序章(三) 不思議な日
白銀を思わせる美しい砂浜に、静かな波が押し寄せた。
さざ波が、不思議な幾何学模様を描き出している。
桃色の小粒な貝殻が、波にさらわれて消えて行った。
鼻孔に広がるのは潮の香りである。
(いや、いや、今日は波が静かだな)
アスラは島の海岸線に立ち、青々とした海原を眺めていた。
アスラはあの後、素早く森を後にした。
森は危険である。
夜などになったら、もはやそこは魔境だ。
この小さくなった肢体では森の獣どもを十分に相手取れまい、とアスラは考えたのだ。
身体の勝手が随分と違うであろうし、ブカブカの服も大いに邪魔である。
普通の獣ならいざしらず、黄虎などと出会っては命が危うい。
サンバの大蛇や、ピキーシの怪鳥も同様である。
彼奴らとやり合えば、場合にもよるが、地形が変化する程の激戦となることもあるのだ。
(折角精霊様に貰った人生だ、無駄にはできまい。
やりようがない訳でもないだろうが、全くの無益であろう)
そんな思いを胸に、細心の注意を払って森を抜けて来たのである。
普通なら気配を絶ったとしても、幾らかの獣に遭遇するものだが、今回に限ってそれが無かったのは僥倖であった。
今日は何とも運が良い。
(…しかし、今思うと妙だ。
少々森が静か過ぎたような気もしたな。
小猿一匹とも出会わぬとは。
まるで、何かに脅えている様だった。
二十年前に大きなピラバガが生まれて、森を荒らしまわった時のようだ)
森の獣は賢い。
いいや、勘が鋭いと云うべきだろうか。
アスラだって第六感は優れている自信があるが、獣と比べたら幾分劣るだろう。
奴らの鋭敏な感覚は、それこそ第三の目といった体である。
果たして、獣達の高性能な探知機には一体何が引っかかったのか。
(まあ、いずれにしても運が良かった。
奴らがそれほどまでに警戒する何かと鉢合わせにならんで。
…しかし、そのような強大な気配は感じなかったがなあ)
アスラはまあ良いか、と思考を中断した。
驚いたと云えばもう一つ。
この身体のことである。
云うまでも無く森は悪路である。
木の根や、泥のぬかるみ、背の高い草、と挙げればきりがないほど障害物は多い。
そんな森で気配を消しながら移動するのは、想像以上に体力を要することだ。
無論であるが、ある程度の身体能力も要求される。
それを、こんな慣れぬ身体と大きさの合っていない服で実行するのだから、随分と時間を必要とするのでは、とアスラは踏んでいた。
おおよそ間違ってはいない見解であろう。
その為もあってか、早めに広場を出発したのだが…。
(かなり早くに海岸まで着いたな)
そうなのである。
日が傾く位には着くか否か、とアスラは予想していたのだが、大誤算であった。
日はまだかなり高い。
ともすれば、かなりの速度で移動したことになる。
主だった疲労も見られない。
この小さな肢体は、思った以上に動けるらしい。
体力も、森を遁走できるくらいだから問題はないし、動いてみた感覚だと身体能力も存分にあるのだ。
一体この矮小な身体の何処にそんな力が込められているというのか。
(精霊様の御慈悲か。
おれのような老いぼれに優しくしてくれたのやもしれんな。
全くもって頭が上がらぬ)
と、アスラは思った所であった。
海岸線まで来れば、アスラの家まではそう遠くない。
後は、海沿いに歩いて行けば良いだけである。
ともすれば、随分と時間が余ったということになる。
日の傾き具合だと、夜の帳が下りるのはまだまだ先だ。
ならばどうするか。
そのまま家へと帰ってもいいし、晩の摘みを捕って来てもいいだろう。
しかしながら、アスラの答えは一つであった。
(…剣を振ろうか)
折角それなりに動けそうな肢体を頂いたのだから、剣を振ろうというのである。
ここ数年は病によって大いに虐げられていたので、その鬱憤を晴らすという意味合いも少なからずあった。
