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守り人は眠らない  作者: ボノボの親戚
第一章 最初の街
15/18

一章(四) 東の玄関口 下

 



 船の食堂に、ランプの(あかり)が薄ぼんやりと燈っている。

 窓からは濃紺の、黒洞々(こくとうとう)たる色を落とした空が見え、(にじ)むように瞬く星々が散りばめられている。

 外は、夜風が強い。

 昼、いかに温暖であっても、夜半の海上というのは、存外に冷え込む。

 風が強い今宵などは、一層の冷え込みがあった。

 今宵夜番に立つ者は、恐らく酒を舐めているだろう。

 酒を入れれば、多少なりとも身体が火照(ほて)る。

 じんわりと(ぬく)くなる。

 アスラが良くする防寒対策――単純に酒が好きだということもあるが――である。


 (だいだい)とも、(しゅ)とも取れるような(おぼろ)げな光に照らされた食堂には、三人分の影法師がゆらめいていた。

 アスラとデービス、そしてドーブのものである。

 三人とも年頃が違い、老年、壮年、青年と、実に(よわい)のバリエーションに富んだ面子(めんつ)だ。

 年長である筈のアスラが、最も幼く見えるという矛盾点については、ご愛嬌である。

 三人の手元には酒があり、ちびちびと喉に送りながら静かに談笑している。

 酒肴(しゅこう)に、ムーボーの干し肉と、なにやら生肉の切り身ようなものがあった。

 ゆるり、と時間がながれていた。


 「しかし、なんだな。

  今回は結構な長旅になったもんだ」


 いやあ、疲れた、疲れたと、酒を舐めながら、大きな息を吐くようにドーブ・エットラが零した。

 足を組み、椅子の背もたれに大きな背を預け、大層(くつろ)いでいる様子だ。

 褐色の(おもて)に浮かぶ表情は相当に柔和なもので、少年のようにあどけなく、愛嬌があった。

 つい先ほど開けられたとみられる酒瓶の中身は、既に半分以上が飲み干されている。 

 ドーブから見て、机を挟んだ左前の椅子に座っているネルガン・デービスが、


 「はっはっは。

  気が早いな、ドーブ。

  まだ船は港に着いた訳ではないぞ。

  最後までしっかりと気を張ってくれねば困るな。

  職務の怠慢として手当を減らすことになるかもしれん」


 と、整った顎髭を弄りながら茶々(ちゃちゃ)を入れた。

 芯の強そうな鼻柱に、如何にも(はなし)得手(えて)そうな口もとをしている。

 酒が回っているのか、(ほの)かに顔が赤い。

 手には、葡萄酒の注がれたビートロの(さかずき)が握られており、半分ほど減っている。

 デービスの茶々にドーブが、勘弁してくれ、と苦笑交じりにいった。

 デービスは、よろしい、といたずら気に笑った。

 なんとも、仲が良さそうである。 


 「そういえば、ドーブよ。

  この船はお主の故郷に向かっているという話であったな。

  久しぶりに妻子らに会えるのだろう。

  どうじゃ、待ち遠しいか」


 と、柔らかく微笑みながら、透き通るような高い声でアスラが()く。

 美しく長い射干玉(ぬばたま)の髪を背に流し、すらり、とした腕を組んで机に乗せている。

 抜けるように白く無垢な肌理(きめ)が、壁に掛けられたランプの明かりでじんわりと色づいており、艶っぽい。

 幼さこそ残っているが、匂い立つような容色(ようしょく)秀麗(しゅうれい)さであり、纏っている空気すらも、心なしか清浄さに溢れている。

 対面に腰かけているドーブが、おうとも、と頷き酒をすすった。

 アスラも、にやにやと頬を緩めながら献を傾けた。


 月が空に輝いてから(しばら)くが経ち、アスラがほたほたと剣に打粉(うちこ)をうっていると、ドーブから誘いがあった。

 一献(いっこん)傾けないか、という内容である。

