一章(四) 東の玄関口 下
船の食堂に、ランプの灯が薄ぼんやりと燈っている。
窓からは濃紺の、黒洞々たる色を落とした空が見え、滲むように瞬く星々が散りばめられている。
外は、夜風が強い。
昼、いかに温暖であっても、夜半の海上というのは、存外に冷え込む。
風が強い今宵などは、一層の冷え込みがあった。
今宵夜番に立つ者は、恐らく酒を舐めているだろう。
酒を入れれば、多少なりとも身体が火照る。
じんわりと温くなる。
アスラが良くする防寒対策――単純に酒が好きだということもあるが――である。
橙とも、朱とも取れるような朧げな光に照らされた食堂には、三人分の影法師がゆらめいていた。
アスラとデービス、そしてドーブのものである。
三人とも年頃が違い、老年、壮年、青年と、実に齢のバリエーションに富んだ面子だ。
年長である筈のアスラが、最も幼く見えるという矛盾点については、ご愛嬌である。
三人の手元には酒があり、ちびちびと喉に送りながら静かに談笑している。
酒肴に、ムーボーの干し肉と、なにやら生肉の切り身ようなものがあった。
ゆるり、と時間がながれていた。
「しかし、なんだな。
今回は結構な長旅になったもんだ」
いやあ、疲れた、疲れたと、酒を舐めながら、大きな息を吐くようにドーブ・エットラが零した。
足を組み、椅子の背もたれに大きな背を預け、大層寛いでいる様子だ。
褐色の面に浮かぶ表情は相当に柔和なもので、少年のようにあどけなく、愛嬌があった。
つい先ほど開けられたとみられる酒瓶の中身は、既に半分以上が飲み干されている。
ドーブから見て、机を挟んだ左前の椅子に座っているネルガン・デービスが、
「はっはっは。
気が早いな、ドーブ。
まだ船は港に着いた訳ではないぞ。
最後までしっかりと気を張ってくれねば困るな。
職務の怠慢として手当を減らすことになるかもしれん」
と、整った顎髭を弄りながら茶々を入れた。
芯の強そうな鼻柱に、如何にも噺が得手そうな口もとをしている。
酒が回っているのか、仄かに顔が赤い。
手には、葡萄酒の注がれたビートロの杯が握られており、半分ほど減っている。
デービスの茶々にドーブが、勘弁してくれ、と苦笑交じりにいった。
デービスは、よろしい、といたずら気に笑った。
なんとも、仲が良さそうである。
「そういえば、ドーブよ。
この船はお主の故郷に向かっているという話であったな。
久しぶりに妻子らに会えるのだろう。
どうじゃ、待ち遠しいか」
と、柔らかく微笑みながら、透き通るような高い声でアスラが訊く。
美しく長い射干玉の髪を背に流し、すらり、とした腕を組んで机に乗せている。
抜けるように白く無垢な肌理が、壁に掛けられたランプの明かりでじんわりと色づいており、艶っぽい。
幼さこそ残っているが、匂い立つような容色の秀麗さであり、纏っている空気すらも、心なしか清浄さに溢れている。
対面に腰かけているドーブが、おうとも、と頷き酒をすすった。
アスラも、にやにやと頬を緩めながら献を傾けた。
月が空に輝いてから暫くが経ち、アスラがほたほたと剣に打粉をうっていると、ドーブから誘いがあった。
一献傾けないか、という内容である。
酒好きであるアスラがその誘いを断る訳もなく、二つ返事で了承した。
ドーブに連れられて食堂に赴くと、ネルガン・デービスの姿があった。
他には誘わなかったのか、とアスラが尋ねると、
「酒が強い人を誘ったんだよ」
と、ドーブは、にやにやしながら答えた。
なるほど、とことん飲むつもりらしい。
ドーブは相当な酒豪で知られているらしく、あまり一緒に飲んでくれる人がいないのだとか。
ネルガン・デービスは、比較的早く酔う性質らしいが、そこから先が凄まじいという。
