一章(二) 大海原を越えて 下
「ふむ、なるほど。
これは…」
目の前にいるネルガン・デービスが、整った顎の髭を弄りながら低い声で唸った。
材質の良さそうな椅子にどっかりと座りこんでおり、その様には十分な貫禄が感じられる。
困ったように細められた青い目は、西日の赤い光をたたえながら机の上を鋭く見つめている。
机を挟んだ対面には、くつくつと愉快そうに笑うアスラが座っていた。
手には細工の細かい駒のような物が握られている。
これまた視線は机の上へと注がれており、翡翠の瞳が茜色を映して爛々と輝いていた。
所は、デービスの船室である。
窓から流れ込む紅の色で満たされたそこは、様々な物で溢れかえっていた。
何やら重要そうな紙切れ。
雑多に積まれた書簡。
不思議な形をした彫刻。
琥珀色のすぼまった瓶。
どれもこれもそれなりに価値のあるもの――とはデービスの談である。
そんなものに囲まれながら、アスラとデービスは机の上の物に集中していた。
暫くの間、沈黙が続いた。
アスラはにこにこと包帯の下で顔を綻ばせており、相対するデービスは苦い顔をしている。
船の軋む音と、波の旋律だけが辺りを支配する。
どこかで鳥が鳴いた気がした。
ややあって、机の上をじっと見つめていたデービスが、腕をむんずと組み直し、
「ううむ。
ここを退かせてはいかん。
だが、外を突けば右辺が崩れてしまう…。
厳しい所…」
と、ぶつぶつ呟いた。
これを聞いて…。
「はっはっは。
十手前の悪手が響いてきたようだな。
あそこは駒を捨てて突貫すべきであったよ」
と、アスラが甲高い声で愉快そうに答えた。
包帯のせいで表情は覗えないが、非常に楽しげである。
これで包帯がなければ、無邪気そうな美しい笑顔が披露されていただろう。
向かい合わせになった二人が見つめているのは、何らかの盤面である。
正方形の盤の上に幾つかの駒が置かれており、複雑に配置されていた。
材質は石に近しいものであろう。
戦士を模った駒や、呪い師を模った駒、獣のようなものを模った駒などが確認でき、それぞれ赤と緑に色分けされている。
「…いや、しかし。
アスラ殿は大した手前ですな。
これでも結構な腕前と自負しているのですが…」
デービスがうんうんと難しい顔をしながら呟いた。
対するアスラはやはり、くすくす、と笑っている。
「昔からこの手の遊戯は得手なのさ。
規則が多少違った所で、根本は同一のもの。
なにより、相手の先読みは戦士の基本ゆえ…」
と、アスラが顎を撫でつけながら、からかうようにいった。
それに対し…。
「やや。
言いますなあ…。
しかし、商人の先読みも捨てたものではありませんぞ。
私らの大きな武器ですからな」
と、デービスも挑戦的な笑みを浮かべた。
「おお、それは期待できそうだ」
「ええ。
ここから大逆転を決めてみせましょう…」
と、二人で顔を合わせてにやにやと笑った。
アスラとデービスが何をしているかといえば、駒合戦という遊戯である。
数種類の異なる動きをする駒を動かし、互いの駒を取り合う。
中でも、王という駒が重要であり、先に相手の王を取った方の勝利になる。
相手の手を読む先見と、それに対応する戦術の構築が必須…そんな遊戯だ。
駒合戦は外の世界で有名な遊戯らしく、嗜む者が多いのだとか。
特に、商人には殊更人気なのだという。
…ではなぜ、アスラとデービスがその遊戯で対局しているのか。
その経緯はごく単純なものといえる。
第一に、アスラの島にも、駒合戦によく似た遊戯があった。
第二に、アスラはしばしばその遊戯をしていて、かなりの腕前だった。
第三に、暇を持て余したアスラをネルガン・デービスが雑談に誘い、偶然その遊戯の話題になった。
以上により、アスラとデービスの駒合戦による対局が実現したのである。
机の上の盤面は、アスラが優勢である。
残っている駒の数はデービスと変わらないものの、アスラの方が有用な駒を多く残しており、態勢も良い。
現在の対局は、本日で二度目になる。
一度目は油断していたデービスの惜敗。