 酒好きであるアスラがその誘いを断る訳もなく、二つ返事で了承した。

 ドーブに連れられて食堂に(おもむ)くと、ネルガン・デービスの姿があった。

 他には誘わなかったのか、とアスラが尋ねると、


 「酒が強い人を誘ったんだよ」


 と、ドーブは、にやにやしながら答えた。

 なるほど、とことん飲むつもりらしい。

 ドーブは相当な酒豪で知られているらしく、あまり一緒に飲んでくれる人がいないのだとか。

 ネルガン・デービスは、比較的早く酔う性質(たち)らしいが、そこから先が凄まじいという。

 アスラはといえば、島で『(ざる)』として知られ、現にこの船でもワイン一樽を易々(やすやす)と空けるという偉業を果たしのけている。

 …(ちな)みに、セーレンもかなりいけるクチらしく、誘ったらしいのだが、


 「眠いのでまた今度」


 と、取り付く島も無く断られてしまったらしい。

 食糧には相当の余裕があるということで、三人は各々好きな(つま)みをこっそりと持ち出し、酒を飲みだしたという訳である。


 「大体一月(ひとつき)ぶりくらいだよ。

  いやあ、娘と嫁さんの顔が本当に待ち遠しいぜ」


 と、ドーブが、精悍な顔をだらしなく破顔させた。

 誠に持って嬉しそうである。

 それにしても、俺の娘は嫁さんに似て可愛いんだよと、ドーブが続けた。

 この男、愛妻家かつ子煩悩なのである。

 …余談であるが、――家族とは死別してしまってはいるものの――愛妻家かつ子煩悩という点はアスラも同様であり、そんなこともあってか、老年と青年という年齢差があるにもかかわらず、ドーブとアスラは妙に気が合った。


 お前さんも大概だな、とアスラは笑みを深くし、自らの皿に盛られた生肉の切り身を頬張った。

 ムーボーの肩の肉の刺身である。

 口当たりが、ひんやりと冷たい。

 それを見て、デービスとドーブが微妙な顔をした。

 怪訝(けげん)とも取れるような表情である。

 アスラが生の肉を躊躇(ためら)いなく口にしたことを驚いているらしい。

  

 「なんだ、生肉(せいにく)を食うのがそんなに不思議かえ?

  これは(さかな)としては実に(たえ)なのだぞ」


 と、アスラが不思議そうな顔をする。

 アスラの好物は肉全般なのだが、特に生肉の刺身は大の好物であった。

 血なまぐささは無論あるが、逆にそれが無骨(ぶこつ)で良い。

 酒との相性も格別のものがある。


 「うむ、うむ…。

  なんといいましょうか、アスラ殿には野性的な面がありますな」


 駒合戦(パル・バルム)でもそうですがと、デービス。


 「いや、生肉を食うのはやり過ぎじゃあねえか…。

  アスラさん(はら)壊すぞ」


 と、ドーブ。

 酒瓶の上に手を置き、グリングリンと机の上で回している。


 「まあ、大丈夫ではないか?

  妙な味もしておらぬしな。

  なにより美味じゃ」


 宿(やどり)りは怖いがなと、にこにこ笑いながら、アスラは聞く耳も持たぬ。

 確かに、生の肉を口にするというのは、衛生的な知見(ちけん)等から考えてもあまり宜しくはないのだが、好きなものは好きなもので、仕様がない。

 食糧をあさった際、航海も七日を超えているというのに、肉の身は綺麗な紅色(べにいろ)で、鮮度も殆ど落ちていないように思われた。

 だから刺身にしたのである。

 冷凍(れいとう)なる保存方法は素晴らしいものだ、とアスラはこの船に乗ってから常々と思っている。

 まあ、文句を付けるとすれば、もう少し生々しい感じが欲しかったということであろうか。

 それと、冷たいのもある。

 

 「そういえば、よ」


 と、アスラが酒をあおった。

 ドーブも、デービスも、アスラの方を向いた。

 ぎいぎいと、船が軋む音が三人の耳を叩く。

 睫毛(まつげ)の長い翡翠色の瞳が(まばた)いている。

 持ち上げた杯を静かに机に置き、

 

