序章(四) 包帯と夢
アスラの身体に変化が訪れて、早六日がたった。
島は晴天である。
透けるような青空は、水平線と繋がっているようにも見える。
船で漕ぎだせば、空へとも行けるかもしれない。
そう考えると、高い空が不思議と低く思えて来る。
天空の神は、空の海を行く船を持つという。
この、境のない蒼穹が、あるいは空へと昇る運河なのかもしれない。
アスラは、ぼんやりとそんなことを考えながら、燻製を作っていた。
今朝、朝餉を探しに森に入った所、ムーボーを発見したので、その余った肉を燻しているのである。
ムーボーは、猪のような動物である。
全長は百エルデほどで、大人一人と少し位の大きさだ。
捩じり曲がった牙が特徴である。
性質はどちらかといえば大人しいが、怒ると非常に凶暴になる。
大きな図体と凶悪な角を生かした突進は、必殺の威力である。
数はあまりおらず、珍しい部類に入る。
その肉は非常に美味であり、毛皮も絨毯などに加工できる。
さらに残った猪骨からは、実にコクのある出汁が取れる。
食ってよし、毛皮を剥いでよし、出汁を取ってよしの、一石三鳥な獲物なのである。
森で偶然にもムーボーに出会ったアスラは、
(いや、実に運がよかった)
と、ホクホクであった。
燻すのに用いたのは、トックウッドの木である。
こいつは、非常に按排が良いのだ。
何といっても香りが良い。
トックウッドの果実は酒を作るのに用いられるが、その本体も酒の風味を映したように馨しいのだ。
ちょうどムーボーの相手をした時に、トックウッドの木が折れたので、それをそのまま燻煙材として用いたのである。
肉に塗り込んだ塩は、海藻から取ったものである。
海の香りをたっぷりと含んだそれは、燻製との相性が抜群なのだ。
無論、香草も忘れてはいない。
燻し窯は、集落にあるものをそのまま用いた。
頑健に作られているので、ちょっと手が入っていなくとも朽ちはしないのだ。
アスラは、適当に薪を充填しながら海を眺めていた。
今日は良い風が吹いておる、と楽しげに呟くアスラの顔には、何故か包帯が巻きつけられている。
後頭部からは布の間を縫って三つ編みが、ひょこ、と飛びだしている。
目元が辛うじて露出しているだけで、顔の殆どが見えない。
まるでミイラである。
何故こんな恰好をしているかといえば、四日前、アスラが性転換を経験した翌日の朝に遡る。
♢
アスラは朝起きると、まず、胸の痛みが無いことに驚いた。
なんだこの調子の良さは、と胸を摩ると、ポヨン、とした感触が手にあった
一瞬何だと思ったが、そうだ性転換をしたのであった、と納得した。
昨日のことは夢ではなかったかと思い、アスラは苦笑いした。
そして今度は、病の痛みが無いことに喜んだ。
病が治まったというのも推測でしかなかったので、朝起きて咳があったらどうするか、と昨日は思っていたが、この様子だと病魔は完全に撲滅されたと考えられる。
この変化は非常に嬉しい。
謎の性転換と打ち消し合ってくれる程の有難さだ。
次いで、胸が弛むことに眉を顰めた。
これのせいで非常に寝難かったのである。
うつ伏せがアスラの得意とする睡眠態勢である。
が、胸が潰れる感覚が嫌だったので、昨日は仰向けで寝た。
寝返りをうつたびに揺れる胸に、ウンザリしながら眠りに落ちた記憶がある。
鍛錬の時もそうであったし、この乳は何がしたいのか一向に不明だ。
そして、股。
何もない。
知らずの内に溜息が洩れる。
胸と股には、一向に慣れそうにない。
意識を覚醒させるために伸びを一つすると、体に活力が漲って来る感覚があった。
若返りの効果はてきめんのようである。
何とも清々しい気分だ。
…と、ここまでは良かった。
