一章(六) 六十五歳下宿日和 下
(ふうむ。
どういう成り行きでこうなったのかや…)
と、アスラは首を捻った。
バークの市街を歩いている最中のことである。
段々の坂に、色とりどりの建物が軒を連ねている。
年季が入っているのだろう、塗装が削げ落ちているものや、苔が生しているものも少なくない。
その間をはしる路地が、縦横へと奔放に伸び散らかり、複雑に入り組んでいる。
ちょっとした迷路だ。
斜面に作られた街だから、階段が多い。
どこへいくにも石造りの階段を登らねばならない。
街を駆けずり回れば、若干でも足腰の鍛錬になるかもしれない。
それ以前に惑ってしまいそうだが。
今歩いているのは、大筋である。
こつこつと、ブーツの踵が石畳を叩く音がそこら中から聞こえてくる。
ここも階段である。
というより、縦に伸びる路地は基本的に階段を孕んでいると見た方がよい。
少しばかり目立つだろうが、建物の屋根を飛び伝っていった方が早く移動できるかもしれない。
人にぶつかる心配などもしなくてすむだろう。
大筋というだけあって、この路地はかなり広い道幅がある。
人の数は非常に多く、喧噪が凄まじい。
左右の端に掘立小屋――露店というらしい――が建ち並び、小うるさい呼び込みをしつつ、大筋の道幅を圧迫している。
様々な品が並べられ、中には果物などの食い物を売っている場所もあった。
見ているだけで腹が空きそうだ。
掏摸が多いらしい。
この中でやられたら気付かぬのも無理はない。
注意を喚起しなければならないだろう。
様々な格好をしたものがある。
ここの町人と、旅人らしきもので半々といったところだ。
中には、気味の悪い装いのものもいる。
呪い師か、あるいは易者だろうか。
おかげで、アスラの木乃伊男の如き風采が目立たない。
どころか、アスラは小柄なので、雑踏に埋もれている。
背丈が低いのは、何かと不便である。
「いやあ、この活気だよなあ」
さすが俺の故郷だ、と辺りの喧騒に負けぬような、低く通った声が横から聞こえた。
蒼い目に精悍な褐色肌。
太陽光を反射して煌めく金髪。
この人ごみに紛れても、一際存在感を放つ堂々たる体躯。
若き二枚目半の剣客、ドーブ・エットラである。
「しかし、本当に凄いなここは」
人しか居らぬぞ、と行き交う人をスルスル躱しながらアスラがいった。
じつに見事な躰捌きである。
一流の掏摸であっても、逆に自らの懐を心配してしまいそうな流麗さだ。
背の射干玉の髪がその度に広がって、実に綺麗である。
…まあ、風袋そのものが包帯まみれで身窄らしく、身に纏っている服も民族的なものである為、客観的に見れば身軽なチビ呪術師のようにしか見えないのだが。
「へへ、そうだろ。
ここほど賑わってる場所は、ちょっとないぜ。
俺みたいに明るい奴が多いんだよ」
と、ドーブが笑った。
人懐っこい笑顔である。
「おおっ。
それは誠かえ?
