一章(三) 東の玄関口 上
怪鳥足鳥は、大きな鳥である。
体長一オール半(エオルデ)ということは、成人男性の平均よりもかなり高い。
鳥ということもあり羽はあるのだが、空を飛ぶことはできない。
飛翔能力が欠如しているのだ。
鳥類には竜骨突起といわれる特有の骨格がある。
発達した胸筋を支えるために必要な骨である。
…が、足鳥にはこれがない。
長きにわたる陸上生活で、竜骨突起が退化してしまったのではないかと考察されている。
空を飛ぶ能力を失っした彼らであるが、その代わりに大地を駆る強靭な脚力を得た…というのが、〈知の者〉らの一般的な見解だ。
アスラとしても、この考えには概ね同意している。
何かを得るために、何かを失った。
生命とは、誠にもって神秘に満ちているといえよう。
その足鳥であるが、島ではしばしば食卓に上がっていた。
食用にされるのは主にモモの部位である。
少々すじ張っているのが難点であるが、クセが殆どなく、どんな料理にも合わせられる。
肉質は淡白で脂肪分が少ないが、鉄分が豊富に含有されており滋養強壮に良い。
やや偏執的な部類にはなるが、大きな羽の手羽先も珍味で、酒によく合う。
また、生肉を刺身にして頂くのも実に妙である。
不気味な見た目とは裏腹に、食材としては中々優秀なのだ。
アスラは、目の前に置かれたスープをつくづくと見た。
深さのある木の椀から、ほかほかと湯気が上がっている。
具材を浮かべる汁の色は見事な金色で、澄んだ液面からは香ばしい出汁の薫が立ちのぼってくる。
すう、とその香りに体を浸らせると、じわじわ涎が染み出しき、臓腑がぐねぐね蠢いた。
椀の端に、薄切りにされた肉が添えられていて、半分ほど汁に浸かっている。
添えられた肉の油の層から、じんわりとした脂質の旨みが溶けでてい、きらきらと宝石のように煌めいている。
散りばめられた一口大の菜も彩鮮やかであり、食欲を誘う。
アスラは、ごく、と喉鼓を鳴らし、
(ふうむ…。
厨頭め、やりおるわ)
と、心中で唸った。
アスラがいるのは船の食堂である。
窓辺の席に一人で腰かけており、相も変らず包帯まみれだ。
見事に怪しいのだが、アスラ当人は「日が避けられればなんでもよいではないか」と、柳に風である。
今は丁度朝餉の時間であり、人が多い。
がやがやとした喧騒が辺りを満たしており、窓から射す朝日と相まって暖かな空間を創り出している。
海の臨めるこの席で、喧騒に耳を傾けながら、ゆったりと飯を食うのがアスラの日課となっている。
…さて、アスラの眼前に置かれているスープであるが、いうまでもなく今日の朝餉である。
足鳥の鳥がらを出汁に使った一品で、この船の厨頭――名をヅヒという――による、渾身の作でもある。
先日、厨頭とアスラは、スープの出汁についての話題で諤々と談義をした。
その際に足鳥の鳥がらの話題が出た。
厨頭ヅヒは、足鳥の出汁について大層興味を持ったらしく、足鳥のクセや、注意すべき調理法などをしつこく訊いてきた。
なんでも、この航海中に是非作ってみたい、とのことであった。
その後、厨頭がこつこつと準備をしているのは知っていたが、なるほどこれは見事である。
アスラは、うむ、と一つ頷くと、手を膝の上に置き、目を瞑った。
食前の黙想である。
暫しの間食材となった足鳥や、食材に感謝をする。
黙想が終わると、いざ、といった心持で木の匙を握った。
ぽちゃり、と匙をスープにつけた。
金色の汁を掬い取り、ふーっと息を掛けて口に運んだ。