だが、アスラという人間は、そんなものを抜きに剣が好きなのだ。
故に、剣を振るう。
可笑しな話ではないだろう。
♢
三歳から剣を握って遊んだ。
六十五になる今まで、ひたすら剣の腕を磨いてきた。
草を刈り、木を割り、水を斬り、時に風を裂いた。
とかく剣を振り続けた。
病が酷くなってからも、全力ではないにしろ、剣だけは振った。
家族を守るため、木を守るため、自分を満足させるため…理由などいくらでもあった。
アスラの人生の歩みは剣と共にあった。
そんなアスラは、上半身すっぽんぽんで浜辺に立っていた。
雪のような白い首筋から鎖骨を伝って伸びたしなやかな腕は、剣に添えられている。
伸びた腕を突くふくよかな胸は、形が良く、美しい。
膝の半ばまで捲りあげられたズボンからは、すらり、とした素脚が覗く。
海風に撫でられた長い黒髪は、少し湿り気を帯び、艶々と踊っている。
見る者がいれば、それは、それは、扇情的な光景であったと云うに違いない。
別に、アスラに露出癖はない。
自身の身体に欲情している訳でもない。
剣を振るうのに邪魔な服を取り払っただけなのだ。
心配といえば、日焼けが心配である。
アスラは剣の柄に手を掛けた。
柔い手の平が、荒い布の感覚を伝える。
ピラバガの脚の骨で拵えた頑強な柄。
その上に丈夫な布切れを巻きつけ、滑り止めとしてある。
剣を抜き放つ。
鞘走りの音が静かに鳴った。
少々湾曲した細身の剣身が太陽光を跳ね返し、ギラリ、と瞬いた。
刃渡りおよそ三十エルデ。
柄まで入れれば四十位であろうか。
今は亡き、島一の鉄打ちゲルンガの作だ。
切断することに特化したその姿は、実に妖艶である。
(はて、はて、実に久しいな。
全力で剣が振れようとは)
アスラは、少なからず高揚していた。
剣を握るその手にも、心なしか力が籠っている。
口元は緩み、知らぬうちに笑みが浮かぶ。
この肢体の運動能力は、先ほどの遁走から――驚くべきことであるが――それなりの領域にあると見た。
ならば、剣を振るうのには十分である。
少なくとも――こういうのも可笑しな話だが――晩年の頃よりかは、間違いなく高い。
全盛期の頃のように戻りたいなどという我儘は元よりない。
身長の低下や胸の重量増加などの弊害はあるが、追々慣らしていけばいい。
全力で剣が振れる、そのことが何よりも重要である。
アスラは剣を正眼に構えた。
握りは両の腕である。
アスラは普通片手で剣を持つのだが、型をなぞるときは常に両の腕で行うのだ。
基礎は何にも勝る真髄である。
武人の心得の一つだ。
下は浜砂である。
世辞にも、足場が良いとはいえない。
しかし、アスラは百戦錬磨の玄人である。
新米のひよっことは、一味も二味も違うのだ。
この程度で剣線が鈍るなどありえない。
(よい、よい。
活力が漲るようだ。
このような感覚は幾年ぶりか。
うむ、実によい気分だ)
アスラはスーッ息を吐くと、
「せいっ―――」
掛け声と共に、剣を唐竹に振り下ろした。
剣線の鋭さに、一陣の風が吹き抜ける。
風に煽られ、乾いている浜砂が宙に踊る。
波が弾け、白泡となって消えた。
胸が大きく弛む。
アスラの振り下ろした剣は中段で、ピタリ、と静止していた。
巻きあがった砂塵が海風に攫われてゆく。
浜は再び静けさを取り戻した。
波の寄せる音だけがあたりを満たす。
そんな中、アスラは目を見開いていた。
(なんと、この手ごたえは…)
アスラの手には、久しく感じなかった手ごたえがあった。
身長が縮み、剣が相対的に長くなったことや、体重が低下し、躰が安定しないことや、胸が不可思議に膨れて邪魔なことを酌みしても、大いに良い手ごたえがあったのだ。
一振り目から違和感よりも好感が勝るとは、これまた驚きである。
手ごたえを忘れぬ内に、再び剣を上段に構える。
アスラは今一度息を整えた。
胆の辺りに力を通す。
じわり、じわり、と力が満ちる。
