一章(一) 大海原を越えて 上
船に乗ってから三日が経った。
航海は実に順調である。
これまでの天気は悉く快晴であり、船を浮かべる海原も静かだ。
白波をかき分けながら、今日も船は進む。
一杯に張られた帆で風を受け止め、小山のような木の塊が、風下へ、風下へ動いて行くのだ。
これは少し面白いことである、とアスラは思う。
時に、船の上とは退屈なものである。
初日や何かは、船の中や外を縦横に駆け回っていたアスラであるが、流石にもう飽きた。
見える景色は一様で、なんの変化があるわけではない。
剣を振るっても良いが、甲板の広さを考慮に入れると、せいぜい型の鍛錬がいい所である。
動いている船からでは釣り糸を垂らすこともできないし、笛を吹くような気分でもない。
つまり、である。
退屈なのだ。
それはそれは退屈なのである。
暇を持て余したアスラは、例の如く日向ぼっこに興じている最中であった。
(おお…。
なんという気持ちよさ。
揺籃の中にあるようだ…)
アスラは包帯まみれの顔を蕩けさせながら、そんなことを思った。
甲板にごろりと寝そべっている。
細い縄の束を枕にして、四肢は大の字に開かれている。
ここ数日、日の出ている間はいつもこの有様である。
ドーブに爺臭いと揶揄されたが、笑って飛ばした。
アスラは、揺れる船を大いに気に入った。
始めのうちは船酔いという船乗りの病のことが頭を過ったが、今となっては恐れるに足りない。
全く酔わないのだ。
どうにも、アスラには船酔いの耐性があるらしかった。
酔わないと分かってからは、この船の揺れを楽しめた。
右へ左へ。
あるいは、上へ下へ船は揺れる。
なんともいえないような心地よい蕩揺は、正しく揺り籠のそれと変わらない。
童心に帰る訳ではないが、本能的な安息を得られるのだ。
その安息に、暖かな陽光が加わればどうか。
いうまでもない。
絶好の日向ぼっこ日和となるのだ。
一介の老爺であるアスラ・カルナにとり、これほどの駘蕩のなかにあって、日向ぼっこをする以外の選択肢など存在しないに等しい。
…と、いいきると、流石に過言である。
だが、事実として他にすることもない訳であるし、爺らしくのんびりと構えよう、というのがアスラの本心であることに違いはなかった。
腹が空いてきたような気がした。
腹部を撫ぜてみる。
反応はない。
しかし、どことなくひもじい。
腹の虫は鳴いていないようだが、彼奴が巣食う臓腑は食物を欲している。
陽の位置を見てみても、おおよそ中天にある。
昼餉にしても良い時間ではなかろうか。
アスラはムクリと起き上って、伸びを一つした。
湿潤な海風が全身を撫ぜる。
三つ編みがそれに流される。
透き通った滄瀛が彼方まで広がり、遠くの空と繋がっている。
波を裂く音が耳に届き、皮のブーツが木を踏みしめる音が聞こえ、縄が軋む音が鳴った。
船は、海原の中に浮かんでいる。
この、果て無い青の中に浮かんでいる。
そして自分はそれを渡り、新たな大地を望もうとしている。
新天地では、きっと予想もできないような冒険が待ち構えているだろう。
想像もできないような珍味や、味わったことのないような酒もだ。
どきん、と胸が高鳴った。
高揚を抑えるため、くしゃりと服を掴んだ。
アスラはにっこりと笑った。
見飽きた海だが、そう思うと楽しくて仕方がない。
旅とは、これほどまでに甘味なものか。
(ああ、そうに違いない)
と頷き、アスラは後ろを振り返った。
すると、水夫らが何やらやっている光景が目に飛び込んできた。
船の中央に人が群がっている。
アスラが寝そべっていた所、つまり現在地は、舳先の方である。
マストがそそり立っている中央は凹んでいるので、群衆を上から見下ろす形となった。
水夫らは、木を組んで作った樽に腰かけ、何人かで向かい合わせになっている。
台のようなものを囲んでいるらしい。
よくよく見れば、内の一人はドーブ・エットラである。
