序章(二) 目覚め
アスラは夢を見ていた。
なんとも不思議な夢だった。
♢
始めは虚無が広がっていた。
否、見渡す限りの黒の方が正しいのか。
ともかく、上も下も右も左も、黒、黒、黒。
それ以外には何もない空間が何処までも続いている。
アスラはその中で一人、孤独に座り込んでいた。
他に人はない。
物もない。
動こうと何度も思ったが、足も、手も、棒きれになってしまったかのようにピクリともしない。
夢の中だというのになんとも不自由なことである。
そして良く分からないことに、夢の中なのに関らず睡魔が襲って来るときたものだ。
それも、寒気のするような強烈な奴が、である。
夢の中で眠ると、一体どうなってしまうのか…。
アスラは迫りくる睡魔がどうしてか恐ろしく思えて、必死に抗った。
何かおぞましい波を孕んだ睡魔なのだ。
ここで寝てしまえば、何もかもが終わってしまうような気がした。
アスラは必死に耐えていたが、そうこうしている間に眠気は極限まで高まり、負けてしまう寸前になった。
今まで生きて来た中でも、これほど眠かったことなど無い。
眠り茸を食った時よりも数倍強烈だ。
(こりゃあ、たまらんな…)
しだいに意識が遠のいていき、そして――。
――辺りが光で包まれた。
どこからか湧き出たその光は、アスラに纏わり付いていた眠気をすっかりと吹き飛ばし、黒い空間を金色に染め上げた。
アスラは固まっていた身体が、じんわりと温まって来るのを感じた。
滞っていた血潮の流れが一気に良くなったようだ。
足に力を入れてみると、動く。
手も、他の部位も同様に動くようになっている。
アスラはゆっくりと立ち上がると、あたりに視線を彷徨わせた。
いったいこの空間はどこまで続いているのだろうか、と見回してみたのだ。
先ほどまでは視線を彷徨わせるに留まっていたので、全体が分からなかったのである。
(これは…なんとも……)
端が全く見えない。
というよりも、まず端が存在するのか。
アスラの視界には、どこまでも続く金色の宙空が広がっていた。
この空間はあくまでも広大で、見通すことは不可能そうだった。
アスラはひとまず辺りを散策した。
自分の足が虚空に浮いているような感覚だったが、しっかりと踏み出すことが出来る。
まあ夢の中であるし、細かいことはいい。
じっとしていても意味がない。
アスラは歩いた。
幾らでも歩いた。
どれほど歩いても景色は変わらない。
実に単調だ。
でも、歩くのだけはやめなかった。
何故か止めてはいけないような気がしたからだ。
しかし、暫くすると不思議な夢は突如として終わった。
世界が霞むのが分かったのだ。
アスラの視界に入る全てが朧げになって行き、直に真っ白になる。
良く分からない夢だったが、アスラは一つ思うことがあった。
(何処かで見たことがあるな…)
アスラの脳裏に何かの光景が映った。
それはこの金色の空間と、良く似ていて……。
が、そんな思考を打ち消すように夢は晴れていった。
♢
アスラは頬を風が撫でるのを感じた。
ほのかに土の匂いも混ざった湿潤な空気が、鼻孔から肺腑へと送られる。
何時もなら病のおかげで咽かえりそうな所だが、不思議とそんなことは無かった。
瞼を上へと押し上げ、視界を開く。
(……む)
眩しい光がじりじりと眼球を照らし、再び瞼を中ほどまで引き下げる。
半分の視界には、円状に開けた森の広場と、蒼窮を極めた空が僅かに映った。
視界の端に映る青と、大半をしめる赤茶けた枯れ葉が、なんともいえない余韻を作りだしている。
アスラにとってはもう見慣れた光景であり、故に落ち着く光景でもある。
(ふむ……)
かなり深く眠ってしまったような気がしたが、気のせいだったようだ、とアスラは思った。
空は全く赤らんでいないし、空気もまだ暖かい。
