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守り人は眠らない  作者: ボノボの親戚
第一章 最初の街
18/18

一章(七) 家族

 

 アスラは、一礼してドーブ宅へ入った。

 先導するマリアナにしたがって、靴は履いたままである。


 内部は、意外なほどに明るかった。

 数多くの窓から、陽が一杯に射しこんでいる。

 宙に光の線が描かれ、そこに埃がきらきらと映りこんでいる。

 室内というのは暗くなりがちであるが、暗然とした印象は殆ど感じない。

 外と比較すれば流石に多少は暗いが、それも多少である。


 玄関と居間、台所などを兼ねているであろう空間はかなり広い。

 ここが生活の中心となっているのだろう。

 頑健そうな木のテーブルに、椅子が三脚置かれている。

 ドーブとマリアナ、そして例の女神殿(・・・)のものか。

 部屋のやや隅のほうに炉が置かれ、鍋が火にかけられている。

 良い匂いの源はそこであったようだ。

 白い湯気が微かに立ちのぼっている。

 壁は石造りで、無機質ながらも(すす)の黒ずみが何処か暖かい。

 掃除が行き届いているのか、蜘蛛の巣などは見当たらない。


 その部屋を出て少し左に進むと木製の階段があり、マリアナはそこを上った。

 はやくきた、と手招きをしている。

 アスラも、荷を壁にぶつけぬように階段を上った。


 ギシギシと段を上ってゆくと、やがて一つ上の階層についた。

 つまり二階である。

 こちらは木製の床板が敷いてあった。

 短い廊下があり、四つほど部屋があるようだ。

 廊下は窓が少ないからか、下よりは幾らか暗かった。


 それにしても…。

 平屋建てという様式しか知らないアスラにとって、二階建てというのは酷く新鮮であった。

 何を隠そう、生まれて初めて二階という階層に上がったのである。

 この二階層目というのは、建造方式の違い云々というよりも、土地区画の有効利用という意味合いが強いのではないかとアスラは思う。

 島では土地なぞいくらでもあるが、外界ではそうもいかないのだろう。

 この街は広大だが、人が多すぎる。

 土地面積と人の数の均整がとれていないのだ。

 平屋建てだと勿体ないというのも理解できる気がする。

 そう考えると、『二階建て』というのもれっきとした異文化であるといえる。


 アスラが下らない考察をしていると、マリアナが廊下の左手にある部屋に入った。

 こっちだよ、とまた手招きをしている。

 廊下を進んで扉をくぐると、簡素な部屋があった。

 窓は一つで、壁際に机が一つ、椅子が二脚、木製の寝台が一つあった。

 海に面した部屋のようだ。

 窓から涼しい風が吹き込んでくる。

 大きくはないが、十分に生活空間としての能力を有している。


「ここだよ。

 小さいけど、そんなに悪くない部屋だろ?

 さ、荷物を下ろしな」


 と、マリアナがいった。

 腰に手を当てるのは癖のようである。

 結い纏めた金色の髪が微かに風に揺れている。

 きょろきょろと辺りを見ながら、


「ああ、うむ…。

 しかし、本当によいのか?」


 『(かね)』とやらは持っておらぬし、雑事の手伝い位しか力になれぬが、とアスラが恐縮していう。

 マリアナは、あっはっは、と笑い、


「上等、上等。

 家の仕事を手伝ってくれるんなら大助かりさ。

 釣りが返って来るよ」


 と、愉快そうにいった。

 それにね、と続け、


「あんたは旦那の恩人。

 つまり、あたしら家族の恩人ってことさ。

 職業柄、旦那はそれなりに危ない目には遭ってるけど、今回のはあんたがいなかったら死んでたかもしれないって話なんだろ?

 子供っぽいところもあるけど、あれで立派に父親やってるんだよ。

 さっきもいったけど、すごく感謝してるのさ。

 こっちからすれば、少しの間宿を貸すくらい当然だよ」


 と、快活に、実に嬉しそうに笑った。

 ドーブによく似た、どこか少年のような爽やかな笑みである。


「いや、しかしだな…」


 と、アスラがさらに食い下がろうとしたが、マリアナが顔を近づけて、


「あんた、ちょっと卑屈だよ。

 うちの大黒柱を助けた大恩人なんだから、もっとどーんと構えなよ。

 それともあれかい?

 うちの旦那は宿賃にもならないポンコツってことかい?」


 と、悪戯気に遮った。

 これを受けたアスラは、きょとん、としてしまった。

 しかし、少しして、くっくっく、と包帯の内で笑うと、


「や、失礼した。

 そういわれると困るな。

 これは宿を貸してもらわんといかんかな?」


 と、こちらも悪戯気に返した。


「そうさ。

 ま、少なくともヒュプス銀貨二、三枚分位にはなるさ」


 と、マリアナは蒼い目を閉じてウインクし、にこり、と笑った。

 恐らく冗談なのだろうが、世俗に疎いアスラにはピンと来ない。

 興味本位で、それは高価なのかや、とアスラが訊く。 

 うーん、まあ生活費の一部くらいにはなるかねぇ…などとマリアナが軽口を飛ばす。

 ほほう、それはそれは、とアスラも会釈する。


 ここで…。


「おいおい、勝手にひとの値段をつけるんじゃねえや」


 と、低く、通った声が聞こえた。

 間も無く、ずい、と部屋に入って来たのはドーブ・エットラである。

 部屋の扉と比較してもそれほど背丈が変わらないあたり、やはり大柄である。


「あらあんた、聞いてたかい?」


「ばっちりと聞こえてたぞ。

 誰が銀貨二枚だ。

 誤解しちゃいけねえぜ、アスラさん。

 俺はエントール金貨百枚位の価値はあるからな。

 なんなら半年くらい居ていいぜ」


 と、この精悍な男はいつもの調子である。

 褐色の面に浮かぶ明朗な笑顔は、相も変わらず人懐っこい。

 そんなにはいかないね、とマリアナが突っ込む。

 ばかいえ、本当は千枚はいくぜ、とドーブが返す。

 千枚ってヌレー銅貨千枚かい、とマリアナ。

 それじゃあ小銭じゃねえか、とドーブ。

 エットラ夫妻の和やかなやりとりを見ながら、


 (やれやれ…)


