91.死者は何も語らない
まだ厚い雲が空に張り付く少し肌寒い昼。少し前はあんなに暑かったのに、北で過ごすうちに季節はもう変わってしまったようだ。馬を走らせ、カイザはこれまでの旅を振り返っていた。ミハエルを掘り起こしてから、目まぐるしく変わっていった。いや、変わったのは自分だけで、世界はずっと、世界のままだった。何も知らなかった。ただそれだけなのだ。
目の前には、フードをかぶったシドの後ろ頭がある。大人しくしているシドを見下ろしていると、前を走るクリストフが言った。
「じきにノースだ! カイザ、墓地の場所はわかるか!」
「町に入ればわかる!」
「…先に、エドガーの家を見に行くぞ! いいな!」
「わかった!」
少女は前に向き直った。10年ぶりのノースに、カイザの鼓動が激しくなる。
「……」
「?」
シドが、振り返った。カイザは優しく微笑む。
「…どうした」
「……心臓の、音」
シドがぼそりと呟く。自分の緊張を読み取ったのだろうか。カイザはシドの頭を撫でた。
「大丈夫だ、気にするな」
「……これは、」
シドの表情が、険しくなった。その瞬間、シドはチェシャを抱いてカイザを後方へ突き飛ばした。
「!」
ゆっくりと地面に近付く。馬が離れてゆき、シドが身を翻して上を見る。その手には、鎌が握られていた。落馬し、地面に叩きつけられるカイザ。少し湿った土の上を転がりながら、体制を整えて立ち上がる。すると、シドの真上に勢いよく何かが落ちてきた。
「シド!」
激しい衝撃音と、土煙。そして、どす黒い血が噴き上がった。ぼやけた視界の中、カイザは茫然とその中を見つめる。前を走っていたクリストフも異変に気付き、馬を止めた。
「……お前は、」
「久しぶりだね、マスター」
土煙が晴れると、そこには真っ二つになった馬の死体が。その間に、大きな剣を振り下ろしている男と、しゃがみ込んでその剣先を鎌で受けているシドがいた。シドの胸の中で、チェシャがぽかんとしている。男は横目にカイザを睨む。カイザはブラックメリーを抜いた。すると、カイザの背後からざわざわと黒いフードの男たちが現れた。クリストフは舌打ちをしてそれを見渡す。
「アダム……ここで、ホワイトジャックのお出ましか」
アダムは横目に少女を見た。
「…ローザ、いや、クリストフ。まさかお前が賞金首や死刑囚と行動を共にしていたとはな」
アダムは剣に力を込めた。シドは剣を受け流してカイザの前に立ち塞がる。アダムは地面に突き刺さった剣をそのままに、クリストフと、シド、そして、カイザを見た。
「三人で仲良し親子ってわけでもないだろ。なんだ?」
「気持ち悪いこと言ってんじゃねぇよ。あたしが誰といようが、関係ない」
馬から飛び降り、クリストフが言った。
「お前の狙いはわかってる。山を治めるあたしと、バンディに追われてるカイザだろ」
「そうだ。だが……」
男はシドを見下ろすように睨む。シドは、無表情で鎌を握り直した。
「仕留め損ねた悪魔も、屠る必要がありそうだ」
アダムの目を見て、シドが鎌をアダムに向かって投げつけた。すると、カイザの背後の男達も武器を手に動き出した。アダムは鎌をアーマーで弾く。白い鎖が巻き取られ、弾かれた鎌がシドの手元に戻るとシドはそれをアダムの首目がけて振るった。アダムは大剣でそれを受けた。
「シド!」
カイザがシドに向かって走り出す。クリストフも鉄扇を手に駆け出していた。混戦になる、そう思われた。
「クリストフ! カイザをお願い!」
シドは、眼帯を解いた。そして、黒い煙がカイザとクリストフを避けるように辺りを包み込む。男たちは煙に捲かれると、何やら騒ぎだした。
「シド! 何処だ!」
黒い視界の中カイザが叫ぶと、煙から一つの人影が飛び出してきた。それは、苦しそうに頭を抑える大剣の持ち主……アダムだった。カイザはその剣をナイフで弾き、後退する。
「お前さえ、捕えられれば……」
魘されるように呟くアダム。灰色の瞳の周りが赤く血走り、カイザを睨む。カイザがナイフを構えると、突然身体が宙に浮いた。
「クリストフ!」
カイザは少女に軽々と持ち上げられ、馬に乗せられた。少女はそのまま煙を突っ切って走る。
「適当に切り上げて来いよ!」