アスラはといえば、島で『笊』として知られ、現にこの船でもワイン一樽を易々と空けるという偉業を果たしのけている。
…因みに、セーレンもかなりいけるクチらしく、誘ったらしいのだが、
「眠いのでまた今度」
と、取り付く島も無く断られてしまったらしい。
食糧には相当の余裕があるということで、三人は各々好きな摘みをこっそりと持ち出し、酒を飲みだしたという訳である。
「大体一月ぶりくらいだよ。
いやあ、娘と嫁さんの顔が本当に待ち遠しいぜ」
と、ドーブが、精悍な顔をだらしなく破顔させた。
誠に持って嬉しそうである。
それにしても、俺の娘は嫁さんに似て可愛いんだよと、ドーブが続けた。
この男、愛妻家かつ子煩悩なのである。
…余談であるが、――家族とは死別してしまってはいるものの――愛妻家かつ子煩悩という点はアスラも同様であり、そんなこともあってか、老年と青年という年齢差があるにもかかわらず、ドーブとアスラは妙に気が合った。
お前さんも大概だな、とアスラは笑みを深くし、自らの皿に盛られた生肉の切り身を頬張った。
ムーボーの肩の肉の刺身である。
口当たりが、ひんやりと冷たい。
それを見て、デービスとドーブが微妙な顔をした。
怪訝とも取れるような表情である。
アスラが生の肉を躊躇いなく口にしたことを驚いているらしい。
「なんだ、生肉を食うのがそんなに不思議かえ?
これは肴としては実に妙なのだぞ」
と、アスラが不思議そうな顔をする。
アスラの好物は肉全般なのだが、特に生肉の刺身は大の好物であった。
血なまぐささは無論あるが、逆にそれが無骨で良い。
酒との相性も格別のものがある。
「うむ、うむ…。
なんといいましょうか、アスラ殿には野性的な面がありますな」
駒合戦でもそうですがと、デービス。
「いや、生肉を食うのはやり過ぎじゃあねえか…。
アスラさん腹壊すぞ」
と、ドーブ。
酒瓶の上に手を置き、グリングリンと机の上で回している。
「まあ、大丈夫ではないか?
妙な味もしておらぬしな。
なにより美味じゃ」
宿りは怖いがなと、にこにこ笑いながら、アスラは聞く耳も持たぬ。
確かに、生の肉を口にするというのは、衛生的な知見等から考えてもあまり宜しくはないのだが、好きなものは好きなもので、仕様がない。
食糧をあさった際、航海も七日を超えているというのに、肉の身は綺麗な紅色で、鮮度も殆ど落ちていないように思われた。
だから刺身にしたのである。
冷凍なる保存方法は素晴らしいものだ、とアスラはこの船に乗ってから常々と思っている。
まあ、文句を付けるとすれば、もう少し生々しい感じが欲しかったということであろうか。
それと、冷たいのもある。
「そういえば、よ」
と、アスラが酒をあおった。
ドーブも、デービスも、アスラの方を向いた。
ぎいぎいと、船が軋む音が三人の耳を叩く。
睫毛の長い翡翠色の瞳が瞬いている。
持ち上げた杯を静かに机に置き、
「ドーブの故郷…。
詰まるところ、この船の目的地はなんというのかえ?」
と、アスラが訊いた。
そういえば、名前を聞いていなかったと思い当ったのである。
日中水夫がなにやらいっていた気もするが、島を観測するのに夢中であったアスラの耳には届いていなかった。
もともと、相当に沈着な性質であると自負しているアスラだが、一度興奮すると完全に冷めるのに時間がかかるのである。
船に乗ってからというもの、比較的はしゃいでいるような様子のアスラだが、これは、滅多にないことなのだ。
かつての友人らが見たら、少なからず驚嘆する程度には稀なことである。
アスラの質問に、
「お、そうだったか」
と、ドーブが愉快そうに述べた。
酒瓶から己の杯に、新たに酒を注いでいる。
とくとくと、あっという間に杯は一杯になった。
良く飲むやつである。
「あっはっは。
なるほど。
