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守り人は眠らない  作者: ボノボの親戚
第一章 最初の街
16/18

一章(五) 六十五歳下宿日和 上




 どうにも、思うことがある。

 人は、物事をよく忘れる。

 中には、何一つ忘れず、詳細で、鮮明な記憶ができるひともあるだろうが、大抵はそうはいかない。

 一に注意すれば、二を忘れるし、二に専心すれば、一に不注意になる。

 おおよそは、そんなものだ。


 思い出。

 古い思い出。

 どの程度覚えているだろうか。

 アスラは、気づけば、ここ(・・)にいた。

 子供時代は須臾の間で、必死に大人をやって、ふと老人となった。

 目まぐるしく景色が変わる、一本道を走っているようだった。

 振り返れば、随分の昔まで、大またで歩いて戻れるような、そんな気さえする。

 しかし、背後の景色は酷くかすんで、道も先へとしか続かない。

 終わりには、静かなくらやみがあって、そこへいっては帰ってこれない。

 考えれば、恐ろしい。

 人は、そんな道を、ばかみたいに歩く。 


 船の中で、様々な連中の話を聞いた。

 水夫のやつどもは、陽気である。

 面白い話題を、いくつも持っている。

 経験にもとづく話が多く、どれもが臨場感に満ち、感情の移入をしてしまいそうな愉快さを有していた。

 中には、昔話をするのもいた。

 恋愛話や、両親の話、友達の話や、子供時分の話。

 よくも鮮明に覚えているものだと、アスラはにわかに関心した。

 しかし、あるいは、虚言の類も混じっているのかもしれぬと、興がさめるようだったが、それでもサービスの一環として他意はないのだと、勝手に納得もした。


 アスラは、昔話はしない。

 聞かれても、殆どははぐらかす。

 恥ずかしいのかもしれないし、相手が興味を持たないと、勝手に決めつけているからかもしれない。

 ふとした会話から、弱みを握られるのではないかと、警戒しているのが、最もな理由だと、アスラの方では思っていた。

 どこから、弱点が漏洩するかは分からない。

 過去には、失敗も、成功も、慢心も、痛点も、全てがある。

 特に思い出というのは強い魔法で、鋭利な刃物にも、柔い絹にもなって、ひとを惑わせる。

 それによる振幅は、生活でも、あるいは戦闘でも、致命傷を生みかねないほどに大きい。

 信用しない相手には、過去は語らない。

 それが、無難。

 アスラは、そう思っていた。


 六十と余年も生きた。

 きっと早く死ぬだろうと、アスラは少年時分から思ってきたが、これだけ生きた。

 臆病に歩んだわけではなかった。

 むしろ、逆である。

 薄氷の、ようやく一枚張った深淵の谷のうえを、ドシドシと、足で踏み鳴らすようにして、歩んできた。

 死ぬようなことは、いくらでもあった。

 しかし、不思議と死ななかった。

 悪運があった。

 しぶといと形容できる、気味の悪い忍耐力があった。

 結果、こうして、女になってまで生きた。

 これこそ笑い話と、アスラは思った。


 確か、八歳になったくらいの時である。

 さっそくと、死にかけた。

 大怪我をしたのだ。

 顔面及び肩帯けんたいから臍下せいかにかけて、命を容易に脅かすほどの深い切創を複数おったのだ。

 その時の容態というのが、本当に酷い。

 内臓も見えていたという話だし、血も、全て出切るくらいにこぼれていたということだった。

 よく、生きていられたものである。


 実際、相当に危険だったという。

 普通ならば、助かる見込みなど、微塵もない。

 しかし、父が、島のある薬師に頼み込んで、特殊な治療をしてもらった。

 その治療は、一昼夜にも及んだらしい。

 〈療術(ジンナ・ラヤ)〉と呼ばれる、秘術である。

 肉体を繋ぎ、血を作り、命を紡ぐ、不思議な御業で、また、非合法な治療法でもあった。

 その薬師は森の奥深くにただ一人で住んでいて、おかしなことに、その住処(すみか)は、遠方からではまったく確認できない、木々の開けた、小さな広場にポツンとある。

 変わり者で、質問はするが、質問には答えない、妙な理屈を持っている老爺だった。

 