意識が、身体が、感覚が、透き通り、それでいて充実していく。
澄みきった力が心の臓を通り、頭の頂を通過し、両の腕に至る。
指の一節にも欠けずに力が浸透する。
腕で握り込む剣をもが、身体の一部となったような感覚だ。
(よし)
アスラの掲げた剣が再び瞬いた。
今度は連続である。
一回…。
二回…。
三回…。
四回…。
剣速が段々と増していく。
剣が振るわれる度に砂が風で巻き上げられ、砂塵となって宙に舞う。
その剣筋といったら、鎌鼬もかくやという程の鋭さである。
五回…。
六回…。
七回…。
八回…。
九回…。
既に剣速は風を裂くほどまでに高まっている。
鉛色の閃光が瞬く度に甲高い風の音が響いた。
そして…十。
腕に力を込め、脚を地に突き刺すように踏み込んだ。
天を突くように剣を掲げると、柄を持つ手を一杯に絞る。
溜めこんだ力を一気に解放するかのように息を吐くと――
「ふうっ―――」
今一番の鋭さを持ってして剣を打ち下ろした。
振るわれる剣の重みに、砂の上に下ろした脚が、ズン、と更にめり込む。
脚と腰を存分に使い、力を剣に伝導する。
円の弧を描くような剣線が虚空を走る。
刹那――刃が風を斬った。
鉄を引っ掻いたような高音が響き、振られた剣は寸分狂わず中段に静止した。
アスラは、ふう、ともう一度息を吐くと剣を下ろした。
巻きあがった砂が、再び海風に消えて行く。
さざ波がそれを静かに見守った。
アスラは遠い海原を見据えると、
「うむ」
と頷いた。
それとほぼ同時に、海から激しい水の音がした。
波がうねり、アスラのいる辺りまで押し寄せる。
青い空が僅かな間、白い飛沫で染まった。
アスラの視線の先には―――沖の辺りまで真っ二つに割れた海が映っていた。
他でもない、アスラが斬ったのだ。
最後の剣戟が海を裂いたのである。
アスラはそれを見据えながら、
(海を割るのは、十年ぶり位かの。
いや、いや、まさかとは思ったが、風が斬れるとは。
この身体はとんでもないな)
と、感心していた。
林中の遁走で薄々感じてはいたが、この少女の肢体は想像以上であった。
力を込めようと思えば、ふつり、ふつり、と底なしに力が湧いて来るのだ。
今も興が乗ったので、剣戟に力を込めてみたところ、まさか、まさか、風を斬るに至ったのだ。
風を斬る、という行為は誰にでも出来る事ではない。
それができたのはアスラの知る限り、自身を含めて八人である。
いずれも、武の極致に至るために技を鋭く速く研鑽し、身体を鉄のように鍛え抜いた屈強な戦士であった。
六十五にもなって再び風を斬ることができようなど、アスラは夢にも思わなかった。
それが女の身でなのだから、なおさらであった。
(なるほど、精霊様に頂いたありがたい肢体だ、只のそれである筈がなかったか)
アスラは剣を握る柔らかい手を眺めた。
しかしながら、不思議な身体である。
(この小さな手がよくもまあ、あれほどの力を持っとるな。
風を斬るのには、剣の鋭さは無論だが、その上かなりの膂力がいる筈なのだが…)
この身体は一体どういう仕組みになっているのであろうか、とアスラは二の腕のあたりを細い指で摘まんだ。
柔いようだが、程よく筋肉もある。
たしかに申し訳程度には引き締まってはいるが、それでも風を斬るほどの剛力が出せるとは考えにくい。
アスラの全盛期の頃は、全身を鉄線のような筋肉が覆っていた。
だからこそ、島で一番の剣士と言われるほどになったし、父もどうにか超えられた。
基礎筋力は非常に重要である。
が、この身体は大した筋肉も付いていないというのに、アスラの全盛期に並ぶばかりか、あるいは…。
(いや、実に不思議な身体だ。
…しかし、精霊様はこの爺に何を期待してこのような待遇をして下さったのか。
おれなど、十把一絡げの老いぼれにしか過ぎぬというのに)
まあ、おれなどに解せることではないか、とアスラは再び剣を構えた。
