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守り人は眠らない  作者: ボノボの親戚
序章 巣立ちまで
10/18

序章(十) 船出

 


 アスラ一行はその後、食べられる(きのこ)や果物、菜などを採って森を出ることにした。

 迅速(じんそく)にせねば、肉が傷んでしまうからだ。

 討ち取った十二もの獣らは、アスラが全て背負っている。

 軽く血抜きを済ませると、辺りにあった(つる)で縛り上げ、一纏めにしたのである。

 多少重かったが、大した問題ではなかった。

 傍からみれば、恐るべき怪力である。


 帰り際、血の匂いに誘われた獣が襲ってきたこともあったが、それは例外なくドーブが仕留めた。

 大抵は一太刀の下に叩き伏せ、トッテらの支援も必要としなかったのである。

 やはりというか、なかなか(・・・・)の腕前だ。

 結果、浜に着く頃には、アスラの背負っている獣は十六にもなっていた。


 浜に着くと、ネルガン・デービスに驚かれた。

 アスラが山のように獣を背負ってきたからである。

 随行の者らも仰天していた。

 デービスは、髭を(なぶ)りながら、


「おおっ、なんという怪力。

 小山が動いているのかとおもいましたぞ。

 アスラ殿は、剛力無双(ごうりきむそう)もいけそうですな」


 と、豪快に笑った。

 その後、ネルガン・デービスはセーレンを呼びに行くといって、船へ引き上げた。

 準備とやらが終わったのかえ、とアスラは思った。


 皆で獣を捌くことになった。

 十六もの数があるので、ひと仕事である。

 来訪者らの内、ほとんどの者は戦力にならなかった。

 手際が悪すぎるのだ。

 この程度、子供でもできることである。

 実際にアスラも、三歳になる頃には、父が狩ってきた獣を捌く手伝いをしていた。

 アスラは、半目になって、 


「何を手間取っておるのだ」


 と、思わず呟いた。

 これにドーブが、


「いやいや、誰にでもできることじゃあねえよ」


 と、呆れたような声を出した。

 …が、そういったドーブは、しっかりとできている。

 多少要領が悪いような気もするが、問題なく捌けているのだ。


「そういう、お主はできておるではないか」


 と、アスラは獣を捌きながらいった。

 またドーブが反応し、


「あんたは、狩猟民ってやつだろ?

 この島じゃ、こういうことは必須の技術かもしれねえが、外じゃそうでもないのさ。

 得意なやつがやればいい。

 まあ、俺はできちゃうけどな」


 と、いった。

 若干の自慢が入っているのは、無自覚のことであろう。


 (ふうむ…。

 文化の違いか。

 それとも、外の人間は不器用なのか?)


 と、アスラは思ったが、無論、口には出さなかった。


 程なく、全ての獣が捌き終わった。

 それのほとんどが、アスラとドーブによるものである。

 あとは、トッテと乳好きのクレントが少々だ。

 捌き終わったのだから、いぶす必要がある。

 十六もの数となると、集落にある大型の燻窯(いぶしかま)でも収まりきるか怪しい。

 ここにきてアスラは、


 (ううむ、少々張り切り過ぎた。

 一気に狩りすぎだ。

 これは失敗だったのう)