クリストフが叫ぶと、煙の真上、木の上にいたシドはこくりと頷いた。カイザは遠くなるシドを見つめ、馬から降りようとする。
「放せ! シド一人置いていくつもりか!」
「……」
「クリストフ!」
少女は前を向いたまま、静かに言った。
「ノースの近くで騒ぎ立てたくない。あいつの精神感応なら、足止めどころか目暗ましにもなる。今はここから離れることを考えろ。もう、着くんだぞ」
「……」
「長居もできない。さっさと用を済ませて真っ直ぐパリスへ向かう」
「…シドは」
「お前なら、よくわかってるんじゃないのか」
どんなに離れてもシドは追いついてくる。それは、信じられる。しかし……
ーー久しぶりだね、マスター……--
ホワイトジャックのマスターが相手ともなると……カイザが考えているうちに、シドとの距離は離れてゆく。目の前には、クリストフの背中。その前には、ぐったりと馬の首に寄りかかるミハエル。辛そうに俯くと、急に馬が足を止めた。
「……クリストフ?」
「……おい、」
カイザが前を見ると、木々の間から何やら広場のような場所が見えた。そこには、黒い石が幾つも並んでいる。ずっと向こうには木でできた小屋のようなものも見えた。
「あれは、ミハエルの……」
「ノースに出る前にここへ辿り着くなんて、ついてる」
少女は小さく笑い、馬を再び走らせた。少しずつ、木を横切る度に近付く。懐かしい場所に……
ーー…そうなの? カイザがちっちゃい時の話聞きたいよねー……--
リバーカインドでシドに語った幼い日の思い出。それが頭の中でじわじわと蘇る。そして、やはりシドが心配になる。早く来い。ここを見せたい。安心させてくれ。そんな思いが、速まる鼓動と共に溢れだす。
「シド、お前何したんだ?」
シドの隣で下を見下ろすチェシャ。シドはフードを上げて、にやりと笑う。
「僕の記憶を転送しただけだよ。ほら、チェシャにもしたじゃん」
「記憶って……なんであいつら、あんなに苦しそうに……」
「僕は元殺し屋だよ? カイザに会ってからは混沌に行ったり目を抉られたり、頭が狂うような体験は腐るほどしてるからねー」
「……」
とはいえど、大の大人が慌てふためく程の体験とは、なんなのか。精神感応がどうというわけではない。この少年が邪眼を得たことが恐ろしかった。どんな人間よりも残酷に、そして確実にこの力を使いこなすだろう。チェシャがそんなことを考えていると、シドが煙の中に飛び降りた。
「あ、おい!」
「待っててー」
少年は黒い煙に飲み込まれた。中は真っ暗。時折、チカチカと白い光が遠くに見えるが、ぱっと消えてしまう。頭を抑えて苦しむ者、何かから逃げまどう者。シドはその中を歩く。
「か、怪物……!」
「苦しい……」
シドは、自分の姿さえ見えなくなっている男達に一方的に鎌を振るう。血が飛び散り、シドが歩いたあとには死体が転がっていく。そして、シドは立ち止まった。
「…やっぱり、そう簡単にはいかないか」
「……どこで、そんなもん覚えたんだ……シド」
ニコニコ笑うシドの目の前には、苦しみに顔を歪ませるアダムがいた。灰色の瞳が、シドの赤い目を睨む。
「もらったんだよ。いいでしょ」
「そんなもん、ただの幻術だろうが」
「その幻に皆引っかかるんだから、面白いよねー。マスターだって実際、僕の記憶に触れて苦しそうじゃない」
「…これは俺の苦しみじゃない」
アダムは大剣をシドに向け、言った。
「これは、お前の哀れな回想録にすぎない!」
大剣を大きく一振りすると、激しい突風が吹いて煙が消し飛んだ。風を受けて、シドは驚いたように立ち尽くす。
「……へぇ、さすが」
シドの靡く前髪が、さらりともとの場所へ戻ってきた。そして、少し右目にかかるとその赤い瞳から再び煙がもやもやと溢れだす。アダムは息を整え、大剣を地面に刺した。
「あー……しんどかった」
眉を顰めて乱れた髪を掻き上げるアダム。シドはそれをじっと見つめ、言った。
「…マスター、邪眼知ってるの?」
「知らない。昔、精神感応を使う悪魔に会ったことがあるだけだ」
アダムは大剣に寄りかかり、シドを冷たく見据える。
「そいつにはかなり手を妬かされた。だから、嫌いなんだ。お前らも、その気味の悪い力も」
「……」
ーーお前をホワイトジャックから消そうとしたのは俺じゃないーー