 本当に仲が良いなと、アスラは心中で微苦笑した。

 なぜだろうか。

 この者らを見ていると、実に柔らかな、安気な心地がする。

 夫婦(めおと)というのは、気質の似たもの、あるいは正反対のものがなる、という場合が多い。

 アスラ自身の場合は後者であったが、ここの両人は前者の良い例であろう。

 両人ともに人情家というか、世話焼きで人がいいらしい。


 悩んだが、腹が決まった。

 せっかく宿を貸してくれるというのだから、その意に甘えさせてもらうことにしようと、アスラは思った。

 既に部屋を案内されているし、これほど勧められて断るというのも無粋である。

 やはりというか、屋内で就寝できるのは有難い。

 迷惑にはなるだろうが、全力でその穴を埋めることにする。

 なにか支障があれば、アスラがこの家を出てゆけばよいだけのことだ。

 己の都合で身勝手に出でゆくという体ならば、さほど酷いことにはならないだろう。


 もともと、それほど長居をするつもりはない。

 ドーブが半年といったが、冗談でも数十ヶ月も居座る訳にはいかない。

 如何に長くとも一月(ひとつき)ほどか。

 どうにかして賃金を稼ぎ、ドーブらに支払える宿賃と路銀を得たら旅路につく。

 観光はそのつどすればよいし、あるいは労働をしながらということでもよい。

 一月もあれば社会勉強も十分足る。


 色々屁理屈(へりくつ)を述べてみたが…。

 なにより、この家(・・・)は居心地が良さそうなのだ。

 年を取ると、人の温かみに気付くのかもしれない。

 それとも、孤独に過ごした時間が長いからか。

 許されるのならば、少し。

 少しだけ、身を寄せさせてもらおう。


 ドーブとマリアナは、今だ夫婦漫才を繰り広げていた。

 アスラは、二人のやりとりに、もし、少しよいかな、と前置いて、


「散々食い下がっておいて恐縮至極なのだが、お前さんらの好意に甘えさせてもらってよいかえ?

 この爺に幾晩か宿を貸していただけるかな?」


 と、高い声でいった。

 ドーブとマリアナは、顔を見合わせた。

 そして、ぷ、と吹き出し、笑った。

 何をいまさら、といった感が覗える。


「もちろん」


 と、エットラ夫妻の声が揃った。

 ドーブも、マリアナも、アスラも笑顔であった。



 ♢



 背の荷を下ろし、アスラはエットラ夫妻に向き直った。

 そういえば、マリアナに自己紹介をしていなかったと思い立ったのである。

 無償で宿を借りるのだから、当然礼は尽くすべきであろう。

 こほん、と咳ばらいを一つし、


「では、改めて…」


 と、姿勢を整えた。

 それを見たドーブとマリアナは、不思議そうな顔をしている。


「アスラさんどうしたんだ?」


 あんた偶によく分からない行動取るよな、とドーブが半目になって怪訝そうにいう。

 いや、まだ正式な自己紹介をしておらんかったからな、とアスラが苦笑を含んで応える。

 そうかい、とマリアナが微苦笑をした。

 変な所で生真面目なのは、年のせいなのか当人の気質なのかは微妙な所である。

 アスラは、す、と小さく息を吸い込み、


「アスラ・ウシール・アンラ=マンユ・パブ=ダ・アセド・ラ=スーヤイルム・カルナと申す。

 この折は、無償という破格の待遇を持って宿をお貸し頂き、誠にもって(かたじけな)く存じる」


 一息に、高く、澄んだ声でいいきった。

 大きな声ではなかったが、芯が通ったような強壮さと、武骨な凛々(りり)しさがあった。

 包帯の合間から見える翡翠色の双眸が、爛々(らんらん)と強い光を発している。

 場には、颯爽とした不思議な余韻が残った。

 そして…。


「こんなもので如何(いかが)かな?」


 と、途端に柔和な雰囲気に変わるのであった。

 今度は、ドーブとマリアナがどこか呆けたようにアスラを見た。

 はっはっは、と(とぼ)けたように笑うアスラの背で、綺麗な黒髪が風に揺れている。

 そして暫しもせず、今度は、


「あっはっはっは!

 あんた面白いね!

 気に入ったよ」


 と、マリアナがいかにも豪気な感を出して笑った。

 それにしても長い名前だね、とマリアナが腰をかがめてアスラ笑いかけた。

 はっはっは、こればかりはどうしようもない、とアスラも笑い返す。

 ここでドーブが、無精ひげを弄りながら、


「あれ、確か『アスラ・カルナ』ってのが本名なんじゃねえのか?」


 初めて会った時の自己紹介じゃあそういってなかったか、と当然の疑問を投げかけた。

 これに対し、アスラは顎を撫でつけながら、


「ああ」


 と、(いら)えるのである。

 どういうことなんだ、とドーブ。

 マリアナも興味深そうにアスラの方を見ている。


「紛れもなくおれの名は『アスラ・カルナ』だが、それは所謂(いわゆる)短縮形なのさ」


 と、アスラ。


「短縮形?」


 本名のか、とドーブである。

 アスラは、うむ、と頷いて、


「一々あのような長ったらしい名を呼ぶのも面倒であろう?

