96.知らぬ者も知る者もその事実から目を伏せようとする
風を切り、何やら火薬の匂いがする森を駆け抜ける。その背には、首元を抑えて苦しげに息をする少年。
「……チェシャ、」
黒猫は少年の声に、軽く視線を向ける。少年は黒い毛を握りしめ、鎌の鎖を自分の手で巻いた。どうやら、巻き取る装置が壊れてしまったらしい。
「このまま、匂いのする方へ行って」
「馬鹿言うな! その傷だって完全に治ったわけじゃないんだ! 今はあっちこっちで爆炎があがってる。ここは一先ず身を隠すぞ」
「駄目……カイザに、会いたい」
「無理だって!」
「……だったら、自分の足で行く」
背中で立ち上がろうとする少年の動きに、黒猫は大きく飛び上がった。シドは黒猫の背中に倒れ込む。
「わかったよ! そのかわり闘うんじゃねぇぞ! お前に怪我させたってだけでも妖精様に合わす顔がねぇのに……」
「……ありがとう、チェシャ」
少し安心したのか、シドは小さく笑って黒い毛並みに顔を埋める。
早く、早くカイザに会いたい。知りたいと思っていた真実から目を背けて、カイザのもとへ向かおうとする、孤独に怯える少年。知らなくてはならないと目を手に入れたというのに、その幼い瞼を固く閉じて黒猫の背に身を委ねている。
ーーお前達の、母親は……--
チェシャは、ふと背中の少年を見た。自分の毛を握りしめる少年の手に、力が入ったような気がしたのだ。そして、考える。先程の男、シドの兄であったようだが……二人の間には並々ならぬ事情があるようだ。兄弟を目の前に、真実を明かそうとしていた仮面の男も気になってならない。比翼の鳥の両親は。兄弟の経歴と男の言葉の食い違いとは。この鍵戦争の背景に、何があったというのか。やはり、とんでもないことに関わってしまった。そう思いながら、黒猫は前を向いた。とにかく今は、少年を守らねば。黒猫は火薬の匂いがする方へ……走る。
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誰かが言った。美はいたるところに存在すると。美が人の目を背くのではなく、人の目が美を認め損なうのだと。彼にはわからなかった。いたるところにある美しさも。誰もが認める美しさも。彼には"美しさ"を捉える感覚が全くと言っていい程なかった。
「おかえり」
にこやかに笑う、神すら嫉妬する容姿と謳われる少年。そんな少年でさえ、彼にとってはただの金髪で青い目の少年でしかなかった。
「ただいま、戻りました」
「これあげる」
「……」
少年が手渡したのは、銀細工の首輪。
「綺麗な首輪でしょ?」
「…そうですね」
思ってもいないことを口にしているとはわかっていた。しかし、一時とはいえ雇い主の息子の機嫌を損ねることはできない。仕方が無く意見を合わせてはみたが、少年は首を傾げてじっと彼を見つめていた。
「何か、」
「…ごめん、いらなかった?」
気付かれた。銀の首輪を握りしめ、彼は黙り込む。何と言おうか考えていると、少年は笑った。
「いらなかったら、捨ててもいいよ」
「……」
「それは、僕が君に似合うと思ったからあげただけだから。気に入らなかったら、捨ててもいいんだよ」
柔らかく笑う少年。ふとその頬が動く度に、辺りが光で包まれるような気がした。
「……」
彼は、無言でその銀細工を首につけた。
「…似合いますでしょうか」
少年は驚いたような顔をして彼を見ていたが、満面の笑みを浮かべてこくりと頷く。
「闘うレオンは、強くて美しい。まるで剣みたい。だから、その銀の輝きがよく似合う。僕の思った通りだ」
冷たい銀に、彼の身体を巡る熱が伝わる。少年の笑顔に温もりと胸の高鳴りを感じていたのだ。闘いで傷だらけになった身体。顔も見るに堪えない切り傷ばかりでいつも口元に布を当てている彼を、少年は美しいと言った。少年は、こんな自分にすら美を感じてくれる。どんなものにでも、価値を見出すことができる。それは自分にも、他者にも無い物を持つということ。
「……」
首輪に手を当て、彼は少年に跪く。少年は頭を下げる彼を見て、やはり無邪気に笑う。
「君には銀がよく映える。綺麗だ」
少年は彼の手を取り、言った。彼は少年を見つめ、思った。美しいのは、この少年だと。この少年こそ、今まで感じることができなかった"美"というものなのだと。少年に手を引かれ、彼は屋敷に足を運ぶ。15年前。花が咲き乱れる、春の中庭で。
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燃え盛る火。悲鳴と、断末魔が飛び交う町。東の軍勢が盗賊達を抑制する。