あまり長い間眠っていた訳では無さそうである。
鳥の囀りでもあれば風情があるが、どうにもそういった音が聞こえぬのは少々残念である。
「んん…」
アスラは伸びを一つして身体を解した。
年が嵩んでくると筋肉が凝り固まり、すぐにガチガチになってしまうので、こういった行為は思った以上に大切なのだ。
アスラの腰がポキポキと音を鳴らした。
何時もなら酷い腰痛がその心地よさをかき消すが、どうにもそれが無い。
純粋な快感が腰のあたりを走る様は、まさに一服の清涼剤といった感じである。
(ふむ、身体が軽くなったようだわい)
と、アスラは機嫌を良くした。
何故かは知らないが、身体の凝りや痛みがほとんど感じられない。
それに、病による慢性的な息苦しさもまったく無い。
今しがたの仮眠がよほど効いたのだろうか、すこぶる調子が良い。
ここ数年で一番の好調さといっても、過言ではないだろう。
死んでも構わぬ、という気概で取った仮眠で調子が良くなるとは、得てして妙な話だ。
「嘘のように調子が良いな…」
思わずそんなことを口にすると、機嫌の良さそうな高いハスキーな声が森に響いた。
まるで、ビードロの杯を打ち合わせたかのような、透明感のある声質だ。
綺麗な声とは、このことをいうのだろう。
アスラは暫し、声の余韻に浸り…。
「……む?」
と、頭を捻った。
今のは誰の声だろうか。
いや、アスラである。
声を出したのは他でもないアスラ本人であった筈だ。
ならばなぜ、あのような耳心地の良い声が出たのか。
確認の為、もう一度声を出してみた。
「あ、あー、あー?」
再度耳に入ってきた声は、やはり、先ほどの高い声だった。
アスラの声は低く野太い濁声である。
迫力のある渋い男声である。
間違っても高くはない。
まして、綺麗な声質とはいい難い。
何故、喉からこのような美声が出ているのか。
「あ、あー…」
何度やっても、声は高いままであり、音源はアスラの喉だ。
声が変質するなど、普通ではない。
…しかし。
(まあ、不可解ではあるが気にするほどのことではないかや)
と、アスラはすぐに開き直った。
冷静に考えてみれば、声など、どうなっても変わりはしない。
高くても、低くても、喋れればいいし、そもそも会話をする相手だっていない。
アスラは、
(寝ている間に喉風邪でも引いてしまったのかもしれんな。
特に喉の調子は悪くなさそうだが、それ以外では説明もつかん。
一先ず、それでよいわ)
と、強引に結論付けた。
(まあその内には治るであろうし、このままであっても生活に支障などでまい)
残り少ない余生である。
声が綺麗になろうとなるまいと変わりはしない。
アスラはいつもの癖で、髭を撫でようと顎に手を伸ばした。
髭を撫でると落ち着くのである。
一種の暗示のようなものだ。
そして、指が顎髭に触れ――。
「…おや?」
――なかった。
無い。
髭が無い。
そんな馬鹿な、とアスラは首筋に手を這わせてみたが、すべすべとした地肌の感触しか感じない。
数多く生え揃っていた筈の髭が、一本残らず姿を消している。
仮眠を取って、いざ起きたら髭が全て抜け落ちていたとは、誠に奇々怪々である。
これにはアスラも混乱せざるを得なくなった。
「なぜだ…」
そう口から洩れた声はやはり高い。
アスラは、ううむ、と髭の抜け落ちた顎に手を当てた。
(これは少しばかりおかしいな…)
声はまだ喉の調子が悪いでどうにか納得できるが、髭はそうもいかない。
髭に調子の良し悪しなどないし、寝ている内に全て抜け落ちたりはしないだろう。
ましてや、その二つが同時に起こるなど、尋常ではない。
つるつるとした顎が一層そう思わせる。
(ふむ)
アスラは考えた。
もしや自分の身体には何らかの異変が起こっているのではないか、と。