この第一局は、デービスの油断とアスラの様子見という二点に目をつむれば、非の打ちどころのない名勝負であった。
そして、デービスの再戦要求。
アスラはこれを快く承諾し、現在に至っている。
現対局もそれなりに名勝負といえるが、始終アスラ有利の展開で進んでいる。
島のそれとは細かなルールの相違があるのだが、そこは練達のアスラ。
流していった一局目で早くも駒合戦のルールに順応し、デービスと互角以上に渡りあっているのである。
「うむ…」
と、デービスが頷いた。
知的な眼光が閃き、盤の駒に手が伸びる。
次の一手を打つらしい。
(ほほう。
長考は終わったかえ。
さて、さて、どんな手でくるか…)
と、アスラは、皮の手袋を嵌めた手で顎を二、三度撫ぜた。
包帯の合間から覗く瞳は、碧と紅の混じった不思議な輝きを見せている。
程なく、デービスの手が駒に触れた。
駒をひょいと摘み上げると、大きく前進させ、アスラの駒を取りながら敵陣へと踏み込ませた。
取った駒をしげしげと眺め、デービスは大きく息をついた。
「ふう…。
このまま防戦しても、じり貧は間違いない…。
ここは攻めるべき局面…。
一か八か、ですな」
これを受けたアスラはからからと笑い、
「全くもってその通り…」
と、いった。
デービスは、ぽりぽりと頬を掻くと苦笑いを浮かべ、
「ですが…」
と、言葉を濁した。
アスラも盤面を見て、うむ、と頷いた。
二人で顔を合わせると…。
「駒が足らん」
…と、どちらともなくいった。
船室が静まり返る。
ぷ、という息が漏れた。
そして、双方から笑い声が溢れた。
「…くく、あっはっは。
取り合いになれば、恐らく十八手目で詰み。
そうでなくとも敗色は濃厚。
ここで、龍が残っていれば違う展開もありえたが…。
あの悪手が悔やまれるな、デービス殿」
と、アスラが笑いながらいった。
デービスも、くつくつと肩を震わせながら、
「はっはっは、全く、全く。
いやあ、これは参った。
大逆転がどこかへ消えてしまいました。
しかし、あの手は本当に惜しかったものだ…」
と、こちらも楽しげに、少し悔しげにいった。
盤面に落ちる駒の影が長く細く変わって来た。
船室は一層の紅に染まってきている。
空も海も黄昏の空気を纏って、夜にならんとばかりだ。
どうやらそろそろ日暮れらしい。
夕餉の時間である。
「実に充実した時間を過ごさせてもらった。
デービス殿、感謝するよ」
と、アスラは椅子から立ち上がった。
ぷらぷらと宙をさまよっていた足が地べたに着く。
椅子に立て掛けてあった剣を佩び、うーむ、と伸びを決めた。
今日の夕餉は間違いなく美味であると、アスラは確信した。
デービスも椅子から立ち上がり、首をぽきぽきと鳴らした。
そして、夕日を恨めしそうに一瞥したデービスは、
「ふうむ。
そろそろ夕餉の時間。
いやあ、もう一勝負といきたかったですなあ…」
と、呟いた。
「あっはっは。
デービス殿は負けず嫌いなようだ」
と、アスラは微笑ましげに顎を撫でている。
デービスは、にやり、と不敵な笑みを顔に貼り付け、
「無論、無論。
私は男ですからな。
男は皆、負けず嫌いなものです」
違いますかな、とアスラに言葉を投げかけた。
アスラは、包帯の下で笑みを一層深くすると、
「違いない」
と、こちらも、にやり、と笑った。
さて、といってデービスは腰に手を当てると、
「糧を得に行きますか」
と、微笑んだ。
「そうするか」
と、アスラも微笑んだ。
アスラは扉へ向けて身体の方向を変え、足を踏み出した。
すると、駒合戦の盤面を見下ろしていたデービスが、ううむ、と再び唸った。
アスラは、きょとん、と後ろを振り返った。
デービスは机の上に直接置かれている駒を手に取ると、
「やはり口惜しい…。
あれさえなければ、もう少し善戦できていたのですがなあ」
と、その駒を弄んだ。
翼を畳んだ龍を模した駒である。
デービスが自らの悪手で失った駒だ。
なるほど、あれが相当に悔しかったらしい。
アスラの目が優しく細められた。
(ふふふ。
若くて羨ましいことよ。
枯れた爺には、到底持ちえない熱量を持っておる)