 人を識別する際、『アスラ』という一単語で事足りるのに、それの何倍もの単語を連ねて呼称するというのは実に非合理的じゃ」


 と、いう。

 マリアナが、確かにそうだね、と相槌をうつ。

 アスラは続けて、


「先にいった本名は、色々な情報を含んでおるのだ。

 『アスラ・ウシール・アンラ=マンユ・パブ=ダ・アセド・ラ=スーヤイルム・カルナ』とは、名はアスラ、アンラ=マンユとウシルの子であり、大いなる力の神パプ=ダの加護を受け、南の集落で育ったカルナ氏族である…などという意がある。

 うち、名がアスラであるということ、カルナの血族であるということ、この二点が殊更(ことさら)重要でな。

 裏を返せば、この二つを最低限おさえておけば識別情報としては十分ということでもある。

 ゆえに、『アスラ・カルナ』という短縮形に落ち着く訳よ」


 まあ、少々ややこしいがな、と笑った。

 ドーブとマリアナは、ふうん、と頷いた。

 続いてアスラは、本名の開示がアスラらの中では最も丁寧な挨拶の方法であることを説明した。

 そもそも、この本名――島では『真の名(ラーマーヤ)』という呼称のほうが一般的である――というものは、この礼を尽くした挨拶の為にあるといっても(あなが)ち過言ではなかったりする。

 『真の名』とは、中々に神聖なもので、様々な重要な儀式で用いたりする。

 古来より『名前(マーヤ)』には、特段『真の名(ラーマーヤ)』には強い力が宿ると言われたりもしている。

 つまり、その名を明かすということは、相手方を信頼する、己を偽らない、真摯な態度を示す…ということなのである。

 アスラは、ドーブらとの初邂逅の際に本名を明かさなかったが、それは別に可笑しなことではなく、どこの馬の骨とも分からぬ来訪者――加えて、賊どものせいで印象も良いとはいえない――に礼を尽くす意味など皆無であった為である。


「うーん、異文化だねぇ…」


 と、マリアナである。

 空色の目をきらきらとさせながら、整った顔に好奇心の満ちた笑みを貼り付けている。


「一応いっておくが、おれの本名など覚える必要は全くとないからな」


 無意味じゃ、使う機会も恐らくこれきりだしな、とからからアスラが笑った。

 ああ、悪いけど多分覚えられられねーよ、とドーブが苦笑交じりにいう。

 横目でドーブをからかうように見、おかしいね、あんた人の名前覚えるの特技だっていってなかったかい、とマリアナが茶化す。

 いや限度があるじゃねえか、流石に長いぞ、と渋い表情をしながらドーブが返す。

 あれ、根性無しだね、とマリアナ。

 それは暴論ってやつだぜ、とドーブ。

 あっはっは、お前さんら本当に愉快よの、と傍観を決め込むアスラ。

 和気藹々とした空気であった。


 さて…。

 この後、アスラはマリアナに言われた通り外へ出て簡単に汚れを(はた)いた。

 陸路を旅した訳ではないうえ、洗濯も数回した――セーレンの(まじな)いによって、船上でも水が利潤にあった。用心棒に呪い師を雇うのは、戦力以外にもこういった意味合いがあるのだろう――ので左程は汚れておらず、すぐに済んだ。

 その際に、


「しかし、あんた職は何やってたんだい? 

 狩人(かりゅうど)かい?

 ずいぶんとおっかない装備じゃないか」


 などとマリアナにいわれた。

 これは無理もないのである。


 荷物を下ろして階を下る際、剣等の武装は外したらどうだ、というドーブの提案があった。

 常識的に考えて、完全武装をして屋内を歩き回るというのはおかしな話である。

 そこで身につけていた武具を一端机の上に置いたのだが、ここでマリアナが呆れたような様子を見せた。

 元から随分と仰々しい――包帯等を含め――格好をしていたアスラであるが、いざその武装の全容を覗ってみると、これが見事に物騒なのだ。

 投擲用の短刀が数本収められた皮の胴締、背に佩びてあった予備武装及び解体用の短剣、袖に隠れた右腕に戦輪が三枚、使い込まれていそうな短弓と矢じりが鋼でできた矢の束、武骨ではあるが奇妙な威を感じさせる長剣。