実際にもう幾つか起こっているし、ある程度検証してみるのも悪くはない。
とんだ寝起きだ、とアスラは愚痴をこぼした。
♢
果たして、事態は思ったより深刻だった。
というのも、身体がおかしいのだ。
まず、手である。
これにはすぐに気付いた。
アスラは幼い頃から剣を握って来た。
三つになる頃には手にして遊んでいたから、もう六十年以上は手にしている事になる。
無論、手に握っていただけではない。
鍛錬や狩りを数えきれないくらい行った。
そのせいか、アスラの手はボロボロである。
手の甲は年齢による皺が覆い、幾つもの古傷が走る。
手の平といえば、剣ダコ、豆、同じく傷、等々。
アスラは特にこれを気にしていなかったが、お世辞にも綺麗とはいえない手をしていた。
…しかし、である。
(手が、白い…)
アスラの視界に入った手は驚くほどに白かった。
この島の住人は小麦色の肌をしている。
白い筈などない。
さらに言えば、この手は小さい。
アスラはそれなりに体格の大きい方で、手もそれ相応の大きさであったが、これは記憶にある物より一回り小さかった。
表面を覆っていた傷や、剣ダコ、皺なども一切無い。
むしろ、非常にしなやかで、染み一つ無い綺麗な手だ。
弾力もぷにぷにとしており、童のようである。
(ううむ…)
次いで、服。
これもおかしかった。
アスラの服装は上から、ゆったりとした皮のケープ、簡素な刺繍の施してある長めの衣、赤の前掛け、麻のズボン、なめし皮のブーツといった出で立ちだ。
非常に民族的な格好である。
ともかく、島では――男女で多少の差はあるが――このような服装が普通であり、アスラも例に漏れていない。
全体的に大きさに余裕のある服装であったが、無論ブカブカという程ではない。
そんなことでは急時に迅速な対応ができかねるし、森の中ではなお危険である。
そもそも、服一式は亡き妻と一緒に拵えたものであるからして、実に良い按排であった。
…だというのに。
(こんなにもズボンの裾が余っておる…)
履いて来た時は丁度良かった長さのズボンだが、座っていても分かるほどに丈が余っていた。
というのも、ブーツに仕舞い込んである裾が踵まで達しているのである。
こんなにズボンが長い筈などない。
上着もなんだかブカブカで、あきらかに大きさが合っていない。
ブーツも同様である。
まるで、服一式が一回り大きくなったようだ。
(まさかな…)
当然そんなことなどある筈がないが、事実として服の丈が明らかに余ってしまっている。
服が大きくなっていないとしたら、まさかアスラの方が縮んだのだろうか。
こちらも同じく有り得る事では無い。
しかし…。
(そういえば、ずいぶんと手が小さくなっておったな…)
アスラとしては、後者の方は少々的を得ている気がした。
この服の異変は小さくなった手と関係がありそうである。
身体が小さくなったのなら、双方とも今の状態の説明がつく。
あり得ることではないかもしれないが、事実として起こっているのだ。
…まあ、それはさておき――実際はさて置けないのだが――である。
次が問題だった。
これは極め付きだ。
何かといえば、違和感の極めつきである。
これに比べたら先の異変であれど、大したことのない物のように思えるほど特大の違和感。
それは……胸であった。
というのも、先ほどからどうも胸の辺りが変なのだ。
まるで、揺れるような…。
それに服が擦れているような感覚もあった。
アスラにしてみれば、なんとも言い難い違和感を禁じ得ないのだ。
生理的な直感とも云える様な気がする。
問題の胸は、服の下に隠れておりその全貌は窺い知れない。
心なしか盛り上がっている気がしないでもない。
あくまでも気のせいで終わればそれで良い。
(まあ、気のせいだろう…)