アスラは程なく、上半身と脛のあたりに、ヒリヒリとした痛みがあることに気付いた。
何ぞ、と思い確認してみると、赤くなっており、軽い水膨れが出来ていた。
触ってみると、痛い。
動くと服が擦れて、痛い。
非常に気になる。
最初は何か虫にでも、とアスラは思ったのだが、何か違う気もする。
変色しているのは、特定の部位だけ。
上半身全てが虫に刺されたなどとは考えにくい。
膝の上あたりの太ももからは、全く赤くなっていないのも引っかかる。
アスラはある程度考えた後、そうか、と閃いた。
果たして、心当たりがあったのである。
(これは日焼けではなかろうか…)
昨日は鍛錬の時上半身裸であったので、その時のものであろう。
膝下も捲っていたので、太陽の光を浴びている。
顔もヒリヒリと痛い。
だとすれば、これはかなり酷い日焼けのように思われる。
アスラの経験上だと、日焼けはせいぜい肌の色が僅かに濃くなる位のものだ。
が、この日焼けといえば、皮膚が真っ赤になって、おまけに水膨れができている個所もある。
かなり重度のそれである可能性が高い。
島の太陽は熱いが、これ程の威力を誇っていただろうか。
(いや、まてよ…)
アスラは赤くなっている白い肌を注視した。
白い肌…。
白…。
(や、これかもしれぬ。
思えば、白い肌は日光に弱いと聞いたことがあった)
島の者は皆小麦色の肌をしている。
日焼けなどでは無く、元からそういう色なのだ。
アイベ島は常夏の島なので、当然といったら当然だ。
何故そういった色なのかといえば、太陽の光を強く浴びるからである。
小麦色の肌は伊達ではないのだ。
太陽光を和らげているのである。
アスラは今現在真っ白い玉の肌である。
雪のよう、という形容がピッタリだ。
日焼けを和らげる色素など存在していないに等しい。
当然、太陽はそんなことなど知る由もない。
陽光は今まで通り燦々と肌に突き刺さる。
そんな中、上半身裸で鍛錬などをすればどうなるか。
(なるほど、それで日焼けか…)
どうにもそういうことらしい。
今こそ大した痛みはないが、暫くもすれば強い痛みが出るだろう。
水などで冷やしておけば、いくらかはマシになるだろうか。
アスラも戦士の端くれである。
痛みに対する耐性は大いにある。
昨日の昼までは、鎮痛の薬を服用しているとはいえ、肺病の激痛に耐えてきたのだ。
その忍耐力は称賛に値するものである。
…が、日光を浴びる度に痛みが走るのは御免だ。
アスラは日光浴が好きである。
炎天の中で、ぽかぽかと景色を眺めるのが好きである。
この日に弱い肌は嬉しくない変化だ。
早急に日焼け対策を講じる必要がある。
我慢する、というのは下策だ。
こういったものは、我慢するよりかは行動した方が良い。
太陽はそれでなくとも昇ってくるのだ。
身体の方は服を着ることでどうにかなるが、顔はそうもいかない。
顔の日焼け防止が話の争点だ。
まず、対策として挙げられるのは帽子である。
つばのある帽子を被ることによって、完全ではないが日焼けを防ぐことができる。
手軽であるし、無難な線でもある。
一見すると悪くなさそうなのだが…。
(帽子か…)
ただ一つの問題点は、アスラ自身が帽子を好かないということである。
帽子に纏わる嫌な思い出などはないのだが、本能的に好まないのだ。
自然、帽子は最良策ではない。
尤もな所であれば、日向に出ないという方法がある。
そうすれば、日焼けなどしまい。
陽にあたらないのだから当然だ。
だが、これはありえない。
そんなことでは、外出も碌にできない。
正しく日蔭者になってしまう。
折角新たな人生を貰ったのだから、引き籠りでは御免だ。
どうにも、ピンとくるものがない。