 結果として、アスラは命を取りとめた。

 施術は、成功したのである。

 長い間昏睡し、その後意識を回復させた。

 驚くべきことに、身体面での後遺症は左目の視力低下のみに留まった。

 しかし、少しばかり特殊な療法を施した結果、大きな切創跡(せっそうこん)が残った。

 ようは傷である。

 特に左目の眉上から下へ広がる傷というのは、往年になって他の傷が増えるまでは良く目立った。

 いわば、アスラのトレードマークである。

 友人らにも諸々と渾名(あだな)をつけられた。

 傷やろうとか、傷チビだとかと、揶揄されていたような気もする。


 剣ばかりやって、無頼のように日々を送り、とても健全ではなかった。

 ただ、悪いことばかりかといえば、そうでもない。

 死にかけるのは、いくらでも機会があったが、二十くらいには、婚約の機会があった。

 キイロ・ラーマという幼なじみと、結婚するはこびになったのだった。

 これは、人並みに尋常だと、アスラは思う。


 幼なじみとくっつくというのは、そう珍しいことではなかった。

 島では人数が少ないから、気心の知れた男女で恋仲になるのは、ある種必然ともいえるからだ。

 アスラは、己の方で驚嘆していた。

 まさか、自分が結婚をするなどと、思ってもいなかったのだ。

 しかも、幼なじみの、親友と。


 なるほど、確かにキイロとは親しい間柄であった。

 十年来の友人であるし、恩もある。

 二人で一緒に散歩をしたり、日向ぼっこをしに花畑へ出かけたりもした。

 最初は下らぬことだと思っていたのだが、いつしか不思議と楽しくもなっていた。

 紆余曲折(・・・・)もあった。

 しかし、このひとと一緒にあると、心地がよかった。

 キイロも良く笑っていた。

 ただ、両想いだなどと、そんなことは思いもしない。

 どうにもそういった感情を察するのが苦が手だった。


「好き」


 などと、軽薄に口にする女はいくらでもいた。

 好きなのかと、その気になるようなこともあったが、大抵はすぐに興覚めして、破局した。

 愛とは、恋とは、裏がわにおどろおどろしい厄災のような暗さを秘めていて、人を容易に変貌させ、それを目にするたびに、気まずさがせりあがって、もう耐えられず、ごめんなさい、などと口にして離れる。

 ようするに、向いていない。

 欺き合いであり、自慢のし合いでもあり、冷たい評論のていさえとりうる。

 とうてい理解などできず、人の真似をしてある程度は上手くやれるが、これっぽっちも馴染なじまない。

 結婚という幸福の催しと、無縁と思うのも、そう不思議ではなかった。


 それに、子供。

 どうして、子供など。

 この世で、一番不可解な生き物である。

 感情のままに、時にはそれさえも飛び越えて、本能さえうかがわせるほどの、無垢。

 アスラは、子供が苦が手である。

 子供は、鏡だ。

 己の、嫌な部分や、隠したい部分、直視したくない点などを、明瞭に映し出す。

 未来に満ち、可能性にあふれ、言葉は不思議と真理をついて、とても神々しい存在のようにも感じられる。

 穢れがつくような気がした。

 アスラという、いわばひずみみのようなものから生まれた存在が、その子を、根っこから腐らせるような、そんな展望が、眼前に迫ってみえた。

 どうすればいいのか、分からない。

 キイロは、笑っていた。

 ただ、やればいいと、素っ気なかった。

 右も左も分からず、やった。

 たぶん、うまくはやれなかった。 

 

