93.思いは過去に取り残される
カイザは、部屋に踏み込めずにいた。何度も来たことのある懐かしい場所のはずなのに……本を見ながら、嬉しそうに喉もとで小さく笑う男一人がそこにいるだけで、全く知らない場所へと迷い込んでしまったような気持ちになった。部屋の変貌に対する悲しみ、守らねばという焦り。カイザは不自然な呼吸をしながら、扉の取手を掴んだままに固まっていた。
「…お外でぺちゃくちゃと思い出に浸っているようだったからそっとしておいてやったんだ。感謝の言葉の一つくらいは聞きたいねぇ」
「……」
無言。カイザは取手を握る手をそっと放し、ゆっくりと……腰のブラックメリーに手を伸ばす。
「何か言えよ」
カイザの手が、ピクリと止まる。男は小さく溜息をつくと本のページを捲った。
「…驚きのあまり言葉を失う美青年、なんて、物語なら言うんだろうなあ。だったら、そこにもう一文加えてやる」
カイザの額から、不意に汗が流れる。
「部屋で待ち受けていた包帯面の男は、おもむろに墓守の日記を読み始めた」
汗は頬を伝い顎に留り、ミハエルの腕に落ちた。カイザの視点がぼやけ、震える。
「"ブラックメリーを持って墓を荒す少年に会った。その少年に、カイザの面影を見たような気がする。ずっと待ち続けてきたのはこの日のためだと思う"」
「……」
「…日記を読みあげると男は混乱した美青年を見て……にやりと笑った」
男は言うがままに口角を吊り上げる。カイザはただ、立ち尽くす。その手は震え、背中が急に重くなったように感じた。
その少年に、カイザの面影を……ミハエルが待っていたのは、カイザとは……誰なのか。
「教えてやろうか。この日記を書いた女にはかつて、"カイザ"という名の恋人がいたんだ。神の寵愛を受ける前に男は行方知れずになり、女はここでずっと待ち続けた。死んだかどうかもわからない男。過ぎた歳月を思えば、生きているはずのない男。"カイザ"と出会ったこの場所で、女はずっと待っていた」
男は本を閉じて、胸元に置いた。そして、悲しげな作り笑いをして天井を見る。
「すると、ある盗賊団の名が耳に入ってくる。ブラックメリー。そのマスターは黒い柄の鷲の紋章が入ったナイフを持つという。女は気付いた。それは、盗まれた"カイザ"のナイフだと。取り返そうにも闘う力を持たない自分にはどうにもできない。そこに、一人の死にかけた騎士が現れる」
死にかけた騎士……カイザの頭に、ゼノフで見た英雄像が浮かんだ。
「女は騎士を助けて、ブラックメリーを奪い盗賊として生まれ変わることを命じた。騎士は言われるがままに組織を乗っ取り、ナイフを手にする。しかし、問題が起きた。そのナイフは組織にとってとてつもなく大きな意味を持つナイフとなっていたのだ。女は寂しさとともに、騎士が盗賊として生きていくためにもそのナイフを諦める。そして、運命の出会いは訪れた」
ーー私はずっと待っているの……--
「ブラックメリーを持った金髪碧眼の少年が、この思い出の地に現れる。それがカイザ。お前だ」
「……」
カイザの目には涙が溜まり、背中の重みに寒々とした何かを感じた。男はそれを見て再び嬉しそうに笑う。
「その顔だよ……その顔が見たかった!」
男はテーブルに日記を叩きつけ、高笑いした。
「カイザ、これでわかっただろ! お前が何でマスターに選ばれ、その女に選ばれたのか! お前が金髪碧眼で、名前が"カイザ"だったからだ! お前自身にはなんの価値もない! そしてエドガーはな、お前に価値を見出した西の巫女でもなんでもないんだ! 馬鹿みたいに死んだ恋人の面影に縛られた、ただの哀れな女だったんだよ!」
カイザは零れそうになる涙を堪え、立つことすらままならない足で必死に身体を支えていた。そして、考える。彼女の言葉、彼女の頬笑み。時折感じていた、あの自分の向こう側を見つめるような遠い目。
ーーあなたはもうとっくに、戦士なのよ……ーー
向こうにいたのは……"カイザ"、だったのだと。
「さあ……余興も終わりだ。さっさと始めようか」