そういえば、私の口からも名前は出ませんでしたな」
デービスもほろ酔い加減といった調子で、滑らかに口を開いた。
優しげに微笑んでいる。
デービスは、ごつごつとした男らしい手で干し肉を一つ摘まみ、口に運んだ。
半分ほど噛みちぎり、ゆっくりと咀嚼している。
ドーブも、デービスに続いて干し肉を口に放り込んだ。
「いや、これでもな。
頭の片隅にはあるのだぞ。
いや、なんというたかえ…」
と、アスラは、自らの尖った耳を掻き、にわかに苦笑した。
バルカンべ、バアクント…違うな、と唸っている。
普段にこにことしているアスラだが、睫毛の長い大きな目を細めると、とたんに怜悧そうに見える。
印象が変わるとでもいうべきか。
なぜか、その相が様になっていた。
ドーブが、肉を噛みながらにやにやとその様子を見ている。
「バークさ」
と、肉を嚥下しながらドーブがいった。
朱が差した蒼い目が、アスラを真っ直ぐに見ている。
ふむ、とアスラが顎を弄る。
ランプに燈された灯りが、微かに揺らいだ。
「『東の玄関口』、などとも呼ばれていますな」
と、デービスが、椅子に寄りかかり、目を閉じていう。
燃えるように赤い顎髭を、いかにも慣れたように撫でている。
ああ、とドーブが相槌を打つ。
アスラは、机の上で手を組み、その上に顎を乗せてドーブを見ている。
ドーブは、杯に注がれた酒をぐい、と一気に飲み干し、
「潮風と、貿易の街。
バークスプエルトだよ」
颯爽と笑った。
♢
朝霧がけぶっていた。
天へと聳えるマストも、船の舳先から望める海原も、靄に包まれて、白く、霞がかっている。
濃霧というほどのものではなかったが、船の進路は白く閉ざされている。
船の甲板も、心なしか、いつも以上にしっとりと湿っていた。
霧が出るということは、何処からは知らぬが、温暖な空気が海面の方まで下りてきているということである。
今朝は、暖かかった。
昨晩の、凍えるような冷え込みが嘘のようである。
夜番をしていた頬のこけた若い剣士が、
「寒くて、寒くて、仕様がなかった。
まったく、ハズレの日を引いちまった」
と、いっていたのだから、相当なものだ。
アスラは、船のマストに登っていた。
というのも、そろそろ陸に着くはずであるという話を昨晩聞いたからであった。
昨日の昼に見えた島、――正確には島々であり、セフィドレス島群という名があるという。因みに、セフィドレスとは『散じた籾』という意である――あれが見えると、目的地はすぐそばであるという示準になるらしい。
島が見えてから、およそ、一日から二日で着くという話をドーブがした。
デービスは、
「二日はかかりますまい。
この船は速いですからな。
腕のある呪い師に、ちょっとした術をかけてもらっておるのです。
おそらくですが、明日の朝には港に着けるでしょう」
と、胸を張り、自信ありげにいっていた。
アスラはそれを信じ、今朝も早く起床し――元より、日が昇る前には起きて鍛錬に勤しむのだが――見晴らしの良いマストの上で海を望んでいるというわけである。
尤も、辺りをつつむ霞を見て、
(これでは意味がないな)
と、アスラは苦笑しているが。
これでも結構粘ったのだが、一向に霧が晴れぬ。
既に抜錨は済んでおり、視界が不良の為かなりゆっくりとではあるが、船は進んでいる。
霧が晴れ、姿を現すであろう新天地を、どきどきとしながら待っていたのだが、成果が上がらないのだ。
(まあ、こればかりは仕様がない。
おれが焦った所で、陸が近づくわけでもあるまいし、な)
と、思い、アスラはマストから飛び降りた。
下に、人が無いのは確認済みだ。
両の膝をしっかりとつかい、衝撃を殺した。
見上げるような高さの場所から飛び降りたというのに、音が、全くとしない。