 と、後悔した。

 いぶすのにはかなりの時間が必要となる。

 そのあいだ、余った肉は当然放置されることになってしまう。

 腐ってしまうのは自然の摂理だ。

 そんなことになれば、足鳥(イエー)の一羽でも勿体ない。

 こうなったら、他の集落の窯を用いるしかないか、とアスラは考えた。

 むんずと立ち上がり、 


「お主ら。

 これらの肉はいぶすのであろうが、この数となっては窯に入りきらん。

 おれが幾つか別の窯にもっていくゆえ、あとの処理は自分らでやっておくれ」


 と、アスラが幾つかの肉を持って行こうとすると…。


「いえいえ、それには及びません」


 と、ネルガン・デービスがセーレンを伴って現れた。

 にこにこと微笑んでいる。

 それには及ばないとは、どういった料簡であろうか。

 まさか、驚異的な収納術で肉を収めきろうという訳ではあるまい。

 まず、これらは集落の窯の大きさをしらない筈なのだ。 


「ふむ、それはどういうことかえ?」


 というアスラの質問を受けたデービスは、


「これらの肉は、燻して燻製(くんせい)にするのではなく、凍らせて保存するのです」


 と、いった。

 凍らせる、とはどういうことだろうか。

 いや、まず、凍るとはなんだ。

 何か特殊な状態にするのは分かるのだが、どういった方法で、どういった状態にするかが、全く計り知れない。

 外の世界の特殊な保存方法であろうか。

 であれば、是非(ぜひ)とも目にしたいものである。


「ほほう、どうするのじゃ」


 アスラは興味津々で()いた。

 ネルガン・デービスは、伴ってきたセーレンに何やら命じた。

 よく見ると、セーレンは手に布のようなものを持っている。

 そして、それが広げられた。

 アスラはよくよくそれを観察した。


「ふむ…」


 布である。

 材質は高級そうで、艶めいている。

 大きさは、縦と横にそれぞれ五十エルデほどか。

 それなりに大きなものでも包めそうな布だ。

 なにより目につくのは、それに(えが)かれた紋様(もんよう)である。

 数個、数種類の円が互いに重なり、伸び、直線に交わったと思えば、また離れる。

 実に細密で幾何学的な絵だ。

 しかし、この奇妙な紋様の描かれた布で、一体何をしようというのか。


 セーレンは、その布を地べたに()いた。

 そして、ドーブを呼び止めると、捌いた肉の一つを持ってこさせた。

 肉を大きな葉っぱの皿に乗せると、それを布の上へと置いた。

 葉の皿に乗せたのは、おそらく下の布を汚さないためだと考察できる。

 セーレンは、布の近くまで歩み寄った。


 (まさか、肉をさらにあの布で包もうというのではないだろう。

 (まじな)いだ。

 (まじな)いをするつもりだろう)


 と、アスラは検討をつけた。

 果たして、それは間違いではなかった。

 セーレンは、布の端に軽く触れると、何やら歌のようなものを歌った。

 いや、歌のように聞こえる何かを(とな)えた、が正しいのか。

 ともかく、美しい声である。

 アスラの耳に、セーレンの歌声と波の潮騒が(しばら)く響いた。

 そして、セーレンがそれを歌い終えた刹那であった。


「な、なんだ!?」


 と、アスラは驚愕した。

 肝をつぶしたからか、辺りの空気が寒く感じられる。

 捌いた肉が一瞬のうちに水晶(・・)になったのである。

 正確には、肉が透けて見えるので、閉じ込められたのか。

 魔法とは、本当になんでもありだな、とアスラは思った。


「おお。

 見事、見事。

 さすがはセーレン・へストリングスといったところだ」


 と、ネルガン・デービスは愉快そうである。

 ここで、アスラは疑問を持った。

 確かに水晶(・・)の中に閉じ込めれば、肉の長期保存がきくだろう。

 しかし、なんでわざわざ水晶(・・)を作る必要があったのだろうか。

 他に何か手段があっただろう。

 水晶(・・)の中に肉を入れるなど、普通はしない。


 (しかし、なぜだか寒いな…)