 三十もおわりになってくると、息子の反抗期がやってきた。

 いや、反抗期などと、一口には述べられないかもしれない。

 人の、つくりの違いともいえる、軋轢だった。

 アスラも、大いに苦悩した時期であった。

 情けないことに、どうすればよいのかわからなかった。

 息子のいうことは、全てが正しく、己のほうにしか責がないようにすら感じた。

 時間というのは、経つのが速い。

 つい、この間、産声をあげたと思っていたのに――。


 戦だ。

 戦が全ての元凶だった。

 その頃になると、賊どもがチラホラ攻め込んできていた。

 アスラ・カルナは、どこかおかしい。

 人を殺めるのは、この世で最も醜悪で、凄惨な犯罪だと理解しつつも、周到に、冷静に、それをり行えた。

 才能なのかもしれないし、欠陥なのかもしれない。

 ただ、戦では役に立った。

 敵の無力化において、殺害ほどの安心感を得られる手法はないからだ。 

 この連中にも、両親や友や、それこそ妻や息女があるのかと、頭では多少の慈悲心を用意しつつも、手は止まらず動く。

 首をちぎり、胴を穿ち、心の臓腑をつぶし砕く。

 酷いときには血だらけで帰って、息子はそれを、おびえた眼でみていた。

 息子は、アスラを怪物かなにかと、思っていたのではないかと思う。

 戦果といえば綺麗に響くが、犠牲といえば、にぶくとどろく。

 どう聞こえていたかは、明白だった。


 人殺し、と息子はいった。

 その通りだった。

 アスラは、殺人鬼である。

 キイロも、この手のことは嫌ったが、仕様がないこともあると、割り切れる人種だった。

 そもそも、戦には出ないのだ。

 一方、息子は、それがどうしても割り切れず、戦を本当に嫌がっていたのである。

 腕白で、元気な性分だったが、誰よりも心優しい、真っすぐな心根をしていた。

 自慢の息子だったが、しかし、アスラは軽蔑されていた。

 誇らしくも、ひどく寂しかった。


 息子との軋轢は、決定的で、絶対的と思われたが、ある時ふと解決した。

 この頃というのは妻が丁度産気づいていた時期で、間もなく娘が呱々(ここ)の声を上げたのだ。

 アスラを含め、家族一同歓喜に打ち震えた。

 二度目になるが、そんなものは関係なかった。

 この頃になると、ようやっと人並みに喜んだり、笑ったりをするようになった。

 キイロのおかげだった。

 彼女の、たおやかな鷹揚が、少し移ったのだと思う。

 産婆が娘を取り上げた瞬間には、息子と抱き合った。

 息子は、あんたにも人の心があるんだな、などと言った。

 アスラは、かすかに苦笑をした。

 家族皆、笑顔だった。


 ああ、そして。

 来るべき時がきた。

 破滅である。

 いつかは、このような悲惨を、味わうのではないかと、アスラは未来を睨んでいた。

 それは、ついにやってきた。

 因業いんごうのつなみであった。

 殺しという悪事を積み続け、それを、人生の河に投げて捨て続け、ついに、ついに、それが災いとなって、無情に打ち寄せたのだ。

 

 善良な妻。

 無垢な娘。

 素直な息子。

 なぜ、これらが逝くのか。

 友人、知人、それなりの曲者くせものぞろいだが、気持ちのいい連中である。

 しかし、逝ってしまった。

 そんな中、ぽつ、と生きる。

 悪人が、こともあろうに、特別の悪党が、生き残る。

 殺生ばかりにかまけて、家族も何も救えなくとも、アスラ・カルナは延命された。

 痛烈な皮肉だった。

 虫唾がはしるほどの理不尽は、この世にいくらでもあるかもしれないが、この時代に起こったこれ・・にも相応しい形容だと、確信さえ持てる。

 