恐る恐る胸に手を伸ばしてみる。
すると――。
「む………?」
白い手はある程度まで服に落ち込むと、ムニ、という感触を寄越して跳ね返された。
柔らかな感触。
柔らかい丘のようなものがある。
ゆったりとしたケープの下にあったのは、柔らかい丘。
即ち――。
「……そんな馬鹿な」
しかし、小さな白い手は確実に柔らかなそれを掴んでいた。
中々に大きい。
形も悪くなさそうである。
感じたことのない不思議な感覚だが、胸を揉まれている感覚もしっかりとあった。
詰まる所、胸が柔らかく膨らんでしまっているようだ。
先ほどの特大の違和感は気のせいでは無かったのである。
(どういうことだ…)
理解不能の事態だ。
むしろ理解しろという方が困難であろう。
髭や声の方がまだマシだ。
六十余年生きて来たが、胸が膨らんだことなど一度もない。
いや、無くて当然の話だ、ある方がおかしい。
髭、声、恐らく四肢、そして…胸。
なぜこのような妙な変化が身体に起こっているのか。
(胸、なあ……)
胸と云えば、無論男にもある。
が、柔らかな女のそれとは性質が全く異なっているといっていい。
女子は胸から出る乳によって子供を育み、男子は頑健なそれで家族や精霊様を守る。
膨らんだ胸など、戦士にとっては邪魔な物でしかない。
女の戦士が居なかった訳ではないが、やはり男に比べると少数であった。
男子に比べると、女子は力で劣るのだ、おかしい話ではない。
子供が生まれると、女の戦士は引退を余儀なくされるのも通例である。
いうまでも無く、アスラは男の筈なのだが、何故か胸が膨らんでしまっている。
一体どういったことなのだろうか。
(まさか寝ている間に女になった訳でもあるまい……)
と、アスラはそこまで着想すると、自然にある考えに至った。
程なく、スーッと冷たいものが背中を流れた。
額から冷や汗が、ドバリ、と落ちる。
心胆にも一気に寒波が来襲した。
今、胸が膨らんでいるのを確認したが、それによってアスラの中である仮説が生まれたのだ。
真に恐ろしい仮説である。
理由は全く分からないが、上半身には女性的な変化が起こっていた。
が、上半身だけが変化したとは考えにくい。
身体には下半身もあるのだ。
下にも何らかの変化があると考えて間違いはないだろう。
…だとしたら、どうなっているのか。
というのも、男子の象徴のことである。
上半身に起きた異変を酌みすれば、とんでもないことになるのは察して知るべしである。
もしかする可能性が高い。
(考えてみれば、股の間が少々淋しくなったような気がするが…)
が、そんなことなどあって良い筈がない、とアスラは思った。
今度こそ勘違いでなければいけない。
絶体に妙なことなどあってはならない。
男として、ここだけは譲れないのだ。
嫌な汗で湿った手を、恐る恐る股間に伸ばす。
手が震える。
喉も渇く。
大丈夫だ、とアスラは自身に言い聞かせた。
股の間に手を這わす。
すると――。
――ある筈の存在が無かった。
「……や?」
今度は膨らみが消えている。
そこには、なにも無かった。
「っ――」
これには百戦錬磨のアスラも、声にならない悲鳴を上げた。
千秋万古の時を共にしてきた相棒が、無くなっている。
綺麗サッパリ無くなっていたのだ。
重鈍な衝撃がアスラの身体全身を駆け廻った。
高い塔のような物が破壊された光景がアスラの脳裏に映る。
そうした後には、とんでもない喪失感が波になって押し寄せて来た。
寄せては返し、寄せては返し、寄せては返し…。
アスラの心中は言わずもがな大荒れである。
何ということなのだろうか、こんなことがありえるものか。
一眠りしたら、男の象徴が無くなっていたのだ。
これこそまさに驚天動地である。
「やはり…」
無い。