お前さんみたいなのが幾人もか。
ふむ、ふむ。
通りでここは姦しい訳じゃ」
と、アスラがお道化て返す。
「ちぇっ、ひでえなあ。
それじゃあ俺が五月蝿いみたいじゃねえか」
「おや、間違っておったかえ?」
ドーブは一瞬真面目な顔で考え込み、そして、
「いや、間違ってないかもな」
と、笑った。
ぷっ、とアスラが吹きだした。
「あっはっはっはっは。
なんだ、言い消さんのかえ。
まったく可笑しな奴じゃ」
愉快、愉快、とアスラはからから笑っている。
傍から見れば少々不気味である。
「いやあ、否定できる要素が無かったぜ」
と、ドーブも大いに愉しそうだ。
この二人、馬が合うのである。
がやがやと喧しい雑踏に紛れながらも、二人はちびちびと進んでゆく。
あれはなんだとか、それはなんだとかと、時折高い声でアスラがドーブに訊く。
ああそれは、とその都度ドーブが快活な口調で応える。
そこで売ってる木の実は滋養強壮に良く、疲労が取れるのだが非常に渋い。
この反物屋はあんまり品が良くない。
あの爺は紛い物を買わせるのが上手いから要注意。
などなど、饒舌にドーブが話す。
話が弾むこと弾むこと。
アスラが聞き手、ドーブが語り手といった感じである。
半分くらいまで坂を上っただろうか。
ちらり、と後ろを振り返って海の方を見下ろしてみた。
海原よりやってくる潮風が、清涼な心地で身体を弄る。
結い纏めた髪が、風にあおられて広がった。
今では、船を泊めた港がかなり下の方に見える。
それだけ坂を上ってきているのだ。
うようよと数多の船舶が浮かんでいる光景が見下ろせる。
人海もである。
それにしても凄い人数だ。
(あそこを抜けるのは苦労したな…)
背丈が小さいと、兎角視界が狭い。
人ごみなどに紛れてしまえば、有効視野など無に等しい。
壁だ。
人の壁がアスラを阻んだのだ。
あそこはとりわけ厄介な場所であった。
人に溺れるという珍妙な体験をしてしまった。
あまりというか、もう行きたくないかもしれない。
身長が伸びればまた話が違うのだろうが…。
やはり矮躯は損である。
「おいおい、道の端っこで立ち止まったりしてどうしたよ。
疲れちまったのかい?
いや、アスラさんに限ってそれはねえか」
超人だもんな、とドーブが足を止めて振り返った。
片足を石段に乗っけて肘を付いている。
金色の毛髪が、そよそよと風にゆれている。
黙っていれば男前なので、これが絵になる。
アスラはゆっくりと振り返り、
「やれやれ…。
お前さんはおれをなんだと思っておるのだ」
と、半目でドーブを睨めつけた。
ははは、とドーブが小さく笑った。
「そうだな…。
包帯ぐるぐるチビ美人達人剣士かな」
と、流れるように言いきった。
白い歯を見せてはにかんでいる。
なんだか憎めない。
「まったく…」
こやつはと、アスラは溜息を一つ吐いた。
「あれ、間違ってたか?」
と、ドーブがにかりと笑う。
アスラは目を閉じて顎を二、三度弄り、
「いや、存外間違っていないかもしれぬな」
と、片目を開きながらいった。
「はっはっは、そうだろ」
「ああ、そうかもな」
あっはっはっは、と二人でからから笑った。
そんな凸凹コンビを物珍しそうに行き交う人が見つめている。
呪術師風の旅人と、剣士風の偉丈夫。
そのような格好のものもちらほらいるとはいえ、この二人が一緒にあると中々に目立つ。
両人が、一定の領域に足を踏み入れた練達ということも手伝っていたかもしれない。
「さて、あと少しだ。
ちゃっちゃっと行こうぜ。
ほれ、アスラさん。
急いだ急いだ」
早う早う、とドーブが手招きする。
アスラは、よっこらせ、と背嚢を担ぎ直し、首をぱきぱきと鳴らした。
ついでに腰をこんこんと拳で叩く。
腰痛がある訳ではないのだが、癖のようなものである。
それにしても良い天気だ、とアスラは空を仰ぎ見た。
太陽が実に眩しい。
「よし、行こう」
と、アスラは何段目かも分からぬ石段に足を掛けた。