素直に帽子を被ればよいのかもしれないが、それも癪だ。
好きでもないものを、わざわざ身に着けようとは思わない。
(ううむ、なにか良いものは…)
と、アスラは視線を巡らせた。
鍋、論外である。
茣蓙、同上。
剣、同じくどうしようもない。
笛、用途が違う。
包帯、は…。
(ふむ、包帯か…)
…存外いいのではないだろうか。
顔にこれを巻きつけるのである。
そうすれば、全方位からの陽を除けることができる。
視界も遮らない。
激しく動いても、滅多に取れることはないだろう。
幸い替えなどは幾らでもある。
(なんと、名案ではないか)
なるほど、これは良い。
天啓ともいうべき閃きである。
これならば、大手を振って天道様の下を歩ける。
帽子などより格段にいい。
早くも問題が解決した。
よし、では起きるか、と勢い良く立ちあがると日焼けに障ったのか、
「あいた」
と、アスラは声を漏らした。
♢
果たして、こういった経緯でアスラはミイラのような格好をしているのだ。
この包帯を巻く案は実に良かった。
ほとんど顔に日焼けをしないのだ。
始めの日焼けの方も、大分良くなった。
肌は既に真っ白である。
余った鎮痛の薬湯が、思わぬ形で役に立ったのは蛇足である。
日焼けは思った以上に重症だったのだ。
そういえば、大きさのあっていない服の方であるが、仕立て直した。
今のアスラの格好は、前程だぼついていない。
着ていたものを短く切り詰めたのである。
新しいものを作っても良いが、この服には妻との思い出が少なからず詰まっている。
もう四年以上着ているからか、ヨレヨレであるが、どうにも捨てる気にはならなかった。
丈夫な繊維で織られているためか、そう簡単には破れたりしないのである。
同じ服は三着あるので、それらも同様に丈を縮めた。
ブーツだけは新たに作った。
さすがに靴はどうにもならない。
とはいっても、使った皮は元のブーツのものである。
まだ全然傷んでいなかったので、勿体なかったのだ。
「ふむ、そろそろか」
と、アスラは少々くぐもった声を出した。
そうこうしている内に、燻製が完成しそうなのである。
時間にして一刻と半ほど燻したであろうか。
もう十分だ。
窯の温度が下がるまで、しばし待つ。
今開けてもいいのだが、当然熱い。
只でさえ暑い島なのだから、これ以上熱いのは御免である。
暫しして窯を開ける。
大きめの木板をずらすと、熱気と白煙が溢れ出できた。
煙いようだが、匂い自体は爽やかなもので不快感はない。
ある程度煙が外へ逃げると、中が見えてくる。
窯の中央付近に、一抱えはありそうな大きな肉がぶら下がっている。
燻したムーボーの肉である。
アスラは腰を屈めて燻し窯の中に入ると、けほ、と咽た。
どうにも煙が残っていたようだ。
なんだかんだといっても、煙いものは煙いようである。
気を取り直して、肉を取るとする。
窯の天井までは目測で百エルデと少し。
それに対してアスラの身長といえば、どんなに多く見積もっても八十エルデほどである。
肉が吊られている棒は天井の高さとそうは変わらない。
このままであればアスラは肉を取ることができない。
しかし…。
「よっ」
と、アスラは石のブロックに乗った。
これで問題ないのである。
肉を吊るす時、背伸びをしても棒に届かなかったので、このような物を用意したのだ。
ここでも地味に低身長ショックを受けたのは秘密である。
身長が低いというのはどうにも不便でならん、というのがここ数日のアスラの感想だ。
若返ったのは至極有難いのであるが、低身長と乳だけはどうにかしてほしい、というのが正直な意見であった。
縄を解いて肉を外す。
…が、どうにも上手くいかない。