何度やっても結果は変わらない。
そこにはまったくの隆起も無く、すんなりと手が這った。
服の上からでも何も無いのが分かる。
「馬鹿な……」
アスラはそれだけ言葉を発し、カチン、と固まった。
アスラは暫くの間、白くなっていた。
♢
しばし呆然とした後、アスラはどうにか復活した。
ある程度気持が落ちついてきたのだ。
もっとも冷静になったのは表層的な部分だけに留まり、深層部は今だ混沌の極みにあるのだが。
(これは、正しくとんでもない事になっとるな)
と、アスラは思った。
実際、アスラの身体に起きた事はありえぬ事ばかりである。
声の変調から始まり、髭は綺麗サッパリ抜け落ち、身体は縮まり、胸は柔らかく膨らんで、股は風通しが良くなった。
ついさっき背の髪を確認してみた所、霜の降っていた髪までもが若い頃のように黒く染まっている。
ついでに局部を肉眼で確認したが、やはり、何も無かった。
つまり…ありえなかった。
否、ありえる筈が無い。
どれか一つだってあり得ない事なのに、こうも重複して起こるなど、全くもってありえない。
これは異常事態である。
ともかく、一度自分の姿を確認する必要がある、とアスラは思った。
視界に入る身体の部位は人間らしい物だが、いずれも変異していることに間違いはない。
今までの流れではあり得ないことではあるが、今だ確認していない部位――顔など――が、おぞましく変異している可能性も否定できないのである。
それに、客観的に姿を確認した方が変化に気付きやすくもなる。
アスラは生憎、鏡などは持ち合わせていなかったが、腰に剣を吊っていた。
少々映りは悪いかもしれないが、代用は十分に可能な筈だ。
アスラは、腰帯から鞘に入ったままの愛剣を外した。
無骨な鞘に押し込められた剣相を顕にしようと、小さくなった白い手に力を込め、握りの部分を横へと擦らせて行く。
スーッと滑らかな音をさせながら、剣身が見えてくる。
半分ほど鉛色の剣身を露見させると、目の位置まで持ってくる。
鈍く光る剣が、アスラの姿を薄く投影した。
「……なんとも面妖なことだ」
アスラは思わず呟いた。
そこに映し出されていたのは、老いた戦士では無かった。
剣身に映っていたのは、少女である。
髪の色は漆黒で艶のあるそれを三つ編みにしており、瞳は森を彷彿とさせる青々とした深緑色。
白磁のような玉の肌には染み一つ浮いておらず、非常に艶々としている。
顔立ちは彫が深く、それでいて線が細い。
幼さが残っており、頬がもっちりと柔らかそうである。
「ふうむ……」
顔立ちからすると、十代そこそこといったところだろうか。
随分と若い。
ブカブカの服を身に纏う姿は、かなり華奢な印象を与える。
(おれの見慣れた姿ではないな)
何故かは一切不明だが、どうにもこの剣に映った少女が今の自分のようである。
髪を三つ編みにしている事と、身につけている服が同じことくらいしか元の面影を残していないが、まあそうなのであろう、とアスラは思った。
それ以外は全くの別人だとしても、である。
とりあえず人間のようで良かった、と喜ぶべきであろうか。
「うむ…」
今現在で確認した異常はこれで全てである。
結論としては、年若い少女になってしまっているようだ。
身体が縮んだのは不可抗力のようだ。
いずれにしても、全くもって理解不能である。
何がどうしたらこうなったのか。
まあ、腰痛や胸の鈍痛が無くなったことは、とりあえず喜べる所であろうか。
現状考察が一段落付いた所で、この異常事態の原因究明に移りたい。
仮眠を取って、起きてみたら身体が変わっていたのだから、寝ている間に何かあったと考えるのが普通である。
それ以前に何かあったかもしれないが、仮眠中の可能性はかなり高い。
…しかし、気持ちよく眠れたのも事実である。