するべき音がしない、というのは、妙な気味の悪さがある。
アスラの、包帯まみれで見窄らしい格好が、気味の悪さを増長させるのに一役買っているのはいうまでもない。
ともすれば、物の怪や、妖の類と間違えられてもおかしくはない。
だが、周りの水夫はといえば、気味悪がるどころか、むしろ、
「よっ、アスラちゃん。
今朝も調子がいいな」
とか、
「いや、大した健脚だ。
俺も若いころは…」
とか、
「兎でも、こりゃあ真似できまいよ」
などと、アスラに声をかけ、親しみがっている。
これは一重に、アスラが常に笑顔を絶やさず、どんな下らぬ話でも楽しげにきいてくれるという、好々爺然とした立ち振る舞いによることが大きい。
無論、良い意味で水際立つ容姿を、変に驕らず、ごく自然体であるということも手伝っている。
飛び降りたアスラが、水夫らとガヤガヤやっていると、その耳に、
「あら、アスラさん。
おはようございます…。
今朝もお早いですね…」
と、寝ぼけ眼をこする長身の女子の声が入って来た。
アスラは、水夫らに埋もれぬよう背伸びをし、そちらを見た。
女子は、ふあ、とどこか上品な欠伸をかいている。
女呪い師、セーレン・へストリングスである。
うーん、という声は上げないが、大きな伸びをした。
目元に涙がある。
誠にもって眠そうだ。
「おはよう。
セーレン、今日も眠そうだな。
早く寝ておるかえ?」
と、アスラが、小柄な体躯を生かし、水夫らの包囲網を突破しつついう。
やがて水夫らの壁を抜け、セーレンの目の前に出た。
アスラは、長身のセーレンを、やや複雑な心もちで見上げた。
身長が、低いのである。
目線の低さに身体は慣れたが、身長の低さには、一向に心が慣れない。
セーレンが、また小さく欠伸をすると、
「はい…。
いつも早く寝るのですが、どうにも朝が弱くて…」
と、凛々しい容姿に反するような、どこかふわふわとした声でいった。
そうなのである。
この女呪い師は、日中非常に怜悧な雰囲気を纏っており、恐らく実際に頭も良いのだが、弱点があるのだ。
朝が、致命的に弱いという点である。
昨日も、ドーブの誘いを断って早く寝たというのに、遅くまで飲んでいたドーブとアスラ、それにデービスの酒豪三人衆に起床時間が負けているのだ。
アスラという早起き過ぎる例外を除いても、やはり、完璧に負けている。
筋金入りの朝の弱さである。
面倒見の良いアスラは、セーレンの為に薬湯などをこさえてやろうか、などと本気で考えていた。
しかし…。
「アスラさん、昨日は相当にお酒を飲まれたようですね」
と、セーレンが打って変わって目元を元のように切れ長にし、アスラに尋ねた。
先ほどまでの、どこか霞がかったような雰囲気が、からり、と抜けている。
霧が、晴れてしまったかのようだ。
「いや、まあ、な…。
酒は美味いから仕方がない」
ははは、と包帯の内で微苦笑を浮かべ、アスラが黒い手袋で顎を撫でた。
言いよどんでいる。
やや、困っているようにもとれる。
真紅の腰帯が、はたはたと揺らいでいる。
セーレンが、ゆっくりと腰を折り、
「僭越だと弁えていますが、お酒の飲み過ぎはいけませんよ。
身体を壊してしまいます」
と、心配そうな顔でこちらを見てくる。
この娘は、酒が強いくせに人の酒の心配を焼くのだ。
はっはっは、おれは酒が強いから大丈夫だ、と笑い飛ばしながらも、内心、
(いや、困ったな…)
と、思っているアスラである。
過ぎたる飲酒の心配は、昔から皆にされてきた。
もともと、アスラは心配されるというのが苦手だ。
心労を掛けさせるのが好きだという酔狂な者もそういないし、あえていうのも何処かおかしく感じるかもしれないが、そうなのである。
これはやや歪んだ観念、あるいは自己評価から来るもので、それは、長きに渡る人生の中でゆっくりと形成された、揺るがぬ地盤のようなものであった。