(これは…)
刹那、アスラの口内に広がったのは、豊かなコクである。
あっさりとしているが芳醇な深みがあり、それでいてしつこくない。
様々な食材の旨みが溶け出でいる。
香味として用いられているであろう、アドンのぴりぴりとした程よい辛さも素晴らしい。
なによりも、臭みを微塵も感じさせない点は、料理人としての腕の高さが覗える。
(うむ。
出汁の取り方は素晴らしいものだ)
と、アスラは感嘆した。
鳥に限らず、獣から出汁を取った場合、特有の生臭さが残りがちになる。
下ごしらえを怠った為だ。
足鳥の場合、丹念に内臓を取り除き、清涼な水で綺麗に洗い流すことが必須といえる。
このスープは、それがしっかりと行われている。
香草などで取り繕うこともできるだろうが、その場合どうしても粗が出てしまう。
味に鮮烈さが無くなってしまうのだ。
さすがはその道四十年という厨頭である。
ぬかりはない、ということであろう。
今度は具を味わうことにした。
たっぷりと匙で掬い、口に入れた。
スープがしっかりと絡んだ菜は、シャクシャクとした心地よい歯ごたえがある。
噛むほどに甘味がましてゆき、スープの塩辛さと共にじんわりと染みる。
十分に咀嚼して呑みこめば、後味は驚くほどにすっきりとしている。
このあっさりとした余韻。
アスラは、やりおる、やりおる、と二、三度頷いた。
舌の上に残る清々しさは、土蒜である。
少々臭いがきついハリャパジヤであるが、根に近い茎の部分を刻んで料理に入れれば、薬味として化ける。
塩気のある料理に、あるいは脂っこい料理に、涼やかな風を送ってくれるのだ。
具とスープを十分に楽しむと、最後に添えられている肉をつまんだ。
ムーボーの肉を塩漬けにした後、甘辛く味付けしたタレに漬けこんだものだ。
一切れを口の中に押し込み、存分に噛みしめる。
じわり、と肉汁が染み出してくる。
甘辛いタレと、スープの出汁が絡んだ油が、えもいわれぬ風味を伴って広がってゆく。
だ液と混じりあい、スープと混じりあい、口の中で蕩けた。
今度は菜を掬った匙の上に肉を乗せ、ふうふうと冷まし、いっぺんに頬張った。
あふれ出る、肉の旨み、菜の旨み、出汁の旨み。
噛む、噛む、噛む。
じゅわりとした肉汁に菜の甘さが乗り、スープの深い味わいも加わる。
ここで残りのスープを流し込み、風味が消えないうちに嚥下した。
ふう、と息が漏れ、
「うまい…」
と、思わず声が出た。
椀を見てみれば、スープが無い。
飲み干してしまったのだ。
船の上では食糧に限りがあるので、基本的にお代わりは御法度である。
名残惜しいが、仕様がない。
ふと、厨に目がいった。
厨と食堂は一応区切られているのだが、配膳の都合などもあり中を覗くことができる。
食事の際には厨の前に並び、そこで料理を受け取る。
食器を返す時も同様である。
丁度食事時ともあって、厨の前は水夫連中や護衛連中の男どもで賑わっている。
護衛連中はもとより、水夫連中も筋骨隆々とした者ばかりなので、かなり暑苦しそうだ。
少なくとも、あの中に入り込みたいと思う者は少数であろう。
水を飲みながら厨をぼうっと見ていると、一人の男と目が合った。
厨で何やら作業をしている男だ。
背丈はやや小柄だが、肩幅は広く、がっしりとした体格である。
白い茸のような帽子を被り、同じく白っぽい生地の衣服を身に纏っている。
謹厳そうな表情を浮かべる顔には、たっぷりとした薄茶の髭が蓄えられており、此方を見据える三日月形の眼光は恐ろしく鋭い。