 アスラは、呪った。

 呪わずに、いられるだろうか。

 殺してくれと、そう願った。

 だから、なおも殺した。

 そのうち、この世が己を排斥してくれると、そう思ったのだ。


 鏖殺おうさつ

 虐殺ぎゃくさつ

 殺戮さつりく


 戦闘員、非戦闘員の区別すらしなかった。

 目に付く敵らしきものは、残らず命を刈り取った。

 慈悲も、厚情も、良心も、そんなものなど、本当にどうでもよかった。

 不思議と、いい気分だった。

 わらった。

 思い切り、わらってやろうと思った。

 叩き落としてやろうと。

 誰もかれも、死の絶望へ、ことごとくいざなってやろうと、そう思った。

 不幸を存分に分けてやれと、そんな囁き声さえ聞いたようだった。


 来る日も、来る日も、血に濡れた。

 狂気だったのか。

 嘆きだったのか。

 憤怒だったのか。

 その感情は、筆舌にはつくせない。

 アスラは、行き場のない衝動に任せて剣をとった。

 取らずには、いられなかった。


 恐ろしいことだった。

 剣は、日に日に良くなった。

 限界を目前に感じた技量が、豊饒な余韻さえ残して、さらに円熟したのだ。

 鋭利で醜悪な害意を柔らかに抱擁し、無邪気な戯れの中に潜む、木片のちっぽけなとげほどの恐怖さえ放たない、そんな、夢のような、異常の剣線を描くようになった。

 たどり着いたのかもしれなかった。

 目指していた、強さの、おおよそのいただきに。

 しかし、空虚だった。

 何もない。

 何もないのに、剣の感触だけは研ぎ澄まされて、そのうちに、奇妙な情意じょういに、飲まれそうになった。

 愉快だったことだけは、覚えている。

 長く剣をやっていて、その時こそ格別によろこばしかったのだ。

 ああ、なんて楽しいのだと、アスラは笑った。

 戦場も、家でも、たった一人で笑った。

 そのうち、熱がさめた。

 人ばかり殺していた。

 自分に、愛想がつきた。

 家族に会いたかった。


 戦士の父、力の神パブ=ダは、裁きの神でもある。

 間違った戦士は、地獄へと落とされ、この世のものとは思えない苦しみを、ながきに渡って受ける。

 アスラへの(とが)は、先んじられて執行された。

 病にかかり、ひとり、孤独で死に向かった。

 肺腑は、よく血を吐きたがった。

 血痰が、手に、べっとりとへばりついて、それが、己の生命の破片のごとく感じられ、だんだんと失われていくことに、最初のうちは焦燥の念を感じた。

 身がすくむようでも、あったのだろう。

 死は、誰しもが恐れるのだ。

 ついに無の中に溶けるのかと、そんなことも、思っただろうか。

 だが、まぶたを閉じて、晦冥の闇を覗くと、これが、どうしてか落ち着いた。

 アスラは、気づいて苦笑した。

 思えば、少しからず望んでいたのだ。

 幾度も招聘(しょうへい)してきた死が、今度こそ確実の迎えに来ている、ただそれだけのことである。

 いままでも、形は違えど、さんざんに死を招こうとしてきた。

 それが、なぜ怖いのか。

 以来、そのようなことは感じなくなった。


 とはいえ、衰弱は愉快な程だった。

 筋肉の鎧など、一瞬で奪い去り、太い腕も、厚かった胸も、細く、薄くして、人相は、しゃれこうべの、褐色のもののようになった。

 鏡に映してみてみると、八十や九十の山姥(やまんば)みたいで、面白い。

 晩年になって生やした髭も、真っ白でぼさぼさで、より間抜けに見えた。

 ひとの死相は不気味で陰惨だが、自分のものだと、そうではないらしい。

 死ぬときは、やはり骨に近づくのだと、かすかに垢抜けた気分ですらあった。


 いよいよ、終焉に手が届きそうだった。

 飯が喉を通らなくなった。

 酒も、一切受け付けなくなった。

 剣もろくに振れない。

 霊木は、確かに朽ちてゆく。

 全てが、終わりに向けて収束していた。

 アスラは、自分でも驚くほど達観した心持ちだった。

 未練らしいものが、ほとんどなかったのだ。

 手にしたものは、剣も含めて、全て取り落とした。

 残ったのは、白髪の、青息の、醜い老爺がひとり。

