序章(十) 船出
アスラ一行はその後、食べられる茸や果物、菜などを採って森を出ることにした。
迅速にせねば、肉が傷んでしまうからだ。
討ち取った十二もの獣らは、アスラが全て背負っている。
軽く血抜きを済ませると、辺りにあった蔓で縛り上げ、一纏めにしたのである。
多少重かったが、大した問題ではなかった。
傍からみれば、恐るべき怪力である。
帰り際、血の匂いに誘われた獣が襲ってきたこともあったが、それは例外なくドーブが仕留めた。
大抵は一太刀の下に叩き伏せ、トッテらの支援も必要としなかったのである。
やはりというか、なかなかの腕前だ。
結果、浜に着く頃には、アスラの背負っている獣は十六にもなっていた。
浜に着くと、ネルガン・デービスに驚かれた。
アスラが山のように獣を背負ってきたからである。
随行の者らも仰天していた。
デービスは、髭を弄りながら、
「おおっ、なんという怪力。
小山が動いているのかとおもいましたぞ。
アスラ殿は、剛力無双もいけそうですな」
と、豪快に笑った。
その後、ネルガン・デービスはセーレンを呼びに行くといって、船へ引き上げた。
準備とやらが終わったのかえ、とアスラは思った。
皆で獣を捌くことになった。
十六もの数があるので、ひと仕事である。
来訪者らの内、ほとんどの者は戦力にならなかった。
手際が悪すぎるのだ。
この程度、子供でもできることである。
実際にアスラも、三歳になる頃には、父が狩ってきた獣を捌く手伝いをしていた。
アスラは、半目になって、
「何を手間取っておるのだ」
と、思わず呟いた。
これにドーブが、
「いやいや、誰にでもできることじゃあねえよ」
と、呆れたような声を出した。
…が、そういったドーブは、しっかりとできている。
多少要領が悪いような気もするが、問題なく捌けているのだ。
「そういう、お主はできておるではないか」
と、アスラは獣を捌きながらいった。
またドーブが反応し、
「あんたは、狩猟民ってやつだろ?
この島じゃ、こういうことは必須の技術かもしれねえが、外じゃそうでもないのさ。
得意なやつがやればいい。
まあ、俺はできちゃうけどな」
と、いった。
若干の自慢が入っているのは、無自覚のことであろう。
(ふうむ…。
文化の違いか。
それとも、外の人間は不器用なのか?)
と、アスラは思ったが、無論、口には出さなかった。
程なく、全ての獣が捌き終わった。
それのほとんどが、アスラとドーブによるものである。
あとは、トッテと乳好きのクレントが少々だ。
捌き終わったのだから、燻す必要がある。
十六もの数となると、集落にある大型の燻窯でも収まりきるか怪しい。
ここにきてアスラは、
(ううむ、少々張り切り過ぎた。
一気に狩りすぎだ。
これは失敗だったのう)
と、後悔した。
燻すのにはかなりの時間が必要となる。
そのあいだ、余った肉は当然放置されることになってしまう。
腐ってしまうのは自然の摂理だ。
そんなことになれば、足鳥の一羽でも勿体ない。
こうなったら、他の集落の窯を用いるしかないか、とアスラは考えた。
むんずと立ち上がり、
「お主ら。
これらの肉は燻すのであろうが、この数となっては窯に入りきらん。
おれが幾つか別の窯にもっていくゆえ、あとの処理は自分らでやっておくれ」
と、アスラが幾つかの肉を持って行こうとすると…。
「いえいえ、それには及びません」
と、ネルガン・デービスがセーレンを伴って現れた。
にこにこと微笑んでいる。
それには及ばないとは、どういった料簡であろうか。
まさか、驚異的な収納術で肉を収めきろうという訳ではあるまい。
まず、これらは集落の窯の大きさをしらない筈なのだ。
「ふむ、それはどういうことかえ?」
というアスラの質問を受けたデービスは、
「これらの肉は、燻して燻製にするのではなく、凍らせて保存するのです」
と、いった。
凍らせる、とはどういうことだろうか。
いや、まず、凍るとはなんだ。
何か特殊な状態にするのは分かるのだが、どういった方法で、どういった状態にするかが、全く計り知れない。