アスラは、おお、と少し驚いた。
相手の目つきの悪さにではない。
目の合った人物に対する驚きだ。
(ヅヒではないか)
目の合った人物は、厨頭ヅヒであった。
アスラとヅヒは暫しの間、じっと見つめ合った。
ヅヒはその間も包丁で何かを切り続けている。
対するアスラはテーブルの上で手を組み、誠にもって満足そうだ。
ややあって、アスラが、うむ、と頷いた。
それを受けたヅヒは、ゆっくりと目を瞑り、ぺこり、と頭を下げた。
そして、最後にもう一度頷き合った。
互いの視線が外れた。
アスラは杯に注がれた水を飲み干すと、食後の黙想をし、食器を手にして席を立った。
♢
風が吹いている。
海面からのっそりと波が立ち上がり、銀色の飛沫を飛ばしては消えて行く。
透けるような蒼天に、燦々と輝く太陽が眩しい。
身体を包み込む潮風の香りは、どこか懐かしいようで驚くほどに鮮烈だ。
甲板に響き渡る波の音が、不思議な心地よさを持ってしみ込んでくる。
アスラは、船の縁にある手すりに寄りかかり、ぼうっと海を眺めていた。
包帯まみれの顔から覗く翡翠色の瞳に、深い蒼の色が映りこんでいる。
やや簡素な造りの服――貫頭衣のようである――をごく自然に着こなし、腰のあたりで結んだ鮮やかな腰帯を風に揺らしている。
非常に安気な感があるのだが、佇まいにどこか油断がない。
隙があるようでない、とでもいうのだろうか。
練達の武士であれば、アスラの纏う霞の如き不明瞭な気配に少なからず驚くことであろう。
…さて。
「飯の後は日向ぼっこに限る」という如何にも爺めいた精神の元、アスラは今日も今日とて日向ぼっこである。
芸がないとはいうまい。
一種の悪癖のようなものなのである。
今日は些か風が強いが、それにしても天気がいい。
それにつられてか、アスラも格別に機嫌が良かった。
顔に巻かれた包帯のせいで殆ど表情は察せないのだが、その内で薄らと微笑んでいるのである。
(ふうむ。
なんとも良い日和よ。
空に坐す、モア=セン様の機嫌がよいのかえ…)
と、アスラは目を細めた。
天空神モア=センは大いなる神通力を扱う偉丈夫で、数々の神器を持つという。
太陽の剣や雷雲の弓、狂飆の斧など、戦士なら誰しもが――特に男であれば――一度は憧れる神代の武具がそれである。
モア=センは非常に温和な神なのだが、怒らせると怖い。
一度モア=センの逆鱗に触れれば、恐るべき天変地異が襲ってくるのだ。
中でも雷はモア=センを印象付けるものの一つであり、島では子供を躾ける際に、「モア=セン様が雷の矢を落としてくるぞ」などといって脅かすものである。
(雷の弓か…)
その時、アスラの脳裏にある男の顔が浮かんだ。
「俺はモア=セン様より弓が上手いんだぜ」等と豪語していた、罰当たりな阿呆の明るい顔が。
五月蝿い奴ほど…というやつであろうか。
居なくなると相応に寂しいものだ。
アスラは、ふふ、と自傷気味に微笑むと、
(おれも歳を取ったものだ…。
奴の雷鳴の如き音声を久々に聞きたくなるとはな…)
と、心中で独り言ちた。
手すりに乗せた腕を組み換え、翡翠色の瞳を少し悲しげに細めると、
(あ奴…。
あの阿呆は、元気でやっておるかな…)
と、吸い込まれそうな蒼天を見上げた。
空の上から、親友の馬鹿にしたような大笑いが聞こえてくるような気がした。
ーー相変わらず根暗で女々しい奴だな、お前は。
…と。
アスラは薄く笑みを浮かべ、
(余計なお世話だ、阿呆め)