その根幹にある歪みの起こりは、アスラの少年期まで遡るのだが、今は触れないでおく。
己が心に生じた妙な気分を払いのけるように、
「まあ、よいではないか。
うまい酒、うまい物…。
これを好むのは、人のさがというやつで、どうしようもないのさ」
と、アスラは快活に笑う。
目元以外、ぼろきれのような包帯につつまれてもなお、快活なそれだと分かる笑顔だった。
僅かに、見合った。
セーレンは、毒気をぬかれたように、ふう、と息を吐いた。
アスラの、いかにも剽げた雰囲気に負けたらしい。
そもそもが、にこにこ、へらへら、と大抵笑っているアスラである。
本心で何を考えているか、見当もつかぬのだ。
セーレンが毒気を抜かれるのも仕様がない。
全く、と口を尖らせたセーレンが、
「しかし、過度な飲酒はいけませんよ。
お年を召されているなら、尚更です」
と、アスラに釘をさす。
ついでに、軽く頭を撫ぜた。
水夫らが、アスラの嬢ちゃんは六十五なんだもんな、その通りだ、と面白がっている。
これをいわれては、どうしようもない。
アスラにとり、これは年齢にそぐった扱いであり、実に適当な言なのだ。
返す言葉もない。
アスラは、
「ああ、善処するよ」
と、微苦笑を浮かべるのみであった。
セーレンが満足げに笑った。
続いて、アスラも笑った。
和やかである。
その後も、霧は晴れなかった。
薄くなってはいるようだったが、今だ、黄色がかった帆や甲板へと伸びる縄に、やんわりと纏わりついている。
アスラは、セーレンや水夫らと談笑に興じ、暫しあって、朝餉にありついた。
干した麺麭と、スープが出された。
じっくりと、味わって食べた。
スープは、具の何も入っていない簡素なものだったが、出汁に使っている魚介の味が染みており、口の中に入れると、これが得も言われぬ深みを出した。
麺麭を千切って浸してみると、生地に用いられている穀物の微かな甘みが引き立ち、歯ごたえこそ固いが、嚥下したのちの余韻はやわらかなものだった。
そして、葡萄酒のうまいこと。
厨頭は良い仕事をする、とアスラは再度頷いた。
朝餉を食べ終わり、アスラは再び甲板へと立った。
少し、日が射している。
空を仰げば、薄霧がけぶってこそいたが、靄の親玉のような白雲がたなびき、蒼穹の色が、広々と縦横にひろがっていた。
視線を低く、海へと落とせば、空に負けじとばかりに瑠璃の色が湛えられ、船頭にかきわけられた銀の飛沫が、所々に跳ねとんでいる。
波の音が、染み入るように響き渡っていた。
残る霞は、水面を這うように垂れこめている。
左目を閉じ、右目だけを開けて右舷の辺りをぼうっと見渡すアスラに、
「おう、アスラさん。
飯、美味かったな」
と、腹をさするドーブが、声をかけてきた。
金髪が目に眩しい。
開けたシャツの胸元から、逞しく盛り上がった胸板が覗いている。
上質そうな皮で作られた鞘が腰に佩びられ、重厚そうな鉄の剣をすっぽりと呑みこんでいた。
軽装で、動きやすそうである。
アスラは、ドーブに一瞥をくれると、海の方を指さし、
「あれは、船ではないかえ?」
と、甲高い声で告げた。
声こそ物柔らかいものであったが、右手が、剣の柄に添えられている。
翡翠色の瞳はやんわりと細められ、警戒の色が宿っている。
薄靄の残る滄瀛には、確かに船舶らしい影が浮かんでいた。
ドーブも、手すりから身を乗り出すようにして、海を覗いた。
二人とも、海の方に視線を固定したまま黙り込んでいる。
つられて、何人かの水夫も右舷の海を見た。
「船だな」
と、ドーブが簡潔にいう。
横にいる水夫も、頷いている。
それほど眩しくもないのに、手でひさしを作るのは、癖のようである。
「であろう?