混沌でのサイの言葉。信じてなどいなかったが、的外れな言い訳というわけでもなかったようだ。シドは鎌の鎖を伸ばし、構えた。
「トラウマってやつ? それは……悪いことしたね」
シドの後ろではまだ息のある男達が正気を取り戻したのか、次々に立ちあがる。よろよろと、幻から解き放たれて。
「トラウマか。そんな可愛いもんならまだよかった」
アダムは大剣を振り上げて自分の肩にかけた。
「これはもう、憎悪だ。俺が精神感応使えたら、お前に教えてやることもできただろうに」
「いいよ。十分伝わってるから」
「…本当に、可愛げのないガキだ」
アダムがそう言うと、シドの背中から黒い煙と共に翼が生えた。目は赤く光り、煙は鎌の先にだまになってゆく。
「マスター、もう逃げ回ってた昔の僕とは違う。ここでそれを証明してあげるよ」
シドの姿を目にして、立ち上がった男達は後ずさりする。皆が竦み上がるその殺気の中、笑う男が一人。
「来いよ、悪魔をも狩るこの俺が相手してやる」
アダムは剣先をシドに向け、目を見開いた。その瞬間、シドが煙を靡かせてアダムに突っ込む。アダムも剣を向けたままに一歩大きく踏み出した。ぶつかる黒い鎌と大剣。その衝撃に黒い煙が散り散りになって風を巻き起こす。木の上で枝にしがみつくチェシャは、瞬きもせずにそれを見ていた。
「……なんだよ、あいつら……人間、かよ」
楽園の門を通って来た魔族の口から零れる驚愕。自分は、とんでもない連中に関わってしまったのかもしれない。そう、今になってやっとわかった。
何も変わっていない。一緒に手入れをした花壇。並んで座っては月を見上げ、囁くように話をした大きな切り株。そして、出会いのきっかけとなった墓石。カイザは馬を降りて、ふらふらと歩き出す。
「…ここが、エドガーの墓地」
少女も馬を降りて、景色を目に焼き付けるように周囲を見渡す。少し進んで立ち止まると、カイザはしっかりとした足取りで馬のもとへ戻り、ミハエルを抱き上げた。少女は不思議そうにじっとカイザを見つめる。カイザは布を取り、ミハエルを背負って切り株へと歩き出した。そして、その前で立ち尽くし、呟く。
「…ミハエル」
だらりと、カイザの肩から垂れる白い腕は何も言わない。カイザはミハエルを切り株に座らせると、その隣に腰かけた。ミハエルの頭を自分の肩に寄せて、ふと、空を見上げる。灰色の空には、何もない。しかしカイザには……10年前の月が、ありありと目に浮かぶ。
「ただいま……」
カイザは悲しそうに笑った。墓地の切り株に腰をかけ、寄りそう美男美女。森の影も、曇った空も、全てが、二人をそこに置くだけで額縁の中のような景色に変わる。それに目を奪われていた少女は、辛そうに目を反らして歩き出した。そして、ある墓石を探す。カイザは視線を落とし、少女を見た。
「……そういえば、ここに墓があるんだったか」
「ああ」
「なんて家なんだ?」
「…そうか、ここに通い詰めていたお前ならわかるかもしれない」
少女は墓標を見ようとかがめていた腰を伸ばし、言った。
「ローズウッド家だ」
カイザは、少女の言葉に一瞬呼吸が止まった。
「…ローズウッド?」
「なんだ、知ってるのか?」
クリストフの親戚の家。ローズウッド家。ミハエルと出会った夜に自分が掘り返していた墓。
「……」
カイザはミハエルを切り株の上に横たわらせて、立ち上がる。そして、一つの墓石の前に立った。
「……」
カイザの目の前の墓石を見て、少女は小さく笑う。
「これか」
クリストフは腰の瓶を取り、置いた。
「久しぶり。お前の息子……助けられなかった」
少女は、ぼそぼそと墓石に向かって呟く。
ーーローズウッド夫人もね、今はここにいて、心はここにあるのよ……ーー
少女の背中を見つめるカイザの頭に、ミハエルの声が響く。あの日あのまま、鮮明に。
「今度は……救ってみせる。きっと、いや……絶対に」
少女の血縁者が眠る墓。少女が話しかけているのは、あの夜、自分が話しかけた夫人なのだろうか。だとしたら……本当に、この数奇な運命の糸はどこまで繋がっているのだろう。そして自分は、何処へゆきつくのだろう。
ーー誰かが悪いということはないのです。思いや願い。そういったものが拗れてしまうだけで……ーー
拗れた糸に雁字搦めにされたこの地上で、自分は……何処へ。