それを見てドーブも歩き出した。
まだまだ大筋の階段は続いている。
…さて、この二人は一体どこへ向かっているのか、である。
日はまだやや低い。
中天に達するまで、あと半刻から一刻ほどはある。
ゆえに、食事処ということは考えにくい。
昼餉には早すぎる。
一刻ほど前に朝餉を召したばかりであるし、そう腹は空いていまい。
酒屋で居酒ということも考えられるが、やはりそれをするにも早い。
真っ昼間から酔いどれるなど、中々の落伍者――この二人ならばやりかねない感もあるが――だ。
同様に、花街の線もないだろう。
そもそもにおいて、両人とも大層な愛妻家である。
――では、どこへ向かっているのか。
それは、所謂下宿先であった。
アスラはドーブに連れられて、今宵の宿となる場所に足を運んでいるのだ。
今日は野宿をすると船の皆に宣言したところ、猛烈な反対を食らった。
件の黄虎を一蹴できるような実力があるにしても、流石に不用心すぎると言われた。
野宿はダメなのだという。
誰も彼も鬼気迫るような熾烈さがあり、ちょっぴり怖かった。
この街で最も警戒すべきは『人間』だという。
町方の警邏は腕利きが揃っているらしいのだが、これだけの人がいる街全体に目を利かすことはまず無理だ。
殺人や窃盗、出買(抜け荷)に騙り…。
悪辣な犯罪の横行は、近頃酷くなる一方であるという。
治安はお世辞にも良いとは言えぬらしい。
野宿などをすれば、間違いなく厄介ごとに巻き込まれるだろうという話だ。
納得できぬこともなかった。
アスラという人物は、飄々としているように見えて生来やや押しに弱い所がある。
ぐいぐいと強気に来られると――特にそれが悪意のないものだと――案外あっさり丸め込まれてしまうのだ。
今回もその例に漏れなかった。
なんやかんやと応答を繰り返している内に、下宿をすることになってしまっていたのである。
白羽の矢が立ったのはドーブ・エットラであった。
このあたりの地理に明るいうえに面倒見もよい。
アスラと気も合っている。
案内役としては適任である。
この街は俺の庭みたいなものさ、とドーブが自慢げにいっていたことを思いだす。
誇張してはいるだろうが、実際に大したものであった。
大抵の質問には応答があるし、ここの複雑な道にも全く迷う様子がない。
どうにも知り合いも結構多いらしく、時折声を掛けられることもある。
有名人らしい。
この男の性格を踏まえれば、なるほど友人は多そうな気がする。
得する性質だ。
なんというか、ほんのちょっぴり羨ましいかもしれない。
「ドーブよ。
お前さん、随分と足取りが軽いな」
と、アスラがいう。
なるほど、ドーブの足取りは軽かった。
長い船旅の後だというのに、疲労を感じさせない。
靭というか、獣の如き軽捷な足つきである。
「あったりまえよ。
軽すぎてもう羽毛みたいだぜ」
と、ドーブが肩ごしに笑った。
足を無駄に振り上げて、フットワークの軽さを主張している。
「あっはっはっは。
そうか、そうか。
羽毛ではそれは軽い訳だ」
「おうおう。
今にも飛んでいっちまいそうだぜ」
それそれっ、と上手に人を避けながらドーブが進んでゆく。
アスラもスイスイと付いて行く。
少し前と比べ、ペースが上がっている気がしないでもない。
が、苦になる速さでもない。
横に走る大きな路地と交差し、巨大な石柱が聳える広場を抜け、まだまだ進む。
途中で湧水のある場所で軽く水分を取った。
幾段くらい上ったのだろうか。
三百かあるいは五百か。
やはり屋根を飛び伝った方が早いな、とアスラは思った。
季節がらというか土地柄というか蒸し暑く、行き交う人々の額には大粒の汗がある。
潮風は涼しいが、それをしても今日は暑い。
太陽が燦々と熱気を注いでくる。
手拭いで汗を拭きとりながら客の呼び込みをしている露店も数多くみられる。
大声を長い時間出すのは存外疲れるのだ。
少し歩いて、
「それにしても、本当に良かったのかえ?」
と、アスラである。
「お?