と、再度晴れやかな空を見やった。
その遥か先で、その阿呆が楽しそうに笑った気がした。
背を、清涼な海風が吹き抜けてゆく。
編み込まれた綺麗な黒髪が、風に弄られて揺れている。
名も知らぬ海鳥の鳴き声が微かに聞こえた。
波の音が強く響いている。
それから暫くの間、アスラはぼうっと海を眺めていたが、ふとして甲板を振り返った。
その視線の先には、ドーブ・エットラが剣を握って立っていた。
勢いのある金髪が風になぶられている。
上半身には何も纏っておらず、鍛えこまれた褐色の筋肉が隆々と存在感を放っている。
少々鍛えこみ過ぎな感はあるが、彫像の如き筋肉とはこのことであろう。
アスラは、後ろの手すりに背を預けながら、
「おや、ドーブ。
また鍛錬かえ?」
と、にこやかに声を掛けた。
これに気付いたドーブは、えっへっへ、と無邪気に笑い、
「そりゃあ勿論。
俺は傭兵稼業だからな。
こいつの腕がなけりゃお飯が食えなくなっちまう」
と、剣を掲げながら冗談めいて返した。
何となくおちゃらけた雰囲気のあるこの男だが、剣に関してはかなりストイックである。
朝餉の後は約一刻から二刻に及んで鍛錬を行うし、アスラに剣の指南を仰いでくることもしばしばある。
付き合いが長い護衛連中の話では、鍛錬をしていない日の方が珍しいというのだから相当なものである。
ドーブの返答を受け、
「あっはっは、そうか、そうか。
糧を得るために必要なのなら仕様がないな」
と、アスラ。
これにドーブが、にかり、と快活に笑い、
「まあ、そいつは建前でよ。
本当の所、ただ単に剣が好きなだけなんだけどな。
剣術馬鹿ってやつさ」
と、返した。
細められた蒼い瞳がきらきらと眩しい。
兎角精悍な男である。
黙っていれば文句無しに男前なのだが、一度口を開くと三枚目にしか見えなくなるとはこれ如何に。
この男には天性の何かがあるのだとアスラは思う。
アスラは優しく目を細めると、まあなんでも良いさ、と言い、
「若い内は、よ。
誰だろうと身体の方に動かされて剣を振るうものさ。
お前さんのその熱量こそが要よ。
武士はそうでないといかん」
と、続けた。
ここでドーブが、へっへっへ、そうだろと笑った。
アスラも、そうとも、と頷いて笑った。
「そういやあさ、アスラさん。
昨日の夜マストの上で何やってたんだ?
夕飯の後さ。
夜番の水夫が不思議がってたぜ」
と、ドーブが剣を両の腕で引き絞りながら尋ねてきた。
どうにも型の鍛錬を行おうとしているらしい。
上腕の筋肉が恐ろしく隆起している。
構えは中段、重心の位置から考えて防御よりの型だ。
足の位置取りは中々良いが、剣の切っ先が高すぎるような気もする。
ドーブのいうマストの上で何やら、とは昨日アスラが行っていた鍛錬のことである。
メインマストの最上部、この船上にて最も風が強く吹く場所にて片手の小指一本で逆立ちし、心頭を滅却。
同時に指や腕、体幹を鍛えるという、傍から見れば意味不明かつ実行不可能な鍛錬である。
しかもそれを約二刻、微動だにせず続けていたというのだから余計に意味が分からない。
「ああ、あれは鍛錬だよ。
おれは良くあれを樹の上でやっているのさ。
風の強い所で指一本で逆立ちし、そのまましばらく瞑想をする…。
これが精神統一に良いのだ」
と、アスラはからからと笑いながらいった。
(そう、良いのだ。
精神統一には、な)
ドーブは構えを維持したまま怪訝な表情を浮かべ、
「いや、精神統一って…。
それも随分長くやってたんだろ?