「お前ら! 一人も逃がすなよ!」
荒れた町を闊歩しながら、和が叫ぶ。人間が鬼に敵うはずもなく、周囲を見渡せば盗賊の死体が転がっている。住民の避難も順調に進み、あとは火を消すだけと思われた。
「旦那様!」
和が振り返ると、烏天狗の面をした戦士が一人、肩で息をして立っていた。
「? どうした」
「それが、殺し屋の篭手をした男が……」
「殺し屋? ホワイトジャックってやつか。それがどうした。始末しろよ」
戦士は息を整えながら、おどおどと話しだす。
「その男、我々と同じく鬼であるようで、兵が食われて……」
「……あ?!」
「こ、こちらです!」
戦士に案内され、走り出す和。路地を曲がり、広場を越えた住宅街に出る。そこには、数人の烏天狗の面をした戦士の死体と……それに食らいつく男の姿。炎の明かりで、その顔は逆光になって陰っている。和は刀を抜き、男に近付く。男はゆっくりと顔を上げて和を睨み、口を拭った。左腕には、確かにホワイトジャックのアーマーがあった。男は死体を放り投げ、立ち上がる。
「東の鬼か」
「あんたもだろ? おいしそうにお食事しちゃって。汚ねぇな」
和は刀の峰を肩にこつこつと当てて笑う。男は大剣を手に、言った。
「お前ら化け物と一緒にするな」
「そう言うなよ。化け物同士、仲良くしようぜ?」
男は溜息をついて大剣を地面についた。
「俺は人間だ。吸血鬼の呪いを受けた、というだけで」
灰色の目は火の光を反射して赤く艶めく。和は笑いながら刀を逆手に持ち、構えを取る。
「そうかそうか。じゃあ、東の鬼と西の鬼の出会いを祝して、とりあえずお世話になった仲間のお礼でもさせてもらうかな」
「……鬼じゃないと、言ってるだろう」
和の刀と、男の大剣がぶつかった。和の刀を、重さを感じさせぬ大剣さばきで弾く男。
「やるねぇ、西の鬼も」
和はそう言うと男から離れた。和は燃えた家の柱を持ち上げ、それを男に投げつけた。男は高く飛び上がってそれを避けた。しかし続けざまに投げつけられた燃える柱は避けられそうにない。男は大剣で薙ぎ払おうとしたが、あまりの重さに柱ごと向かいの家に突っ込んだ。燃えて脆くなった家は男を飲み込んだままがらがらと崩れる。
「ほらほら出て来いよ。こんなんでくたばるようなたまじゃないだろー」
和は笑いながら家に近付く。その時、
「うぉっ!」
燃えた屋根が和に向かって飛んできた。反射的に刀を突き付ける和。屋根は真っ二つに砕ける。崩れた家には、蹴り上げた足を下ろす男がいた。
「…あんたも力自慢か」
「自慢という程ではない。この世で一番力を持つのは、南の聖母と決まっているからな」
男は燃えかすを踏み越えて和に歩み寄る。和はそれを見て、鼻で笑う。
「見せびらかすような大剣持って、謙遜すんなよ」
「化け物であることを誇示するお前には、謙遜なんてできないのだろうな」
和は少し低い声色で、言った。
「あんた……さっきから化け物化け物って、俺達東の者を愚弄してるようにしか聞こえねぇなあ」
「そう聞こえるようにしか言っていないからな」
「…もう怒った!」
和は刀を振り上げ、大きな円を描いたかと思うと地面にその切っ先をついた。柄尻に両手を重ね、言った。
「青屋分家、御扇家幹屋が当主、館石和。神に与えられしこの命を以て鬼の誇りを刀で示す!」
「……」
「久しぶりに言った……」
どうやら、身分と名を明かして決まり文句を言うのが東では決闘の申し込みらしい。和は男を睨んで仮面を外し、炎の中に投げ捨てた。その顔はまさに、殺気に満ちた鬼の顔。男は少し考え、同じように大剣を地面に突き刺し、両手を重ね、言った。
「ホワイトジャックのマスター、アダム。神……は、どうでもいい。呪われた命を以て、この決闘を大剣で受ける」
和はにやりと笑い、刀に寄りかかってアダムを見た。
「アダムね。覚えとこう」
「和……俺も一応、お前のことは覚えておいてやろう」
「ありがとよ!」
和は一歩踏み込んで刀をアダムに向けた。刀身をなぞるように炎の光が揺らめく。すらりと伸びた緩い曲線が、鋭さと東の風格を滲みだしている。アダムはそれを見て、大剣を握る。そのずっしりと重たい、切るというより薙ぎ払うためにあるような直線的で分厚い剣。それで物を切れるのは、アダムの力量があってこそ。それを、和自身わかっていた。互いの力量を測り合いながら、二人は睨み合う。誇りと威信をかけた決闘。アダムにしてみたらなんのことはない、嫌いな化け物を消すだけのことなのだが。