手袋をしているからである。
これも日焼け対策だ。
因みに亡くなった娘のものである。
手の日焼け予防は何かないか、と探していた時にふと目に入ったので使わせて貰っているのだ。
暫くの奮闘の後、どうにか肉を外すことに成功した。
素手でやるべきだった、などと無粋なことは思わないことにする。
燻製を外へと持ち出す。
窯の外へと出ると、アスラは大きく息を吸い込んだ。
肺腑の中に、潮の香りを存分に含んだ清々しい空気が届けられる。
空気が美味いとはこのことである。
やはり窯は煙い。
心なしか服も煙たくなっている気がする。
肉を担ぐと、家へと向かう。
家の前でもう一度干すのだ。
このままだと、煙くて食えないのである。
幸い天候は良いので、問題は無さそうである。
燦々と輝く太陽を頭上に置きながら、集落の中を軽快に歩いて行く。
包帯が日光を遮断しているので日焼けの心配はない。
問題があるとすれば、手袋が蒸れることくらいであろうか。
風通しが悪いのだ。
アスラの嵌めている手袋は、チンチオワニというワニの皮で作った手袋である。
チンチオワニは、島の森の奥地に生息する獰猛な肉食獣だが、その表皮はしばしば生活用品などに加工される。
この手袋もその口である。
丈夫で手触りが良く、それでいて靱さも兼ね備えているチンチオワニの皮は、いわなくとも優れた素材なのだ。
娘の誕生祝いにと、皮師の友人に無理をいって拵えてもらった代物である。
まさか娘の死後、父に使われようとは、手袋も予想だにしていなかった事態であろう。
手の大きさが丁度良かったのだ。
全くの余談ではあるが、この手袋を誕生祝いに貰った娘は非常に微妙な顔をしていた…。
家に着くと、前にある竿に肉を吊るした。
無論足場を使って、である。
しっかりと縄で固定し、外れないようにする。
いくらか竿が撓っているが、折れることはあるまい。
アスラは、ふう、と息を吐いた。
これで当面の保存食となる。
年中太陽が威張り散らすこの島では、基本的に食糧の保存が効かない。
すぐに悪くなってしまうのである。
特に肉などが顕著だ。
食糧を残すことが良くないという島の風潮もあってか、保存の効く燻製などは非常に重宝されるのだ。
いつでも気軽に肉が食えるのは大きい。
♢
大海とは良くいったものだ、とアスラは思う。
海は、ふつうの湖沼とはまったくと違う。
なぜ、塩味があるのか。
第一、どこから水はきているのか。
疑問は尽きないが、この雄大さは、身近にあるだけでも大いに感じられる。
迷信に、この世の果ては滝になっていて、海水が滔々と流れ落ちているというが、本当であろうか。
そこに落ち込んだ船は、死者の世界へと招待されるそうだ。
事実であれば、なんとも恐ろしい話である。
燻製を作り終えたら、することがなくなってしまった。
昼飯にしようとも思ったが、腹がそんなにも減っていない。
空腹でもないのに飯を食うのもおかしな話だ。
暇を持て余した時は剣を振るうのが常である。
腹が丁度いい時計となってくれる。
剣を振っていれば、幾らもせずに小腹が空いてくる筈である。
場所は例のごとく南の海岸線だ。
海の方へ目を向けると、白い海鳥が風を掴んで空へと舞い上がっていくのが見えた。
速い速度も相まって、まるで白い矢のようだ。
海鳥は、くるりくるりと何回か旋回して、翼をはためかせる。
その頃には蒼穹の中だ。
白い帆で風を一杯に受けて、青い空をスイスイと進む。
何処を目指して飛んでいるのか。
鳥たちにも故郷はあるのだろうから、そこを目指しているのかもしれん、とアスラは思った。
アスラは程なく剣を抜いた。
ゆるりとした動作であったが、何処となく腕前を感じさせる動きである。