時々良く分からんなアスラさんは」
と、返し、まるで曲芸だぜ、と続けた。
ドーブの意見は尤もである。
常人は帆柱の上で指一本で長時間逆立ちをしようなどとは思わないし、そもそもできない。
こういった奇行をしれっとやってしまう辺りが天然と言われる所以なのだろうが、アスラ当人はこの事実に全く勘付いていない。
アスラは、ふうん、と唸った。
包帯に包まれた細い顎を手で弄り、
「そうかえ?
結構良いものだぞ。
風も心地よい按配であったし…」
と、視線をメインマストに這わせた。
マストの天辺に掲げられた旗は、これでもかという位に靡いている。
ドーブもアスラの視線を追ってメインマストを見上げたが、表情は渋い。
そんな訳ないだろう、といった感がありありと伝わってくる。
アスラは不思議そうに首を傾げた。
ドーブは、やれやれ、と首を振りながらため息を吐いた。
その後も、鍛錬に勤しむドーブと適当に雑談をしながら時間を潰した。
途中で仕事を終えた水夫連中も会話に混じってき、大いに盛り上がった。
ドーブも鍛錬どころではなくなったらしく、剣を鞘に仕舞って話し込んでいる。
付き合いが良いというか、元気を発散しなければやっていられないタイプなのだろう。
髭を蓄えた年配の水夫が航海で経験した苦労を滔々と語り出し、ドーブが、
「この親仁の話は長いんだよ…。
大海月に捕まった話なんて一刻半は続くぜ」
などとアスラに耳打ちし、アスラが、それは凄いな、と感心した所で、
「島だぁーー!
島が見えたぞーっ!」
という大音声が上から降って来た。
♢
気が付けば、アスラはメインマストへと登っていた。
いや、登っていたという表現は正しくない。
正確にいうならばメインマストに跳び乗っていた。
甲板からメインマストの最上部まで一息に跳躍したのである。
下で、ありゃあ大した術だな、と水夫連中が感心している。
アスラの人外な身体能力を呪いの類であると勘違いしているのだ。
風が全身を撫でつける。
丈の長い服が大きくはためき、背で編んだ髪が踊っている。
下へと延びる縄の一本を片手で握り、マストから身を乗り出して目を細めた。
果てしなく続くとも思える青。
海と空の作り出す蒼穹の中、目当てのものを必死に探す。
「アスラちゃんよーう。
肉眼じゃあまだ見えねえだろうよー。
遠眼鏡借してやろうかー」
と、下から声が掛かる。
航路の観測をしていた水夫である。
遠眼鏡というのは視覚を補助する道具であり、通常よりもより遠くを覗けるという代物である。
非常に便利なのだが、ことアスラには必要がない。
肉眼の性能が既に遠眼鏡に匹敵、あるいは凌駕しているのである。
アスラは、
「いらーん。
気遣い感謝するー」
と、声を張り、手を振った。
下の水夫も、そうかーい、と返事をして手を振り返した。
手袋と包帯で防備した手で日光除けのひさしを作り、改めて目の前の大海に目を落とす。
細かいゴマ粒一つ見逃さぬよう神経を尖らす。
数羽の海鳥が編隊を組んで船の前を横切った後、それは見えた。
「これは…」
発見した。
遠眼鏡を用いたとしても辛うじて見えるか否かという小ささ。
本当にゴマ粒程度の大きさである。
これを発見した観測主はもしかしなくとも優れた腕前の持ち主なのだろう。
されど、アスラの持つ遠眼鏡には拳程度の大きさにまで拡大されたそれが鮮明に映っていた。
「島じゃ…」
島…とはいったものの、それは大きなものではなかった。
砂浜と僅かばかりの緑。
見える範囲では住居なども確認できず、人が営みをしている形跡も見られない。
ばかりか、主だった獣すら生息していないかもしれない。
そのような、何の変哲も無い殺風景な小島である。
…しかし。
「お…」
…しかし、である。
「おお…」
満六十五歳、世間知らずかつ好奇心旺盛な爺の心を揺さぶるには――。
「おおーっ!!