一体何をしているのか。
アスラは興味が湧いた。
階段の手すりに跨り、つるりと滑り下りた。
♢
トントンと軽快な足取りで人海に近づいてゆくと、水夫の一人がこちらに気付き、
「お、アスラちゃん起きたのかい」
と、声をかけてきた。
アスラは、
「うむ。
先ほどな」
と、相槌をうって返した。
水夫は、そうかい、そうかい、とはにかんだ。
アスラも、そうともさ、と微笑んだ。
このやり取りで、群がっている幾人かの水夫がアスラに気付いて手を振って来た。
アスラも手を振り返した。
その後も、水夫らに手を振られたり、「アスラちゃん」などと呼ばれるアスラ。
各々の者らに対し、返事をしてゆく。
アスラの本意ではないが、ここ数日ですっかり人気者となってしまったのだ。
物珍しさからのことだろうが、邪険に扱われるよりは余程マシである。
アスラに対する「ちゃん付け」であるが、今に始まったことではない。
航海一日目の晩のことである。
陽が沈んだのでアスラが顔に巻いた包帯を取ると、その場にいた水夫らが一様に驚いた。
アスラの素顔を見たためである。
おお、などと言っていた者もいた。
これは、なぞと息を呑む者もいた。
アスラは、またおれの顔か、と溜息をついたものである。
素顔騒ぎは瞬く間に船中へ広がった。
もともと娯楽の少ない船上である。
うってつけの話題であったのだろう。
いつしかアスラの周りには、水夫らによる人だかりができていた。
アスラが、こ奴らは暇じゃのう、なぞと思っていると、一人の水夫が、
「こりゃあ、アスラさんじゃなくて、アスラちゃんのがいいな。
そっちのが可愛いし、堅苦しくないし」
と、いった。
それが発端であった。
群がっていた水夫らも、その意見にうんうんと頷く。
全会一致である。
アスラに対する「ちゃん付け」は、こうして始まったのである。
恐らく、水夫らに悪気はない。
良かれと思ってそうしたのであろう。
自身の容姿が幼いものであるのは、アスラも重々承知していることなのだ。
アスラ本人としても、違和感はあるものの、特に不快ではない。
やめさせるほどのことではないのだ。
よって、現状に甘んじているのである。
そういえば、ドーブ・エットラが「ちゃん付け」を相当に面白がっていたことを思い出す。
騒ぎを聞きつけて現れたあの男は、事情を知るなり大笑い。
つぼに入ったのだろう。
はっはっは、アスラちゃんか、こりゃあいいや、と腹を抱えていた。
まあ、なんとも愉快な男である。
あれのいる家は、いつも笑顔が絶えないに違いない。
ドーブの娘もきっと、明るく溌剌とした女子になるのだろう。
アスラがそんなことを考えていると…。
「はっはっは。
寝る子は育つなんていうがアスラの嬢ちゃんは、ちっと寝過ぎかもな」
と、一人の大柄な水夫が、からかうようにいったのが聞こえた。
ふむ、とアスラは顔を上げた。
最初に声をかけて来た水夫も、無精ひげを弄りながら、
「そうそう。
船の上は暇だから仕様がないとはいえ、一日中寝そべっていたんじゃあな。
そのうち寝っきりになっちまうぞ」
と、笑っていた。
アスラは、どうでもいい考えを打ち消した。
せっかく話し相手がいるのだから、談笑をすることにしたのだ。
水夫らは陽気で話も面白いし、なにより会話は楽しい。
話し相手がいるというのは、幸福なことなのである。
「おお、耳が痛いことだ。
しかし、やはり退屈でな。
陽気も麗らかなことであるし、どうにも寝そべりたくなってしまうのさ」
と、アスラはおどけて返し、けらけら笑った。
水夫らとアスラは、なんにしても今日は全くもっていい天気だ、なぞといって笑いあった。
こういった何気ないやりとりが楽しい。
意味などはいらないのだ。
暫くして笑いを収めたアスラは、水夫らの後ろを指さすと、
「ところで、あれは何をしておるのだ?」
と、訊いた。
これが本題である。
「うん?