 と、アスラは思った。

 気のせいではなく、あたりの気温が下がっているように思われる。

 空を(あお)いでみても、太陽は燦々(さんさん)と地に熱を注いでいる。

 それを遮る雲も存在していない。

 海から吹いてくる風も、温暖そのものといっていい。

 気候は変わっていない。

 アスラは気づいた。

 水晶(・・)である。

 目の前の、この、いやに透き通った水晶(・・)から冷気が流れているのだ。

 よく見ると、霧のようなものが(はっ)せられている。

 アスラは、


「なんだ、あの水晶は…」


 と、心に浮かんだ疑問をそのまま口に出してしまった。

 これに答えたのは、ネルガン・デービスである。


「やや、アスラ殿は(こおり)をご存知でないのですかな?」


(こおり)、とな?」


 デービスは大きく頷くと、


「そうです。

 水が固まったものです。

 水は冷えて固まると、あのような氷になるのです」


 と、信じられないようなことをいった。

 水が固まる。

 それは、ありえることなのであろうか。

 水は、流れ、変わり、留まらぬものである。

 海が凡例(はんれい)だ。

 海が固まるような光景など、想像できるものではない。


 アスラは、吸い寄せられるように、氷の下へと歩いていった。

 近づくにつれ、肌を刺す寒さも増してゆく。

 こんなに寒いと思ったのは、人生で初めてである。

 アスラは氷を覗き込んだ。

 薄らと顔が映りこんだ。

 やはり、水晶によく似ている。

 ぺとりと、指で触れてみた。

 手袋越しにひんやりとした感覚が走り、すぐに指を離した。


「お、おお…。

 なんだ、なんだ!

 これは、なんだ!」


 アスラは面白くなった。

 指を氷につけた。

 やはり冷たい。

 指を離す。

 その指を顔に当ててみる。

 これでも冷たい。


「おお、おお、冷たい!

 冷たいぞ、これは」


 と、アスラは年甲斐もなくはしゃいだ。

 まるで、身長相応の子供のように。

 アスラは知らない。

 ドーブやネルガン・デービス、セーレンといった者らが、非常に微笑ましいものを見る目でアスラを見ていたことを。

 アスラはその後、氷が溶けるということを注意されるまで、淡々と氷で戯れていた。




 ♢




 日が真上へと登った。

 件の肉は、全て氷にされた後、船へと運び込まれた。

 運び込むのは水夫らがやった。

 仕事をしなきゃ、金が貰えないんでね、と中年の水夫がいっていた。

 手伝おうかと()くと、いいや大丈夫だいうので、アスラはそうかえ、と微笑んで返した。

 手が冷たいらしく、おお、つめてえ、などといっている光景は中々に面白かった。


 来訪者らが、島を()つらしい。

 食糧の運び込みが終わると、ネルガン・デービスらがアスラの下を訪ねた。

 ドーブもセーレンも、トッテもイマイもいた。

 ここで、島を出発するという意を伝えられたのだ。

 食糧を積み込んだので、航海の準備が整ったらしい。

 アスラは、そうか、そうか、と、けらけら笑った。

 ネルガンは、何度も何度も感謝の言葉をいい、何かお礼ができませぬか、といった。

 アスラはやはり、やんわりと断った。

 しかし、此度(こたび)はデービスが引き下がらなかった。

 どうしてもお礼がしたい、という。

 ドーブやセーレンらも、礼をさせてくれということだった。

 これにアスラは困った。


 (ううむ、どうすればよいかな?

 断るというのを一徹してもよいが、それではこ奴らの顔が立たぬ。

 かといって、特に欲しい物もない。

 やや、実に困った…)


 そんな時、(うしお)の音が耳へと流れ込んできた。

 アスラはふと、来訪者らの船を垣間見た。

 良い船である。

 あれであれば、広大な海原を渡り切れるに違いない。

 そして、新天地に巡り合えるに違いない。


 (強いていえばあの船が欲しいが…。

 そのような無理な要求などできる筈がない)