外の世界の特殊な保存方法であろうか。
であれば、是非とも目にしたいものである。
「ほほう、どうするのじゃ」
アスラは興味津々で訊いた。
ネルガン・デービスは、伴ってきたセーレンに何やら命じた。
よく見ると、セーレンは手に布のようなものを持っている。
そして、それが広げられた。
アスラはよくよくそれを観察した。
「ふむ…」
布である。
材質は高級そうで、艶めいている。
大きさは、縦と横にそれぞれ五十エルデほどか。
それなりに大きなものでも包めそうな布だ。
なにより目につくのは、それに描かれた紋様である。
数個、数種類の円が互いに重なり、伸び、直線に交わったと思えば、また離れる。
実に細密で幾何学的な絵だ。
しかし、この奇妙な紋様の描かれた布で、一体何をしようというのか。
セーレンは、その布を地べたに敷いた。
そして、ドーブを呼び止めると、捌いた肉の一つを持ってこさせた。
肉を大きな葉っぱの皿に乗せると、それを布の上へと置いた。
葉の皿に乗せたのは、おそらく下の布を汚さないためだと考察できる。
セーレンは、布の近くまで歩み寄った。
(まさか、肉をさらにあの布で包もうというのではないだろう。
呪いだ。
呪いをするつもりだろう)
と、アスラは検討をつけた。
果たして、それは間違いではなかった。
セーレンは、布の端に軽く触れると、何やら歌のようなものを歌った。
いや、歌のように聞こえる何かを唱えた、が正しいのか。
ともかく、美しい声である。
アスラの耳に、セーレンの歌声と波の潮騒が暫く響いた。
そして、セーレンがそれを歌い終えた刹那であった。
「な、なんだ!?」
と、アスラは驚愕した。
肝をつぶしたからか、辺りの空気が寒く感じられる。
捌いた肉が一瞬のうちに水晶になったのである。
正確には、肉が透けて見えるので、閉じ込められたのか。
魔法とは、本当になんでもありだな、とアスラは思った。
「おお。
見事、見事。
さすがはセーレン・へストリングスといったところだ」
と、ネルガン・デービスは愉快そうである。
ここで、アスラは疑問を持った。
確かに水晶の中に閉じ込めれば、肉の長期保存がきくだろう。
しかし、なんでわざわざ水晶を作る必要があったのだろうか。
他に何か手段があっただろう。
水晶の中に肉を入れるなど、普通はしない。
(しかし、なぜだか寒いな…)
と、アスラは思った。
気のせいではなく、あたりの気温が下がっているように思われる。
空を仰いでみても、太陽は燦々(さんさん)と地に熱を注いでいる。
それを遮る雲も存在していない。
海から吹いてくる風も、温暖そのものといっていい。
気候は変わっていない。
アスラは気づいた。
水晶である。
目の前の、この、いやに透き通った水晶から冷気が流れているのだ。
よく見ると、霧のようなものが発せられている。
アスラは、
「なんだ、あの水晶は…」
と、心に浮かんだ疑問をそのまま口に出してしまった。
これに答えたのは、ネルガン・デービスである。
「やや、アスラ殿は氷をご存知でないのですかな?」
「氷、とな?」
デービスは大きく頷くと、
「そうです。
水が固まったものです。
水は冷えて固まると、あのような氷になるのです」
と、信じられないようなことをいった。
水が固まる。
それは、ありえることなのであろうか。
水は、流れ、変わり、留まらぬものである。
海が凡例だ。
海が固まるような光景など、想像できるものではない。
アスラは、吸い寄せられるように、氷の下へと歩いていった。
近づくにつれ、肌を刺す寒さも増してゆく。
こんなに寒いと思ったのは、人生で初めてである。
アスラは氷を覗き込んだ。
薄らと顔が映りこんだ。
やはり、水晶によく似ている。
ぺとりと、指で触れてみた。
手袋越しにひんやりとした感覚が走り、すぐに指を離した。
「お、おお…。
なんだ、なんだ!
これは、なんだ!」
アスラは面白くなった。
指を氷につけた。
やはり冷たい。
指を離す。
その指を顔に当ててみる。
これでも冷たい。
「おお、おお、冷たい!