構えは片手大上段。
右の腕の腱を伸ばしきらんとばかりに、高く、高く、剣を構えた。
剣の切っ先は、太陽の光を纏って神々しく輝いている。
アスラは、剣に視線を這わせるようにして、天を仰いだ。
太陽を一瞥すると、視線を前の海へと戻す。
トン、と軽快な踏み込みを持ってして剣を打ちおろした。
撫でるような流れるような剣線は、風のように走る。
中段で流れを留めることをせず、伸びきった腱の反発力を利用してもう一撃。
横なぎの剣戟を繰り出すと、砂の上に足を躍らせ、独楽のように回転する。
そこでもう一閃。
回った勢いをそのままに、袈裟掛けの筋。
腕を返して剣を跳ね上げる。
左切り上げ、踏み込んだ後横なぎ。
ここで一旦留める。
剣をクルリと回して弄ぶと、鞘に納めた。
アスラは、うむ、と頷いた。
(上出来だな)
ここ数日の鍛錬の成果か、体捌きが随分よくなった。
剣の流れが澱まなくなったのだ。
身長が縮むというのは、思いのほか厄介であった。
リーチが短くなるというのは当たり前だが、体重も相当減少しているのである。
よって、踏み込みに重みが足りなくなったのだ。
自重の減少は突進術に大きな支障をきたす。
競り合った時に弾かれるリスクも少なからず上昇する。
幸いにも、アスラの剣の型だとそれほど大きな支障はでなかった。
むしろ、戦闘能力は上がったといえる。
筋力の上昇は、そのまま乱撃の威力上昇を意味する。
この身体の馬鹿力はアスラの戦闘スタイルとピッタリ合うのだ。
アスラの剣は剛の剣というよりも柔の剣なので、大振りの攻撃はあまりしない。
一撃に重きを置く剣士だった場合は致命的だっただろうが、こればかりは父に感謝だ。
アスラの父アンラは島最強の剣士だったが、体格には恵まれていなかった。
身長など八十エルデと少しで、今のアスラに毛が生えたような小柄さだった。
しかしながらその腕前は天下無双で、瞬き一つの間に十を超えるような剣戟を繰り出してくるような剣鬼であった。
アスラは父の剣の影響を強く受けた。
父は主だって指導はしなかったが、アスラはいつだって父の剣を見ていた。
それが今の幸運に繋がっているのだ。
ここ数日というもの、アスラは身体を動かすのが楽しくて仕様がなかった。
暇があれば身体を動かしている気がする。
若い身体というのは、実に素晴らしい。
頭が思った通りに行動してくれるのだ。
本当に愉快なことである。
人生など長くともせいぜい八十年。
病や怪我をすれば、さらに短くなる。
かくいうアスラ自身だって病に侵された。
少し前までは、死に掛けもいい所だったのだ。
それに加えて六十五の高齢でもあった。
気力も体力も尽きる寸前。
古傷なども、無視ができないほど足を引っ張っていた。
が、今はといえば活力に満ちた若い肉体を貰い、活き活きとしている。
人生とは分からぬものである。
身体に若干の差異はあるが、それはこの際いい。
若返ったということに比べたら、なんと些細なことか。
人間というのは、生きる指針を必要とする生き物である。
夢や生き甲斐を持っている者と、そうでない者には、歴然の差が生じる。
日々の輝きが大きく違ってくるのだ。
アスラには、とりあえず野望ができた。
老いるまで人生を送って、剣というものを散々に考究した。
結局、己はこれだけだとアスラは思う。
馬鹿みたいに鍛錬を重ねた結果、それなりに自慢できる腕にはなったと自負もある。
…しかし。
いつからか、先が見えなくなった。
壁にぶつかったともいえるだろうか。
これまで、漠然と未来の己が振るう剣が想像できた。
だが、今は違う。
映像が、いっさい途絶えてしまった。
暗礁に乗り上げたのだ。
そんな中、思いがけないきっかけを貰った。