 アスラはううむと唸った。

 しかし、デービスは、アスラの一瞬の目の動きを見逃さなかったらしく、


「やや、あの船が欲しいのですかな」


 と、笑いながらいった。

 図星である。

 アスラは表面上平静を装いつつ、内心で仰天した。

 この男、やはり只者(ただもの)ではないらしい。

 あの僅かな挙動でそれをいいあてるとは、見事な洞察である。

 多分の予想も入ってはいるだろうが、とはいっても生半可なことではない。

 アスラは、


「おお、ご名答」


 と、正直に答えた。


「これは、これは、困りましたな。

 あの船をアスラ殿にやってしまえば、我々の移動手段がなくなってしまう」


 ネルガン・デービスは、困ったような顔をして、米神の辺りを擦った。

 当然の反応といえる。

 船をくれなど、いい度胸である。

 この者らの大きな船が、どれほどの時間と労力を費やして完成したかなど、聞かなくとも察せることだ。

 それでなくとも、細工の細かい船なのだから。


「アスラ殿は、なぜあの船がほしいのですかな?」


 ネルガン・デービスである。

 アスラはけらけら笑うと、


「はっはっは、これは完全な私情(しじょう)なのじゃが…」


 と、前置いていった。


「おれは旅に出ようと思っておってな。

 島を出るのに船がいるのだ。

 大海を渡るのは、至難であると聞く。

 今、直している船もあるが、少々心許ない。

 だが。

 お主らの船であったら。

 あの立派な船であったら。

 (くだん)の海を渡り切れるのではないか、と思ってな」


 いい終って、アスラは顎を撫でた。

 その場にいる者らは、皆、無言である。

 顔を見合わせている者もある。

 ここでドーブがいった。


「なあ、アスラさん。

 つまりさ、この島を出たいんだよな?」


 アスラは、如何(いか)にも、と頷いた。

 ドーブは半笑いを浮かべると、


「だったらよ。

 デービスさんの船に乗っけて貰えばいいんじゃねえか?」


 と、呆れたようにいった。

 沈黙が下りた。

 アスラはキョトンとしていた。

 乗せてもらう。

 船に乗せてもらうだと。

 この者らの船に。


 (……それは)


 名案である…。

 なぜ、思いつかなかったのだろうか。

 そうだ。

 そうである。

 乗せて貰えばよい。

 この者らの船に。

 そうすれば、いとも簡単にこの島を出れるではないか。


「そうか、そうか。

 それはよいな。

 やや、天啓(てんけい)だな、ドーブよ」


 と、アスラは喜色満面である。

 今にも踊り出しそうだ。

 これを見たドーブは、


「…やっぱり、アスラさんは天然だな」


 と、呟いた。


「デービス殿よ。

 おれを、あの船に乗っけてはくれぬかな?」


 アスラはデービスの目を見ていった。

 それを受けたネルガン・デービスは、はっはっは、と豪快に笑うと、


「おお、一向に構いませんぞ。

 アスラ殿には大恩がある。

 断る理由がありませんな」


 と、いった。


「やや、なんと、なんと。

 これは僥倖(ぎょうこう)だ。

 では、さっそく準備をしてこなければ。

 デービス殿、時間の方は幾らか余裕があるかね?」


 と、アスラは()いた。


「ええ。

 押し気味ではありますが、死活問題ではありませぬ。

 それに、恩人の頼みです」


 と、デービスは人懐っこい笑みを浮かべた。

 ドーブらも、爽やかに笑っている。


「うむ、かたじけない。

 少し時間を貰うよ」


 と、アスラは告げて家へと駆けだした。


 あまり待たせる訳にもいかないが、それなりに時間は必要だ。

 薬草や食糧などの用意は済ませてあるので、それはそのまま持って行けばいい。

 細かい道具などは、改めて用意しなければならない。

 なにより、この島に別れを告げなければならない。

 長年暮らした家にも。

 家族や友の墓にも。

 そして、精霊様にも――。




 ♢




 アスラは家へ着くと、すぐさま準備を開始した。

 薬草や生薬を詰めた袋。

 数着の着替え。

 包帯の替え。

 短弓(たんきゅう)と、それに(つが)える幾らかの矢。

 水を入れる革袋。

 火打ち石。

 小型の鍋。

 そして、短笛(たんてき)