冷たいぞ、これは」
と、アスラは年甲斐もなくはしゃいだ。
まるで、身長相応の子供のように。
アスラは知らない。
ドーブやネルガン・デービス、セーレンといった者らが、非常に微笑ましいものを見る目でアスラを見ていたことを。
アスラはその後、氷が溶けるということを注意されるまで、淡々と氷で戯れていた。
♢
日が真上へと登った。
件の肉は、全て氷にされた後、船へと運び込まれた。
運び込むのは水夫らがやった。
仕事をしなきゃ、金が貰えないんでね、と中年の水夫がいっていた。
手伝おうかと訊くと、いいや大丈夫だいうので、アスラはそうかえ、と微笑んで返した。
手が冷たいらしく、おお、つめてえ、などといっている光景は中々に面白かった。
来訪者らが、島を発つらしい。
食糧の運び込みが終わると、ネルガン・デービスらがアスラの下を訪ねた。
ドーブもセーレンも、トッテもイマイもいた。
ここで、島を出発するという意を伝えられたのだ。
食糧を積み込んだので、航海の準備が整ったらしい。
アスラは、そうか、そうか、と、けらけら笑った。
ネルガンは、何度も何度も感謝の言葉をいい、何かお礼ができませぬか、といった。
アスラはやはり、やんわりと断った。
しかし、此度はデービスが引き下がらなかった。
どうしてもお礼がしたい、という。
ドーブやセーレンらも、礼をさせてくれということだった。
これにアスラは困った。
(ううむ、どうすればよいかな?
断るというのを一徹してもよいが、それではこ奴らの顔が立たぬ。
かといって、特に欲しい物もない。
やや、実に困った…)
そんな時、潮の音が耳へと流れ込んできた。
アスラはふと、来訪者らの船を垣間見た。
良い船である。
あれであれば、広大な海原を渡り切れるに違いない。
そして、新天地に巡り合えるに違いない。
(強いていえばあの船が欲しいが…。
そのような無理な要求などできる筈がない)
アスラはううむと唸った。
しかし、デービスは、アスラの一瞬の目の動きを見逃さなかったらしく、
「やや、あの船が欲しいのですかな」
と、笑いながらいった。
図星である。
アスラは表面上平静を装いつつ、内心で仰天した。
この男、やはり只者ではないらしい。
あの僅かな挙動でそれをいいあてるとは、見事な洞察である。
多分の予想も入ってはいるだろうが、とはいっても生半可なことではない。
アスラは、
「おお、ご名答」
と、正直に答えた。
「これは、これは、困りましたな。
あの船をアスラ殿にやってしまえば、我々の移動手段がなくなってしまう」
ネルガン・デービスは、困ったような顔をして、米神の辺りを擦った。
当然の反応といえる。
船をくれなど、いい度胸である。
この者らの大きな船が、どれほどの時間と労力を費やして完成したかなど、聞かなくとも察せることだ。
それでなくとも、細工の細かい船なのだから。
「アスラ殿は、なぜあの船がほしいのですかな?」
ネルガン・デービスである。
アスラはけらけら笑うと、
「はっはっは、これは完全な私情なのじゃが…」
と、前置いていった。
「おれは旅に出ようと思っておってな。
島を出るのに船がいるのだ。
大海を渡るのは、至難であると聞く。
今、直している船もあるが、少々心許ない。
だが。
お主らの船であったら。
あの立派な船であったら。
件の海を渡り切れるのではないか、と思ってな」
いい終って、アスラは顎を撫でた。
その場にいる者らは、皆、無言である。
顔を見合わせている者もある。
ここでドーブがいった。
「なあ、アスラさん。
つまりさ、この島を出たいんだよな?」
アスラは、如何にも、と頷いた。
ドーブは半笑いを浮かべると、
「だったらよ。
デービスさんの船に乗っけて貰えばいいんじゃねえか?」
と、呆れたようにいった。
沈黙が下りた。
アスラはキョトンとしていた。
乗せてもらう。
船に乗せてもらうだと。
この者らの船に。
(……それは)
名案である…。
なぜ、思いつかなかったのだろうか。
そうだ。
そうである。
乗せて貰えばよい。