 手元には、アスラとかいう、下らない命ばかりしかないのだから。


 英雄。

 英雄。

 そう、賛辞されていたのを思い出した。

 戦において、数多くの敵を屠ったものは英雄と讃えられる。

 味方への、非常にわかりやすい貢献であるからだ。

 英雄の命は重いのだろうか。

 あるいは尊いのだろうか。

 アスラは、病床で、そんな下らないことばかりを考えた。


 結局、そうではないと思った。

 偶像である。

 英雄などというのは。

 ひとが作り出した、良い面だけを取り繕って組み上げられた、はりぼてだ。

 詭弁きべんの、具現化だ。

 本当にさんするべき存在というのは、極力殺生を行わなかったものだ。

 己が内に渦巻く憤怒と憎悪を抑えきり、夷狄いてきにさえも仁心(じんしん)を持ち、いさかいを無血の内に収められるものだ。

 立ちふさがるものを暴力のままに薙ぎ払い、血潮と怨嗟の坩堝るつぼの中に活路を見出すような蛮人(ばんじん)は、英雄には程遠い。

 如何に廉潔れんけつな倫理観を持ち合わせたとしても、それは殺人者である。

 人殺しと揶揄やゆされることはあっても、勇者だ英雄だなどと(うた)われるべきではない。

 戦士と英雄は相いれない。

 武力は、真の勇者をつくらない。

 アスラ・カルナは、ただの下衆である。

 死にかけの、人殺しである。


 (過去に戻れれば…)


 と、思った。

 ありきたりな、妄想だった。

 ただ、やり直しても何ができるのだと、そうも思った。

 次は上手くやれるなどと、そんな楽観など、できようもない。

 

 唯一の楽しみは、思い出の、遺留品を鑑賞することだっただろうか。

 下らない趣味である。

 腕白な息子と、優しい娘の笑った顔を、諸々手にとっては思い出す。

 妻の目の眩むような笑みを、家屋の天井をのぞいて、想い描く。

 そうして、現実を見る。

 ただ、ただ、冷酷な今がある。

 アスラは、あっはっは、とたまに笑った。

 生前妻が、良く笑ったのだ。

 寂しさが、紛れるような気がした。

 家の周りには、こけむした墓標ばかりが並んでいた。

 

 そして――。


 また、命が繋がった。

 つくづく、妙な星のもとに生まれたと、アスラは空笑そらわらいさえしそうであった。

 到底、叶うはずのない願望だった。

 もう一度生きたいなどと、そう願うものがどれだけいるのか。

 アスラが知る上でも、それこそ、家族、友人らの中の、殆どすべてがそう願っているはずだ。

 なぜ、願望は成就したのか。

 知る由もない。

 検討さえ、みじんも付きはしない。


 死後の世界。

 魂の揺りかご。

 そんな大層なものが、実在するのかどうかは知らない。

 〈輪廻(ルセセーラ)〉とやらが、本当にあるのかも分からない。

 

 ――しかし。


 有り得ないこと。

 考えられないことは、起こりうる。


 もしかすれば。

 もしかすれば。


 輪廻の果てとやらで、また会えるかもしれない。

 天の楽園で過ごした後、魂は再び命の中に宿り循環してゆくという。

 生命いのちの環は永久とこしえに廻ってゆくのだ。

 いつか、どかこかで、再会することがあるかもしれない。

 姿かたちは違えど、何も覚えておらずとも、心の底で、どこかつうじているような、そんな気持ちを抱くかもしれない。

 そんな奇跡が、あればいい。


 (きっと…)


 思えば、激動の人生であったかもしれない。

 ひとに話すのには、話題として十分である。

 ただ、やはり秘めておく。

 忘れない程度に思い出しながら、ひっそりと、記憶の箱にしまっておく。

 六十と余年の足跡。

 すこし、面白い物語。

 


 ♢



 抜けるような蒼穹だった。

 ゆらぐ水面には、大小様々な船が浮かんでいる。

 やや強めの潮風が、蒸し暑い空気を押し流すように吹き付けている。

 海鳥の甲高い鳴き声が、そこら中から聞こえた。

 がたごとと、せわしないような足音も響いている。

 磯の香りは、一層と強く匂っていた。

 