 アスラは、用意した荷物を確認し、うむ、と頷いた。

 これで持ち物は粗方問題ないといえる。

 携行用のナイフやら愛剣やらは、既に身に着けているのではぶく。

 日焼け防止の手袋もだ。


 荷物を一纏めにすると、家の前へと置いた。

 忘れないためである。

 自宅の前へと置いておけば、どんなことがあっても忘れずに持って行けるだろう。

 アスラは、もう一度だけ荷物を確認した。


 荷物を家の前に置いたのには理由がある。

 アスラは今から森に入るのだ。

 森の深奥へと赴き、精霊の木に(まみ)えるつもりなのである。

 島を出るときには、必ず挨拶をしてから旅に出る、とかねてから腹に決めていた。

 これは、けじめだ。

 アスラが出て行けば、守り人は本当にいなくなる。

 四千年を越える守り人の歴史に、真の終止符が打たれるのだ。

 ゆえに、これは絶対に避けては通れない。

 守り人は、精霊の木と共に歩んできたのだから。




 ♢




 視界に映るのは、茶と緑の群れ。

 それが、滔々(とうとう)と流れる川のように過ぎ去ってゆく。

 上半分が深い緑であり、下半分が(おおむ)ね茶である。

 緑や茶のものは、木の枝と幹、そして、葉と苔である。

 アスラは、生い茂る巨大な木々の枝から枝へ飛び移り、森の奥へと進んでいた。

 その軽妙さは、(ましら)などとは比べ物にならない。

 まるで、一陣の風である。


 辺りの木は、奥へと進むにつれ、太く、大きくなっていっている。

 森に生い茂る木は、そこいらに生えている木とは違う。

 全然違う。

 何が違うといえば、第一にその大きさだ。


 森の木は、全体的に大きい。

 外れの方にある一番小さな木であっても、普通のそれの倍はあると見てよい。

 森の深部に入れば、天を衝くような巨木もある。

 それは年輪の多さとは違う。

 森の環境・・を考えれば、むしろ、若い木が多いかもしれない。

 かといって、樹木の種類が違う訳でもない。

 森の木は、単純・・に大きいのだ。


 ()いで挙げられる特異点は、森の木々の生命力である。

 これは森の木が巨大だという点と、大いに関わりがあるといってよい。

 森では、しばしば獣同士の争いがある。

 そこらにいる小獣のそれであれば可愛いものだが、そうでないものらもいる。

 跋扈している猛獣どもや、森の深奥に巣食う黄虎ピラ・バガらだ。

 彼奴(きゃつ)らが、縄張り争いでもしようものならどうか。

 巨大な木はへし折られ、地は(えぐ)られ、湧水は枯れ、森は死んでしまう。


 …だが。


 流れゆく景色を見れば一目瞭然であるが、森は青々と茂っている。

 倒木などは確かにあるが、苔で覆いつくされていたり、他の木の根に絡みつかれていたりと、生命の連鎖は滞っていない。

 ここもかなり深いところなのだが、荒涼とした場所など全く存在していないのだ。

 トッテが、生命力に満ちているといったが、あれは(まさ)しくその通りだ。

 森は、生命力に溢れている。

 いや、満ちすぎている。


 木が数本折れれば、普通そこは開けた土地になる。

 当然、元の景観に戻るには長い年月が必要となるというのが自然だ。

 実際に、森の外にある木を切ったとしても、そこには切り株が残るだけである。

 しかし。

 この森は。

 深奥に精霊の木がする、この森はどうか。

 切り株から芽吹いた緑の命は、ひと月もしないうちに大木へと姿を変える。

 摘み取った果実は、翌日には実っている。

 枯れたと思った泉や沼は、場所を変えて再び湧き出す。

 森の深部は、それがより顕著だ。


 精気マナとやらが、生命の根源で、ここはそれで溢れていると、ドーブやセーレンはいっていた。

 アスラは、目で見れて、耳で聞こえて、肌で感じ取れるもの以外は、基本的に信じないクチだ。

 精気マナの件も、感じ取れてはいないし、視認もできていないので、信用していない。