近くに妙な気配は感じなかったし、何かされた感覚もない。
(…そういえば妙な夢を見た気がするが、なんだったか)
と、アスラは首を捻った。
なんだか随分と朧げで、詳しく覚えていない。
黒だの金だのというのは憶えているのだが、内容はからっきしである。
アスラは、まあ、所詮は夢であるし良いか、と考えを打ち消した。
夢のことはさておき、身体のことである。
(一体どういうことなのだろうか。
女子の身体に霊魂が入ってしまったのか。
はたまた、おれの身体がこのように変化したのか)
霊魂が人に乗り移る、ということがあるらしい。
長老が言っていたことである。
ある時、霊魂が、スルリ、と身体から抜け出で、他の人物に乗り移るということであった。
なんでも、強靭な精神の持ち主は、憑依した者の意識を奪い取ってしまうのだとか。
乗っ取られた人格は、永久の闇に消えるらしい。
完全な迷信ではあったが、現状と似通う点もある。
…が、そうなっては、見知らぬ女子の人生を奪ったようで気分が悪いし、服装と髪型が変わっていない点から考えてみると線が薄い。
そもそも、島にはアスラ以外人が居ないのだから、乗り移る対象がない。
となれば、やはり身体が変質してしまったということだろうか。
こちらも同じく、あり得ることでは無い。
前の状態と比べれば、アスラの措かれている今の状態がいかに有り得ないかが分かる。
年齢も明らかに若返っているし、体の不快な痛みも無いし、第一性別も違う。
つまり、肉体の年齢が若返り、病が――恐らくだが――治り、性別が逆転して初めてこのようなことになるのだ。
どれもこれも、奇跡に準ずるものである。
百歩譲って、病が治ったのは勘違いや幸運で済ませられるが、後の二つはそうもいかない。
…ともすれば、考えられうるのは魔法の類である。
アスラも実際に賊たちの扱うそれを何度も目にしている所である。
あずかり知らぬ所ではあるが、非常に便利そうな技法だといえる。
島の者は、魔法などに興味を持たなかった――むしろ、賊の扱う蛮術だと毛嫌いしていた者も居た程である――ので、事情にとんと疎いのだ。
ともかく、何もない場所から火や水を取りだし、使役出来るのだから、身体の変異くらいならば…。
――と、一度は思ったアスラであったが、それはありえぬな、と考え直した。
仮に、魔法の中に身体を変異させる呪いがあったとしても、島には生憎、そんな秘術を扱える輩は存在していない。
アスラ以外人がいないのだ。
無論、アスラはその様な術など使えない。
最近は賊を含め、来訪者もいないので、外部の者の仕業でもないだろう。
使う者がいないのだから、魔法の類である可能性もごく低い。
そもそも、死に損ないの老いぼれに魔法をかける意味が無い。
(しかし、これは間違いなく人外の力が働いているぞ。
それだけは違いない)
呪いの類でも無いとしたら、一体何か。
起こったことは、間違いなく奇跡の類だ。
常人には到底成しえないことである。
それこそ、大いなる神々や、精霊の力でも借りれば話は違うだろうが…。
(…精霊)
アスラはあることが頭に閃いた。
(もしや、精霊様)
精霊の木ならどうだ。
太古からこの島に根を張り、戦士達が長い間守り続けて来た存在。
この島で最も長寿な生き物であり、なによりも高貴な古木。
その樹齢は、数千にも及ぶと聞く。
(精霊様ならば…)
荒唐無稽な話だが、精霊が宿ると言い伝えられたこの霊木なら、もしかするかもしれない。
長く生きた存在は、相応の力を持っているものである。
それが千年を超えた存在なら、尚更のことであろう。
…しかし、だとしても何故なのか。
仮にそうだったとしても、アスラには特に肉体を変化させられるような覚えも――。
(いや、まさかな……)