この者らの船に。
そうすれば、いとも簡単にこの島を出れるではないか。
「そうか、そうか。
それはよいな。
やや、天啓だな、ドーブよ」
と、アスラは喜色満面である。
今にも踊り出しそうだ。
これを見たドーブは、
「…やっぱり、アスラさんは天然だな」
と、呟いた。
「デービス殿よ。
おれを、あの船に乗っけてはくれぬかな?」
アスラはデービスの目を見ていった。
それを受けたネルガン・デービスは、はっはっは、と豪快に笑うと、
「おお、一向に構いませんぞ。
アスラ殿には大恩がある。
断る理由がありませんな」
と、いった。
「やや、なんと、なんと。
これは僥倖だ。
では、さっそく準備をしてこなければ。
デービス殿、時間の方は幾らか余裕があるかね?」
と、アスラは訊いた。
「ええ。
押し気味ではありますが、死活問題ではありませぬ。
それに、恩人の頼みです」
と、デービスは人懐っこい笑みを浮かべた。
ドーブらも、爽やかに笑っている。
「うむ、かたじけない。
少し時間を貰うよ」
と、アスラは告げて家へと駆けだした。
あまり待たせる訳にもいかないが、それなりに時間は必要だ。
薬草や食糧などの用意は済ませてあるので、それはそのまま持って行けばいい。
細かい道具などは、改めて用意しなければならない。
なにより、この島に別れを告げなければならない。
長年暮らした家にも。
家族や友の墓にも。
そして、精霊様にも――。
♢
アスラは家へ着くと、すぐさま準備を開始した。
薬草や生薬を詰めた袋。
数着の着替え。
包帯の替え。
短弓と、それに番える幾らかの矢。
水を入れる革袋。
火打ち石。
小型の鍋。
そして、短笛。
アスラは、用意した荷物を確認し、うむ、と頷いた。
これで持ち物は粗方問題ないといえる。
携行用のナイフやら愛剣やらは、既に身に着けているので省く。
日焼け防止の手袋もだ。
荷物を一纏めにすると、家の前へと置いた。
忘れないためである。
自宅の前へと置いておけば、どんなことがあっても忘れずに持って行けるだろう。
アスラは、もう一度だけ荷物を確認した。
荷物を家の前に置いたのには理由がある。
アスラは今から森に入るのだ。
森の深奥へと赴き、精霊の木に見えるつもりなのである。
島を出るときには、必ず挨拶をしてから旅に出る、とかねてから腹に決めていた。
これは、けじめだ。
アスラが出て行けば、守り人は本当にいなくなる。
四千年を越える守り人の歴史に、真の終止符が打たれるのだ。
ゆえに、これは絶対に避けては通れない。
守り人は、精霊の木と共に歩んできたのだから。
♢
視界に映るのは、茶と緑の群れ。
それが、滔々と流れる川のように過ぎ去ってゆく。
上半分が深い緑であり、下半分が概ね茶である。
緑や茶のものは、木の枝と幹、そして、葉と苔である。
アスラは、生い茂る巨大な木々の枝から枝へ飛び移り、森の奥へと進んでいた。
その軽妙さは、猿などとは比べ物にならない。
まるで、一陣の風である。
辺りの木は、奥へと進むにつれ、太く、大きくなっていっている。
森に生い茂る木は、そこいらに生えている木とは違う。
全然違う。
何が違うといえば、第一にその大きさだ。
森の木は、全体的に大きい。
外れの方にある一番小さな木であっても、普通のそれの倍はあると見てよい。
森の深部に入れば、天を衝くような巨木もある。
それは年輪の多さとは違う。
森の環境を考えれば、むしろ、若い木が多いかもしれない。
かといって、樹木の種類が違う訳でもない。
森の木は、単純に大きいのだ。
次いで挙げられる特異点は、森の木々の生命力である。
これは森の木が巨大だという点と、大いに関わりがあるといってよい。
森では、しばしば獣同士の争いがある。
そこらにいる小獣のそれであれば可愛いものだが、そうでないものらもいる。
跋扈している猛獣どもや、森の深奥に巣食う黄虎らだ。
彼奴らが、縄張り争いでもしようものならどうか。
巨大な木はへし折られ、地は抉られ、湧水は枯れ、森は死んでしまう。
…だが。