 だが、生命の根源であるという点は、やぶさかではないと思っていた。

 そんなものがあるとすれば、この森はそれで満たされているに違いないのだ。

 この森は、精霊様の祝福を受けた土地なのである。


 木々のたけが一層大きくなってきた。

 幹の太さも、一抱えなどというレベルではない。

 葉っぱの傘で日光は遮られ、夜のような暗さがある。

 空気はじんわりと湿っているが、それでいてどこか清々しい。

 鼻腔に吸い込まれる匂いも、生命の放つそれに満ちている。

 獣の声、葉の擦れる音、水のはどれも研ぎ澄まされ、染み入るようだ。

 五感が、森の奥にいることを伝えてきている。

 そろそろである。


 生えそろう木々が姿を消した。

 アスラは足を止めた。

 到着したのだ。

 そこは、広場である。

 森の広場である。

 夜が明けたように明るい。

 さきほどまであった木の葉の傘がなくなり、日が差しているのだ。

 黄金にも見える陽光が降り注いでいるそこは、どこか別の世界のようである。

 広場の中心に木がある。

 大きな、大きな木だ。

 中天にさしかかった太陽に照らし出され、くっきりとした明暗が浮かび上がっている。

 地べたに敷かれた赤銅色の葉は、森の露を浴びてキラキラと星のように瞬いている。

 根本を覆う緑の苔も、どこか高貴なものに見えた。


 巨木の枝から降り、衝撃を緩和しつつ地面に着地する。

 アスラは大きく息を吸い込んだ。

 身体の隅々まで清涼感が広がる。

 ため込んだ空気を、ふぅーっと吐き出すと、全身から穢れが抜け落ちたような錯覚を受ける。


 ここには、今までに数えきれないほど訪れた。

 十回では利かない。

 百回でも足らない。

 千回でも分からない。

 だが、それも今日で最後だ。

 アスラは、クスリと笑うと木に歩んでいった。


 目線の先にある大木。

 精霊の木。

 大いなる精霊が宿るといわれる木。

 守り人の宝。


 太古の昔。

 それこそ、数千年も前の話だ。

 精霊様は人の形をしていたという。

 美しい女性であったとも、美丈夫であったとも言い伝えられている。

 本当のことなど分かりはしない。

 精霊様は、先達らに様々な知識をあたえ、また、祝福を与えたという。

 言葉、文字、武具、楽器…今当たり前に扱われているそれらもそうである。

 精霊様のお力によって、島は信じられぬほどに栄えた。

 武術をもたらしたのも、精霊様だとされる。

 まさしく、この島の祖である。


 だが、程なく精霊様はおかくれになったという。

 経緯は不明である。

 命が尽きて光になったとも、何かの代償だったとも、化生けしょうにやられたとも聞く。

 先達らは精霊様への感謝を忘れていなかった。

 島を、自分らを導いて下さったのは、他でもない精霊様なのだ。

 木になろうと、何になろうと変わりはしなかった。

 古代の族長は、こういったらしい。


 ――この木は、我々のしゅだ。

 我々の命だ。

 精霊様は、ここにおられる。

 我らを、我らを、守って下さっている。

 我らの使命は、この木を守ることに違いあるまい。

 強き戦士を、真の戦士を育むのだ。


 と。

 まさしくその通りである。

 先達らは、精霊様の宿った木を霊木としてまつり、万物から守った。

 そのために、強さを崇拝し、豪傑を英雄としてたたえたのだ。

 霊木と島民。

 本当に、本当に古い歴史を持つ。

 四千年以上も、この霊木に寄り添ったのだ。


 そして、今日。

 守り人はいなくなる。

 最後の一人は、島を出る。

 それは、精霊様の意志でもあるし、アスラ自身の意志でもある。

 奇跡が起こらなけられば、アスラはここにいない。

 決意が固まらねば、アスラはここにいない。

 風が背中を押している。

 飛び立つときはいまなのだ。

 今こそ。

 今こそ――。


「さようなら、精霊様」