と、アスラは内心で微笑んだ。
壮年ほどに見えるデービスも、アスラからすればまだまだ若輩。
もっとも、外見年齢はアスラの方が遥かに下なのだが…。
アスラは、デービスが手に持つ龍の駒を見て、
「件の駒かえ?」
と、訊いた。
デービスは、然り、と頷き、
「攻撃の要を失うのは大きな損失ですからなあ…。
あの場面でならなおさら…。
まあ、アスラ殿の老獪な打ち回しのせいで、のびのびとできなかったというのも大きいですが」
と、いった。
それに対して…。
「はっはっは。
伊達に年を重ねているわけではないのさ。
年寄りは功にて立っているのだから」
と、アスラはあくまでも自然体である。
デービスは、敵いませんなあ、と微苦笑を浮かべた。
遊ばせている手を椅子の背もたれに置き、手に持つ赤い龍の駒をしげしげと眺めると、
「アスラ殿は、龍に会ったことは?」
と、デービスがやわらかく訊いてきた。
アスラは、
「いや、ないよ」
と、ケロリと答えた。
当然の話だ。
島にはそんな生物などいないのだから。
訊いたデービスは、はっはっは、と豪快に笑うと、
「何も彼もを砕く咢。
金剛さえも切り裂く爪。
天空を縦横に駆ける翼。
堂々たる威容…。
いいですぞ、龍は」
と、楽しそうにいった。
龍の駒を見るその眼には、少なくない親しみが込められていた。
それを受け、アスラもぼうっと龍の駒を見つめると、
「龍。
羽の生えた大蜥蜴か…。
デービス殿は会ったことがあるのかえ?」
と、なんとはなしに問うた。
飯の席などで、水夫連中やドーブらが龍の話をよくする。
男にとって龍とは浪漫らしい。
だが、実際に会ったことはないとのこと。
なるほど、それは浪漫だな、とアスラは思ったものだ。
デービスがアスラの問いに対し、首を大きく縦に振った。
身体を窓の方へ向け、赤い竜の駒を夕日に向けてかざすと、
「ええ、一度だけ」
と、短く答えた。
光の加減か、その背中が煤けて見えた。
そして、不意にこちらを見返り、にやりと笑った。
デービスの燃えるような赤髪が、紅に溶けるようである。
遠くの空で、沈みきりそうな太陽が最後の煌めきを放った。
くつくつとデービスが笑い、
「ここから…。
この中央海から遥か東。
海上大連山の最高峰、ヘルメス・オーズ大火山。
そこには、嘘か真か龍の神様が棲んでいるそうです」
と、一転して悪戯気にいった。
「大蜥蜴の神様か…」
と、アスラは、沈みそうな陽に視線を映した。
そして…。
「それは面白そうだな。
浪漫がある」
と、デービスに笑いかけた。
「そうでしょう。
浪漫があります」
と、デービスも笑った。
デービスが、弄っていた龍の駒を机に置いた。
コトリと軽い音がした。
沈みそうな日が海へと落ちた。
♢
その日の夜のこと。
誰もいない船の甲板を、金色の月が照らしている。
深い藍色の空には星々が散りばめられ、ちかちかと休みなく瞬いている。
ぶわりと、強い風が吹いた。
ぎしぎしと木が擦れる音が鳴った。
低く細かい波の音がそこら中で響き、また静かになった。
船のメインマスト上段、畳んである帆の上に座り込む人影がある。
他ならぬアスラである。
夜ともあって包帯は巻いておらず、手袋もしていない。
長く艶めいた闇色の髪を一本に結っており、まんまるな碧の目を静かに月へと向けている。
月光に描き出されたそのあどけない面は、尋常ならざる程度には整っている。
手にはビードロの杯と、小さめの酒瓶。
長めの上着から伸びるしなやかな足は、気だるげに組まれており、宙に投げ出されている。
ときおり杯を煽り、酒が無くなれば注ぎたす。
言葉はなく、動きもない。
邪魔者は居らず、その逆の存在も居ない。
月とアスラの二人だけだ。
(ふむ…。
今宵の月は一段と綺麗に見える。
女神様がはりきっているのかもしれんな…)
と、アスラはそんなことを思いながら、ビードロの杯に注がれた酒を煽った。
口当たりの良い辛口の酒が、ずい、と身体の芯へしみ込んでゆく。
まるで火を呑みこんだような熱さが湧きあがり、臓腑がふつふつと焼かれた。
骨の髄までもが沸騰したような刺激が全身を走り抜け、