流れゆく景色を見れば一目瞭然であるが、森は青々と茂っている。
倒木などは確かにあるが、苔で覆いつくされていたり、他の木の根に絡みつかれていたりと、生命の連鎖は滞っていない。
ここもかなり深いところなのだが、荒涼とした場所など全く存在していないのだ。
トッテが、生命力に満ちているといったが、あれは正しくその通りだ。
森は、生命力に溢れている。
いや、満ちすぎている。
木が数本折れれば、普通そこは開けた土地になる。
当然、元の景観に戻るには長い年月が必要となるというのが自然だ。
実際に、森の外にある木を切ったとしても、そこには切り株が残るだけである。
しかし。
この森は。
深奥に精霊の木が坐する、この森はどうか。
切り株から芽吹いた緑の命は、ひと月もしないうちに大木へと姿を変える。
摘み取った果実は、翌日には実っている。
枯れたと思った泉や沼は、場所を変えて再び湧き出す。
森の深部は、それがより顕著だ。
精気とやらが、生命の根源で、ここはそれで溢れていると、ドーブやセーレンはいっていた。
アスラは、目で見れて、耳で聞こえて、肌で感じ取れるもの以外は、基本的に信じないクチだ。
精気の件も、感じ取れてはいないし、視認もできていないので、信用していない。
だが、生命の根源であるという点は、やぶさかではないと思っていた。
そんなものがあるとすれば、この森はそれで満たされているに違いないのだ。
この森は、精霊様の祝福を受けた土地なのである。
木々の丈が一層大きくなってきた。
幹の太さも、一抱えなどというレベルではない。
葉っぱの傘で日光は遮られ、夜のような暗さがある。
空気はじんわりと湿っているが、それでいてどこか清々しい。
鼻腔に吸い込まれる匂いも、生命の放つそれに満ちている。
獣の声、葉の擦れる音、水の音はどれも研ぎ澄まされ、染み入るようだ。
五感が、森の奥にいることを伝えてきている。
そろそろである。
生えそろう木々が姿を消した。
アスラは足を止めた。
到着したのだ。
そこは、広場である。
森の広場である。
夜が明けたように明るい。
さきほどまであった木の葉の傘がなくなり、日が差しているのだ。
黄金にも見える陽光が降り注いでいるそこは、どこか別の世界のようである。
広場の中心に木がある。
大きな、大きな木だ。
中天にさしかかった太陽に照らし出され、くっきりとした明暗が浮かび上がっている。
地べたに敷かれた赤銅色の葉は、森の露を浴びてキラキラと星のように瞬いている。
根本を覆う緑の苔も、どこか高貴なものに見えた。
巨木の枝から降り、衝撃を緩和しつつ地面に着地する。
アスラは大きく息を吸い込んだ。
身体の隅々まで清涼感が広がる。
ため込んだ空気を、ふぅーっと吐き出すと、全身から穢れが抜け落ちたような錯覚を受ける。
ここには、今までに数えきれないほど訪れた。
十回では利かない。
百回でも足らない。
千回でも分からない。
だが、それも今日で最後だ。
アスラは、クスリと笑うと木に歩んでいった。
目線の先にある大木。
精霊の木。
大いなる精霊が宿るといわれる木。
守り人の宝。
太古の昔。
それこそ、数千年も前の話だ。
精霊様は人の形をしていたという。
美しい女性であったとも、美丈夫であったとも言い伝えられている。
本当のことなど分かりはしない。
精霊様は、先達らに様々な知識をあたえ、また、祝福を与えたという。
言葉、文字、武具、楽器…今当たり前に扱われているそれらもそうである。
精霊様のお力によって、島は信じられぬほどに栄えた。
武術をもたらしたのも、精霊様だとされる。
まさしく、この島の祖である。
だが、程なく精霊様はおかくれになったという。
経緯は不明である。
命が尽きて光になったとも、何かの代償だったとも、化生にやられたとも聞く。
先達らは精霊様への感謝を忘れていなかった。
島を、自分らを導いて下さったのは、他でもない精霊様なのだ。
木になろうと、何になろうと変わりはしなかった。
古代の族長は、こういったらしい。
