも涼しいほうなのさ。
本当に暑い日など、火の中にいるようだぞ」
「そんなにか。
じゃあ、今日はいい日だな」
「そう。
今日はよい日なのさ」
何故か金髪との会話が続いた。
金髪が律儀に言葉を返してくるのだ。
そんな他愛もない会話で、アスラは地味に感動していた。
言葉が返って来るのが嬉しいのである。
久々にする会話の破壊力は絶大であったようだ。
(これぞ会話よ。
一人では絶対にできん。
なんと素晴らしいものか)
二年も一人で暮らしていると、感性がおかしくなるらしい。
言葉が返ってくる度に、ジーンとくるものがあった。
アスラにとってはそれほどのことであったのである。
この感覚は、孤独を味わった者しか分からないものといえる。
話したくとも相手が誰もいない辛さは、言葉で言い表せない何かがある。
心に、ぽっかりと穴が開いたような虚しさがあるのだ。
平たくいえば、途轍もなく淋しかったのである。
「ドーブ、世間話をしている場合ではないですよ」
と、女が言った。
長い杖を持った、栗毛の女だ。
けっこうな長身で、切れ長の目をしている。
長い杖を両手でしっかりと握っている。
警戒十分といった感じだ。
「おお、そうだな」
ドーブと呼ばれた金髪の男は、ばりばりと頭を掻いた。
人懐っこい笑みだ。
表裏のなさそうな男である。
そういった人種は嫌いではない。
アスラはしみじみとした気分を鼓舞した。
爺が一人で感動している場合ではない。
この者らと情報交換をしなければ。
「自己紹介をしたほうが良いかな。
おれはアスラ・カルナという。
この島に住んでいる爺さ」
と、アスラは簡易的な自己紹介をした。
すると、一瞬、来訪者らが胡散臭いものを見る目をした。
ほんの刹那のことであったので、アスラは気のせいかや、と思うことにした。
「おお、そちらから悪いな。
俺はドーブ・エットラ。
用心棒をしている」
金髪の若者が自己紹介を返してきた。
なんとも実直そうな男である。
なめし皮を張ったような浅黒い肌に、鼻筋の整った精悍な顔立ちである。
少々無精髭が目立つが、きらきらとした青い目がそのうっとうしさを打ち消している。
重ねていうが、できそうである。
体躯は存分だし、筋骨も隆々としている。
それだけでなく、足運びが流麗であった。
何らかの歩方を習熟しているのは間違いない。
続けて、長い杖の女が口を開いた。
「私はセーレン・ヘストリングスといいます。
同じく用心棒をさせてもらっています」
凛とした声である。
声の質に実に良く合う、ピリッとした華のある容姿だ。
鮮やかな栗毛を肩の辺りで切りそろえている。
線は細そうだが、しなやかな筋肉がついている。
年はかなり若そうである。
見た感じでは、二十代前半といったところであろうか。
その後も自己紹介が続いた。
ここにある者らは、みな用心棒だという。
なんでも、船の護衛をしていたらしい。
そういう仕事があるそうだ。
やはりというか、金髪のドーブと長杖のセーレンは護衛達のリーダーのような存在らしい。
腕も相当に立つのだとか。
アスラは島を訪ねた理由を訊いた。
すると、
「食糧の調達だ」
という答えが返ってきた。
なんでも、思ったよりも航海が長引いて、食糧が底をつきそうになっていたらしい。
釣りなどをして誤魔化していたが、限界が近く、飢餓の恐怖が目前に迫っていたという。
そんな中この島を偶然に見つけて立ち寄った、とのこと。
明瞭な回答であった。
嘘を言っているようにはみえない。
会話の途中で分からない単語もあったが、そこは割愛した。
重要そうではなかったからである。
いずれにしても…。
(船旅というのは、思った以上に大変そうだな)
と、アスラは思った。
その後も、そつない情報交換をしていると、アスラの背後の茂みが揺れた。
アスラを含め、その場にいる者が皆、茂みに目を向けた。
アスラの居る位置から、おおよそ十歩ほどの距離である。
ぐるぐるという低い唸り声が浜に響いた。
アスラは、その獣の気配を感じ取り、眉を釣り上げた。
来訪者らは凍りついた。
まず始めに現れたのは、足である。
黄金、琥珀、真鍮。
それらを混ぜ合わせたような、艶やかな色合いを見せる毛皮が目につく。
当然の如く、その美毛が生え揃う前足は、太陽の光を受け、煌々と輝いている。
ぬらりと、頭が出てきた。
同じく、金色とも飴色ともつかぬ、美しい体毛が生え揃っている。
獰猛さと知性を併せ持った緋色の瞳に、堂々たる威風を纏った顔立ちは、一介の獣でありながら、王者の風格を匂わせる。
口内に生え揃った白牙は、ぎらぎらと険呑な光を宿している。
琥珀色の巨大な体躯の中に、雷が轟くかのように幾筋もの黒い線が走っている。
獣らしい筋肉に覆われた骨格は、神々しくもあり、禍々しくもある。