 陽光が眩しく刺さる甲板に、アスラは呆然と立ちすくんでいた。

 包帯の合間から覗く翡翠色の目が、まんまるに開かれている。

 肩には大きな錨が担がれている。

 はたはたと、やや鈍重な様子で湿った服がはためいている。

 水夫らの仕事の手伝いをしている最中に動きを止めたのだった。


 水夫連中はアスラの剛力に驚き呆れ、目を点にしていた。

 精々八十エルデほどの矮躯の持ち主が、そこそこの大きさの交易船に備え付けられた錨を軽々と担いでいるのだ。

 錨は、海底の底質との間に把駐力はちゅうりょくを生んで、船舶を一定の範囲に縫いとめるものである。

 筆舌に尽くしがたいような重量を持つ巨大な鉄塊(てつかい)なのだが、まるで小枝でも肩に乗せるような具合である。

 アスラの変人ぶり――手刀で酒瓶を開ける、遠眼鏡(とおめがね)でも見えないものを裸眼で視認する、鍛錬と称して意味不明な構えのまま硬直する等、挙げればきりがない――に多少慣れた水夫らとはいえ、流石に違和感を禁じ得ないらしかった。


 ドーブが金髪を風に揺らし、酒を舐めながら笑っている。

 錨を持ったまま固まれるのはアスラさん位だ、とほろ酔いで軽口を叩いている。

 その後ろで、セーレンが無言のままドーブの耳を引っ張った。

 職務中に何をやっているんだ、とそういうことであろう。

 デービスが、いやあ長旅だったな、と背伸びを決めている。

 射手トッテが、おつかれさまです、とデービスにいった。

 あっはっはっは、皆こそおつかれだ、とデービスも返して(ねぎら)っている。

 整った顎の髭が良い味を出していた。

 一行は、いつにもまして愉快な調子である。


 「あいや…。

  今日は祭日か何かなのかえ…?」


 と、やや上ずった声でアスラが水夫らにいた。

 驚嘆の色がありありと見える。

 甲板から見下ろす光景に、酷く狼狽したのだ。

 今だ、翡翠の双眸は大きく見開かれている。


 幾人かの水夫が近づいてきた。

 みな、日焼けをした健康的な褐色肌が様になっている。

 アスラも元は褐色であっただけに、奇妙な親近感があったりする。

 色白の肌はどうにも不健康な感があって好ましくない、とアスラは常々思っていた。

 膨らんだ胸や相棒の喪失に比べればそうでもないが、肌色の変化もかなりの違和感がある。

 なにより陽が浴びられなくて不便である。

 

 アスラのどこか腑抜けた問いかけを聞き、


 「いいや。

  これで平常運転さ、アスラの嬢ちゃん。

  その様子だとえらく驚いたみたいだな」


 くっくっく、と大柄な水夫――名をコビンスという――が笑った。

 樽を担ぎ上げている両腕もろうでが、逞しい筋肉によって隆起している。

 男臭い笑みが中々に似合う。

 如何にも海の男といったような強壮な顔立ちである。

 因みに、数日前アスラの不意を打って肩車を食わせた人物である。 

 少しばかり肥えた嫁がいるらしい。

 尻に敷かれ気味であるという。


 アスラは、ちらり、と水夫らに視線を巡らせ、

 

 「あなや……。

  それはまことかえ。

  いやはや、これは…」

 

 と、空いている方の手で顎を弄った。

 大柄な水夫コビンスが、


 「ははは。

  嬢ちゃんは島で育ったんだったな。

  驚くのも無理はないか。

  ここバークは入り江のみなと

  海が陸に切れ込む場所なんだぜ」

 

 と言い、アスラに、にやり、と笑いかけた。

 上手いこと言うじゃねえか、と周りの水夫が茶化している。

 陸に海とはこれ如何に。

 妄言とも取られかねないが…。

 ふむ、と一瞬考え込んだアスラであるが、すぐに、

 