 遠距離武装から近距離武装まで完全に網羅されており、どれもが十二分に手入れがなされていそうなのである。

 旅装にしては(えら)く物々しいというのも、純然たる事実であった。

 マリアナには、


 「ああ、狩人をしていた」


 などと、適当に返答しておいた。

 正確ではないが、嘘ではないのである。

 あんたエキゾチックな格好してるもんね、とマリアナは納得したように頷いていた。

 丈の長い白い装束を(はた)きながら、ははは、とアスラは笑うのみであった。


 そうこうしている内に、時刻は昼も間近となった。

 空に満ちる蒼穹の色も、濃く、より清冽に澄んできている。

 海原より塩気のある風が吹きわたり、そこら中に鮮烈な磯の香りを振りまく。

 炎天にそよぐ緑の木々は、輝かんとばかりに精気に満ち、枝葉の陰影を濃くしてきている。

 海鳥の鳴き声や鐘の響く音がバークの街中に浸み込むように聞こえていた。

 マリアナは、アスラの部屋の寝台に敷くための布団などを干した後、昼食の準備に精を出している。

 アスラが手伝おうか、と訊くと、あんた裁縫はできるかい、と服の修繕などを任されたので、アスラは早速とそれに取りかかっていた。

 荷の整理は済んでいなかったが、とりあえず後回しにすることにした。


 裁縫の道具は持参していたが、今回はエットラ家のものを使用させてもらった。

 もともと手先が器用であり、修繕はもとより服を一から仕立てたりもするアスラであるから、流石に仕事が早い。

 修繕場所を特定するが早いか、左手の縫い針に通した糸に玉結いを作ると、澱みなく達者に腕を動かし、気付けば玉止めを終わらせて一連の作業を完了しているのである。

 服に匂いがつかぬように――マリアナが下で昼食の準備をしているので――と自室で作業を行った為、黙々と集中して効率も極めて良かった。

 幸い、当て布等が必要なほど大規模な破損があった服はなかったので、全五着あった服を瞬く間に修繕し終わった。

 見事な手際の良さである。


 …余談だが、料理の腕は妻が、裁縫の技量は夫の方が一歩勝っていたのがアスラ・キイロ夫妻の家事事情の常であった。

 アスラ・カルナという人物は、戦士という野蛮な職にあったにも関わらず、存外に文芸の造詣が深いのである。

 これは、顔も知らぬ母ウシル・パダラ=パーンドゥと亡き妻キイロ・ラーマの影響によるものであるのだが、それはまたいずれ触れることになろう。


 閑話休題。


 修繕の終わった服を一度下に運び、マリアナに、


 「こりゃあいい戦力になりそうだね」


 と、好評を貰い、アスラは荷の整理に移った。

 アスラとしては、まず諸々の薬草を一度天日に晒したかった。

 船の上というのは、どうしても湿度が高くなる。

 自然、干物にしてある薬草が悪くなってしまう可能性があるのだ。

 今朝見た所ではそれほどの傷みはなかったので、早急に水分を飛ばしたいのである。

 下で笊を借りて来たので、窓際に並べ置いて天日干しである。

 陽がよく射し、かつ風当たりも良好とくれば、これは絶好の位置であった。


 次に紙の類である。

 アスラは、島をでる直前に自宅より巻物を二本ばかり持ってきた。

 上質な紙でできた品であり、とある折に知り合いから貰ったものである。

 中身はというと白紙であるが、これは雑記に用いようと思っている。

 勿体ないと使用を躊躇(ためら)っていたものだったのだが、むしろ品が良いからこそ旅にも耐えうるということで、考えを改めたのである。

 これは日に晒すと良くないので、風当たりのよい日陰に置いて、同じく水気を完全に飛ばしておきたい。

 少々湿気っていたのだ。


 残った荷は、短笛、服、包帯、洗い木などの日用品、食器類、火打石や水袋などの野宿用具、それに製薬道具…。

 短笛は大切な品なので管理に注意をするとし、服は洗ったばかりなので問題はない。

 包帯は少し汚れてきたので、替えが欲しい所である。

 日用品は往々にして使用すると思われるので出しておく。

 火打石や鍋といったものは、恐らくまだ使うまい。

 水袋も今のところは用無しである。

 すり鉢などの道具も現在の状況ではしまっておいて問題はないか…。

 

 (ふむ、こんなものかや)


 と、アスラは椅子に腰かけた。

 荷物の整理も粗方終えた。

 武具関連は毎晩様子をみているので、今現在確認する必要はない。


 「ふう」


 と、吐いた息が、窓から流れる風に溶けた。

 背もたれに身体を預け、ぎいぎい、と椅子を傾けた。

 

 (ああ、それにしても今日はよい日和じゃ。

 前の(みち)で寝転がるのも一興かもしれぬ…)


 などと思い、窓へと目を向けた所で、


 「ただいまーっ!」


 という、溌剌とした可愛らしい声が下の階から聞こえた。


  

 ♢



 アスラが何事かと一階へ降りると、玄関先に大柄な男と女童(おんなわらわ)の姿があった。

 筋骨逞しい偉丈夫は、言わずもがなドーブ・エットラである。

 (わらし)と手を繋いでいるようだ。

 だらしないというか、妙に満ち足りた表情をしており、構図からするとあまり見栄えがよくない。

 ドーブの横に並ぶ女童は五歳前後とみえ、色白の可愛らしい(かんばせ)に眩い笑みを浮かべている。

 ふわふわとした金色の髪を頭の左右で纏め、青いリボンで結んでいる。

 なんとも快活そうな印象である。

 

 (や、そうか。

 あの(わらし)女神殿(・・・)だな)


 つい先ほど、ドーブとマリアナが下で何やら話をしていた。

 裁縫中のことであったが、耳の片隅に聞こえていた。

 友達の家に遊びにいった娘を、ドーブが迎えに行くということであった。

 家族団欒、皆で昼食を取ろうという目的があるらしい。

 それでドーブは暫く姿を見せなかったのだが、こうして愛娘を伴って帰宅したという訳だ。 

 

 (なるほど、なるほど。

 確かに愛らしい子だ)


 容貌は母親似であろうか。

 が、その印象はむしろドーブに似ているような気がする。

 単にドーブが子供っぽいだけかもしれないが。


 マリアナが準備の手を止め、女童(おんなわらわ)に、お帰り、楽しかったかい、と笑いかけた。

 童は、うん、と元気よく頷く。

 頬が微かに紅潮し、笑窪(えくぼ)ができている。

 満面の笑みとは、正にこのこと。

 何とはなしにアスラも頬が緩んでしまう。

 やはり幼子(おななご)は世界共通で愛らしいものだ、と改めて思う。

 たった今も隣のドーブが情けない表情をしているが、気持ちは分からなくもない。

 アスラとて元二児の父である。

 我が子というのは、それはもう可愛くて仕様がないのだ。


 (確か五歳になるという話だったな…。

 手こそかかるが、一番可愛い時期よ)


