一章(幕間) 紅の浜
凄惨な描写が多くなっております。
本編とはやや風向きが違う内容となっておりますので、ご注意を。
風が吹いていた。
むせかえるような血の香りと、何かが焼け爛れるような異臭をはらんだ腥風が。
そこは、この世の地獄であった。
夕陽に薄らと照らされた浜辺に、幾千、あるいは幾万にも亘ろうかという屍が落ち転がっている。
脳漿をまき散らしたもの、首が見当たらないもの、胴体を抉り取られたもの、ばらばらの肉片になったもの…。
いずれも息は無く、壮絶な形相を浮かべたものばかりである。
骸が流す血潮によってか、あるいは沈みゆく陽の光によってか、海が紅に染まっていた。
辺りは、波の寄せる音のみが響き渡っている。
折り重なる屍の上に、何者かが佇んでいた。
男だった。
年頃は壮年ほどに見え、すらりと背丈が高く、涼やかで整った顔立ちをしている。
一本に結った長い黒髪を風になびかせ、傷だらけの褐色肌を夕陽にさらしこんでいる。
練達の戦士といった風体だが、薄闇にぽつりと浮かぶ生気の無い碧の瞳が不気味だ。
身に纏う簡素な服は何者かの血で染まりきっており、もとの色はうかがい知れない。
手に握られた剣からは血潮が滴っており、まことに奇妙な、恐ろしげな光が放たれていた。
…暫しの後。
遠くの海に、何やら影が立ち上がった。
堕ちゆく夕日を背にした不気味な影。
それは、船影であった。
数は複数あり、いずれもかなりの大きさである。
だんだんと影が大きくなるにつれ、その影の掲げた紅蓮の旗が夕闇に映えてくる。
その様は、真っ赤な焔がいくつも天に立ち昇るようであった。
――刹那、ぼうっと佇んでいた男の目つきが変わった。
生気が抜け落ちていた双眸に、えも言われぬ感情が浮き上がってきたのである。
「また来たか…」
男が、ぼそり、と呟いた。
低く、小さな、と息のような声であった。
しかしその声は、静寂で満たされた浜部に、嫌に明瞭な響きを持ってしみ込んでゆく…。
また風が吹いた。
浜の奥に生えそろう木々が、何かに怯えるかのようにぞわぞわと音を立てる。
森から鳥類が一斉に飛び立ち、大きな群れとなって暗い空に溶けていった。
黄昏の闇が男の殺気でぐにゃぐにゃと歪み、陽炎のごとく揺らぎ始めたのはその時である。
男は、血で染められた腰帯で、べちゃり、と剣身の血潮を拭った。
そして、また元のように脱力し、だらりと剣を構えた。
…が、構えの柔らかさとは裏腹に目つきが尋常ではない。
憎悪、怨嗟、絶望、憤怒…。
それらをぐちゃぐちゃに混ぜ込んだ、悪意の坩堝のごとき目だった。
表情にこそ何ら感情を表していないが、それが逆にうすら寒いものを感じさせる。
男が歩き出した。
べちゃ、べちゃ、と肉片や臓物を踏みつけながら海の方へと進んでゆく。
ふらふらとした覚束ない足取りであったが、凄まじく洗練された「歩」であった。
砂という不安定な地べたの上、数えきれない程の金属片や木片、屍が落ち転がっているにも関わらず、上体が微動だにしない。
これだけでも男の尋常ならざる腕前が見て取れる。
波が、男の赤黒いブーツを洗った。
男は足を止めた。
その時には、紅蓮の旗を揚げる黒い大船が沖まで迫っていた。
船上には数多の人の影がある。
男の翡翠色の瞳が、一層の妖しさを帯び始めた。
それに呼応するかのごとく、握る剣も放つ妖気を強めている…。
「居る…。
居る…。」
男である。
やはり、低く、小さな声であった。
風が、男の髪を強く撫でつけている。
「斯様な数のくず共が…」
ぼそぼそと男が呟く。
目の焦点が合っていない。
迫りくる船の一団を見据えているようで、そうではない。
水平線の遥か彼方、夜の帳が落ちつつある夕空の何処か…。
その虚空に何かを見ていた。
「殺さねば…。
早う鏖にせねば…」
誰かに言い聞かせるようでもあり、何かを確認するようでもあった。
どちらにせよ、明らかに常軌を逸した言動である。
男の炯々とした眼光が、狂気の色さえも帯び始めた。
口元に、ほんの僅かながら笑みが浮かんでいる。
厭な風が、強く、強く吹いていた。
「守るのだ…。
島を、精霊様を…。
守るのだ…。
皆を、家族を…」