 「ドーブの故郷…。

  詰まるところ、この船の目的地はなんというのかえ?」


 と、アスラが()いた。

 そういえば、名前を聞いていなかったと思い当ったのである。

 日中水夫がなにやらいっていた気もするが、島を観測するのに夢中であったアスラの耳には届いていなかった。

 もともと、相当に沈着な性質(たち)であると自負しているアスラだが、一度興奮すると完全に冷めるのに時間がかかるのである。

 船に乗ってからというもの、比較的はしゃいでいるような様子のアスラだが、これは、滅多にないことなのだ。

 かつての友人らが見たら、少なからず驚嘆する程度には(まれ)なことである。


 アスラの質問に、


 「お、そうだったか」


 と、ドーブが愉快そうに述べた。

 酒瓶から己の杯に、新たに酒を注いでいる。

 とくとくと、あっという間に(さかずき)は一杯になった。

 良く飲むやつである。


 「あっはっは。

  なるほど。

  そういえば、私の口からも名前は出ませんでしたな」


 デービスもほろ酔い加減といった調子で、滑らかに口を開いた。

 優しげに微笑んでいる。

 デービスは、ごつごつとした男らしい手で干し肉を一つ摘まみ、口に運んだ。

 半分ほど噛みちぎり、ゆっくりと咀嚼している。

 ドーブも、デービスに続いて干し肉を口に放り込んだ。


 「いや、これでもな。

  頭の片隅にはあるのだぞ。

  いや、なんというたかえ…」


 と、アスラは、自らの(とが)った耳を掻き、にわかに苦笑した。

 バルカンべ、バアクント…違うな、と唸っている。

 普段にこにことしているアスラだが、睫毛の長い大きな目を細めると、とたんに怜悧(れいり)そうに見える。

 印象が変わるとでもいうべきか。

 なぜか、その(そう)が様になっていた。

 ドーブが、肉を噛みながらにやにやとその様子を見ている。


 「バークさ」


 と、肉を嚥下しながらドーブがいった。

 朱が差した蒼い目が、アスラを真っ直ぐに見ている。

 ふむ、とアスラが顎を(なぶ)る。 

 ランプに燈された灯りが、(かす)かに揺らいだ。


 「『東の玄関口(イーサ・ラ・エンテログ)』、などとも呼ばれていますな」


 と、デービスが、椅子に寄りかかり、目を閉じていう。

 燃えるように赤い顎髭を、いかにも慣れたように撫でている。 

 ああ、とドーブが相槌を打つ。

 アスラは、机の上で手を組み、その上に顎を乗せてドーブを見ている。

 ドーブは、杯に注がれた酒をぐい、と一気に飲み干し、


 「潮風と、貿易の(まち)

  バークスプエルトだよ」


 颯爽(さっそう)と笑った。

 

 

 ♢



 朝霧がけぶっていた。

 天へと(そび)えるマストも、船の舳先から望める海原も、(もや)(くる)まれて、白く、(かすみ)がかっている。

 濃霧というほどのものではなかったが、船の進路は白く閉ざされている。

 船の甲板も、心なしか、いつも以上にしっとりと湿っていた。

 霧が出るということは、何処(いずこ)からは知らぬが、温暖な空気が海面(うみづら)の方まで下りてきているということである。

 今朝は、暖かかった。

 昨晩の、凍えるような冷え込みが嘘のようである。

 夜番をしていた頬のこけた若い剣士が、


 「寒くて、寒くて、仕様がなかった。

  まったく、ハズレの日を引いちまった」


 と、いっていたのだから、相当なものだ。

 

 アスラは、船のマストに登っていた。

 というのも、そろそろ陸に着くはずであるという話を昨晩聞いたからであった。

 昨日の昼に見えた島、――正確には島々であり、セフィドレス島群という名があるという。(ちな)みに、セフィドレスとは『散じた(もみ)』という意である――あれが見えると、目的地はすぐそばであるという示準(しじゅん)になるらしい。

 島が見えてから、およそ、一日から二日で着くという話をドーブがした。

 デービスは、


 「二日はかかりますまい。

  この船は速いですからな。

  腕のある(まじな)い師に、ちょっとした術をかけてもらっておるのです。

  おそらくですが、明日の朝には港に着けるでしょう」

 

 と、胸を張り、自信ありげにいっていた。

 アスラはそれを信じ、今朝も早く起床し――元より、日が昇る前には起きて鍛錬に勤しむのだが――見晴らしの良いマストの上で海を望んでいるというわけである。

 (もっと)も、辺りをつつむ霞を見て、


 (これでは意味がないな)


 と、アスラは苦笑しているが。

 これでも結構粘ったのだが、一向に霧が晴れぬ。

 既に抜錨(ばつびょう)は済んでおり、視界が不良の為かなりゆっくりとではあるが、船は進んでいる。

 霧が晴れ、姿を現すであろう新天地を、どきどきとしながら待っていたのだが、成果が上がらないのだ。


 (まあ、こればかりは仕様がない。

 おれが焦った所で、陸が近づくわけでもあるまいし、な)