「ふう…」
と、熱い息が漏れた。
美味い。
さる料理の会話で意気投合した船の料理人から譲ってもらった品だが、これは大した酒だ。
とっておきと銘打っていたことはある。
葡萄酒といい、この酒といい、外の世界は名酒が多い。
今から楽しみになってくる。
二日酔い対策の薬草は幾つあってもよさそうだ、とアスラは思った。
因みにであるが、アスラは別に月見酒をするために起きているのではない。
アスラが起きている理由は、船の警戒にある。
それは、夜襲に対する警戒でもあり、天候の急変に対する警戒でもあり、それ以外の不測の事態に対する警戒でもある。
皆が寝静まる夜という時間帯は、いうまでもなく無防備になりやすい。
その瞬間を狙う佞悪な賊どもや、急な嵐などの悪天候に注意を払うのは当然のことなのだ。
航海の無事を祈るならば、欠かせない役回りといえるだろう。
今晩は、夜警をする筈だった男が酔いつぶれて寝てしまったので、アスラが代役を買って出たのである。
アスラは月を肴にちびちびと酒を飲んでいたが、不意にその手が止まった。
月が雲に隠れてしまったのだ。
中々に大きな雲塊であり、通り過ぎるには幾ばくかの時間がかかりそうである。
主役の月が居ないのでは月見酒ではない。
折角の名酒も美味さ半減である。
(雲か…。
一体どこから湧いてきおったのだ)
と、アスラは内心で毒づいた。
雲が通り過ぎるのを待ちながら、ちゃぽちゃぽと杯で酒を回していると、風が止んでいることに気がついた。
海原も凪いでいるらしく、波の音が消えている。
辺りを包むのは静寂。
不気味なほどの静寂。
(随分と静かになったのう…)
ちゃぽちゃぽと再び酒を回す。
琥珀色の液面に月はまだ戻らない。
風も吹かない。
音も戻らない。
光も射さない。
まるで、万物が眠ってしまったよう…。
(ふむ。
何か…。
何かがおかしいな…)
と、アスラは思った。
静けさが耳障りなのだ。
辺りに漂う空気も心なしか澱んでい、空を仰げば月明かりのない暗天が広がっている。
何か妙なことが起きていると、アスラは半ば確信めいた思いを抱いていた。
こういう時の勘は良く当たるのだ。
アスラは、やれやれ、ゆっくりと酒も飲めぬ、と溜息をついた。
尤も、そういった予期せぬ出来事に対応するために番をしているのだが…。
手に持つ杯と酒瓶を静かに置くと、空いた右手を剣の近くで遊ばせながら、近辺を注意深く見回した。
船内へ続く幾つかの扉。
人影のない甲板。
船首。
船尾。
そびえたつ三本のマスト。
ぶら下がる縄の束。
いずれにもおかしな所はなかった。
見えるところでは、船に異常は確認できない。
(では、海はどうかな)
と、目を凝らして遠方を見回してみた。
すると――。
(おや…)
発見した。
妙なものを。
右舷後方の遥か先、光のない暗黒の海原。
ぽつりと浮かぶ船影。
船首はこちらを向いており、ゆっくりと進んでくる。
(賊…ではなさそうだな。
かといって、これのような商船という雰囲気でもない)
アスラはマストから立ち上がり、右舷後方の海を見据えた。
左の腕は剣の柄に添えられている。
(ふうん…。
あれは何の船だろうな。
信じられぬほど傷んでおる)
アスラの超常的な視力は、数里は離れているであろう怪しい船の姿を完全に捉えていた。
その船を一言で表すならば、廃船である。
破れた帆に、折れたマスト。
ちぎれた縄、朽ちた扉。
穴だらけの甲板。
とても人が乗っているとは思えない。
まるで船の幽鬼だ。
だが、それにしては…。
(…なぜ動いておるのだ)
その点が解せない。
海は静かに凪いでおり、風も止んでいる。
おおよそ考えうる動力を失っているといっていい現状。
あのぼろ船の推進力は一体何だ。
あるとすれば人力。
が、櫂などで漕いで進んでいるようには見えない。
海流という線も無きに等しいだろう。
(あの惨憺たる有様で、よくもまあ海の旅ができるものよ。
やはり、何らかの呪いの力なのかや。
あれらはおれの専門外であるし、迂闊に手出しはできんか…)