島じゃ、陸じゃ、新天地が見えたぞおーーっ!」
――十分過ぎる程の材料だった。
興奮に満ち満ちた中性的な声質の声が空に溶けて行く。
気が付けば、握りこぶしが振り上げられていた。
翡翠色の瞳が眩しく輝いている。
しばらく風の音だけが耳に届いた。
少々の後…。
一時の感情の発露が終了し、身体の熱が海風によって冷まされてゆく。
喜色と興奮でで満たされた脳内が、ゆっくりと明瞭になる。
ふん、と鼻から熱い息が出た。
得も言われぬ余韻がアスラを包む。
そして恍惚感がすっぱりと抜け、理性という存在が何処から帰還した頃、自らが取った言動が脳内で再生された。
――島じゃ、陸じゃ、新天地が見えたぞおーーっ!
心中でそれを丹念に吟味し、反芻した。
一度目を瞑り、風を全身で感じた。
涼しかった。
ゆっくりと瞼を開き、情報処理を終わらせたアスラは、
(はっ…)
と、いった様にビクと身体を震わせた。
かあっと血が登ってゆく。
再び頭が熱くなった。
振り上げた手を神速で戻すと、ううん、と咳払いをし、辺りをきょろきょろと見回した。
開き気味の瞳孔が、いつも以上に開かれている。
目元、包帯の合間から見える白い肌が仄かに紅潮している。
一時の興奮とはいえ、童の如き言動を取ってしまった。
不覚である。
アスラは猛省をした。
六十五にもなって、仮にも妻子を持っていた爺が何をやっているのか、と。
身体が燃えるように熱い。
あるいは燃やされるより性質がわるいかもしれない。
あんなものは場合にもよるが気合でどうにかなるし、仮に熱傷を負ったとしても循環障害と他の病害への罹患に気をつけていればどうにでもなるのだ。
燃やされるという筆舌に尽しがたい体験をしたことのあるアスラは、混迷の中そう思った。
羞恥ここに極まれり、である。
アスラは、
(し、しまった…。
誰にも見られておらぬかえ…)
と、こそこそ気配を探った。
そこで…。
(む…)
背後に何者かの気配があることに気付いた。
それも複数である。
アスラのある主帆柱ではなく、その少し後ろ。
恐らくは後帆柱の最上部。
アスラは恐る恐る後ろを振り返った。
そして…。
「不覚だ…」
と、声を漏らした。
張られた幾本かの縄の向う側、アスラのいる場所よりも少しばかり低い位置。
アスラの予想通り後帆柱の頂上。
其処には、可笑しくてたまらないといった表情をした大柄な金髪剣士と、どこから出できたのか、非常に優しげな笑みを浮かべた長身の呪い師の姿があった。
遠眼鏡を片手に持っていることから、航路に見えた島の確認をしにきたようだ。
いずれにしても、である。
こちらと目が合っている。
両人の表情を見て取るに、一連の流れを見ていたらしい。
不覚。
誠に持って不覚である。
アスラは、あっはっは、と照れたように笑うと、
「見ておったかえ?」
と、通る声でいそいそ尋ねた。
ぽりぽりと頬を指で掻いている。
風の音と縄が軋む音、帆がはためく音などで騒々しいマスト上部であったが、質問は相手方に届いたらしい。
ドーブがにやにやと笑いながら、
「良かったなアスラさん」
と、からかうように言ってきた。
いつもは窘めるセーレンも、此度は依然として笑顔である。
どうにも微笑ましいといった感が伝わってくる。
これはドーブも同様である。
アスラは照れ隠しに顎を撫で、ははは、と小さく声を上げると、
「ああ、なんとも最高の気分だよ」
と、太陽のように笑った。
ドーブとセーレンの両人も一層笑みを深くした。
甲板に水夫連中のどら声がこだましている。
どたどたと船上が慌ただしくなった。
空が、澄み渡っていた。