 と、思い、アスラはマストから飛び降りた。

 下に、人が無いのは確認済みだ。

 両の膝をしっかりとつかい、衝撃を殺した。

 見上げるような高さの場所から飛び降りたというのに、音が、全くとしない。

 するべき音がしない、というのは、妙な気味の悪さがある。

 アスラの、包帯まみれで見窄(みすぼ)らしい格好が、気味の悪さを増長させるのに一役買っているのはいうまでもない。

 ともすれば、物の怪や、(あやかし)の類と間違えられてもおかしくはない。

 だが、周りの水夫はといえば、気味悪がるどころか、むしろ、


 「よっ、アスラちゃん。

  今朝も調子がいいな」


 とか、


 「いや、大した健脚だ。

  俺も若いころは…」


 とか、


 「兎でも、こりゃあ真似できまいよ」


 などと、アスラに声をかけ、親しみがっている。

 これは一重に、アスラが常に笑顔を絶やさず、どんな下らぬ話でも楽しげにきいてくれるという、好々爺然とした立ち振る舞いによることが大きい。

 無論、良い意味で水際立つ容姿を、変に(おご)らず、ごく自然体であるということも手伝っている。


 飛び降りたアスラが、水夫らとガヤガヤやっていると、その耳に、


 「あら、アスラさん。

  おはようございます…。

  今朝もお早いですね…」


 と、寝ぼけ眼をこする長身の女子(おなご)の声が入って来た。

 アスラは、水夫らに埋もれぬよう背伸びをし、そちらを見た。

 女子は、ふあ、とどこか上品な欠伸(あくび)をかいている。

 女(まじな)い師、セーレン・へストリングスである。

 うーん、という声は上げないが、大きな伸びをした。

 目元に涙がある。

 誠にもって眠そうだ。


 「おはよう。

  セーレン、今日も眠そうだな。

  早く寝ておるかえ?」


 と、アスラが、小柄な体躯を生かし、水夫らの包囲網を突破しつついう。

 やがて水夫らの壁を抜け、セーレンの目の前に出た。

 アスラは、長身のセーレンを、やや複雑な心もちで見上げた。

 身長が、低いのである。

 目線の低さに身体は慣れたが、身長の低さには、一向に心が慣れない。

 セーレンが、また小さく欠伸(あくび)をすると、


 「はい…。

  いつも早く寝るのですが、どうにも朝が弱くて…」


 と、凛々しい容姿に反するような、どこかふわふわとした声でいった。

 そうなのである。

 この女呪い師は、日中非常に怜悧な雰囲気を纏っており、恐らく実際に頭も良いのだが、弱点があるのだ。

 朝が、致命的に弱いという点である。

 昨日も、ドーブの誘いを断って早く寝たというのに、遅くまで飲んでいたドーブとアスラ、それにデービスの酒豪三人衆に起床時間が負けているのだ。

 アスラという早起き過ぎる例外を除いても、やはり、完璧に負けている。

 筋金入りの朝の弱さである。

 面倒見の良いアスラは、セーレンの為に薬湯(やくとう)などをこさえてやろうか、などと本気で考えていた。


 しかし…。


 「アスラさん、昨日は相当にお酒を飲まれたようですね」


 と、セーレンが打って変わって目元を元のように切れ長にし、アスラに尋ねた。

 先ほどまでの、どこか霞がかったような雰囲気が、からり、と抜けている。

 霧が、晴れてしまったかのようだ。

 

 「いや、まあ、な…。

  酒は美味いから仕方がない」


 ははは、と包帯の内で微苦笑(びくしょう)を浮かべ、アスラが黒い手袋で顎を撫でた。

 言いよどんでいる。

 やや、困っているようにもとれる。

 真紅の腰帯が、はたはたと揺らいでいる。

 セーレンが、ゆっくりと腰を折り、


 「僭越(せんえつ)だと弁えていますが、お酒の飲み過ぎはいけませんよ。

  身体を壊してしまいます」


 と、心配そうな顔でこちらを見てくる。

 この娘は、酒が強いくせに人の酒の心配を焼くのだ。

 はっはっは、おれは酒が強いから大丈夫だ、と笑い飛ばしながらも、内心、


 (いや、困ったな…)