 アスラは小さく笑っていった。

 小さな別れの言葉は、森を駆け巡った。

 森も、動物らも、静寂を持ってそれを見守った。

 アスラの見上げる木も、静かにそれを聞いていた。

 枯葉が、ひらひらと風に流され辺りに散った。




 ♢




「おーい、アスラさーん。

 準備はできたかー」


 森を出で早々にドーブが駆け寄って来た。

 金髪が、陽光によってきらきらと光っている。

 顔には、相変わらず人懐っこい笑みが貼り付けられており、どこか子供じみて見える。


「ああ、すまん、すまん。

 もう少しかかる。

 まだ用事があるのだ」


 と、アスラは包帯の下で苦笑いを浮かべながらいった。

 精霊の木にまみえるのは終わったが、墓参りがまだだ。

 あまり待たせる訳にもいかないので、最低限で済まそうと思う。

 だが、ここでしておかなければ、次はいつになるか分かったものではない。

 親しかった者や、家族の墓参りは、絶対にする必要がある。


「おう、そうかい。

 こっちはいつでも出航できるぜ」


 まあ、これもアスラさんのお蔭だけどな、とドーブは笑った。

 次いで、アスラの手に持つものを見て首を傾げた。


「なあ、アスラさん。

 その花の束はなんなんだ?」


 アスラの手には、花の束が握られていた。

 花の色は鮮やかな赤で、アスラの前掛けの色とよく似ている。

 アスラは、けらけらと笑うと、


「これか?

 これはな、手向たむけの花さ」


 と、いった。

 ドーブは、ふうん、と一回唸ると、


「ま、俺には関係ねえか。

 花を摘もうが摘むまいが、アスラさんの自由だしな。

 ともかく、用事がすんだら船に来てくれよ」


 と、告げ、再び船の方へと走り去っていった。


 アスラはにこにこと顔を綻ばせた。

 実に元気のある若者だ。

 そういう若いのは嫌いではない。

 あ奴は、あのまま年を取っていくのであろうな、と思い、おかしくなった。


 集落に着くと、知り合いの墓を巡った。

 どれもこれも、それほど手入れがされておらず、苔むしていた。

 仕様のないことだ。

 墓の手入れなど、普通は家族がするものである。

 子孫のいなくなった墓は、いずれ朽ちていく。

 そういうものなのだ。

 ごく稀にアスラが掃除をすることもあるが、自身の家族のものに比べれば頻度は低い。

 簡単に掃除をすると、手を合わせて祈った。

 我が友が、永遠とわに安息でありますように、と。


 最後に、家族の墓参りをした。

 真っ赤な花を、一輪ずつ根元に挿した。

 摘んできた花が余ってしまった。

 アスラは、苦笑いを浮かべ花束を抱えた。

 そして、目を閉じた。


 目を閉じると、波の音が良く聞こえる。

 それはどこか、喧騒けんそうの音に似ていた。

 家族で団欒をしていた、あの頃の音に。

 耳を済ませれば、ほら、聞こえる。

 乱暴で、うるさくて、遠慮がなくて…。

 でも、優しくて、暖かかくて、心地よくて…。

 そんな、そんな喧騒が。


 ――ああ、幸せだった。


 楽しかった、嬉しかった、幸せだった。

 間違いなく、アスラ・カルナは世界一幸福な父だった。

 皆、泡沫うたかたと消えてしまったけれど、守れなかったけれど、父としては失格かもしれないけれど…。


 (ああ、キイロよ。

 楽しくやっておるか?

 ジネは相変わらず腕白わんぱくか?

 トーニャの人見知りは治ったかえ?)


 みなみな、家族だから。

 親父は心配なのだ。

 空の果てにいこうと、海の底にいこうと、爺は心配なのだ。


 (キイロ。

 キイロや。

 今はなにをしておるのだ?

 笑っておるか?

 それとも泣いておるか?

 はたまた怒っておるか?

 いや、お前のことだ、笑っているに違いない)


 楽園は良い所か?

 泣いてはおらぬか?

 飯は食っているか?

 運動はしているか?

 しっかり寝ておるか?