 「なるほどな…。

  確かに上手いたとえだ」


 と、納得した。

 おまえさん、中々粋なことをいうな、とアスラはコビンスに笑い返した。

 コビンスも笑顔である。

 ようはこういうことだ。


 入り江とは、先のとおり海が陸に切れ込む地形だ。

 入海いりうみという別称がある通り、切れ込んだ陸に海水が入ってくる。

 海と陸との境界線が曖昧になる場所である。

 とはいえ、本当の意味で陸に海はできない。

 水は陸にのぼらない。

 上るのは――。


 (人…。

 人の海か…) 


 まさしくその通りであった。


 石畳の敷かれた歴史の(おもむき)を感じさせる湾内は、人、人、人…。

 信じられないほどの人がひしめいている。

 荷物を両腕に抱えた商人あきんどらしきもの。

 剣を携え簡素な鎧を身に纏った武士もののふらしきもの。

 魚の入った籠を天秤棒に吊るして走るわらべ

 日焼けした肌に銛を持った漁夫らしきもの。

 なにやら絢爛な衣装を身に纏った高貴そうなもの。

 身分、年齢、職業、人の多様性のすべてがそこにあった。

 年月の経過を感じる巨大な石柱が幾本もそそり立ち、東西に三千五百から四千歩、南北に二千歩はあるであろう半楕円型の広大な湾である。

 そこに、もろもろの人々が寄り集まり、行き来し、一つの巨大な海となって満ち溢れているのだ。


 満ち、そして引くのは人の波である。

 あちこちから、生命の熱気が立ち上がるようだ。

 何処いずこからか漂ってくるは、文明のかぐわしい匂い。

 大陸の端といったか。

 巨大な、とても巨大な島にみえるのは、その一角でしかないのだ。

 広がっている。

 雄大に、何もかもがひらけている。

 想像など、なんと矮小なものか。

 これが、外界か。

 海の果ての世界か。


 (まさか、ここまでのものとは…)


 アスラは、集落のことを思い出した。

 アスラが過ごした南の集落は、島で一番大きかった。

 物々交換や、鍛冶なども盛んで、賑わいがあった。

 ここと比較すれば、随分ちっぽけな賑わいだが、それでも、そこに人々の暮らしが根付いていた。

 遠い遠い、昔のことだと勝手に(もや)をかけていた。

 すっかりと忘れていた。

 人の営みとは、こうなのだ。

 可能性にあふれているのだ。

 強く輝いているのだ。

 このように、燦然(さんぜん)と光を発しているのだ。


 (たのしみでならんわ)


 実に、期待に胸が膨らんだ。


 ついにたどり着いたのだ。

 新天地である。

 貿易港バークスプエルト。

 何をするのも自由だ。

 良い日である。

 爽やかな、日和である。


 食べ歩きをするか。

 物見をするか。

 珍味もあるだろう。

 銘酒もあるだろう。

 工芸品を見物するのもいい。

 散歩という手もある。


 (ああ、なにをしようかな…)


 潮風が、心地よく身体を洗う。

 晴れやかな空は、まるでアスラの心中を描き出したようである。

 海鳥の群れが風に乗って飛んでゆく。

 アスラは太陽を見つめ、眩しげに目を細めた。

 腰帯が風にそよぎ、そして…。


 「くしゅっ…」


 くしゃみをこいてしまった。


 つんとした感覚である。

 なんだか肌寒い。

 そうである。

 少し前、盛大に水を被って服をしとどに濡らしてしまったのだ。

 髪を一本に纏めているのも、乾かす為だ。

 服が濡れているので、身体が冷えてしまったらしい。

 ここは潮風が涼しいし、島より大分気温が低い。

 過ごしやすいのだが、流石にこの有様では寒い。

 風の冷気が全身をくまなく冷却してくる。


 「嬢ちゃんよ。

  服着替えたらどうだ?

  あと錨も海へ放っちまいなよ」


 コビンスが苦笑いしながらいう。

 ぽんぽん、と頭を撫ぜられた。

 まったくの正論である。

 他の者らも微笑ましげだ。

 アスラは冗談げに、


 「そうするか」


 と答え、笑った。

 はっはっは、と小さな笑いがおきた。

 静かに鳴る潮騒(しおざい)が、それらを優しく包み込んでいた。

 



 5月3日 誤植を修正。

     

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