これが森から出てくるのは珍しいことだ。
本来の縄張りはこの島の深奥であり、滅多に外へ出ることはないのだ。
――黄虎。
この島の生態系の頂点に位置している生物の一角。
風のように森を駆け、雷鳴の如き咆哮を飛ばし、大地を揺らすような一撃を放つ。
これにやられた新米戦士は数知れず。
森でこれの群れにあったのなら、死を覚悟したほうが良い。
また、非常に鋭敏な感覚を持った生物であり、特に嗅覚の異常さは測り知れぬものがある。
餌の匂いを感じたら、疾風のように現れるのだ。
今回の登場も、何かを嗅ぎつけて森から出てきたのであろう。
餌が沢山やってきたとでも思ったのだろうか。
黄虎の登場によって、浜は異様な空気に包まれていた。
辺りに満ち満ちているのは、圧倒的な存在感である。
ほかならぬ黄虎の放っているものだ。
獣の王たるに、些かの遜色もない威風といえる。
果たして、その重圧の中にあって、アスラただ一人だけが涼しい顔をしていた。
「なんだ、こいつは……!」
と、来訪者の一人がいった。
声が、情けなく裏返っている。
程もなく、来訪者らが震えだした。
顔からは血の気が抜けている。
黄虎を見て怯えているようだ。
(肝っ玉が小さいね、どうも。
しかし、この虎は気が立っておる…)
黄虎は、どう猛だが、同時に高潔な獣である。
己のテリトリー外での狩猟を嫌うのだ。
好奇心につられてこんなところまでくる辺り、まだ若い個体とみえる。
老虎は、こんな大外まで獲物を追ってはこないのだ。
若い黄虎は、大したことはない。
所詮、いきがいいだけである。
「こりゃあ、やばいな…」
金髪のドーブが冷や汗をかきながらいった。
よく見ると、手が僅かに震えている。
表情も優れていない。
完全に気圧されているようだ。
とはいえ、格好は悪くなく、剣はさやにしまって、いちおうの自然体を維持している。
黄虎を刺激しないようにしているのだ。
セーレンの方を見てみると、長杖を真っ直ぐに黄虎へと向けている。
しかしながら、身体ががたがたと震えており、顔が真っ青である。
こちらもまた、気力を振り絞ってやっと立っているような具合だ。
この娘も、呪い師であれば、強力な呪いを持つはずであると、アスラは思う。
臨戦態勢とはとてもいえず、やはり青さというか、若さが滲んでいる。
ともかく、このままだと話し合いもできない。
黄虎には退場を願うとする。
アスラは黄虎に話しかけた。
「虎よ、森へ帰ってくれんか。
今は取り込んでいてな」
黄虎はグルグルと此方を威嚇するのみである。
やはり、機嫌が悪そうである。
普通であれば、力の差が分からぬ獣ではない。
ここで退かねば手酷くやられるのは予想がついている筈だ。
これは聡明な獣である。
「あ、あんた何やってんだ。
刺激するとやられるぞ」
ドーブである。
剣の柄に手を掛けてはいるものの、震えた手では碌に振れまい。
そもそも、最低限度の剣をつかう姿勢は維持しているが、そんなへっぴり腰ではろくに剣は振れない。
剣を志す者ならば、足と腰の重要性は痛く理解していて然りだ。
踏み込みの十分でない剣など、宙を舞う羽に等しい。
打ち合えば、間違いなく弾かれる。
平俗な獣ならまだしも、相手は黄虎である。
生温い剣戟では、堅牢無比な身体を持つ黄虎を討つことはできない。
アスラとて、挑発をするつもりはない。
…ただ、特に退くつもりもない。
剣があるし、健常な四肢がある。
黄虎が森へ帰ればそれでよし。
こちらを襲うならば、それもいいだろう。
それは、黄虎が決めることだ。
「もう一度言うぞ、虎よ。
森へ帰ると良い」
と、アスラが言った転瞬であった。
黄虎が消えた。
もと居た背後には特大の砂塵があがっている。
一瞬遅れて轟音が鳴った。
此方へ飛びかかってきたのだ。
電光石火の速力である。
そのあまりの速度に、風がきりきりと音を立て、世界が悲鳴を上げた。
ほんの一瞬、獰猛な爪が瞬いた。
研ぎ澄まされたそれの餌食になれば、怪我をするでは済まない。
ばらばらの肉片にされてしまうことは、予想に難くない。
来訪者らは、指の一本たりとも動かすことが叶わなかった。
黄虎の方とて、獲物を仕留めたと確信したに違いない。
…しかし。
黄虎だけが動く世界に、何者かが侵入してきた。
須臾の刻の中で、その者と黄虎だけが自由であった。
だが、一枚も二枚も上手であったのは、後から動き出した矮躯の持ち主である。
翡翠のような深緑の瞳が、黄虎を真っ直ぐに捉えていた。
その者は、黄虎のスピードを要ってしても捉えられないであろう速度で剣を抜き放ち、雷光の閃きの如き横薙ぎを放った。
血の飛沫が咲いた。
その者――アスラは宙を舞う虎の頸を目で追いながら、神速の剣をピタリと静止させた。
「え…」
といったのは誰であろうか。