男はテーブルを蹴り飛ばして勢いよく立ちあがり、威圧感を放ちながら足早にカイザに歩み寄る。待ちきれんばかりの殺意に満ちた笑顔で。カイザはその雰囲気だけでふらりと倒れそうになる。ぐらついたカイザの胸倉を掴み、男は思い切り墓地に向かって投げた。カイザはミハエルを庇うように抱きしめ、墓石に背中を打ちつける。すると、小屋が大きな爆音と共に激しく爆発した。メラメラと燃え上がるそれを、茫然と見つめるカイザ。炎を背負い、包帯だらけの男はにやりと笑う。
「鍵戦争……命をかけて神の玉座を奪い合おうじゃねぇか! なぁ、カイザ!」
ーーカイザ……--
ミハエルと出会って、好きになれたこの名前。男に呼ばれて、カイザはみるみる形相を変えてゆく。神に選ばれし戦士。クロムウェル家に生まれた神に選ばれた子供。そして、ミハエルの恋人。漠然と胸に湧き上がる憎しみ。頭を交差する絶望と悲しみ。これまでの旅が全て空虚に見えてしまうような……そんな、黒い感情。カイザは墓石にミハエルを寄りかからせ、立ち上がる。男はそれをニタニタ笑いながら見つめる。
「…バンディ、」
カイザは小さく笑い、言った。
「ブラックメリーも神の玉座も、くれてやる。だが、その前に……」
羽織を脱ぎ棄て、カイザはブラックメリーを手に取った。すると、柄尻と刃が光り、三又の槍に変わる。
「お前を殺さないと気がおさまりそうにもない」
口角はバンディに優らぬとも劣らぬ程に怪しく吊りあがり、その瞳孔は開いている。バンディは困ったように笑い、溜息をついた。
「…どうやら、ショックのあまり頭までイカれたか。それもいい。いや、それがいい」
カイザは槍を構え、バンディを睨む。
「俺が求める乱世はこれだよ! 狂気と狂気のぶつかり合い! この混沌を制してこそ、神となりえる!」
バンディはそう叫ぶと、右手を地面に叩きつけた。すると、何処からか導火線に火がついたような音がする。カイザはミハエルを抱き上げ、飛び上がった。その瞬間、カイザの真下が爆発した。吹き飛ぶ墓石と土。爆風に乗ってカイザは遠くへ着地し、ミハエルを木の陰に置いた。
「…そんな女、どうだっていいだろ?」
バンディは腰を上げ、首を傾げる。カイザは何も言わずに墓地の真ん中へと歩み寄った。
「お前をその気にさせて、騙してたようなもんだぞ」
「……」
「なぁ、カイザ」
カイザが睨むと、バチバチと電気が弾ける音がした。バンディはその音にふと、上を見上げる。すると、激しくうねる雷が落下してきた。光はバンディを飲み込み、轟音とともに墓場を光で満たす。クリストフが置いていった瓶は、かたかたと揺れながら白い光を反射していた。
外で大きな音がした。落雷のような音。箪笥を漁っていた少女は手を止めてばたばたと窓に駆け寄った。勢いよく窓を開け、空を見上げる。灰色の空に、黒い煙が上がっている。墓地の方向だ。
「……カイザ」
少女は開け広げた窓をそのままに、出口へと駆けだした。その時、小さな落下音が部屋に響いた。誰もいないはずの部屋。少女は息を飲んで振り返る。鉄扇を手に、部屋を見渡す。すると、本棚から一冊の本が抜け落ちていた。それを見て、少女の顔つきが変わる。少女は本棚に歩み寄り、その赤い古ぼけた本を拾い上げた。
「……」
それは、宴の日に見たあの本。少女が撫でる本の表紙に、ぽたぽたと黒い染みが浮かぶ。少女の目からは、静かに涙が流れていた。
「…エドガー、いるのか」
少女の問いかけに、部屋は沈黙を守るばかり。誰もいない。いるはずがない。そこにあるのは、かつての思い出だけ。そう、知らしめるように。少女は本を抱き締め、涙を拭う。すると、外から再び音がした。それは、落雷の音ではない。爆発音。少女は家を飛び出し、馬に飛び乗る。長い一本道を走っていると、町から空へ立ち上る何本もの黒い煙が見えた。町の入り口まで来て、少女は馬を止める。そこには逃げまどう町民と燃え上がる民家、そして、町民達に襲いかかる男達の姿。本を抱く少女の手が、震えた。