アスラ・カルナは、結局、どの程度の使い手なのか。
剣をくすぶらせたまま終わる、二流の武士か。
あるいは、武の境地を悟る傑物なのか。
真価を問いたい。
無頼でいいのだ。
それでこそ、篩別が叶う。
自分の、本当の価値を知りたかった。
そして、目的といえばもう一つ。
他ならぬ旅である。
…ただ、もともと、そこまで遊楽に舞い上がる方ではないと、アスラは思う。
食うのは好きだし、冒険も嫌いではないが、それほど、格別に好むものでもないのだ。
なぜ、死の淵に立って、己はそれを願ったのか。
アスラ・カルナは、元来つまらない人間だ。
己のことだから、よくわかっていた。
剣以外に、熱中できない人種なのである。
家族の死後も、悲しかったが、それなりにやっていた。
アスラの方では、戯れだろうが、作業だろうが、鍛錬だろうが、剣さえ振るっていれば愉快である。
それこそ、地獄の具現たる戦争であっても、技を試せる場が設けられたと思えば、歓迎とは言わずとも、有意義と感じるのだ。
異常であると、理解はしている。
今でも、本質は変わらない。
健康な四肢と、剣があればそれでいいはずなのだ。
つい先日、とぼとぼと帰宅してみて、アスラはぼんやりと合点がいった。
家は暗かった。
調度品は古び、壁はところどころ罅が入り、とても、とても静かだった。
月のあかりに照らされた遺品に、懐かしい笑い声を聞いた。
幻聴でもなんでもなく、記憶が起こされているのだとアスラは理解した。
妻や、子供らや、親友の幻影が闇の中に立ちあがった。
笑顔で、なにやら談笑している。
楽しそうで、嬉しそうで…。
そんな、記憶の断片をみているだけで、不思議と気分が良かった。
親友の言葉を思い出した。
家族や友人は、楽しさを一つの器で分け合うものだ。
誰かが悲しくとも、誰かが、器に幸せを注いでやればいい。
そいつは、そういっていた。
今や、みんな死んだ。
逝ってしまった。
死んだ人間にしてやれることなど無いのは承知している。
…それでも、やらぬよりはきっといい。
子供らや、妻が好むようなことをしたい、とはっきりと思った。
惜別しなければならない。
今に持ってこられなかった、全てのものに。
むろん、後ろ髪を引かれる気持ちもある。
ここは故郷で、必死になって守ろうとした島だ。
残るというのも、選択肢のうちには入る。
ただ、
(それじゃ、いよいよおれはつまらん奴になる)
と、アスラは思う。
もういいのだ。
やれることはやった。
その結果、一切は衰滅した。
この島は、その残骸だ。
今や、大きな墓標である。
程なく、アスラの腹が鳴った。
空腹感がある。
胃がグニグニと動いている。
食物を欲しているのだ。
どうにも、ぼうっとしている内に随分の時間が経ってしまったようだ。
腹時計が知らせているのだから、間違いない。
鍛錬はまたの機会としよう。
「昼飯は魚にするか」
アスラはそんなことを呟いて、家路に着いた。
♢
ギンデウオという魚がいる。
鮮やかな青色をしており、海の色と同化して天敵から逃れる賢い魚である。
賢いだけでなく、ギザギザとした尾ひれには毒針が付いており、刺されると激痛が走り、患部が真っ赤に腫れる。
油断ならないその性質に反して、身はさっぱりしていて実に美味である。
大きさは大人の手のひら位であり、それほど大きくはない。
ギンデウオは聡い魚だが、捕まえるのにはそれ程苦労しない。
何故かと云えば、確固たる漁の方法があるからである。
それには海老を用いる。
ギンデウオは海老が大好物であり、目の前に海老があれば一も二もなく跳びつくのだ。
小ぶりな海老を餌として釣りをするのが、捕まえる定石的な手段である。