 と、思っているアスラである。

 過ぎたる飲酒の心配は、昔から皆にされてきた。

 もともと、アスラは心配されるというのが苦手(にがて)だ。

 心労を掛けさせるのが好きだという酔狂な者もそういないし、あえていうのも何処(どこ)かおかしく感じるかもしれないが、そうなのである。

 これはやや(ゆが)んだ観念、あるいは自己評価から来るもので、それは、長きに渡る人生の中でゆっくりと形成された、揺るがぬ地盤のようなものであった。

 その根幹にある(ひず)みの起こりは、アスラの少年期まで(さかのぼ)るのだが、今は触れないでおく。


 己が心に生じた妙な気分を払いのけるように、


 「まあ、よいではないか。

  うまい酒、うまい物…。

  これを好むのは、人のさが(・・)というやつで、どうしようもないのさ」


 と、アスラは快活に笑う。

 目元以外、ぼろきれのような包帯につつまれてもなお、快活なそれだと分かる笑顔だった。

 僅かに、見合った。

 セーレンは、毒気をぬかれたように、ふう、と息を吐いた。

 アスラの、いかにも(ひょう)げた雰囲気に負けたらしい。

 そもそもが、にこにこ、へらへら、と大抵笑っているアスラである。

 本心で何を考えているか、見当もつかぬのだ。

 セーレンが毒気を抜かれるのも仕様がない。


 全く、と口を尖らせたセーレンが、 


 「しかし、過度な飲酒はいけませんよ。

  お年を召されているなら、尚更です」


 と、アスラに釘をさす。

 ついでに、軽く頭を撫ぜた。

 水夫らが、アスラの嬢ちゃんは六十五なんだもんな、その通りだ、と面白がっている。

 これをいわれては、どうしようもない。

 アスラにとり、これは年齢にそぐった扱いであり、実に適当な(げん)なのだ。

 返す言葉もない。


 アスラは、


 「ああ、善処するよ」


 と、微苦笑を浮かべるのみであった。

 セーレンが満足げに笑った。

 続いて、アスラも笑った。

 (なご)やかである。


 その後も、霧は晴れなかった。

 薄くなってはいるようだったが、今だ、黄色がかった帆や甲板へと伸びる縄に、やんわりと(まと)わりついている。

 アスラは、セーレンや水夫らと談笑に興じ、暫しあって、朝餉(あさげ)にありついた。

 干した麺麭(ぱん)と、スープが出された。

 じっくりと、味わって食べた。

 スープは、具の何も入っていない簡素なものだったが、出汁に使っている魚介の味が染みており、口の中に入れると、これが得も言われぬ深みを出した。

 麺麭を千切って浸してみると、生地に用いられている穀物の微かな甘みが引き立ち、歯ごたえこそ固いが、嚥下したのちの余韻はやわらかなものだった。

 そして、葡萄酒(ワイン)のうまいこと。

 厨頭(くりやがしら)は良い仕事をする、とアスラは再度頷いた。


 朝餉を食べ終わり、アスラは再び甲板へと立った。

 少し、()が射している。

 空を仰げば、薄霧がけぶってこそいたが、(もや)の親玉のような白雲がたなびき、蒼穹の色が、広々と縦横にひろがっていた。

 視線を低く、海へと落とせば、空に負けじとばかりに瑠璃(るり)の色が(たた)えられ、船頭(せんとう)にかきわけられた銀の飛沫が、所々に跳ねとんでいる。

 波の音が、染み入るように響き渡っていた。

 残る(かすみ)は、水面(みなも)を這うように垂れこめている。


 左目を閉じ、右目だけを開けて右舷の辺りをぼうっと見渡すアスラに、


 「おう、アスラさん。

  飯、美味かったな」


 と、腹をさするドーブが、声をかけてきた。

 金髪が目に眩しい。

 開けたシャツの胸元から、逞しく盛り上がった胸板が覗いている。

 上質そうな皮で作られた鞘が腰に佩びられ、重厚そうな鉄の剣をすっぽりと呑みこんでいた。

 軽装で、動きやすそうである。

 アスラは、ドーブに一瞥(いちべつ)をくれると、海の方を指さし、


 「あれは、船ではないかえ?」


 と、甲高い声で告げた。

 声こそ物柔らかいものであったが、右手が、剣の柄に添えられている。

 翡翠色の瞳はやんわりと細められ、警戒の色が宿っている。

 薄靄(うすもや)の残る滄瀛(そうえい)には、確かに船舶らしい影が浮かんでいた。

 ドーブも、手すりから身を乗り出すようにして、海を覗いた。

 二人とも、海の方に視線を固定したまま黙り込んでいる。

 つられて、何人かの水夫も右舷の海を見た。


 「船だな」


 と、ドーブが簡潔にいう。

 横にいる水夫も、頷いている。

 それほど眩しくもないのに、手でひさしを作るのは、癖のようである。

 

 「であろう?