 うむ、うむ、とアスラは心中で頷いた。

 ここで…。


 「あっ!」


 と、童がアスラを発見し、指をさした。

 滄海の色を映したように綺麗な目を、まんまるに見開いている。

 マリアナも、振り返ってアスラを見た。

 別に隠れて居た訳ではないので、見つかるのも当然である。

 遅れて、お、アスラさん、と(ようや)くドーブが反応する。


 (まあ、驚くであろうな) 


 さて、どうするか、と思わず顔が引きつってしまう。

 ついにきた。

 ドーブ家下宿における最大の難関。

 娘との初邂逅である。


 言わずもがな、アスラが宿を借りることを渋っていた最大の理由は、このドーブの娘の存在があったからである。

 子供が嫌いだとか、そういったことではない。

 むしろ、娘の心情を考えてのことなのである。

 父が久々に帰宅し、嬉しさのみなぎるなか、家に妙な人物がいる。

 今朝まではいなかったのに、突然と現れた怪人である。

 これは子供からすれば実に不気味で、かつ不愉快であろう。

 家主の好意で家に泊めてもらうが、娘がそれを快く思わず、結果として客人を追い出すような事態になる…。

 これを避けたかったのだ。

 そのようなことになれば、久々であろう家族団欒の空気が一瞬にして(くさ)れてしまう。

 ドーブも、己の好意であっただけに酷く気まずいであろうし、娘の方とて邪魔な異物を排斥したに過ぎないのである。

 誰一人として悪意がないのにも関わらず、実に宜しくない雰囲気ができてしまう。

 最低最悪だ。


 ゆえに、ここが正念場。

 泊めてもらうと決断した以上、しっかりと泊めてもらう。

 これは、客として最低限の義務である。


 (よし、ここは笑顔よ)


 と、アスラが、包帯を巻いているという事実を忘れ間抜けに意気込んだところで、


 「ほんとにお化けがいた!」


 と、童が嬉しそうな口調でいうのである。

 

 (おや)


 なにごとかや、と結果として驚いたのはアスラの方であった。

 (わらし)はドーブに、パパお化け見つけた、などとじゃれている。

 ドーブが、いやあ、見つけたなあ、などと童を抱きかかえた。

 アスラは、つるり、と手袋を嵌めた手で顎を弄った。

 様子からすると、ドーブが迎えに行った帰りの道中でアスラの存在をほのめかしていたようだ。

 ドーブを注視していると、一瞬蒼い瞳と視線が合った。

 そして、アスラに対して小さくウィンクするのである。


 (なるほど…。

 伊達に父親を五年もやっていないということか)


 いかにすれば娘の嫌悪が好奇になるか、などということを熟知しているのだろう。

 子煩悩として有名なこの男であるから、我が子に対して親身に接しているはずだ。

 その位はできても可笑しくはない。 

 

 ドーブが童を床に下ろし、さ、お化けさんに挨拶してきなさい、と頭を撫でた。

 童は頷くと、元気良さげにアスラの近くへと駆け寄ってきた。

 マリアナが微笑ましそうにそれを見守っている。

 アスラも決して大きくはないが、齢のこともあり流石にドーブの娘は小さい。

 アスラの背丈が八十エルデ前後なのに対し、目の前の小さな女子は五十エルデと少しである。

 優に頭二つ分はアスラの方が大きい。

 アスラは、腰を少しばかり屈めると、


 「こんにちは」


 と、包み込むような優しい声質でいった。

 (わらし)は少し、びく、としたが、にこり、とすぐさま笑顔に変わり、


 「こんにちは」


 と、上目遣いでアスラに返事をした。

 両親に似たきらきらとした蒼い瞳からは、好奇心が旺盛に見て取れる。

 小さな手を握りしめ、わくわくとしているようだ。

 どうやら殆ど警戒はされていないらしい。

 アスラは睫毛の長い翡翠色の目を柔らかく細めると、

 

 「おれはアスラ・カルナという。

 少しの間宿を借りることになった爺じゃ」


 よろしくな、とにこやかに自己紹介をした。

 (わらし)は大きな目を二回ほど(まばた)き、


 「わたしは、エリーゼ・エットラといいます。

  (とし)は5歳です。

  よろしく」


 と、やや舌足らずながらしっかりと自己紹介をした。

 アスラは、おやおや、これは(さと)い子だ、と軽く頭を撫ぜた。

 視界の端で、ドーブが、流石アスラさんよく分かってるな、と頷いている。

 エリーゼは、これを嫌がることもなく、くすぐったそうに目を細めた。

 そして、可愛らしい声で、


 「アスラのお化けさんはお医者?」


 と、訊いてきた。

 

 「うん?」


 と、アスラ。


 「お化けさん包帯だし、お医者と同じ匂いがするよ」


 包帯はともかく、匂いはなんであろうか。

 しかし、なるほど、と暫しもせず合点がいった。

 恐らく服の匂いのことであろう。

 いわれてみれば、どこか薬めいた感じの匂いがする。

 薬草などと一緒に仕舞っていた服だから、その匂いが移っても可笑しくはないのである。


 「あっはっはっは。

 そうさな、医者ともいえなくはないな。

 でも、おれはお化けだからな。

 本職は人をやっつけることなのだぞ」


 ほれほれ、怖いぞ、とアスラは前屈みになってエリーゼに覆いかぶさるようにした。

 エリーゼは、きゃー、と笑いながらドーブの方へ駆けていった。

 そのままドーブの背に隠れ、楽しそうにアスラを見ている。

 ドーブが、


 「ほら。

 面白いお化けだろ」


 と、屈んでエリーゼに優しく笑いかけた。

 エリーゼは、うふふ、と笑って頷いた。

 微笑んで見守っていたマリアナが手を叩き、


 「さ、(みんな)手を洗っておいで」


 もうすぐ昼ごはんだよと、声を上げた。

 なるほど、炉の方を覗ってみれば、鍋が煮立ち馨しい匂いが立ちのぼっている。

 腹の空き具合もよい按配(あんばい)である。

 ドーブが、アスラさん楽しみにしてろよ、うちのカミさんの料理は美味いぜ、と自慢げにいう。

 エリーゼも、そう、とぴょんぴょん飛び跳ねて追随する。

 