虎の頭がドスンと落ちた。
続いて胴体も地面に転がった。
首の断面からは、とめどなく血が流れている。
アスラが剣を薙いで鞘に納める音だけが辺りを支配していた。
(その選択は、悪手だったな)
ふ、とアスラは小さく鼻を鳴らした。
艶のある三つ編みが、風になぶられて揺れている。
ふとドーブを見ると、呆然としている。
いや、唖然の方が正しいのだろうか。
剣を中途半端に抜いた態勢で止まっているのである。
そこまで抜けたのなら全て出してしまえばよい。
変な奴よ、とアスラ思った。
セーレンの様子を窺ってみると、こちらは身構えたまま静止していた。
切れ長の目を、これでもかと瞠っている。
器用なものであるが、ここで披露する必要性は皆無である。
他の四人に目を向けてみれば、同じく固まっている。
珍妙な光景である。
「さて、お前さんら。
立ち話も難であろうから、家へ案内するぞ。
腹が減っていたら、丁度いい。
肉もあるしな」
と、アスラは、黄虎の胴体を軽々と持ち上げながらいった。
その場にいた全員が、ぼーっとアスラを見つめていた。
だがやがてハッとなると、目をパチクリとしながら、
「き、斬ったのか」
とか、
「何をしたんだ、全く見えなかった…」
とか、
「呪いだ…。
きっと、呪いだぞ。
第一、あんな一瞬のうちに…」
などと、喚いている。
しかし、喜んでいることだけは間違いがなさそうだ。
中には、抱き合っている者らの姿もある。
危機を脱したというような心情なのだろうか。
だとすれば、鼻が高いような気もする。
アスラは、ふふん、と心中で、こっそりと笑った。
「それで、どうするかえ?
肉もあることだし、寄って行ったらどうだ?」
アスラは再度尋ねた。
懸念があるとすれば、虎の肉である。
当然食肉にするつもりだが、場合によれば、肉を摂食できない人種もあるのだ。
菜食主義というやつであろうか。
以前、島にやってきた遭難者の中にもそんな輩があった。
駄目であったら森に返すしかないが、それはもったいない。
これの肉は、捕食動物にしては美味である。
あるいは、燻製にすればいいかもしれないな、とアスラは思った。
虎の肉は筋肉が多く堅いので、本来燻すのに向いていないのだが、我慢できないこともあるまい。
良く噛めばそのうち柔くなる。
「あ、ああ。
お邪魔させてもらうよ。
腹が減っててな」
と、ドーブが返した。
少々声が裏返っていたが、意外にも乗り気のようである。
食欲に屈したのだろうか。
険しかった表情も、すっかり元通りになっている。
忙しい若者である。
アスラは、そうか、そうか、とけたけた笑った。
お主らもそれでよいのかな、と他の来訪者らに尋ねると、肯定の意が返ってきた。
こちらを見る目が、随分と改まったのが印象的だ。
ともかく、先ほどまでの恐慌状態は概ね脱したようである。
浜には穏やかな風が吹きつけていた。
「残りの船の者らはどうするのかえ?
まだ、幾らか乗っているのであろう?」
じっと此方を見てくる長杖のセーレンに声をかける。
「え?
そ、そうですね。
どうしますか、ドーブ」
「うーむ。
大半の奴らが大分酔っているんだよなぁ。
もうしばらく休ませた方が無難じゃないか」
「そうですね。
ただでさえ酔っているのに、ここへ上がってきたら倒れてしまうかもしれませんし…」
内容の良く分からない会話である。
酔っているというのは、かの船酔いのことであろうか。
なんでも、揺れる船の上では平衡感覚が狂い、気分が悪くなってしまうのだとか。
重度になると、立ち上がれないような状態になることもあるという。
何れも最初の船乗り達がいっていたことである。
今の話を聞く限り、随行の者らは中々に重症のようだ。
それも、大半が酔っているらしい。
船乗りが向いていないのではないか、とアスラは思ったが、口には出さなかった。
「して、どうするのだ?」
「ああ。
とりあえず俺達だけで行かせてもらうよ。
他の奴らは動けるような状態じゃなくてな」
「ええ、歓迎に感謝します」
やはりというか、酔っている者らは招かないらしい。
それほどに辛いのであろうか、船酔いというものは。
…まあ、よいというのだから、よいのだろう。
こちらが強制するようなことではない。
「うむ、そうか。
では、船をここらの木に繋いでおくとよい。
この島は天候が変わりやすいので、いつ嵐になるともしれぬ。
船が波に攫われたら敵わんだろう」
来訪者らは頷いた。
アスラは、そうそう、ともう一つ付け足した。
「この虎の血を辺りに撒いておくれ。
森の獣らは、まず近寄ってこなくなる筈よ。
黄虎も含めて、な。
そうした方が、船も安全であろう?」
3月23日 以外⇒意外 修正致しました。
3月26日 指摘のあった文章を修正しました。