何がだ?」
ドーブが訊き返してくる。
ちらり、とこちらを向いて精悍な面に不思議そうな表情を浮かべている。
「うむ…。
だから、その…。
宿のことよ」
と、アスラがどこか申し訳なさそうにいう。
あどけなさの残る声は、心なしか曇っている。
包帯の合間から見える碧色の双眸も、若干伏せられていた。
これを聞いたドーブは、なんだそのことかい、と頭を掻いた。
にかり、とはにかみ、
「いいって、いいって。
気にするこたあねえさ。
さっきも言ったろう。
アスラさんは命の恩人だぜ。
このくらいはして当然さ。
別に俺だって嫌々してるわけじゃねえんだ。
大船に乗ったつもりでいてくれよ」
暗いぜアスラさん、と金髪の剣士は明朗に笑い飛ばした。
「そうかえ?
ううむ…」
いつもの癖で、手が顎に向かった。
そのままやんわりと弄る。
実はといえば、アスラは少しばかり懊悩していた。
先の発言の通り、宿についてである。
アスラが当初野宿をしようと思っていたのは、何も野性児であるからではない。
宿に泊まるための『金』がないからだ。
船で七日も過ごせば、外界における経済というものも朧げに判明してくる。
やはり、『金』という価値交換媒体で成り立っている社会を生きるには、『金』が無いと相当に不便らしい。
物々交換などもできなくはないが、好まれぬ場合も間々ある――詐欺まがいの換え物をして懐を温める悪党が増えた為――らしい。
糧を得るにも、宿を取るにも、何をするにも『金』が要るのだ。
自分の荷を幾つか質にでも入れれば『金』が得られるかもしれないが、生憎とそれほど余裕がある訳でもない。
愛剣は間違っても売り払う訳にはいかぬし、短弓も絶対に手放すわけにはいかない。
短笛も、替えの服も、小鍋も、非常用の薬草もだめだ。
首輪や耳飾りといった装身具も、手放したくない理由があった。
つまり…。
アスラは、現状を俯瞰したうえで野宿が最もよい方法だと思ったのだ。
そこらで適当に寝転がる訳であるから、『金』はかからない。
建物の陰に隠れれば風が防げるので、夜の睡眠もさほど困らない。
森の中ではないから、厄介な獣や虫もいない。
食事は海も近いことであるし、釣りか、あるいは素潜りでもして調達すればいい。
なんでも、皆に聞いた話では街中に湧水地があるというので、水浴びはそこですればよい。
飲料にだって困らない。
…しかし、この街で野宿をすることはあまり褒められた行為ではないらしい。
だからといって『金』もない。
どうするのか。
『金』の掛からぬ宿を使えばよいではないか、といったのは確か水夫の一人であったか。
そんなものがあるのか、と訊くと、あるのだという。
結果として、まあ、あるにはある。
あるのだが…。
「さて、本当にもう少しだぜ」
今宵の、あるいは今後暫く身を寄せることになるであろう宿がそれである。
水夫の言う通り『金』がかからない夢の宿だ。
『金』の無いアスラにとり、これほど得難いものはない。
「あそこの角を曲がるんだ」
食事は三食出るという。
味は抜群に良いらしい。
場合によっては酒も嗜むことができるとのこと。
寝床も、ふかふかとした下敷きがあり快適だという。
居心地の良さは俺が保証すると、ドーブが胸を張っていた。
「その通りに出りゃあ、もう目前さ」
その宿には女童がおり、大層可愛いらしい。
皆が言うには、看板娘なのだという。
ドーブが言うには、女神のようなのだという。
女将もその娘に似て別嬪だとは、これもドーブの証言である。
それと、場合によっては家事などの手伝いをしてもらうかもしれぬという。
「結構立地がいいんだぜ」
…薄々勘付いたのではなかろうか。
ドーブに案内してもらっているのは、正確には『宿』ではない。