「あの……下衆野郎!」
少女は目を吊り上げ、混乱の中に駆け込む。ブラックメリーの罠に落ちた町へ。
空を轟く轟音。黒猫はふと空を見上げた。その直後、今度は剣のぶつかる音がした。黒猫が視線を戻すと、剣を振るったあとのサイが真下にいた。サイの背後、遠くに大剣を振るったままサイに背を向けたアダム。そして、二人の間に茫然と立ち尽くすシドがいた。
「……!」
サイが左脇腹を抑えて膝をつく。手の間からは血が噴き出していた。そして、アダムはばたりと倒れ込む。その首には、シドの鎌が刺さっている。
「シドが、やったのか!」
チェシャは木から飛び降り、シドに駆け寄る。
「よくやった! ここは引き上げて……!」
チェシャは、シドを見上げて固まった。虚ろな目。左首を抑える少年の手からどくどくと血が溢れだしていた。
「……シド、」
「……」
少年は、ぐらりと前後に揺れて前に倒れた。黒猫はそれを避け、慌ててシドの顔を覗きこむ。首の左側、付け根から鎖骨にかけてばっさりと切れている。
「シド! シド!」
「……どけ!」
チェシャが顔を上げると、苦しそうに脇腹を抑えながらシドに歩み寄るサイがいた。黒猫は、シドの前に立ち塞がってサイを睨む。
「くるんじゃねぇ!」
「どけと言っている! シドを殺す気か!」
「お前がそうするつもりなんだろうが!」
「……邪魔だ!」
サイはチェシャに向かって剣を突き立てた。チェシャはひらりとそれを避ける。サイは剣を投げ捨て、シドを仰向けにしてその頭を抱き上げた。チェシャは、茫然とそれを見つめていた。
「……」
サイは眉を顰め、人差し指と中指を立てて唇に触れた。
「…今だ、シドとサイをやれ!」
「!」
サイが声の方へ顔を向けると、闘いを見ていただけの残党が二人に向かって武器を向けていた。サイはシドを寝かせて立ち上がろうとする。すると、サイの服をシドが掴んだ。
「……放っておけば、いいだろ」
「黙ってろ! すぐに片づけて……」
「僕に構うな! 兄さんなんて大嫌いだ!」
ホワイトジャックの残党が襲いかかってくる中、兄弟は見つめ合う。サイは、思っていることを言葉に、行動に、したいのに……できない。シドの潤んだ瞳と悲痛な"兄さん"という呼び声が……それをさせようとしなかった。
「くそっ!」
黒猫が二人の前に立つ。サイはそれを見て再び足に力を入れた。その時、残党達が赤い炎に包まれた。黒猫は驚いて飛び上がり、サイの後ろに隠れた。残党の悲鳴が森に響く。サイの目の前に、背を向けた男が飛び降りてきた。
「お前……お前は!」
高下駄に袴、烏天狗の横顔。サイの目が見開き、青い目は男を捉えて放さない。シドはサイのただならぬ様子を見て、ふと、木の上を見た。そして、眉を顰める。
「…蘭……丸、」
「!」
サイはシドの呟きに驚いた顔をした。サイは蘭丸に見覚えがあり名前も知っていたようであったが、目の前の男が蘭丸であるとは知らなかったようだ。蘭丸は腰の刀を抜いて、言った。
「早くしろ。死ぬぞ」
サイははっと我に返り、シドを見下ろす。もとより顔色の悪いシドの顔は、もう真っ青だ。サイは再び中指と人差し指を立てて自分の唇に触れた。そして、血が溢れ出る傷口にその指を当てる。指先から白い煙が細い糸のように伸びて抉れた傷口に入り込む。すると、次第に溢れる血が少なくなり、止まった。シドは虚ろな目でサイを見る。
「……なんで、こんなことするんだよ」
「…喋るな」
「僕のこと殺したいんだろ!」
シドが叫ぶと、ぷつんと糸が切れる音がした。塞がりかけた傷口から、血が漏れだす。サイは舌打ちをしてシドを睨んだ。そして、はっと表情を一変する。困ったような、驚いたような表情。サイが見たシドは、きつくサイを睨みながら……泣いていたのだ。
「僕のこと……嫌いなんだろ」
「……」
いつかも、こんなやり取りをしたような気がした。サイはよく覚えていない。混沌にいたあの時、彼はもう感情という混沌に飲まれていた。サイは不思議な既視感の中、その指先から白い煙を出し続ける。