 「おお、それは楽しみだな」


 と、アスラが笑みを深くした。

 ま、期待はそこそこで頼むよ、その方が美味く感じるからさ、とマリアナは笑った。


 昼食のメニューは、港町らしいものであった。

 エビを使った煮込み料理で、ジヒーヨというらしい。

 深めの椀にぷりぷりとしたエビが盛られ、その上に香草とみられるものが(まぶ)されていた。

 ところどころに(きのこ)と、(ひる)の根を割ったようなものが見える。

 匂いは蒜の類を使用しているからかややきつめだが、それをしても食欲をそそった。

 木の匙で掬って食してみると、これがうまい。

 あつあつのエビを噛み潰せば、弾力ある食感と(ほの)かな甘みが口腔へ広がり、鼻には香ばしさと蒜の辛さがつんと残る。

 汁をすすれば、塩気は強くないものの、朴訥な旨みがじんと染みる。

 茸もうまい。

 こりこりとした歯ごたえがあり、咀嚼すればするほど魚介とはまた違った趣深い風味が溢れてくる。

 そして、熱い料理で火照った体に冷えた水を、ぐい、と落としてやる。

 実に(たえ)である。


 皆で大いに食べ、鍋を見事に空にしてみせた。

 アスラは二杯ほど、ドーブも三杯ほどお代わりをした。

 エリーゼもしっかりと盛られた分を平らげた。

 マリアナが、飯を食うやつはその分働いてもらうからね、と食後、豪快に笑った。

 アスラは、いや、実に美味かった、とマリアナの料理の腕を大いに賛した。

 あっはっは、照れるね、とマリアナは嬉しそうであった。

 ドーブも鼻高々である。 


 午後は、ドーブと共にエリーゼの遊び相手になったり、マリアナの家事の手伝いをしながら過ごした。

 エリーゼはアスラの長い髪を気に入ったようで、つやつやでお花の香り、と顔を埋めたりしていた。

 アスラは、香油が思わぬ形で役に立ったな、と思っていた。

 時間が、緩やかに過ぎていった。

  


 ♢

 

  

 バークに、日暮れが訪れようとしていた。

 古い街並みは、海の彼方に揺れる紅の残光に照らされ、微かに茜に色づいている。

 路地に落ち込む影も色を濃くし、その怪しさを深めている。

 数多くの船が停泊する湾は一層の喧噪に満ち、闇の帳が落ちる前に入港する船を迎えていた。

 深い蒼に染められていたはずの海は、橙の光を反射して煌めき、静かに水面を揺らしている。

 海鳥が黄昏の空を舞い踊り、編隊を組んでどこかへ飛び去ってゆく。

 いずくからか、鐘が、大きく鳴り響いた。


 ドーブ家は、夕食の準備の真っ最中であったが、しかし、屋内でひと騒動起こっていた。

 例の如くアスラである。

 包帯は巻いておらず、服の襟元からは美しい鎖骨と白い肌が見え、細い頸に嵌められた首輪が朱金に光っている。

 ツンとした(かんばせ)には困ったような笑みが浮かび、その耳元で(またた)く耳飾りが実に(あや)しい。

 巾を三角にして頭にのせているのも、妙に似合っていた。

 

 その場には他に、ドーブ、マリアナ、エリーゼの姿があった。

 皆一様にアスラを注視している。

 ドーブは、悪戯(いたずら)が成功したように、別嬪(べっぴん)だろ、と面白がっている。

 マリアナは、あれまあ、と驚嘆しているようだ。

 エリーゼは、うわーっ、と目を輝かせている。

 状況は、混沌としていた。


 アスラからすれば、これは意味不明かつ既視感のある光景だった。

 夕食の準備を手伝おうとし、衛生面を考慮したうえで――かつ、陽も射さなくなったので――包帯や手袋を外して巾を被り、下に降りたらばこの有様である。

 確か船上でも、来訪者らの行水でもこのようなことがあった。

 最近よくよく思うが、どうにもこの面(・・・)というのは異様に目立つらしい。

 自惚れをしている訳ではないが、周囲の様子だと容姿の評価は一定して高いようだ。

 アスラとしては多少女々しいと感じる程度で特段何も思わないのだが、美醜感の違いなのだろうか。

 刃などで己の容貌を映し見た所で、美しいだとか醜悪だとかと評価を下せないのである。


 それはそうと…。

 なぜ人は『顔面』という部位を特別視し、それに優劣をつけるのだろうか。

 穿(うが)った見方をすれば、『顔面』など、視覚器官、嗅覚器官、消化器官、聴覚器官、それと頭骨格と筋肉、それを覆う皮膚と毛髪で構成された身体の一部分に過ぎないのである。

 やはり、重要な感覚器官が集中しているため否が応でも注目してしまうからだろうか。

 あるいは、意識的なものではなく何らかの本能に起因するものなのか…。

 人間とは不思議な生物である。

 

 「お化けの(じじ)が綺麗なひとになった!」


 エリーゼが、わーっ、と駆けて来た。

 お化けの爺とは、今日半日でアスラに定着した渾名(あだな)である。

 ドーブがこれをいたく面白がっていた。

 エリーゼはアスラの名前より、(じじい)とお化けという点が気に入ったらしい。

 裏を返せば、そこそこ懐いてくれたということでもある。

 やはり幼子は可愛いものだ。


 エリーゼがアスラに纏わりつき、


 「(じじ)はおんなのひと?