久しぶりに全力で鍛錬ができそうなのだ、余計なことは後でいいだろう。
ここ数年は満足に剣も振れていなかったから、腕も少なからず鈍っていることであろう。
邪魔な乳のこともあるし、勘を取り戻すというのもあるだろう。
(…なにより、剣を振るうのは気持ちが良いからな)
アスラは再び剣を振るい始めた。
日が傾くまで、鉛色の星が煌々と瞬いた。
♢
時は夕刻。
勇ましい陽光を放っていた太陽も、とうとう沈む時がきた。
空は藍の色に、沈みゆく日は橙に染まっている。
これからは月が主役となる時間である。
島を包む空気も、心なしか清涼を帯び始めている。
アスラといえば、森の入口に居た。
いましがた鍛錬を終え、森の入口にある小さな沼で行水をしている最中であった。
この沼の水は実に澄んでいて、行水にはもってこいなのである。
今となってはアスラ以外使用していないが、十年ほど前までは島でも有名な行水場所だったのだ。
森の奥に行けば水の澄んだ場所など幾らでもあったが、手軽に来れる上に危険の少ないこの小さな沼は、島民に重宝されていたのである。
アスラは水を掬って身体に掛けた。
程よく火照った肢体に心地良い。
思い切り剣を振れて清々しい気分であるというのも大きい。
(いや、しかし、実に白い肢体だ。
このように白いとは、まるで赤子のようだ。
息子らが産まれた時のことを思い出すな)
そんなことを考えながら、要所を手で擦って洗ってゆく。
邪魔な乳の間は中々に蒸れるので、念入りに洗った方がよさそうだ。
この丘は、揺れるし、蒸れるし、一体何がしたいのだろうか。
腰を洗った流れで、股間に目が行った。
一度確認した所であるが、つるり、と何もない。
それなりに隆起のある身体のようだが、どうしてあるべき突起だけがないのか。
妻も既に死んでいる所であるし、使いどころのない物であったが、無くなるというのはいただけない。
解せぬ所ではある。
(ううむ。
これも、新たな人生を歩めという精霊様の御達しなのかもしれぬ)
と、アスラは思うことにした。
うじうじとしていても、相棒は戻って来ないのだ。
精霊様に、男に戻してくれ、等と祈願するわけにもいくまい。
若返っただけでも、十分に奇跡である。
これ以上何を望めるものか。
次いで、髪を洗った。
水を手で掬い、撫でるように洗うのである。
守人は髪を大切にする。
髪は精霊様の加護を最も強く受ける場所であり、霊力の源らしいのだ。
故あって、島の民は例外なく長髪である。
かくいうアスラも、艶のある黒髪を腰ほどに伸ばしていたのだが、身長が縮んでしまったせいで、髪の先端が太ももあたりまで達してしまっている。
少々長い。
髪を切るのは一種の儀式であり、年始の月の満ちた日に行うのが常である。
今は七の月なので、しばらく待つ必要がありそうである。
(や、それにしても気持ちの良い時間であった)
アスラは髪を洗いながら、先の鍛錬を思い出した。
身長が縮んだことにより、やはりというか、リーチが短くなっていた。
感覚でいえば、拳一個分程であろうか。
鍛錬中に修正はしたと思うが、まだ完全ではないだろう。
それに、胸も邪魔であった。
アスラは連撃を得意とするタイプの剣士である。
故に、些細な違和感が致命傷となる。
アスラの剣戟は神速であるので、それが顕著に反映されるのだ。
今日の鍛錬など、体捌きが巧くいかず、数回転げてしまった。
重心の変化や、歩幅の違い、目線の低下と、挙げれば際限がないほど違いがあるのだ、当然といえば当然の流れである。
最後の方はそれなりに納得がいく内容となり、アスラも一応満足したが、全体の内容はお粗末であったというのが本心であった。
間合いの再確認と、体捌きの最良化、身体を慣らすこと、この三つが今後の課題である。
(いずれにしても、鍛錬の時間は始終愉快であった。
久々に心地良く過ごせたということが最重要であろう。
精霊様には感謝をしてもしきれぬ)