――この木は、我々の主だ。
我々の命だ。
精霊様は、ここにおられる。
我らを、我らを、守って下さっている。
我らの使命は、この木を守ることに違いあるまい。
強き戦士を、真の戦士を育むのだ。
と。
正しくその通りである。
先達らは、精霊様の宿った木を霊木として祀り、万物から守った。
そのために、強さを崇拝し、豪傑を英雄としてたたえたのだ。
霊木と島民。
本当に、本当に古い歴史を持つ。
四千年以上も、この霊木に寄り添ったのだ。
そして、今日。
守り人はいなくなる。
最後の一人は、島を出る。
それは、精霊様の意志でもあるし、アスラ自身の意志でもある。
奇跡が起こらなけられば、アスラはここにいない。
決意が固まらねば、アスラはここにいない。
風が背中を押している。
飛び立つときはいまなのだ。
今こそ。
今こそ――。
「さようなら、精霊様」
アスラは小さく笑っていった。
小さな別れの言葉は、森を駆け巡った。
森も、動物らも、静寂を持ってそれを見守った。
アスラの見上げる木も、静かにそれを聞いていた。
枯葉が、ひらひらと風に流され辺りに散った。
♢
「おーい、アスラさーん。
準備はできたかー」
森を出で早々にドーブが駆け寄って来た。
金髪が、陽光によってきらきらと光っている。
顔には、相変わらず人懐っこい笑みが貼り付けられており、どこか子供じみて見える。
「ああ、すまん、すまん。
もう少しかかる。
まだ用事があるのだ」
と、アスラは包帯の下で苦笑いを浮かべながらいった。
精霊の木に見えるのは終わったが、墓参りがまだだ。
あまり待たせる訳にもいかないので、最低限で済まそうと思う。
だが、ここでしておかなければ、次はいつになるか分かったものではない。
親しかった者や、家族の墓参りは、絶対にする必要がある。
「おう、そうかい。
こっちはいつでも出航できるぜ」
まあ、これもアスラさんのお蔭だけどな、とドーブは笑った。
次いで、アスラの手に持つものを見て首を傾げた。
「なあ、アスラさん。
その花の束はなんなんだ?」
アスラの手には、花の束が握られていた。
花の色は鮮やかな赤で、アスラの前掛けの色とよく似ている。
アスラは、けらけらと笑うと、
「これか?
これはな、手向けの花さ」
と、いった。
ドーブは、ふうん、と一回唸ると、
「ま、俺には関係ねえか。
花を摘もうが摘むまいが、アスラさんの自由だしな。
ともかく、用事がすんだら船に来てくれよ」
と、告げ、再び船の方へと走り去っていった。
アスラはにこにこと顔を綻ばせた。
実に元気のある若者だ。
そういう若いのは嫌いではない。
あ奴は、あのまま年を取っていくのであろうな、と思い、おかしくなった。
集落に着くと、知り合いの墓を巡った。
どれもこれも、それほど手入れがされておらず、苔むしていた。
仕様のないことだ。
墓の手入れなど、普通は家族がするものである。
子孫のいなくなった墓は、いずれ朽ちていく。
そういうものなのだ。
ごく稀にアスラが掃除をすることもあるが、自身の家族のものに比べれば頻度は低い。
簡単に掃除をすると、手を合わせて祈った。
我が友が、永遠に安息でありますように、と。
最後に、家族の墓参りをした。
真っ赤な花を、一輪ずつ根元に挿した。
摘んできた花が余ってしまった。
アスラは、苦笑いを浮かべ花束を抱えた。
そして、目を閉じた。
目を閉じると、波の音が良く聞こえる。
それはどこか、喧騒の音に似ていた。
家族で団欒をしていた、あの頃の音に。
耳を済ませれば、ほら、聞こえる。
乱暴で、うるさくて、遠慮がなくて…。
でも、優しくて、暖かかくて、心地よくて…。
そんな、そんな喧騒が。
――ああ、幸せだった。
楽しかった、嬉しかった、幸せだった。
間違いなく、アスラ・カルナは世界一幸福な父だった。
皆、泡沫と消えてしまったけれど、守れなかったけれど、父としては失格かもしれないけれど…。
(ああ、キイロよ。
楽しくやっておるか?
ジネは相変わらず腕白か?
トーニャの人見知りは治ったかえ?)