  それともおとこのひと?」


 と、服の袖を引っ張りながら()く。

 ドーブがにやにやしながら、この前もこんな質問あったな、と呟いた。

 アスラは、ふふふ、と微笑みながら、


 「爺はな、女なのだ」


 と、エリーゼの頭を撫でつけた。


 「おんななら(ばば)じゃないの?」


 と、エリーゼが無邪気に返す。

 

 「おや、変かな?」


 と、アスラが腰を屈めてエリーゼの頬に柔らかく手を当てた。

 淑やかな碧の双眸が、優しい光を抱いている。


 「うん!

  おとこは(じじ)で、おんなは(ばば)だもん。

  だから、(ばば)!」


 「あっはっはっは!

  そうか、そうじゃな。

  エリーゼは本当に(さか)しいのう」


 この年寄りなどとは大違いよ、とアスラはからから笑った。

 ほれ、とエリーゼを抱きかかえると、マリアナの方を向き、


 「さ、マリアナ。

  夕餉の準備を済ませてしまおう」


 と、気を取り直していった。

 エリーゼが、先っぽとんがりだ、とアスラの耳に手を伸ばしている。

 ドーブが、だってよ、とマリアナを横目で見ながらはにかんだ。

 そのマリアナは椅子に腰かけ、アスラをぼうっと見ている。 


 「え、うん。

  しっかし、あんた綺麗だねえ…。

  もうなんだかよく分からないよ」


 ここまでくると男でも女でもいけそうだねと、頬杖を付きながら、呆けた様子である。

 ここで…。


 「おや、マリアナ。

  女は顔が全てなのかな?」


 と、アスラが(ひょう)げた口調で、にやり、とマリアナに笑いかけた。

 マリアナは、また少し驚いたような表情をした。

 が、その後すぐに口角を釣り上げ、


 「いや、ちがうね。

  大事なのは気骨と腕っぷしさ」


 と、アスラにいった。


 「そうであろう?

  その点おれの顔は、特になんの能もない。

  なんとも使えぬ」


 と、アスラが頬をぐい、と右の手で引っ張った。

 エリーゼが、使えぬ、使えぬ、と抱えられた胸元ではしゃいだ。

 おや、分かっておるな、とアスラは弾けるような笑顔である。

 ドーブが、あっはっはっは、意味が分からん、と腹を抱えている。

 マリアナも流石に、ぷ、と吹き出し、


 「あっはっはっはっは!」


 と、笑いだしてしまった。

 元凶であるアスラも、はっはっは、とけらけら笑った。

 エリーゼもアスラにつられてか無邪気に笑う。

 ドーブも、大きな身体を揺らしながら笑っている。

 そのうち、笑っていること自体が可笑しくなって、皆で更に笑った。

 笑い声は、暫く止まなかった。


 笑いつかれて小休止をした後、マリアナとアスラは二人で夕餉の準備をした。

 両人共に料理の腕は確かであったので、てきぱきと小気味よく支度が進んでいった。

 夕餉は、野菜と肉を煮込んだスープと麺麭(パン)であった。 

 味付けは薄目だが、肉が入っているのでむしろこってりとしており、隠し味で入れた香辛料が爽やかに利いている。

 麺麭との相性を考えたスープなので、麺麭を浸して食す。

 麺麭の皮の香ばしさと(ほの)かな塩気は、スープに付けても消えるようなことはなく、汁を十分に吸った麺麭を咀嚼すれば、じゅわり、と甘みを残しながら風味が広がる。 

 食が進むコンビネーションである。


 四人で雑談を愉しみながら夕食を取り、少し食休みをしてかたずけをした。

 一日の汚れを落とすため湯を沸かして手拭いを浸し、それで身体を(ぬぐ)った。

 髪も洗って香油を塗り、さっぱりと気分もよくなった。

 夜も、そこそこに更けてきている。

 はしゃぎ回っていたエリーゼも、流石に疲れたのか、こくり、こくり、と船を漕ぐようになった。

 マリアナは、エリーゼを寝かしつけに別室に行った。

 居間には、アスラとドーブが残った。

 互いに椅子に腰かけ、何処かおやじ臭く(くつろ)いでいる。

 机の上に乗ったランプのぼんやりとした灯りが、両人の安気な心境を表すように揺れていた。

 

 「いや、今日は充実した日であったよ」


 これもお前さんのお蔭だ、とアスラはドーブに美しく笑いかけた。

 屈託のない、見惚れるような笑みである。

 長い黒髪がしっとりと湿って(つや)めき、妙に色気があった。


 「お、そういってもらえると嬉しいね。

  家に招いた甲斐があったってもんだ」


 と、ドーブは精悍な褐色の面に笑みを貼り付け、嬉しそうにする。

 勢いのある短い金髪が、橙に照っている。

 それにしてもアスラさん結構はしゃいでたよな、とドーブがからかうようにいう。

 あっはっは、と明朗に笑い、

 