と、アスラは鍛錬のことを締めくくった。
ややあって全身を洗い終わった。
アスラは水から上がった。
水滴が、髪や身体を伝って落ちてゆく。
手ぬぐいを引っ掴むと、乱雑に身体を拭く。
心なしか肌がヒリヒリしているような気がする。
途中で何度か絞り、四度絞る頃には拭き終わった。
髪は当然乾ききらないので、編まずにおく。
アスラはブカブカの服を、スポリ、と被ると、ズボンは履かずに家へと歩き出した。
♢
アスラの家は、島の集落の跡地にあった。
跡地というのは、アスラ以外人が住んでいないからである。
海岸から少し歩くと、高台になっている場所へと着く。
そこが集落の跡地の一つであり、アスラの家がある場所であった。
島の集落は全部で六つあり、海沿いにそれぞれ点在していた。
アスラらが暮らしていた集落は島の南側にあり、賊たちの相手をした回数が最も多い集落であった。
島では一番大きな集落だったが、今となってはアスラ一人である。
というよりも、島にはアスラ以外人がいないのだから、今となっては集落も何もないのだが。
アスラは人気のない集落を、トボトボと歩いていた。
石造りの家々は、もう随分と手入れがされておらず、苔むしている。
黄昏も終わり、闇夜の暗さを存分に落としこんだ石の家並みは、少なくない寂しさを抱かせる。
ほぼ均一に十年程前に空き家となったのである。
他ならぬ、死班病にやられたのだ。
屈強な戦士達も、そうでない者も、皆亡くなった。
あれは、悪夢の具現であった。
もがき苦しむ訳でもなく、悲鳴を上げるでもなく、ただ、ただ、仲間や家族が弱って行く様は、地獄絵図と云わずしてなんと表せようか。
アスラには、一生忘れられそうになかった。
(早いものだ。
あれから既に十年以上が経過しているとは。
思えば、あの時既に島は滅びていたのかもしれぬ…)
と、アスラはそんなことを考え、細い顎をやんわりと撫でた。
程なくアスラは家に着いた。
西側の家から数えて、十二軒目がアスラの自宅であった。
他と同じで、石造りの頑丈な家である。
唯一違う点があるとすれば、幾らか生活感があることくらいであろうか。
家族が全ていなくなってから久しいが、一人でも住んでいるのといないのでは、随分の差があるらしい。
もっとも、外観は他とそれほど変わりはないのだが。
玄関の布を捲りあげて、自宅の中に足を踏み入れる。
ブーツを脱ぐと、床に敷かれた簡素な絨毯の上にどっかりと座りこむ。
結っていない髪が、フワリ、と床に広がった。
惣暗の闇を、四角の窓から流れ込む月光が静かに切り裂いている。
今夜は、満ちの月である。
しばし月を観賞した後、火打ち石を打って、壁に挿してある松明に火を付けた。
室内が橙に薄く染められ、キシの実の油の匂いが立ち込めた。
アスラは、ふう、と息を吐くと、反対の壁まで行き、酒壺の蓋を開けた。
トックウッドの実から取れる液体を醸してつくる、穀物酒である。
死ぬ前に飲もうと残しておいたものだ。
木の椀で掬い取り、一口煽る。
口内に、甘く、辛い、トックウッド特有の風味が広がる。
舌の上で酒が転がり、ストン、と喉へと落ちて行った。
じわり、とした熱が腹の中に生まれ、鼻孔を爽やかな余韻が突く。
(うむ、格別だ)
これほどまでに旨い酒を飲んだのは、幾年ぶりであろうか、とアスラは思った。
飽きる程飲んだ酒だが、今は最高の名酒のように感じられる。
二口目を煽って椀を空にすると、もう一度掬って、グビリ、と一口に飲みほした。
酒壺からあと一杯だけ掬い、蓋を落とした。
一度に飲みきってしまうのは、勿体ない。
酒など最近は作っていなかったので、今ある酒はこれのみである。
思わず椀が進んでしまうが、一先ず我慢である。
最近は体調のせいか、酒なども気持ちよく飲めなかったが、精霊様の御蔭で体調が改善されたためか、酒が驚くほどに旨く感じられる。