なんの船だろうな…」
片腕を手すりに乗せつつ、静かな口調でアスラがいった。
この船よりも一回りほど小さく、いかにも小回りが利きそうである。
甲板やマストには、人影がある。
数人が、こちらの方を見ているようだ。
件の、船舶の幽鬼ではない。
賊の船か、とアスラの形の良い眉の間に険ができる。
用心深いというよりも、一種の条件反射といったほうがよい。
…が、ここでドーブが、にやり、と嬉しそうに顔を綻ばせ、
「なるほど…。
こりゃあ、いいや」
と、アスラの方を見るのである。
アスラは、きょとん、とドーブの視線を受けた。
まるで警戒していない。
気が逆立つような、そんな気配はなかった。
注意を喚起しようとは思わないのだろうか。
肩透かしを食らったように、アスラはドーブの褐色の面を凝視した。
不思議そうに、長い睫毛を幾度も瞬かせている。
白い歯をちらつかせ、にやにやと笑うドーブに、
「何が良いのだ?」
と、胡乱げにアスラが尋ねたのは、すぐのことであった。
今だ、右手は剣のそばに置かれていた。
「なあに、いまに分かるさ」
と、ドーブは答えもせぬ。
アスラは、ふむ、と左手で顎を弄った。
横目で、ドーブを見ている。
よくよく見れば、水夫らも、日焼けした顔に笑みを浮かべている。
――が、その答えは、ドーブの言う通り、すぐに分かることとなった。
アスラがドーブの笑顔から視線を外し、もう一度右舷に浮かぶ船を見るや、大きな風が、一陣、海原の彼方より吹きすさいだ。
思わず、皆、腕で目を庇った。
猛烈な風を横っ腹に受け、船が大きく揺らぐ。
ざばり、と高い水飛沫が立ち上がり、甲板に驟雨のごとく降り注いだ。
アスラやドーブを始めとする者らは、盛大に水を被った。
辺りを薄く囲っていた白い靄が四散し、遠くに飛ばされてゆく。
燦然とした陽の光が、甲板に刺さる。
視界が、完全に開いた。
辺りを見回したアスラの動きが、止まった。
おうっ、冷てえ、などと水を払うドーブや水夫。
ぐっしょりと濡れてしまっている。
ドーブに至っては、上着を脱ぎ、太い腕で絞っている。
だが、アスラは、しとどに濡れた己の服を、微塵も気に留めなかった。
水滴がひたひたと落ちる中、手すりから身を乗り出し、真っ直ぐに船の進路の先を見つめていた。
双眸を見開き、そこに映える景色に、ただ、ただ、目を奪われていた。
「ようやくだぜ」
と、ドーブが絞ったシャツを肩に掛けながら、褐色の筋肉を太陽に晒す。
水夫らも、日焼けした顔に、感慨深い表情を浮かべる。
マストに登っていた観測主が、何やら叫ぶ。
船内から、幾人もの船員が甲板へと出て来た。
ネルガン・デービスが、眩しそうにそれを見る。
セーレンや、イマイも出て来た。
射手トッテもである。
遥かに続くと思われた海原が、ふつり、と途絶えていた。
巍然とした重厚さで腰を下ろす、大きな、大きな、陸塊があった。
陸塊は段々に切り取られ、色とりどりの家屋が、咲き乱れる花々のごとく、しかし、整然と並び建っている。
所々に煙突の刺さった建造物があり、もうもうと白煙が立ちのぼっていた。
海に突き出るように伸びた陸地に、白塗りの塔が聳えている。
陽光を受けて煌めく、窪んだ入り江の海面には、大小様々な船が数えきれぬほど浮かんでいる。
海の蒼さが、際立っていた。
「東大陸の南端に位置する貿易港。
潮風に乗って、いろんなもんが集まってくる。
人も、酒も、食い物も、珍しい物もな。
ゆえに、『東の玄関口』。
港町バークスプエルト。
俺の生まれ故郷さ」
若い剣士の金髪が、海風にそよいでいた。