 「なに。

  年寄りは子供の相手をするだけでも元気になるのさ。

  こう、精力をもらい受けているようでな」


 と、アスラがお道化(どけ)た調子でこれを受ける。

 まったく、爺くせぇなあ、とドーブが片肘をつきながら揶揄(やゆ)した。

 良いではないか、死ぬわけでもない、とアスラはケロリとしている。

 ドーブも、まあそうだな、と簡単に手のひらを(かえ)した。

 おや、よいのか、とアスラが驚いてみせる。

 なんでもかまわんぜ、とドーブ。

 沈黙しながら、互いに顔を見合った。

 そして二人で、なんと下らんやり取りだ、と何方(どちら)ともなく笑った。


 「うーむ。

  さて、と。

  おれは夜風にでも当たってくるかな」


 夜空も見たいしな、とアスラがいう。

 椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。

 射干玉(ぬばたま)の髪が(あで)やかに揺れ、香油の甘い香りが広がった。

 ぱきぱきと腰がなり、おおう、などと奇声を上げている。


 「おいおい。

  年寄りは大人しく茶でも啜って(ぬく)もっているほうがいいんじゃねえのか」


 体が冷えるぜ、と上目でドーブがアスラにいう。


 「あっはっは。

  風邪になったら口に薬でもねじ込んで看病しておくれ」


 と、アスラ。

 ドーブを流し見ると手をひらひらさせ、背を向けた。

 ランプにも背を向けるような形になったので、前の方に長い影ができた。

 かつかつと扉の方へ三歩ほど歩いた所で、


 「…なあ、アスラさん」


 と、ドーブが声を掛けてきた。

 アスラはなんぞ、と後ろを振り返った。

 狂言の続きであろうか。

 すると、ドーブは机の上で手を組み、幾らか顔を伏せていた。

 大きな体が、まるで子供のように縮まっている。

 先ほどまでとは、少しばかり様子が違う。


 「なんだ?

  看病なぞ御免ということかな?」


 と、アスラは笑顔で返す。

 いつもならば、これでドーブから気の利いた返事が返ってくる。


 …しかし。


 ドーブは、いや、と首を振った。

 ゆっくりと、横にである。

 何時(いつ)もの快活さが、なりを潜めている。

 そして、


 「ちょっとさ…。

 嫌な質問していいか?」

 

 と、いう。

 声にも威勢がない。

 顔は、今だに伏せられている。


 「なにかえ?」


 と、アスラ。

 半分ほど身体を翻し、ドーブには横顔を見せるような形になっている。

 じじ、とランプの火がゆらめいた。


 「アスラさんがさ…。

 ほら、案内してくれた。

 あの集落によ」


 ぽつぽつと、言葉を選ぶようにドーブの口が動く。

 あの集落とは、恐らく島の南の集落のことだろう。

 ドーブら来訪者一行が島に上陸し、その際に立ち寄った場所だ。

 家で茶を出してやったりもした。

 皆で夕餉も食べた。

 アスラは、うむ、と相槌を打った。


 「木の、けっこう年季が入った棒が…。

 そこら中にさ、沢山刺さってたよな」


 声が先ほどよりも重い。

 喉からやっと絞り出したような、そんな印象だ。

 組まれた武骨な手に、大きな力が(こも)っている。

 確かに木の棒はあった。

 アスラの家の裏にもあった。

 家屋と比較すれば、その数はそれの約四倍から五倍の数である。

 集落中に点在し、さながら飽和するように地べたに突き立っていた。

 アスラは、ああ、とだけ返事をする。

 表情は先ほどと特に変わっていないし、声もいつも通り澄んでいる。


 ドーブは、あんときゃ思わず(とぼ)けちまったけど、と前置き、 




 「あれ、さ…。

  多分、墓だよな」




 と、いった。

 

 ランプの火が、大きく、大きく揺れた。

 アスラの翡翠色の瞳に、揺らいだ火が橙の光となって映った。

 居間に、沈黙が垂れこめた。

 ドーブは相変わらず顔を伏せている。

 アスラは、(おもむろ)に目を(つむ)った。

 石の壁に、黒い影法師がゆらめく。

 音が、無くなってしまったようだった。


 廃村の如き(さび)れた集落に、無数の木標(もくひょう)

 朽ち方などから考えても、ある時期に集中して立てられたのは明白。

 住人は、見る限りアスラ一人。

 ()くと、他の連中は何処かへいったという。

 誰でも頭に浮かぶだろう。

 戦、疫病、飢餓、天災…。

 いずれかは分からぬし、あるいは複数かもしれない。

 …ただ。

 数多(あまた)の人が逝ったのだ、と。

 ここで、格別の凶事が起こったのだ、と。

 そう思わざるを得ないような材料が揃っていた。


 どれほどの時間が経ってか、


 「ああ」


 と、高い声。

 声の主は、目を閉じ、腕を組んで壁にもたれ掛っていた。

 表情は穏やかで、声も冷静そのものだった。

 飄々とした雰囲気はなく、どこまでも沈着で泰然とした空気が纏われている。


 「そうか」


 と、低い声。

 ぎぎ、と椅子が軋んだ。

 ドーブが、緩慢に顔を上げた。

 視線は、床のあたりへと注がれている。

 息が大きく吸い込まれ、そして吐き出された。

 眉を伏し、泣きそうな子供のような顔で、


 「キツイな…」


 と、ドーブが血を吐くように呟いた。

 アスラは、やおらに涼しげな双眸を開いた。

 ドーブの沈鬱な表情を見、目を見開いてから数回(まばた)きをした。

 そして、口元に小さい笑みを作った。

 布の擦れる音がした。

 壁から腰を離し、ドーブの元へゆっくりと近づいてゆくと、


 「そうでもないさ」


 と優しく、(さと)すようにいい、ぐしぐしとドーブの頭を撫でつけた。

 微かに花のような(こう)が香って、すぐに消えた。

 アスラはそれきり何も言わず、表の扉から外へ出て行った。

 大きな金属音がし、扉が閉められた。

 居間に、再び静寂が満ちた。

 ドーブは、閉ざされた扉をじっと青い目でみつめていた。


 

 

  


 

   

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