アスラは部屋の奥に行き、皮の包みを開けると、中に入っていた燻製の肉を数切れ出した。
良い時間なので、夕餉にしようというのである。
鍛錬の後の飯は、何より美味なのだ。
それに勝るものといえば、家族で囲む飯位なものである。
水壺から柄杓で鍋に水を張ると、石を打って火に掛けた。
干した海草と香草を沈め、出汁を取る。
煙は家の構造上外へと逃げるので、煙くなる心配はない。
しばらく放っておき、煮立つのを待つ。
干し麺麭が少し残っていたので、それも出しておく。
幾らかすると、鍋が煮立ってくる。
ツンと鼻をつく馨しい香りがある。
香草を取り除くと、煮立つのを待っている間に取って来た、エベの根と、セルウ草、ココカキの実を入れる。
いずれも、近くに生えているものだ。
エベの根は苦味が強く癖があるが、ココカキの実と共に食べると、これは格別の味である。
セルウ草は、単に味がよく、身体にもいい。
竈に薪を放り込み、火力を上げる。
パチパチと、音を立てながら薪が燃える。
最後に干し肉を投入し、塩で味を整える。
後は、煮込めば完成である。
アスラの髪が乾ききる位に、スープは完成した。
果たして、実に食欲をそそる匂いである。
鍋を火から下ろす。
木のレンゲで椀に掬い、味見をする。
(うむ、美味い)
スープは良い出来のようである。
舌をベーっと出しながら、アスラは頷いた。
汁が少々熱く、舌が火傷気味になったのは秘密である。
スープと、麺麭、酒を並べると、夕餉の出来上がりだ。
絨毯の上に座ると、目を瞑る。
島の風習である。
糧になってくれた食材に感謝をするのだ。
この弱肉強食の縮図のような島では、こういった考え方が普通である。
故に、飯は決して残してはならない、というのも常識だ。
感謝の黙想を終えると、早速頂いた。
スープを、ふぅーっと冷まし、一掬い飲む。
シャク、シャク、と具材を噛みしめた。
やはり、良い味である。
ざっくりと斬った苦味のあるエベの根と、柔らかい風味の紅いココカキの実が口で踊る。
香草の風味が余韻として残り、セルウ草の爽やかさも漂う。
柔らかくほぐれた干し肉も、出汁を存分に吸い、噛めば噛むほど旨みが染み出る。
麺麭を汁の中に浸し、柔くすると、これも美味い。
そして、椀に掬ってある穀物酒を一口。
辛口の、ぴりり、としたこしのある風味が、溶けるように喉を過ぎる。
(ああ)
なんと至福なことか。
これ程美味に感じられる食事はいつ以来だろう。
少なくとも、ここ数年は味わったことのない感覚だ。
アスラは、綺麗な細い眉を柔らかくしながら、食事を楽しんだ。
作った分のスープを全て平らげ、酒も三杯おかわりし、食事を終えた。
結果、酒が底を尽いた。
全て飲むつもりはなかったのだが、少々押さえが効かなかった。
酒の風味の残る椀に水を掬い入れ、グビリ、と飲んだ。
アスラは食後の黙想をし、片づけを始めた。
♢
アスラは、家の外へ出た。
飯の片づけを終えたので、寝る前に夜風に当たろうというのだ。
剣の検めは先ほど終えた。
夜は存分に更けた。
満天の星が空を覆う。
湿り気のある海風が、ヒュウ、ヒュウ、と吹く。
下の岩場には、波が打ちつけ、飛沫を上げている。
少々波風が荒い。
明日は嵐かも知れない。
アスラは風に吹かれながら、今日は不思議な一日であった、と思っていた。
朝起きたら、体調が良かった。
身体の中を蹂躪する病魔が、今日は碌に活動していなかったのだ。
しめた、と思い、鎮痛の薬湯で口を湿らせると、剣を佩び、ふらふらとした足取りで森に向かった。
森の獣共には、大して合わなかった。
今思うと、いつ食い殺されてもおかしくない状態で、森の深部によく辿り着けたものだ。
広場に到着すると、久しぶりの日向ぼっこに興じ、程もなく仮眠を取った。
そして起きたら、女子になり、若返っていた。
…言葉にすれば、なんと滑稽なことか。
正直なところ、俄かに信じがたい事態である。