 早起きはしておるか?

 元気で、やっておるか?


 (なあ、キイロ。

 ジネ。

 トーニャ。

 親父。 

 母上。

 そして、そして、親愛なる友よ。

 おれの、おれの、我儘を一つだけきいておくれ。

 老いぼれの、くそじじいの我儘をひとつだけ聞いておくれ)


 夢ができたのだ。

 生きがいができたのだ。

 楽しみをみつけたのだ。


 (おれはな、旅に出たいのだ。

 この通り、若い身体も頂いた。

 前にも言ったが、精霊様に頂いたのだ。

 ちと、性別は違うが、それもまたよい。

 この身体は剣が良く振れる)


 生きる希望があれば、人は生きられる。

 家族も、共も、精霊様もいなくなったが。

 希望ができたのだ。


 (だからな、キイロ、ジネ、トーニャ、親父、母上、そして友よ。

 もう少し、もう少しだけ楽園で待っていておくれ。

 あと七十年もすれば、おれもそちらに行く。

 そうしたら、また酒を飲もう。

 そうしたら、また試合をしよう。

 そうしたら、また皆で騒ごう。

 だから。

 だからな。

 もう少しだけ待っていておくれ。

 もう少しだけ、老いぼれの人生を見守っていておくれ)


 そう、祈った。

 天に届くように、祈った。


 アスラは目を開けた。

 どこまでも続く広大な海原が、眼前に広がっている。

 視線を上に、天を仰いでみれば、高い高い空がある。

 どちらも青い。

 腹の立つ位に青い。

 青の中に、赤は咲くだろうか。

 あの、真っ青な海原や、空の彼方に赤い花は咲いているのだろうか。


 手に持つ花束を、青い空へ放り投げた。

 一瞬、視界が赤に染まった。

 強い海風が吹いて、放った花が飛ばされてゆく。

 花びらが散り、真っ赤な吹雪となって辺りを舞う。

 綺麗である。

 赤い色は元気をくれる。

 幸せの色なのだ。


 赤い嵐に見とれていると、何かに背中を押された。

 風かとも思ったが、どこか違う。

 二、三歩たたらを踏み、後ろを振り返った。

 誰もいなかった。

 五本の墓と、断崖があるだけである。

 赤い花が、ゆらゆらと風にそよいでいる。

 押された背中が、なぜか暖かかった。

 そんな感覚をよく覚えている。


 (そうか)


 アスラは、宙に舞う赤い花びらを一枚掴むと、くっくっくと、笑い、


「ああ、行ってくる。

 留守を頼んだ、キイロ」


 と、いって微笑んだ。

 すると…。


「おーい、アスラさーん。

 用意は終わったかーい」


 そんな声が、遠くの方から聞こえてくる。

 ドーブの声だ。

 墓参りには相応の時間を費やしたので、再度呼びにきたのであろう。

 どうやら、かなり待たせてしまったらしい。


「ああ、今終わったところだ。

 もうすぐ行くよ」


 と、アスラも持ち前の高い声で応じた。


「おおー。

 そうかーい。

 じゃあ、デービスさんに伝えておくぜー」


 と、ドーブの声が遠ざかる。

 もう一度、墓の方を振り返ると、一瞥し、玄関へと向かった。

 思い出のある屋内をじっくりと見渡し、荷物を担いだ。

 そして、


「行ってくるよ」


 と、誰もいない家へと告げ、アスラは家を出た。


 集落の土をかみしめながら歩き、風景を目に刻み付ける。

 そして、未来を見据えて前を向いた。

 この先の旅路に待ち構えるのは、一体何か。

 冒険か、浪漫か、美食か、強敵か。

 そう思うと、自然に楽しくなった。

 

「ああ、今日の晩飯はなにかのう。

 楽しみでならん」

 

 と、アスラは笑う。

 そうして鳥は、大空へと飛び立っていった。


 



これにて序章は完結しました。

次回の〈大海原を越えて〉で、またお会いしましょう。

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