つまり、『宿泊施設』ではないのである。
何を隠そう、アスラの下宿先というのは――。
「我が家はよ」
――ドーブ・エットラの自宅なのである。
(どうしてこうなったのかえ…)
と、アスラは額に手を当てた。
いいのだろうか。
ごく一時的にとはいえ、この青年の家で食客などさせて貰って、本当によいのか。
ドーブはいいと言っている。
だが、そういうことではない。
年上としての面目やら威厳やらは、この際いい。
そこではなく、ドーブ一家に迷惑が掛かってしまうということが重要なのだ。
養う者が一人増えるというのは、かなりの負担になるはずだ。
生活水準は間違いなく低下するだろう。
稼ぎがいいとドーブは言っていたが、それもどれ程かはわからない。
ただ、ドーブの家族らに無理をさせるということだけは間違いない。
食事の量が減るかもしれないし、ドーブも好きな酒を控えるようになるかもしれない。
そうなってほしくはない。
いくら諸事雑用に手を回したからといっても、あまり変わり映えはしないだろう。
それと、ドーブの家族関係についてだ。
アスラとしては、これが最も気にかかる。
よくよく考えて欲しい。
仕事に出ていた父が、久々に帰ってくる。
妻や娘は喜ぶだろう。
約一月ぶりの邂逅なのだ。
家に入ってくる父を笑顔で迎えるに違いない。
しかし、よくよく見ると帰省したのは父一人ではない。
どうにも連れが居る。
身窄らしい格好をした、怪しい奴である。
何奴か、と家族らは胡乱に思うだろう。
ここで父がいう。
そやつを居候させてやりたい。
旅の途中で命を救われた。
金を持っていないのだ、と。
家族らは思うだろう。
(何言ってんだこいつ…)
と…。
アスラがドーブの妻であれば、夫がどうかしてしまったのではないかと思う。
久々に帰って来て何をいっているのだと思う。
ドーブの愛娘も、流石に良い顔はしまい。
円満な家族関係に軋轢を生んでしまいかねない。
これだけは避けねばならない。
アスラとて、辞退はしたのだ。
したのだが…。
そこはドーブ。
是非とも我が家に来てくれという。
俺も含めた船員一同の命の恩人だ、とにこにこするのだ。
他の皆も、野宿などさせられるはずがないという。
何度も断るのもまずい。
相手は完全な好意で誘ってくれているのだ。
一度家に赴かせてもらい、家族の反応が芳しくなかったら宿に泊まるふりをして野宿に移る…。
これがよいのではないか、と思い当った。
このやり方ならばドーブにも、ドーブの家族にも、アスラ自身にもあまり嫌な空気はながれない。
(それにしても、よ。
ドーブもドーブよのう。
こんな薄汚い輩を家に招こうなど…)
問題の宿の主人はといえば、うきうきとしながら歩を進めている。
大きな少年のようである。
よほど自宅に帰れるのが嬉しいのだろう。
あるいは、家に珍客を招けるのを面白がっているのだろうか。
あり得なくない。
その珍客に、自慢の妻と娘を早く紹介したいのかもしれない。
考え事をし、また少し足が遅れた。
只でさえ歩幅が少ないから、気を抜くとすぐに離される。
ドーブも気を使ってはいるが、流石に背丈の差がありすぎる。
脚の長さが違うのだ。
ドーブが振り返って、アスラが再び遅れたことに気付いた。
「おおい、アスラさん。
本当に疲れちまったのかい。
もう目と鼻の先なんだぜ。
それともおぶろうか」
と、アスラに声がかかる。
「それは勘弁願いたいな。
おんぶなどされたら、羞恥で死んでしまうよ」
と、アスラが返した。
「そんなら早く来なよ。
いいぜ、うちは」
にかり、と無邪気な笑顔が浮かんだ。
ほれほれ、とまた手招きをしている。
(やれやれ…)