皆、皆、家族だから。
親父は心配なのだ。
空の果てにいこうと、海の底にいこうと、爺は心配なのだ。
(キイロ。
キイロや。
今はなにをしておるのだ?
笑っておるか?
それとも泣いておるか?
はたまた怒っておるか?
いや、お前のことだ、笑っているに違いない)
楽園は良い所か?
泣いてはおらぬか?
飯は食っているか?
運動はしているか?
しっかり寝ておるか?
早起きはしておるか?
元気で、やっておるか?
(なあ、キイロ。
ジネ。
トーニャ。
親父。
母上。
そして、そして、親愛なる友よ。
おれの、おれの、我儘を一つだけきいておくれ。
老いぼれの、くそじじいの我儘をひとつだけ聞いておくれ)
夢ができたのだ。
生きがいができたのだ。
楽しみをみつけたのだ。
(おれはな、旅に出たいのだ。
この通り、若い身体も頂いた。
前にも言ったが、精霊様に頂いたのだ。
ちと、性別は違うが、それもまたよい。
この身体は剣が良く振れる)
生きる希望があれば、人は生きられる。
家族も、共も、精霊様もいなくなったが。
希望ができたのだ。
(だからな、キイロ、ジネ、トーニャ、親父、母上、そして友よ。
もう少し、もう少しだけ楽園で待っていておくれ。
あと七十年もすれば、おれもそちらに行く。
そうしたら、また酒を飲もう。
そうしたら、また試合をしよう。
そうしたら、また皆で騒ごう。
だから。
だからな。
もう少しだけ待っていておくれ。
もう少しだけ、老いぼれの人生を見守っていておくれ)
そう、祈った。
天に届くように、祈った。
アスラは目を開けた。
どこまでも続く広大な海原が、眼前に広がっている。
視線を上に、天を仰いでみれば、高い高い空がある。
どちらも青い。
腹の立つ位に青い。
青の中に、赤は咲くだろうか。
あの、真っ青な海原や、空の彼方に赤い花は咲いているのだろうか。
手に持つ花束を、青い空へ放り投げた。
一瞬、視界が赤に染まった。
強い海風が吹いて、放った花が飛ばされてゆく。
花びらが散り、真っ赤な吹雪となって辺りを舞う。
綺麗である。
赤い色は元気をくれる。
幸せの色なのだ。
赤い嵐に見とれていると、何かに背中を押された。
風かとも思ったが、どこか違う。
二、三歩たたらを踏み、後ろを振り返った。
誰もいなかった。
五本の墓と、断崖があるだけである。
赤い花が、ゆらゆらと風にそよいでいる。
押された背中が、なぜか暖かかった。
そんな感覚をよく覚えている。
(そうか)
アスラは、宙に舞う赤い花びらを一枚掴むと、くっくっくと、笑い、
「ああ、行ってくる。
留守を頼んだ、キイロ」
と、いって微笑んだ。
すると…。
「おーい、アスラさーん。
用意は終わったかーい」
そんな声が、遠くの方から聞こえてくる。
ドーブの声だ。
墓参りには相応の時間を費やしたので、再度呼びにきたのであろう。
どうやら、かなり待たせてしまったらしい。
「ああ、今終わったところだ。
もうすぐ行くよ」
と、アスラも持ち前の高い声で応じた。
「おおー。
そうかーい。
じゃあ、デービスさんに伝えておくぜー」
と、ドーブの声が遠ざかる。
もう一度、墓の方を振り返ると、一瞥し、玄関へと向かった。
思い出のある屋内をじっくりと見渡し、荷物を担いだ。
そして、
「行ってくるよ」
と、誰もいない家へと告げ、アスラは家を出た。
集落の土をかみしめながら歩き、風景を目に刻み付ける。
そして、未来を見据えて前を向いた。
この先の旅路に待ち構えるのは、一体何か。
冒険か、浪漫か、美食か、強敵か。
そう思うと、自然に楽しくなった。
「ああ、今日の晩飯はなにかのう。
楽しみでならん」
と、アスラは笑う。
そうして鳥は、大空へと飛び立っていった。
これにて序章は完結しました。
次回の〈大海原を越えて〉で、またお会いしましょう。