朽ちた船が、ゆっくりと、しかし着実に此方へと向かって来る。
アスラはマストから飛び降りると、音もなく甲板に着地した。
そのまま船尾の方へ進んで行き、手すりから身を乗り出すようにして朽ちた船を望んだ。
船員らに知らせても良いが、もう少し様子を見ることにした。
敵意を持った何かであった場合は、全力で排斥する腹積もりである。
やがて、朽ちた船が船尾に肉薄した。
大きな船だ。
この船もそれなりに大きいが、その二倍はありそうだ。
あらゆる場所がボロボロに朽ち果てており、本当になぜ浮かんでいられるのかが不思議だ。
近くで見ると改めて分かるが、どうにもこのぼろ船は戦に関わっているらしい。
ところどころに見える剣戟の跡。
矢じりこそ確認できないが、矢の傷もある。
それと、おそらく棍棒のような殴打武器もあったろう。
焼け焦げた場所は純粋に燃えたのか、はたまた呪いによるものか…。
ともかく、これほど激しい戦闘痕があるにもかかわらず、武器や骸が転がっていないのが実に不可解である。
目の前のぼろ船からは、全くもって人の気配がしなかった。
それはおろか、生物の気配すらない。
鼠一匹たりとも乗り合わせていないのだ。
胡乱。
誠に胡乱な船だ。
…だが、それだけである。
怪奇さに満ちたぼろ船ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。
人が乗っていない以上、一定の線を越えた警戒はする必要がない。
(ふむ。
おれの思い過ごし…。
ただの怪しいぼろ船かえ?)
と、半ば過ぎ去りつつある船を、アスラは警戒しつつも興味深そうに見ていた。
ぼろ船が半分以上通り過ぎたので、隠れていた船尾の部分が見えるようになった。
やはりボロボロに朽ちている。
むしろ船首の側よりも酷いかもしれない。
アスラがそんなことを思っていた、その時――。
アスラは見た。
船尾の一番後方、ボロボロの手すりに腰かける真っ白な髪の少女を。
(なんだと…)
アスラは驚きに目を見張った。
期を同じくして、月が雲間から姿をのぞかせた。
夜の帳が切り裂かれ、辺りに涼風が吹きこんだ。
アスラは一瞬だけ空の月を仰ぐと、また目の前に視線を移した。
しかしその時には、朽ちた船は影も形もなく消え失せていた。
波の音がいやに大きく聞こえた。
♢
「消える船、ですか…」
と、涼やかな声が発せられた。
栗色の綺麗な髪が揺らめいている。
声の持ち主たるセーレンが、何かを考えるように視線を泳がせた。
テーブルの上に転がされた手は、とんとん、と小気味よく机を叩いている。
「うむ。
消える船だ」
と、アスラは頷いた。
「き、消える船…」
と、柔和な声。
こちらも綺麗な茶の髪。
イマイである。
口元に手を当てておろおろとしている。
「ああ、そうとも。
消える船さ」
アスラはこれまた頷いた。
セーレンとイマイの呪い師衆が、うーん、と唸っている。
アスラは淹れられたお茶で喉を潤すと、顎に手を当てた。
そして、うーむ、と唸った。
辺りは唸り声だらけである。
例の船の一件から夜が明けた。
あの後アスラは、特に何事もなく番を終えた。
目の前で船が消えるなど異常事態ではあるが、こちらの船に異常はない。
寝静まっている者らを起こすこともなく、静かに夜を明かしたのである。
…とはいえ、あの不思議なぼろ船に対する好奇心は潰えていなかった。
確かに人の気配はなかった。
だが、人がいた。
白い髪の少女だ。
瞳は確か紅い色をしていたと思う。
服は青だった。
そして、その少女を乗せた船は陽炎のように消え失せた。
月を仰ぎ見た須臾の間に、である。
(いや、いや。
長生きはするものかもしれん。
消える船とは、これまた面白い)
と、アスラは思っていた。
日の出前に包帯を巻きなおし、手袋を忘れずに着けて鍛錬を行った。
型の鍛錬である。
半刻ほど汗を流した。
程もしない内に水夫らやドーブらが起き出し、朝餉になった。
その席でセーレンとイマイに会ったアスラは、昨晩の不思議な船の話をした結果、冒頭に戻るという訳である。
「いや、なに。
お前さんらは呪い師であろう?