「おおっ、四匹目だ」
アスラも例に漏れず海老を用いて釣りをしていた。
機嫌良さげな声の通り、釣りの経過は順調だ。
餌に用いたのは陸海老の一種である。
浜で取れる海老であり、味は淡白で美味くない。
島民はこいつを良く餌に用いるのだ。
(む、餌がなくなったか)
五匹目を釣り上げた所で、餌の陸海老が尽きた。
あまり多く取ってこなかったのだ。
が、五匹もいれば昼餉として存分な量である。
釣りはこのくらいで良い。
アスラは腰かけていた岩から腰を上げると、ギンデウオの入った籠を用心しながら担ぎ、竿を忘れずに持って岩場を後にした。
ひょいひょいと岩を跳んで上へと登って行く。
軽業師然とした身のこなしである。
アスラの背後で三つ編みが尻尾のように揺れている。
最後に大きく尻尾が揺れると、崖の上へと到着した。
アスラはそのまま軽い足取りで家へと向かった。
釣りをしていた岩場は集落の下側にあり、家から近いのだ。
南西の入り江が最高の釣り場だが、わざわざ行くのも億劫である。
竿に吊られた燻製のムーボーをチラリと見ると家へと入った。
籠の中からギンデウオを取り出し、五匹全てまな板の上へと並べた。
早速調理である。
まず、毒針を抜く。
こいつがあったのでは、落ち着いて調理もできない。
無論であるが、針には触れないように十分注意する必要がある。
全部で三本ある毒針をスポスポと抜いてゆく。
慣れた手つきである。
続いて、木箆を用いて鱗を削ぐ。
あまり力を入れずに弄るのがコツである。
ゴリゴリと鱗を取っていく。
さほど時間を掛けずに五匹全部の作業が終わった。
鱗を取り終えると、小ぶりの刃物で身に切り込みを入れる。
塩を控え目に振り、炒った陸海老の殻を塗す。
陸海老自体は旨くないが、身を包む赤い殻には想像以上に旨味が詰まっている。
炒った陸海老の殻はポピュラーな調味料であり、酒の摘みにしてもいける。
串にキンデウオを通すと、窯の端に刺す。
控え目に薪を入れて、枯れ草を纏めたものを上に置く。
火打石を打って火にかける。
焦げくさい匂いが立って、薪に火が移った。
火が強くなりすぎないように調節しながらギンデウオを焼いていく。
時折息を掛けて火を焚く。
包帯の隙間からしっかりと加減を確認をする。
程なく薪の香りの中に別の匂いが混ざってきた。
そろそろ良い具合だ。
鉄棒で薪を掻い出し、窯の温度を下げる。
アスラは串を一本取り出した。
程よく焼き目がついたギンデウオの身からは、旨味の凝縮された油が滴り、パチパチと音を立てている。
生臭さを抜き取られた精悍な白身からは、鼻孔をくすぐる芳醇な香りが漏れている。
臓腑が、早くよこせとばかりに捩れる。
口もとの包帯をずらす。
忘れずに黙想を済ませると、たまらず一口齧る。
熱々の身を口全体で受け止める。
「うまい!」
なんという繊細な味なのだろうか。
塩気を殆ど感じない淡白さだが、それでいてしっかりとした海の味が詰まった白身は、柔らかく、むしろ蕩けるようである。
口の中で噛みしめて行くと、まぶした陸海老の殻がパリパリと弾ける。
全身をじんわりとした香ばしさが伝い、涎が染み出してくる。
そして、針を除いた尾ひれがこれまた美味である。
カリカリとした歯ごたえに、ほんのりとした塩気。
薄らと付いた焦げが、一層の奥深さを引き出している。
あっという間に串を空にし、二本目へと移る。
「なんとも…」
飽きのこない味である。
濃い口でないことも大きい。
瞬く間に二本目も終える。
酒が欲しくなる所であるが、丁度醸している最中である。
最低でも、明日にならなければ飲めまい。
楽しみは以降に取っておくとする。
アスラは楽しげに三本目のギンデウオに手を掛けた。