男の背後に、影が伸びていた。
どす黒く、長い影が。
夕陽が、今にも沈もうとしている。
浜は、どうしようもなく静かだった。
その時…。
妙なことがおきた。
沖に見える黒船の船上に、赤いものが浮かび上がったのだ。
小さな夕陽のようにもみえるそれは、炎の玉であった。
船上にある呪い師が、何やらの術を使ったのだ。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ…。
水面が再び紅くなってゆく。
暫くすると、それぞれの黒船の上に、数十もの焔の球体ができあがった。
灯りの代わりに使う、といった感ではない。
男はそれを、相変わらず焦点の合っていない目で見据えていた。
黒船から声が上がった。
恐らくは、術を使った呪い師らであろう。
その声が空へと吸い込まれるや否や、浮かんでいた焔の弾が一斉に浜へと向かってきた。
数にして、千と数百。
まるで炎の壁である。
空が昼のように明るくなり、浜が真っ赤に染まった。
それを目にするが早いか、男が、ぬらり、と剣を振るった。
腰だめの形から横薙ぎに一閃。
その勢いをいささかも落とすことなく、唐竹で一閃。
計二つの光芒が瞬いた。
いずれも虚空に向けての剣戟である。
それは、本来ならば何ら意味を成さない行為…。
――しかし、実に次の瞬間である。
目を疑うようなことがおきた。
赤く染まった空の中心が十字に割れ、夜の帳が下りつつある夕空が顔を見せ始めたのである。
男のなぞった剣筋の延長上にある炎の壁が、四つに分断されたのだ。
つまり…。
斬ったのだ。
あろうことか男は、空に浮かぶ炎を斬って見せたのだ。
全くもって並ではない。
最早、奇跡ともいえる剣の練度である。
少しの後、男のいる辺りを除いて、浜に火の雨が降り注いだ。
幾つもの爆音が響き、砂塵が舞った。
肉が焼ける悍ましい臭いが立ち込め、あちらこちらで炎が上がり始める。
骸の振りまく死臭と相まって、浜は一層の地獄と化していた。
落ち転がった死肉の油によってか、炎の勢いが強まっている。
生暖かかった空気が、肌を焼くような熱風となって吹きすさぶ。
浜が、鮮やかな紅の色に照らされていた。
そのような中でも、男は表情一つ変えない。
ただ、ただ、海を見据えるばかりである。
「紅だ…。
なんと綺麗なことよ…」
男が再び呟いた。
そして何を思ったのか、足元に転がっていた何者かの頭部を、ぐしゃり、と踏み抜いた。
脳漿と血液が、盛大に飛び散った。
無残に潰された頭部から流れ出る血液が、海へと溶け出でゆく。
男が、初めてはっきりとした笑みを浮かべた。
例えようのないほど歪んだ笑みだった。
沖の辺りで止まった黒船から、無数の小舟が下ろされた。
小舟には、鎧などで身を固めた戦士が乗っている。
長剣、短剣、槍、槌鉾、戦闘槌、連接棍…。
手にする武器は多種多様であり、纏う気迫からして各々が相当な兵である。
誰もが浜にある男を睨みつけており、いつでも武器を扱えるように油断なく構えていた。
炎の色を映した水面を切り裂いて、幾隻もの小舟が浜へと向かってくる。
馬鹿馬鹿しくなるような舟の数である。
紅の浜にある男は、それを黙りこくって見つめている。
両者の雰囲気からして、この先戦闘になることはまず間違いない。
黒船から降りてやってきた戦士は、数千にも及ぼうかという大軍。
対して、浜には男の姿しかない。
者の数だけ見れば、黒船から降りて来た戦士らに分があるのは当然だ。
数千対一など、結果は火を見るよりも明らかである。
…しかし。
…しかし、である。
浜に落ち転がり、物言わぬ骸と化した者らの壮絶な形相が。
灼熱と異臭を孕んで吹きわたる、おどろおどろしい腥風が。
先ほど起こった、呪いにも勝るような奇跡が。
なにより、一切衆生を殺戮せんと放たれる、狂気に満ち満ちた男の殺意が。
この場において、その常識が通じないことを、ありありと示していた。
「さて…。
もうそろそろ夕餉の時間だ。
早々に掃除を済まさねば…。
皆が待っておる…」
男はそう言うと、ちらり、と西側に見える高台を見やった。
どうやら、そこに男の住む集落があるらしい。