否、心当たりはあった。
ほんの少し前である。
アスラが寝る前に、まどろみながら心の中で願ったあのことだ。
――精霊様、おれはもう長く無い。…ですから、一つ願いを聞いて下され。
確かに、アスラは精霊の木に願った。
――次の人生があったら、おれに世界を回らせて下さい。
…と。
確かに、第二の人生という点では、現状もそう間違ってはいない。
驚くべきことに身体が若返っているのだ。
視点を変えれば、なるほど、こういった成就の仕方もあるのかもしれない。
なかなかどうして筋道が通って来た。
核心に迫っている感がある。
(しかし、本当に願いなどが叶うのかえ)
が、アスラにしてみれば、そこがどうにも引っかかる。
精霊の木は確かに尊い霊木だが、願望を叶える力はない筈だ。
アスラも当然聞いたことも無い。
島の歴史には、願いを叶えてもらった者の記録など無い。
既に枯れてしまってもいる。
「……」
…だが、もしかして。
本当にもしかしての話だ。
万が一、いや、億が一。
アスラの今措かれている状況が精霊様によって引き起こされていたとしたら…。
アスラの願いが、奇跡的に聞き届けられていたとしたら…。
その願いを精霊様が、気まぐれでもなんでも、叶えてくれたとしたら…。
(なんと、ありがたいことか…)
そうである。
この身体の変化が精霊様の好意によって引き起こされたとしたら、なんという幸運なのだろうか。
なにせ、若返っているのだ。
性別が変わっているのは一向に謎だが、年齢が若くなったのは恐悦至極である。
年齢の事だけで考えれば、正しく第二の人生を貰ったも同然なのだ。
少女の肢体では満足に剣は振るえないやもしれないが、それはそれでやりようがあるし、一興だ。
一度そう考えると、そうである、と思えてくるのが不思議である。
願望を言った後には若返りという結果が待っていたのだから、説得力もそれなりにある。
それに、そうだったとしたら素晴らしいではないか。
♢
アスラはゆっくりと立ち上がった。
すると、ズボンがスルリと落ちた。
風通しの良くなった股と、艶やかな白い太ももが顕になる。
腰回りが大分細くなったことで、ズボンが脱げてしまったようだ。
紐をきつく縛る必要がありそうである。
(それに、視界が随分下がった気がするな)
ズボンを履き直しながら、アスラはそう思った。
改めて立ってみると、頭一個分くらい視界が下がっている。
膨れた胸も、ある程度の重量があるように思われた。
(この辺りは追々慣らすしかあるまい。
それと、丈の余っているズボンとブーツも調節せねば)
いずれにしても現状ではどうしようも無いので、辛抱である。
気に留めなければどうという訳でもないし、気にしていても仕様が無い。
そういう類の物である。
まあ、応急措置としてズボンを捲る位はしようと思うが。
苔むした根元から少し離れて、アスラは大きく息を吸い込んだ。
スゥーッと肺腑が音をたてるが、やはり息が全く苦しく無い。
森の清涼な空気が全身に染みるようである。
なんと気持ちの良い事なのだろうか。
やはり、忌々しい肺腑の病も一掃されたと考えてよさそうである。
鎮痛の薬草を用いても引き切らない痛みが、全くないのがその証拠であろう。
アスラは身体を翻し、精霊の木と向き合った。
ヒラヒラと舞い落ちる枯れ葉が、幾つか目に入る。
木は相も変わらず元気が無い。
枯れ葉の数と、禿のようになってしまった傘が雄弁にそれを物語っている。
アスラは、うっすらと苦笑いを漏らした。
もしや精霊の木が生命力を取り戻したのでは、と淡い期待を抱いたのだが、どうにも見当違いであったようである。
アスラの脳裏に、生命力に満ち溢れていた頃の精霊の木が過った。
一昔前は、幹も、枝葉も、恐ろしく頑健であったのだ。