と、微苦笑が出る。
アスラの複雑な心中など、全くどうでもよいといった感じだ。
この男ほど表裏のなさそうな人間もそうはいまい。
悩んでいるのが馬鹿らしくなってくる。
まあ、何もかもこ奴の家に着いてからでよいかえ、とアスラは考えを収めた。
なんとなく空を仰ぎみた。
辺りに満ちる喧騒が遠くなる。
薄らと、目を細めた。
空は蒼く、太陽は煌々としている。
雲は、無かった。
当たり前の話ではあるが、場所が変わっても空の色は変わらぬなあ、などと思った。
我ながら下らなかった。
前を向きなおし、これこれ、年寄りをあまり急かさんでくれ、などと適当に軽口を叩いた。
ドーブが、それもそうだな、と応えて笑う。
大筋を流れる人の河が、街の中に響き渡る喧騒の中を流々と流れてゆく。
石造りの建物は、潮風に吹かれながら冷たい静寂を保っている。
遠くで、潮騒が聞こえた。
♢
バークスプエルト北区、横大路から数本の路地を隔てたロクッスリ通り。
アスラとドーブはそこにいた。
大筋を左に折れて階段を上り、石造りのアーチを潜り抜け、また幾らか歩いた所だ。
通りというよりも、ちょっとした広場くらいの道幅がある。
背の高い白地の家々が立ち並ぶ対面には、海が見える。
景色が良い。
かなり高い所にあるから、眼下に広がる街並みが一望できる。
彩り鮮やかな瓦が敷かれた建物群は、見下ろすとまた見え方が違って面白い。
落下防止の為か石造りの手すりがあるが、所々朽ちている。
いつごろ作られたものであろうか。
風雨にさらされ続けているとはいえ、かなりの年数の経過を感じる。
この都市は恐らく古都である。
どの建造物も、少なく持って数百年程度の歴史がありそうだ。
いくらバークとはいえ、例の大筋から離れると思いのほか閑静である。
人通りは無論あるが、大筋と比較すると疎らなものだ。
耳には大筋の喧噪が届いてくるが、それも遠い。
カーン、カーン、という高い鐘の音が街の上の方から聞こえてくる。
苔むした石畳みを押し上げて、道の端の地べたから数本の木が伸びている。
道に黒い影を落としこみながら葉を擦らせ合っており、その音を聞くだけで気持ちが良くなる。
見れば、木陰で涼んでいる者の姿もある。
今日のように天候の良い日はさぞや心地がよいことだろう。
太陽も風もいい按配であることだし、寝転がったらまどろんでしまいそうだ。
「どうだい。
ここが俺んちだ」
と、ドーブがにこやかに、胸を張っていった。
胸板が人一倍厚いから、本当に胸を張っているようにみえる。
さらさらと、結った黒髪を艶やかに靡かせながら、
「おお。
よい家じゃ。
我が家が惨めに思えてくるよ」
と、苦笑交じりにいうのはアスラだ。
背の荷が重そうである。
とうとう到着してしまったな、とアスラは思った。
眼前には、ドーブが我が家と呼称する家屋がある。
大きな家だ。
煉瓦の上に漆喰を塗り固めた素朴な外壁に、赤い瓦の屋根。
見える範囲で窓が九つあり、かなり高い所にもある。
天窓かとも思ったのだが、なんでも二階があるのだという。
平屋の家しか知らぬアスラにとっては、非常に興味深い。
正面には木製の扉がある。
玄関であろう。
「ようし。
さっそく入るかね。
客人を待たせる訳にはいかねえからな」
と、ドーブが扉に手を掛ける。
そして押し込んでゆく。
ぎぎ、と掠れた音を出しながら扉が内に開いた。
「ただいまあーっ」
と、ドーブが大声で叫ぶ。
家の中に土足で踏み込んだ。
屋内にも石畳みが敷かれているらしい。
靴は脱がぬようだ。
はいはい、と家の奥から声が聞こえた。
若い女子のものとみられる声である。
ドーブが、にや、とこちらをみて笑った。
少しして、家の奥から女子が出てきた。