おお、あれか」
と、水夫は後ろを見やった。
水夫の後ろでは、相変わらずドーブらが何かに興じている。
何をしているのかは群がる水夫らでわからない――身長が小柄だという要因も、小指の先ほどある――が、縄の軋む音や帆が揺れる音に混じって、ちゃかちゃか、という音が聞こえる。
何か小さなものを転がしているようだ。
群がる水夫らは、中央の者らに声援を送っているらしい。
実に気になる。
「うーん…。
アスラちゃんには、まだ早いな」
と、目の前の水夫が唸った。
ちげぇねえ、と隣の大柄な水夫もにやにやしている。
アスラは小首を傾げた。
何が早いのだろうか。
まさか速度ということはないだろうから、年齢であろうか。
ともかく…。
「なにが早いのだ?」
と、尋ねてみた。
これが一番早い。
目の前の水夫は、ぽりぽりと頬を掻くと、
「あー、なんだ…。
まあ、早いというか何というか…。
アスラちゃんみたいな女の子には似合わないんだよ」
と、困ったように答えた。
なんだそりゃあ、と隣の水夫が笑いながら茶々をいれている。
目の前の水夫は、うるせぇ、といってそっぽを向いてしまった。
アスラはもう一度小首を傾げた。
非常に抽象的な回答である。
似合わないといわれても、今一つピンとこない。
「うーむ…。
つまり、年齢と性別が問題なのかえ?」
と、水夫らに訊いた。
「まあ、そんな所さ。
アスラの嬢ちゃんには色々似合わねぇよ」
と、大柄な水夫が答えた。
なるほど。
やはり、年齢、性別に制限がある催しらしい。
…だが、だとすれば、それは杞憂である。
その規制に引っ掛かったのは、アスラの幼い容姿が原因であろう。
アスラ本人にいわせれば、外見など、さほど重要なものではない。
女子のような外見の男子だっているし、老けた顔をした若人だっているのである。
人の本質は外観ではなく、その中身にあるのだ。
事実として、中身を考慮すれば、アスラはその条件を悉く満たしているといっていい。
歳だってこの者らの倍くらいはあるし、相棒こそ失ったものの、精神は紛れもない男なのだから。
全く問題がない。
アスラは、うむ、と一つ頷くと、
「ならば問題はないぞ。
おれはこう見えても六十五の爺であるし、女なぞというのもお飾りに過ぎん」
と、胸をはっていった。
水夫らは、そんなアスラを微笑ましげに見つめると、
「そうかい、そうかい。
ま、興味があるんなら仕様がねえや。
俺らにアスラの嬢ちゃんを止める権利なんざねえからな」
と、大柄な水夫がいい、
「まあ、そうだよな。
ちびっと背伸びしたい年頃なのかもしれんし…」
と、始めに声をかけてきた水夫がいった。
子ども扱いなのが気になるといえば気になるが、まあ問題はない。
今に始まったことではないのだ。
そもそも、このちんちくりんな容姿では威厳もへったくれもない。
「おお、では覗いてよいか」
と、アスラは空腹のことなど忘れて、うきうきとした声で尋ねた。
水夫らは、ああ、いいとも、と快く頷いた。
すると、大柄な水夫が近寄ってき、よっこらせ、とアスラを担ぎ上げた。
グンと視線が高くなり、群がる水夫らの壁を悠々と越えた。
股の間には水夫の頭がある。
俗にいう肩車である。
(ふむ…)
…なんであろうか。
これは恥ずかしい。
肩車なぞ、不意打ちにも程がある。
思わず、こ、これっ、なぞと小声で叫んでしまったのは不可抗力だ。
六十五にもなって何をされているのだろうか、とアスラは溜息をついた。
どれもこれも、身長が縮んだのが悪いのだ。
しっかりと寝て身長を伸ばさねばならぬ、とアスラは固く誓った。
「ほれっ、嬢ちゃん見えるか?」
と、大柄な水夫。
「おお、見える、見える。
何かを転がしとるのう」
と、羞恥心を気迫で抑え込んだアスラ。
肩車によって視線が随分高くなったので、ドーブらが良く見える。
やはり台を囲んでいる。
台は木箱である。
それの四方を囲むように四人が樽に腰かけている。
木箱の中央には正方形の板が置かれており、その板目掛けてなにやら小さなものを投げつけているようだ。
それの結果によってなのか、コインがやりとりされている。
雰囲気でいえば賭博だろうか。
「ふむ…。
賭け事かえ?」
「お、ご名答。
〈賽の目運試し〉…つっても分からねえか」
ディーチェ・デアーエ。
賭博の名前であろうか。
いずれにしても知らない。
「うむ。
全く分からんな」
と、アスラはけらけら笑った。