精霊の木が枯れるなど、夢にも思わなかった。
今でもこの木が弱り始めた原因は不明である。
病か、寿命か、はたまた別の何か…。
一体どうして、このように枯れ果ててしまったのだろうか。
アスラは感傷に浸りそうになり、いかん、いかん、と頭を振った。
鬱気味になっている思考を中断したのだ。
(年を取ると、考え方も、腰も、下向きになってしまうのが良く無いな。
若い頃はもう少し楽観的な気質をしていたものだが)
アスラは、改めて精霊の木を望んだ。
そして、
「精霊様が願いを叶えて下さったのですか」
と、訊いた。
当然の如く、古木は何も喋らない。
静かな風の音だけが辺りを満たす。
アスラも暫し黙って木を見つめた。
枯れ葉がサラサラと地を駆ける。
やがてアスラは美しく微笑むと、
「ありがとうございます」
と言った。
憶測の域を出ないのは確かである。
が、この奇跡は精霊様の力によるものである気がする。
六十五の爺の勘であろうか。
あのままであったなら、一月と生きられなかったろう。
自分の命なのだ、自分が一番良く分かる。
死に損いの爺がもう一度人生を貰ったのだ、全くもって感謝の気持ちしかない。
そして、現状から推察できることがもう一点。
アスラにとってはこちらのほうが重要だった。
(精霊様がおれの願いを聞いて下さったということは…)
精霊の木はやはり枯れたままだった。
何か力のようなものを取り戻したという訳ではなさそうだ。
そんな中、「旅に出たい」等という願いが叶った。
それが何を意味するか…。
(これは、精霊様の言伝なのではないか…)
精霊の木を守るのが守人の使命。
守人と精霊の木は四千年以上も共に暮らしてきた。
しかしながら、アスラが旅に出れば守人はいなくなり、木を守ることは叶わなくなる。
アスラには、精霊様がもういいと云っているように思えた。
もう自分を守る必要はないのだ、と奇跡を通して伝えているように。
今思えば、若者たちが去っていったのも精霊様の力ではなかろうか。
若い命を無駄に散らさせぬように、と夢枕なぞに立って意思を誘導したのではないか。
今回も、最後に残った頑固爺はこれくらいしないと分らぬだろうと、仕様がなく奇跡を起こしたのかもしれない。
アスラにはそう思えたし、そうすると不思議と納得もできた。
(なるほど、そうに違いない。
うじうじとしている爺に、引導を突き付けたのかもしれぬ)
もう一度木を見上げる。
巨大な幹の上から枯れ葉の雨がパラパラと降る。
その光景が何とはなしに子放れする親のように幻視できた。
状況としては親離れする子供が正しいのか。
アスラは、程してにこりと微笑んだ。
なんにしても有難い事には変わりない。
望むところである。
精一杯生きてやろうではないか。
自分には未来ができた。
六十五歳からの新生だ。
思う存分賛歌してみせよう。
「精霊様、本当にありがとうございます」
と、アスラはもう一度言った。
カラリと晴れた笑顔だった。
♢
アスラは精霊の木から視線を上げ、少し高くなった空へと目を向けた。
――青い。
何処までも、果てしなく青い。
つい二日前までは大嵐だったとは思えぬような、垢ぬけた晴天だ。
雲など始めから存在していないような清々しい空である。
森の広場の上を一羽の鳥が飛んで行った。
霞んだ赤い色をした鳥である。
見たことのない鳥だ。
どこか知らぬ土地から飛んで来たのであろうか。
空の青にポツンと浮かぶその淡い赤は、どことなく美しかった。
アスラがぼうっと視線で追っていると、鳥はあっという間に広場の上を通り過ぎ、遥か蒼穹の彼方へ飛び去っていった。
アスラは天を仰いだまま、
「うむ、良い天気だ」
と、呟いた。
アスラの長い三つ編みが、風に吹かれて揺れた。
4月2日 誤字を修正 革新⇒核心