「…俺は、お前が死ねばいいと思ってるわけじゃない」
自分の手で殺せたなら、それで。そう考えるサイの顔は、辛そうだ。シドは真っ直ぐにサイを見つめ、言った。
「僕は……よかったのに」
「……?」
「兄さんがいれば、それでよかったのに……」
シドは右腕で目を覆って小さく嗚咽する。サイは、唖然としてシドを見つめた。小さな右手は、血で赤く染まっている。シドの血で染まったサイの指先から湧き出る白い煙は、大人しくなった少年の傷口を塞いでゆく。黒猫は二人を見つめるばかり。入り込む余地など、なかった。
「……」
蘭丸は黒く焼け焦げる残党を見届け、振り返る。
「お前達、サイとシドだな」
兄弟は、蘭丸の方を見た。蘭丸は刀に肘をかけて、言った。
「お前達に言いたいことがあってきた」
「……」
「鍵戦争からは手を引け。これからさらに激しさを増す」
「なんで……お前にそんなこと、言われなくちゃならないんだよ……」
シドが苦しげに呟くと、蘭丸は袴を翻して立ち去ろうとする。
「待て!」
サイが呼びとめた。蘭丸は、その真っ黒な烏天狗の目をサイに向ける。
「あの日、シドを俺に突きつけた仮面の男……」
「……」
「お前だろう」
シドは、二人の会話を聞いてサイを見た。その目は真剣だ。自分をサイに渡したのが……蘭丸。
「バンディを襲ったのも、お前なのか」
「そうだ」
「お前は、何を知っている」
「…何を、とは?」
淡々とした言葉が行き交う。しかし、サイの激しい鼓動がシドには伝わっていた。その手の、震えも。
「何故お前がシドを連れていた」
「……」
「何故、俺の弟だと知っていた! 何故俺達を鍵戦争から引き離そうとする! 答えろ!」
シドは、声を荒げるサイを不安げに見つめ、その視線を蘭丸に移した。蘭丸は、じっとサイを見下ろしたまま動かない。
「……業火の中、お前達の母親が死に物狂いで俺にお前達を預けた。安全なところへ連れて行って欲しいと。それだけだ」
「……つくならもっとマシな嘘をつけ」
サイが言うと、蘭丸は首を傾げた。
「嘘など、ついてはいないが」
「嘘に決まっている。俺が孤児院に入ったのは赤ん坊の時だ。母親が赤ん坊の俺をお前に預けたとしたら、シドはまだ生まれてない」
「……」
「…どういうことだか、はっきりしてもらうぞ。俺と、シドの出生について」
出生。知りたいと思っていた自分の両親のこと。この男が、知っているというのか。シドは蘭丸を見つめて黙り込む。サイも、じっと蘭丸を睨みつけている。
「……なんと言っていいのか、わからないが」
蘭丸は、大きく息を吐いて言った。
「俺は確かにお前達を母親から受け取った。そして、一度離れ離れになってしまったお前達を巡り合わせた」
「……両親はどこにいる」
「父親は知らない。母親なら、死んでいる」
父親を知らない。グレンは自分とサイを引き合わせた男が父親ではないかと言っていたが、その線は消えた。シドは少し安堵したように胸に溜まった息を吐き出す。しかし……
「……母親とは、どんな人物だ」
そう。蘭丸が知っているという、二人の母親。サイが聞くと、妙な沈黙が流れた。サイの表情が焦りで険しくなってゆく中、シドは、蘭丸の放つ異様な空気を感じていた。言おうか、言わまいか。悩んでいるような沈黙。そこからシドは、ある答を導き出す。母親は、"二人が知っている人物"なのだと。
「お前達の、母親は……」
絞り出されるような声。時間が止まっているかのように緊張した空気。サイの速まってゆく鼓動を聞きながら、シドは考えていた。聞いたら、何もかもが変わってしまう。兄弟の関係も、カイザ達との旅も、全てが色を変えてしまう。そんな気がしていた。そして、自分達を見下ろす仮面の男。異国の雰囲気漂う馴染のない気配だが……その仮面の裏から聞こえる低い声は、何処かで、何処かで聞いたことがある気がする。母親と、蘭丸の正体。それを知った時……世界がぐるりと、反転してしまう。黙り込む少年は、目を潤ませながら……そう、考えていた。