パンパンと、前掛けで手を拭いている。
炊事の途中であったのであろうか。
開け放たれた玄関からは、食欲をそそる匂いが漂ってくる。
ドーブの姿を見て、
「あんた、おかえんなさい」
と、女子が笑った。
色白の綺麗な肌に、すっきりとした目鼻立ちだ。
ふくらはぎのあたりまである長い丈の服に、白地の前掛けが良く似合っている。
アスラよりもかなり背が高く、胸が豊かである。
金と茶の混じった艶やかな髪を青い結い紐で纏め上げ、右肩に垂らしている。
ドーブと同じ程度の齢だろう。
家内とみた。
「おう、ただいま。
息災だったか?」
と、ドーブが微笑みながらいった。
普段の笑みとはまた一線を画した非常に安気な笑みだった。
家に帰り着いて緊張感が完全に抜けたからだろう。
「あたりまえさ。
あんたの方こそどうだい?」
女子が訊き返す。
低くハスキーな声だ。
面には精悍な笑顔がうかんでいる。
「この通り元気溌剌よ」
むん、とドーブが上腕に力こぶをつくってみせた。
女子が、あっはっは、そうみたいだね、と腰に手を当てて笑う。
和やかな雰囲気である。
アスラもにこやかにそれを見ていた。
「それで、その人はだれだい?」
と、女子がアスラの方に蒼い目を向けた。
少しばかり怪訝な表情である。
無理もない。
八十エルデ程度の矮躯。
年季の入った民族的な衣服。
素肌に巻かれた包帯。
背負われた大きな荷物。
腰にぶら下がった武骨な剣と矢筒。
呪い師のようでもあり、猟師のようでもある。
非常に怪しい。
「いやあ、じつはなあ…」
と、ドーブが事情を話し始めた。
アスラは、ぺこり、と軽く頭を下げて会釈をした。
微苦笑が浮かんでいる。
女子は軽く手を振って返事をした。
ドーブのした話はこんなものである。
行きは何の支障もなく用心棒としての仕事をこなせた。
平均年齢こそ低いが、そこそこの腕利きが集まっていたから当然のことだった。
…ただ、帰りに問題が発生した。
旅の途中で食糧が底をつきかけてしまった。
不幸は連鎖するのもので、大嵐にも襲われてかなり危険だった。
皆が飢餓の恐怖を感じる中、偶然島をみつけて一か八か上陸した。
兎に角食糧が欲しかった。
危険な場所だと分かってはいたが、背に腹は代えられなかった。
無人島だと思ったのだが、人がいた。
言葉が喋れるようであったので、情報交換をした。
そのすぐ後。
強大な力を持った獣が現れた。
別次元の怪物だった。
ここで死ぬのか、と本気で思った。
が、そうはならなかった。
その島民が、その獣をやっつけてくれた。
おまけに家に招待してくれた。
食事もごちそうになり、食糧集めにも世話を焼いてもらった。
本当に助かった。
その人は旅に出たかったらしく、船に同乗してここへやってきた。
しかし、金が無く宿に泊まれない。
恩人に野宿などをさせる訳にはいかない。
だから、少しの間その人を我が家に居候させてやりたい。
少しばかり長い話な上に、饒舌に、それも感情を込めてドーブが話すものであったから、何かの物語のようであった。
素でそう思っていそうなのが、ドーブ・エットラである。
女子は、ふんふん、と時折頷きながら話に耳を傾けていた。
アスラは、強大な獣――黄虎であろう――を倒すあたりの熱烈とした語り口に形の良い眉を若干顰めていた。
こやつも飽きぬな、と心中で苦笑した。
話を噛み砕いて整理したうえで、
「なるほどね。
で、その人が大恩人なわけだ」
と、女子が目配せをした。
ドーブが、そうだ、と頷いた。
嘘みたいな話だね、と女子が半目になる。
けど本当さ、とドーブがいう。
暫し両者無言になった。
アスラも黙ってそれを見ていた。
口を挟むべきタイミングではないと弁えていたからだ。