消える船など、いかにもそれらしいと思ってな」
あれには参った、とアスラはけらけら笑った。
実際に驚嘆したのは間違いのない事実である。
目の前から突然消え失せるなど、尋常ではない。
下が地面であれば真似事ができなくもないが、礫や塵風などの余波はどうしても発生するので完璧ではない。
それに、あの状態で動いていられるというのも不思議だ。
島の入り江にあった廃船と比べてもいい勝負だというのに。
「水除の法、風送りの術、姿隠しの呪い…。
そういった類の魔術は比較的ポピュラーなものです。
その道の心得があれば扱えなくはないでしょう。
腕の良い魔術師が掛けた術は、しばしば自然の理さえも覆しますから…。
…ですが、船自体が朽ちているともなれば魔術の可能性は薄いですね」
と、セーレンが切れ長の目で見つめながら返してきた。
横に座っているイマイもセーレンの言葉に対し、うんうん、と頷いている。
子供のような仕草に少し癒されたのは秘密である。
「ほほう。
その心は?」
と、アスラは再度訊いた。
セーレンが、前に垂れてきた髪を手櫛で横に流しながら、
「一般的に、魔法船を造船する場合、材料に直接術を施す場合が多いのです。
刻印や、付加といった類のものですね。
船全体に対して雑多に術を掛けるよりも、要所要所に必要な術を掛けた方が確実ですから。
施された術は対象物に宿り、術自体が力を失うか、依る場所が破壊されない限りは効力を発揮し続けます。
今回、アスラさんが見た船はぼろぼろに朽ちていたという話ですから、仮になんらかの術が施されていたとしても、現在は効力を失っていると考えた方が自然…。
もっとも、よほど強大な力を持った術者が掛けた魔術ならば話は別ですが…」
と、流れるようにいった。
知的な印象のあるセーレンがものをいうと説得力がある。
今の話も理解できない箇所が幾らかあったが、なんとなく納得できるのだ。
アスラは、
「なるほど、なるほど。
見込みは薄いか。
おれはその手の知識には明るくないが、おまえさんが述べると説得力は存分だな…。
何かそういう呪いでも使っておるのかえ?」
と、狂言めいていった。
それを聞いたセーレンは、くすくすと上品に微笑むと、
「ええ。
何か術を使っているかもしれませんよ。
アスラさんも注意なさって下さい」
と、いった。
アスラは、おお怖いのう、と笑った。
蛇足であるが、セーレンやドーブといった者らはアスラに対して「ちゃん付け」をしない。
しているのは水夫連中のみである。
閑話休題。
そこで…。
「あ、あの…」
と、イマイが声を上げた。
アスラとセーレンの視線がそちらへと動いた。
伏し目がちなイマイであるが、この話題になってからはよりその傾向が強い。
「や。
イマイには何か心当たりがあるのかえ?」
と、アスラが、イマイの表情とは対照的に期待の色を隠さず訊く。
「あの、はい。
もしかして、です…。
そ、それって…幽霊船なんじゃないですか?」
と、イマイが恐る恐るといった感じでいう。
セーレンがそれを聞き、再び考えるような仕草を見せる。
アスラの翡翠の瞳に、一層の輝きが燈った。
「おおっ、船の幽霊で幽霊船か。
うむ、うむ。
言い得て妙じゃ」
そんな奇天烈なものまであるのか、とアスラは愉快そうに顎をなぶった。
なるほど、あれがこの世のものでないとしたならば、気配が感じられなかったのも頷ける。
いくら神経を研ぎ澄ませて気配を探っていたとしても、相手が幽鬼ならば仕様がない。
信じ難いことだが、あれらは肉体を保持しておらず、魂魄だけで存在しているという。