この世に起こる事物の全ては、何らかの意味を持つという。
アスラの身に起きた奇跡も、当然、何かの意味を持っているのだろう。
老いぼれの下らない我儘が、只で通る筈はないのだ。
果たして、それが何の意味を持っているかは今現在解せない。
しかし、この身に起こったことは、若返りなどという奇跡。
よほどの大役をまかされそうだ。
アスラは細い顎を手で数回撫ぜると、
(まあ、その時が来るまでは、精々楽しむとするかや。
せっかく貰った命なのだからな。
楽しまにゃ、損じゃ)
と、頭の中で考えを纏め上げた。
アスラは暫く風に当たっていたが、程なくあることを思い出し、家の裏へと向かった。
家の裏は、ガラン、と何もない。
薪を置いておく倉は前にあるし、井戸などはもとよりない。
それほど広い訳でもない。
ただ、藍の海原が一望できる断崖と、瞬く星のカーテンがあるだけである。
僅かに草が生えているが、峻厳な岩がゴツゴツとしていて殺風景だ。
崖の形に添うように、五本の木の棒が並んでいる。
薄い月光にやんわりと照らされ、淡い影を湛えている。
雨風に吹きさらされている筈だが、よく手入れされており、傷みは少ない。
それぞれの根元に、赤い花が挿してある。
幸せの象徴だという花だ。
他ならぬ、アスラが挿したものであった。
なにかといえば、これらは家族の墓である。
一日に一回ここへと来るのが、アスラの日課であった。
家族が亡くなって以来、欠かしたことはない。
今日は墓参りに来ていなかったことに今しがた気づいたのだ。
アスラはゆっくりと墓に近づくと、その一本に手を当てた。
墓が大きくなった気がしたが、そうか、身体が縮んだのであった、とアスラは笑った。
まだまだ、この低身長には慣れそうもない。
墓から手を離し、一歩下がると膝を折り、目を閉じて祈った。
死者の魂は、精霊の木の周りを二周すると、天へと昇り、神々らの住まう楽園へとたどり着くらしい。
楽園には、あらゆる物が揃っており、暮らしに何一つ不自由しないそうだ。
辺り一面には美しい花々が咲き誇り、色鮮やかな蝶が飛ぶ。
空は常に金色の光を帯び、一日中明るいのだとか。
可愛い女子や、端正な男子なども沢山居るそうだ。
飯も美味く、酒も極上だという。
まさに楽園といえる。
そこで百年程過ごすと、また新たな生を受け、地上に再び生まれ落ちるらしい。
アスラとしては正直眉唾の話であるが、家族が死後の世界で幸せならばそれで良い。
家族の冥福を祈るのは、父として当然のことである。
六十五年の人生の内で、最も幸せだった時期は、家族と共にあった時で間違いはない。
アスラは、胸を張ってそう言える自身があった。
――ねえアスラ?
アスラの脳裏に、満面の笑みを浮かべる少女の姿が浮かんだ。
頬に浮かぶ笑窪が可愛らしい。
いたずら気に細められた目元は、それでいて優しさを感じさせる。
(どうにも、まだ其方には行けそうにもないわい)
アスラは程なく立ちあがり、海原の彼方を覗いた。
洞々とした水面の彼方に、波が立ちあがる。
白い飛沫を孕んだそれは、月明かりを浴びて、輝いているようにも思えた。
ふと、アスラの視界に赤いものが映った。
花びらである。
墓に挿してあったものが、風で散ったのだ。
海風に煽られたそれは、天高く飛んでゆく。
光の加減で、一瞬鮮やかに咲いて、夜の闇に溶けていった。
――知ってる? 赤い色は幸せの色なんだよ。
少女が再び頭を過る。
手には赤い花を持っている。
茶の綺麗な瞳が、きらきらと光った。
――だからね、赤い花は幸せを咲かせるんだ。
記憶の中の少女が、また可愛らしい顔で笑った。
太陽のような眩しい笑顔で。
遥か遠く、海原の先を望んで、アスラは呟いた。
「なあ、もう一度花は咲くかな、キイロ……」
強い海風が、アスラの呟きを何処か遠くに運んで行った。
アスラはそれきり何もいわず、ただ、静かに海を眺めていた。