下の水夫が、賽子とやらを知っているか、と尋ねてきた。
聞いたことがない。
しかし、どこか面白い響きの言葉だ。
アスラは、知らぬ、と返した。
それを受けて水夫がサイコロの説明を始めた。
曰く、小さな六面体である。
曰く、それぞれの面に数字が彫ってある。
曰く、これを使えば様々な遊戯ができる。
「賽の目運試しってのはな、そのサイコロを使った遊戯なのさ。
あの板の上に賽を振って、その出目によって役を拵える。
その役の良し悪しによって勝敗がつく」
「ふむ…。
なかなか面白そうな遊戯だな」
「おうさ。
結構ポピュラーなゲームでな。
賭け事といえば、ディーチェ・デアーエってなもんなのさ」
なるほど、相当に有名なゲームらしい。
世間知らずが見事に露呈してしまった。
しかし、である。
これが賭け事だとすると…。
「のう、あれは金かえ?」
と、アスラはやり取りされているコインを指さしていった。
「そうだぜ。
ありゃあ、銅貨っつう金だよ」
と、水夫は頷いた。
「おお、あれが…」
なるほど、推測は誤っていなかったらしい。
あのコインが「金」。
物々交換における物の代わりを果たし、外の人間の糧となる不思議な金属片。
外では、この「金」を用いることで、大抵のものは揃えられるという。
「のう、一枚見せてはくれんか」
と、水夫にいってみた。
水夫は、おう、いいぜ、とポケットに手を突っ込むと、金を一枚取り出した。
すまぬな、といって金を受け取る。
手に取ってまじまじと眺めてみた。
一言で表すならば、なんの変哲もないコインである。
銅貨といっていたので、材質は恐らく銅。
大きさは直径一エルデほど。
片面にはなにやら肖像画が、裏面には紋章のようなものが描かれており、ピカピカと赤銅色に瞬いている。
アスラからすれば綺麗なコインでしかないのだが、これで物々交換が成立するというのだから驚きだ。
「ふうむ…。
これで肉や酒が得られるのか…」
と、アスラは呟いた。
下の水夫が、はっはっは、と笑った。
「嬢ちゃんは色気も十分だが、食い気もすげえな」
「うむ。
色気がどうのというのは知らぬが、美味いものは大好きだ。
無論、酒も嗜むしな」
と、アスラも笑って返した。
この身体になってからというもの、食事が楽しくてしかたがない。
何を食っても、何を啜っても美味いのだ。
一月ほど前とは格段の差である。
それに、この身体の小さな舌は性能が良いらしく、食物の深みをよりよく味わえるのだ。
これには、精霊様にいくら感謝してもしきれない。
「くっくっく、そうだろうな。
嬢ちゃんの初日の酒豪ぶりには、みんな唖然としてたぜ」
と、水夫がいった。
アスラは、鼻の頭をちょいちょいと掻くと、
「やや、面目ない。
余りに葡萄酒とやらが美味いものでな…」
と、恥ずかしげにいった。
これも航海初日のことである。
アスラの素顔騒動の後、夕餉になったのだが、そこである酒が振る舞われた。
葡萄酒である。
アスラは、血のような色をした酒に興味津々で、振る舞われるや否や早々に口をつけた。
刹那、アスラに衝撃が走った。
美味いのだ。
葡萄酒は、葡萄という果物から作られるらしいのだが、これまた風味が格別に良い。
舌に残る甘さ。
喉を突く酸味。
余韻として残る柔らかな渋味。
そして、果実酒特有の爽やかさ。
アスラの今まで飲んできた酒とは種類が違った。
あまりにも美味いので、ぐびぐびと浴びるように飲み、気付けば一樽を丸々空けてしまったのだ。
これには、ネルガン・デービスも苦笑い。
ドーブやセーレンも呆れていた。
船の料理人にも、ちょっぴり怒られてしまった。
これには猛省したものである。
もっとも、水夫らは飲みっぷりに感心したらしく、やるな嬢ちゃん、なぞといっていたが…。
「ちきしょう、負けたーーっ!」
と、船中に聞こえるような大声が響き渡った。
台を囲む水夫らの笑い声や野次も、一層強くなった。
何事かと視線を向けてみれば、木箱の上にドーブが突っ伏している。
物憂げな表情が印象的だ。
聞き耳を立ててみれば、どうやら賭けに負けたらしい。
大勝負に出た所で討ち取られたようだ。
対面の水夫がにやにやしながら金を受け取っている。
アスラは、くすくす笑いながら、うむ、と頷くと、
「あれは笑いの神に愛されておるな」
と呟いた。
「うん?
どうした?」
下の水夫が不思議そうな顔をした。
「いや、なんでもないよ」
と、アスラはにこにこ返した。