…だが、それにしては暗い。
既に陽は沈みきっているというのに、灯りの一つさえも確認できない。
まだ灯りを燈すには時間が早かったのだろうか。
集落全体が油不足で、灯りの節約でもしているのだろうか。
それとも…。
「皆が、待っておるのだ…」
地を這うような声が、浜を駆け抜けた。
いい終ると、男の姿がかき消えた。
紅に染まる浜で、ごうごうと真っ赤な炎が燃え盛っている。
天へと登る黒煙を海風が切り取り、何処かへ運んでゆく。
空気が、乾ききっていた。
沖の方で、何やら叫び声が上がった。
夕闇が立ち込めた夜空の中、旱星が一際怪しく輝いていた。
♦
「おーい、アスラさん。
夕飯の時間だぜ」
快活そうな低い声が、鼓膜を揺さぶった。
夢うつつだった意識が、まどろみの水底から掬い上げられる。
何故だか、異様に喉が渇いていた。
「おーい。
聞こえてっか、アスラさん。
爺臭いとはいえ、さすがに昼寝のし過ぎってもんだぜ。
そろそろ起きな」
ぺちぺちと、包帯の上から頬を叩かれている。
手付きは優しく、どこかやりなれている感があった。
ゆっくりと瞼を開けると、目の覚めるような金髪と、蒼い目が飛び込んできた。
ドーブである。
辺りは夕闇に包まれており、空にはぽつぽつと星が見える。
吹く風が涼しく、鮮烈な潮の香りがする。
「おや…。
ドーブ…。
もうそんな刻限かえ?」
渇いた喉に反して、高く澄んだ声が鳴った。
背を預けていた樽から離れ、アスラは、うーむ、と伸びを決めた。
ぽきぽきと関節が鳴り、心地よい感覚が身体を走り抜ける。
押しあがって来た欠伸を噛み殺し、掌で強めに頬を叩くと、すっかり眠気は飛んでいた。
上を見ると、ドーブは呆れた顔だった。
ぽりぽりと形の良い鼻の頭を掻いている。
ドーブは腰に手を当て、いかにも父親めいた雰囲気を纏うと、
「まったく…。
そんな所で寝てたら風邪引くぜ。
海の上は風が吹くから、結構冷えるんだ」
と、いった。
どうやら心配をしてくれたらしい。
一児の父ということもあってか、このドーブという男は面倒見が良い。
故に、護衛連中を始め、水夫連中からの信頼も厚い。
狂言の才能にも優れていることであるし、意外にも良くできた男である。
ドーブの注意を聞いたアスラは、あっはっは、と明朗に笑い、
「いや、すまん、すまん。
今日はあんまり日和が良かったのでな。
思わず惰眠を貪ってしもうた」
と、いった。
相変わらず柔和な雰囲気である。
これを受けたドーブは、
「おいおい…。
確か昼飯の後には眠ってたよな…。
いくらなんでも貪り過ぎってもんだぜ」
と、苦笑した。
全くだな、とアスラも微苦笑した。
「まあ、なんにしても夕飯だ。
今日はなんちゃらのスープらしいぜ」
「スープということしか分からぬな…」
「なんでもいいじゃねえか。
美味けりゃそれでよしってな」
早く来いよー、と言い残してドーブは船内へ引っ込んだ。
誰もいない船の甲板を、夕日の残光が薄らと照らしている。
アスラは、よっこらしょ、と立ち上がった。
腕に抱いていた剣を腰に佩びると、軽く服装を整えた。
大きく息を吸い込んで、数回深呼吸をした。
やはり、酷く喉が渇いている。
まだ薄らと紅い空を、翡翠色の瞳で見据えると、
「やれやれ…。
なかなかあじのある夢をみせやがる…」
と、アスラは独りごちた。
長い三つ編みが、風に揺られている。
すると…。
「おーい、アスラさんの分も食っちまうぜ」
と、船室の窓からドーブが顔をのぞかせた。
へっへっへ、と良く分からない声を上げ、にかにかと笑っている。
窓越しの光が眩しかった。
「ああ、分かったよ。
今行くさ。
おれのスープは残しておいておくれ」
と、アスラは微笑んで、扉の方へ歩いて行った。
(ああ…)
喉が渇く。
酷く渇く。
(喉が渇いたのう…)
スープでも、酒でも何でもいい。
とにかく、水分が取りたかった。
渇いて、渇いて、仕様が無い。
喉が、カラカラに渇いているのだ。
風が吹いている。
海は静かに凪いでいた。
ブーツが甲板を踏みしめる音が良く響く。
船内からのぼんやりとした明かりが、アスラを照らす。
その背後には、長く、暗い影が伸びていた。