  なんの船だろうな…」

 

 片腕を手すりに乗せつつ、静かな口調でアスラがいった。

 この船よりも一回りほど小さく、いかにも小回りが利きそうである。

 甲板やマストには、人影がある。

 数人が、こちらの方を見ているようだ。

 (くだん)の、船舶の幽鬼ではない。

 賊の船か、とアスラの形の良い眉の間に険ができる。

 用心深いというよりも、一種の条件反射といったほうがよい。


 …が、ここでドーブが、にやり、と嬉しそうに顔を綻ばせ、


 「なるほど…。

  こりゃあ、いいや」


 と、アスラの方を見るのである。

 アスラは、きょとん、とドーブの視線を受けた。

 まるで警戒していない。

 ()が逆立つような、そんな気配はなかった。

 注意を喚起しようとは思わないのだろうか。

 肩透かしを食らったように、アスラはドーブの褐色の面を凝視(ぎょうし)した。

 不思議そうに、長い睫毛を幾度も(まばた)かせている。


 白い歯をちらつかせ、にやにやと笑うドーブに、


 「何が良いのだ?」


 と、胡乱(うろん)げにアスラが尋ねたのは、すぐのことであった。

 今だ、右手は剣のそばに置かれていた。

 

 「なあに、いまに分かるさ」


 と、ドーブは答えもせぬ。

 アスラは、ふむ、と左手で顎を(なぶ)った。

 横目で、ドーブを見ている。

 よくよく見れば、水夫らも、日焼けした顔に笑みを浮かべている。


 ――が、その答えは、ドーブの言う通り、すぐに分かることとなった。


 アスラがドーブの笑顔から視線を外し、もう一度右舷に浮かぶ船を見るや、大きな風が、一陣、海原の彼方(かなた)より吹きすさいだ。

 思わず、皆、腕で目を庇った。

 猛烈な風を横っ腹に受け、船が大きく揺らぐ。

 ざばり、と高い水飛沫(みずしぶき)が立ち上がり、甲板に驟雨(しゅうう)のごとく降り注いだ。

 アスラやドーブを始めとする者らは、盛大に水を被った。

 辺りを薄く囲っていた白い(もや)が四散し、遠くに飛ばされてゆく。

 燦然とした()の光が、甲板に刺さる。

 視界が、完全に開いた。

 辺りを見回したアスラの動きが、止まった。

 

 おうっ、冷てえ、などと水を払うドーブや水夫。

 ぐっしょりと濡れてしまっている。

 ドーブに至っては、上着を脱ぎ、太い腕で絞っている。

 だが、アスラは、しとどに濡れた己の服を、微塵も気に留めなかった。

 水滴がひたひたと落ちる中、手すりから身を乗り出し、真っ直ぐに船の進路の先を見つめていた。

 双眸(そうぼう)を見開き、そこに()える景色に、ただ、ただ、目を奪われていた。


 「ようやくだぜ」


 と、ドーブが絞ったシャツを肩に掛けながら、褐色の筋肉を太陽に晒す。

 水夫らも、日焼けした顔に、感慨深い表情を浮かべる。

 マストに登っていた観測主が、何やら叫ぶ。

 船内から、幾人もの船員が甲板へと出て来た。

 ネルガン・デービスが、眩しそうにそれを見る。

 セーレンや、イマイも出て来た。

 射手トッテもである。


 遥かに続くと思われた海原が、ふつり、と途絶えていた。

 巍然(ぎぜん)とした重厚さで腰を下ろす、大きな、大きな、陸塊(りくかい)があった。

 陸塊は段々に切り取られ、色とりどりの家屋が、咲き乱れる花々のごとく、しかし、整然と並び建っている。

 所々に煙突の刺さった建造物があり、もうもうと白煙が立ちのぼっていた。

 海に突き出るように伸びた陸地に、白塗りの塔が(そび)えている。

 陽光を受けて(きら)めく、窪んだ入り江の海面(うみづら)には、大小様々な船が数えきれぬほど浮かんでいる。

 海の(あお)さが、際立っていた。


 「東大陸の南端に位置する貿易港。

  潮風に乗って、いろんなもんが集まってくる。

  人も、酒も、食い(もん)も、珍しい(もん)もな。

  ゆえに、『東の玄関口』。

  港町バークスプエルト。

  俺の生まれ故郷さ」


 若い剣士の金髪が、海風にそよいでいた。  

 

 

 

 


 

 





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