そもそも話すべきことは、既にドーブが殆ど言ってしまっている。
少しして、ふう、と女子が溜息を吐いた。
「ま、あんたがこんな嘘つくわけないか。
そんなに器用なタイプじゃないし、話にも熱がはいってたしね。
信じるよ」
凄い冒険してきたね、と腕を組んでドーブに話す。
そうなんだよ、本当に逝っちまうかと思ったからな、とドーブも無精ひげを弄りながら答える。
其れに留まらず、両者の会話が続く。
ドーブは確か一ヶ月以上も家を空けていたらしいから、積もる話もあろう。
ドーブも女子も笑顔で、とても楽しそうだ。
邪魔をするべきではない。
ドーブは円満な家庭を築けているようである。
なにより、なにより、とアスラは笑顔である。
女子が、あたしもすべきことがあるね、とアスラの方を向いた。
話は終わったらしい。
アスラも女子の目を見た。
例の如く見上げるような形だ。
ドーブも笑顔でそれを見ている。
女子は少しの間アスラを見つめると、にかり、と笑い、
「ありがとうね。
旦那の命を救ってくれて。
感謝してもしきれないよ」
と、いった。
穏やかな声と表情である。
やはりドーブの家内であるようだ。
「いやいや。
その場に偶然おれが居合わせただけさ」
と、高い声でアスラも返した。
「あれ?
あんたの話を聞く限りじゃ凄腕の爺さんって感じだったんだけど…。
随分可愛い声だね」
女の人かい、と女子が首を傾げた。
これはドーブが悪かった。
説明の際にあえてアスラの性別や容姿についての言及を避けていたのだ。
自然、アスラの印象は練達の老剣客になったのである。
アスラは本人としては一向に問題がない。
むしろ、そうであった方がよかったりする。
「ま、それについては一旦置いといて。
俺としてはこの人を少しの間居候させてやりたいんだけど…。
どうだ?」
ドーブが本題を切り出したようだ。
家の大黒柱とはいえ、流石にドーブの一存で決められることでないらしい。
仕事とはいえ、家を長い間空けて居た訳である。
その間家を守ってくれていた嫁には当然頭も下がる。
愛妻家であるならば尚更だろう。
(まあ、まずもってよい返事は返って来ぬだろうな。
さて、と。
ドーブの気遣いに礼を言って別れるかえ…)
と、心中で展開を予想していたのだが…。
「いいよ」
良い返事が返って来たのである。
「ようし、決まりだ」
と、ドーブが笑う。
「へ?」
いいよ。
いいよ…?
アスラは、ぽかん、としてしまった。
包帯で顔は殆ど見えぬのだが、目がまんまるになっている。
肯定だ。
二つ返事といってよい肯定だ。
この状況で好意的な反応が返ってくるだろうか。
いや、普通は返って来ないだろう。
それこそメリットがないではないか。
食客など迎えても、家計が厳しくなるだけである。
確かにアスラはドーブらの世話を焼いたが、その恩返しをしなければならぬということはない。
運がよかった程度に思ってくれればよいのだ。
アスラとしても、恩着せがましくやった行為ではない。
「あ、そうだ。
自己紹介がまだだったね。
マリアナ・エットラだよ。
よろしくね、アスラさん。
さ、家に入って荷物を下ろしな。
そしたら外で軽く汚れを叩くんだよ」
マリアナが、にこり、と笑った。
「あ、ああ。
よろしく…。
いや、そうではなくてだな…」
と、アスラが狼狽えていると、
「ほれほれ、早く入った入った」
と、ドーブが後ろに回り込んで背中を押した。
たたらを踏んで前に進んでしまう。
マリアナもドーブも笑顔である。
「お、おいっ。
少し待たぬか。
これ、ドーブっ」
アスラ・カルナ六十五歳。
天候は快晴。
風も穏やか。
絶好の下宿日和であった。