天界に昇ってゆかぬのは、下界に大きな未練があり、それが重しとなっているためだと聞く。
何にせよ、そんなものらなど管轄外もいい所である。
息もせず、汗もかかず、生命力そのものすら持たないものの気配など、どうすれば察知できるのか聞きたい。
(いわば、狡のようなものではないか)
と、アスラは思った。
そこで、背後に見知った気配を感じた。
顔を見るまでもない。
ドーブ・エットラである。
「お、幽霊船の話か?」
と、活気に満ちた低めの声が飛んだ。
ちらりと斜め上に視線を向けてみれば、鼻筋の通った明朗な笑顔がある。
きらきらと輝く碧い眼。
なめし皮を張ったような浅黒い肌。
短く整えられた勢いのある金の髪。
巌のような巍然たる体躯に、隆々とした筋骨。
どこをどうみても快活なこの男。
先ほどの会話を聞いていたらしい。
「おや。
ドーブも船の幽霊について知っておるのかや?」
と、アスラは上目づかいになりながら訊いた。
ドーブは、もちろんだ、と頷き、
「少なくとも、船乗りの連中にゃあ有名な話だぜ。
俺は用心棒なんてことをしてるから、その手の奴らと懇意になることも多いが、酒を飲んだら大抵そいつの話は出てくるな。
魔の海域に幽鬼の船は漂いたり、ってな」
と、いった。
イマイがびくりと肩を震わせた。
「魔の海域とな?」
「おうさ。
海の悪意が集うと云われている海域、悪霊の魔海。
そこじゃあ、毎年数えきれない程の船が不審な失踪をとげている…。
そして、発見される船は骸を乗せた廃船ばかり…。
魂を抜く呪いをかける悪霊がいるだとか、海の怪物が現れて人を食うだとか、想像を絶する天変地異が襲ってくるだとか…。
そうそう、呪いで魂を抜かれた奴は、悪霊の長の下で永遠に働かさせられるらしいぜ…。
悪魔の鞭で叩かれ、呪いの剣で切り付けられ、まさに無間地獄…。
…ともかく、そういう噂にゃあことを欠かねえ、怖ーい海さ」
と、ドーブ。
やけに大げさな口ぶりで、怖がらせようというのが前面に出た語り口であった。
へっへっへ、と訳の分からない笑い声をあげている。
嫌に眩しい笑顔もわざとらしい。
(ふうむ…。
何かあるな)
と、アスラは思った。
ドーブの細められた視線を追ってみれば、イマイにたどり着いた。
小さな手で耳を塞いでおり、目をぎゅっと瞑っている。
心なしか顔が青い気がする。
セーレンの睨むような、ジトッとした目が視界の端に映った。
(なるほどな。
まったく、こ奴は…)
ことに勘付いたアスラも、ドーブにジトッとした視線を向けた。
どうやら、この手の話が苦手なイマイをからかったらしい。
喜々としてやっているあたり、悪気はなさそうだ。
どこまで子供っぽいのだろうか。
「やれやれ…。
童か、お主は」
と、苦言を呈し、半目になりながら溜息を吐くアスラ。
「ええ。
この辺りが軽率というか、なんというか。
奥方も苦労なさっているのでしょうね…」
と、イマイの頭を優しく撫でる一方で、棘のある口調をドーブに向けるセーレン。
二人の冷たい視線がドーブを襲う。
周りで見ていた人らも、事情を察してドーブを睨んでいる。
後から駆け付けたらしいトッテの姿も見え、同じくドーブを冷たく見据えていた。
孤立無援。
四面楚歌だった。
「いや、なんだ…。
ついカッとなってだな…。
えと、すまん。
反省してる……」
と、ドーブが、か細い謝罪を口にした。
空気が少し和らいだ。
航海五日目。
本日も一行の船旅は順調である。
次回の〈東の玄関口〉で、またお会いしましょう。
7月6日 加筆修正
同日 誤った表現の箇所を修正 ビロード(布)→ビードロ(ガラス)




