89.机上の空論を打ち破るために
宿屋の一室。ベッドにはフィオールが死んだように眠っていた。心配そうにその顔色の優れない寝顔を見つめ、少女はテーブルへと歩み寄る。そこには煙草を吸うカイザと、難しい顔をするルージュ。そして、テーブルの上で丸まる見知らぬ黒猫の背中を撫でるシドがいた。皆、表情は暗い。
「…一度、ダンテ様のところに戻りますか」
ルージュがテーブルをの表面を見つめて低く呟く。クリストフはそんなルージュの隣に座り、俯く。
「フィオール、死んじゃうの?」
シドが不安気に聞くと、黒猫は顔を上げた。
「死なねぇよ。そんな簡単に人間は死なない」
「でも……」
「あいつ、今までどんな茨の道を歩いてきたんだよ。精神がずたぼろだ。妖精様が心配してんのは命とかじゃなくてあいつの心の方なんだよ」
カイザは煙を吐き出して、言った。
「ルージュ、フィオールの具合はそんなに悪いのか」
「…そう、ですね。少し危険です。混沌でもひどく精神的に弱ってましたから……」
ルージュは眉を顰めた。
「これ以上、追いつめられるようなことがあれば……身体にも支障がでかねません」
「支障、というと……」
「目が見えなくなったり、声が出せなくなったり。記憶障害や精神異常……精神が弱って死んでしまわぬよう、身体が無意識に反応してしまうのです」
「まさか、あのフィオールが……」
カイザは額を抑えて俯いた。自分のせい。そうも考えた。明るく、いつも励ましてくれていたフィオールが精神を病んでしまうだなんて。やはり、力づくでもユリヤに会いに行くのを止めればよかった。自分が頼りないばかりに、こんなことに。
「…あたしの、せいだ」
少女が、弱弱しく呟く。
「あたしが……あいつを追い詰めた。昔の恋人を殺させてしまった」
「…お前のせいじゃない。ユリヤを殺さなければフィオールは死んでた。あれは……仕方ないんだよ」
カイザは、辛そうな顔をして言った。
「仕方、なかったんだ」
仕方ないと思わなければ……自分を抑えられない。自分が止められなかったことも、フィオールがユリヤを無視できなかったのも、クリストフが怒りに身を任せてしまったのも、ユリヤが淫魔に憑かれたことも、地獄の門が開きかけていることも、鍵戦争も。フィオールを追い詰めた全てが、仕方のないことだと思わねば。誰かを、責めずにはいられなかった。
「…カイザの言う通りです。こればかりは、誰が悪いわけでもありません。…いや、どんなことだって、誰かが悪いということはないのです。思いや願い、そういったものが拗れてしまうだけで。誰も……悪くありません」
ルージュがそう言うと、クリストフは溜息をついてテーブルに肘をついた。
「とにかく、今はフィオールをどうにかしなくては。地獄門の影響も出てきています。一度、ダンテ様にご相談しに行った方が……」
「大丈夫だ……」
苦しそうなフィオールの声。全員が顔を上げ、ベッドの方を向いた。フィオールが、ゆっくりと身体を起こしている。クリストフはフィオールに駆け寄り、その背中に手を添えた。
「まだ寝てろ」
「いや、もういい。とにかく、今は情報を……」
「それどころじゃない! ダンテのところに行くから、それまでは……」
「大丈夫だって言ってんだろ? 俺は心を痛めて頭おかしくなる程繊細じゃないって」
フィオールは苦しそうに笑い、カイザを見た。
「ブラックメリーについてはなんの情報も掴めなかった。たぶん、あっちも情報に関しては手を打ってきてる。俺がいるから対抗手段を取ったようだな」
「……」
心配そうに見つめるカイザに、フィオールは続けて言った。
「あと、ホワイトジャックがバンディを追ってる。組織がぶつかるのも時間の問題だ。そして、帝国と革命派がぶつかるのもな」
「帝国が、動いたのか」
「…ゼノフが陥落した」
カイザの表情が固まる。ルージュとシドも、不安そうな顔をした。
「カンパニーレも巻き込まれたらしい」
「…グレンは」
「死んだという報告は入ってない。しかし、これで帝国と革命派は真っ向からぶつかる」
「……」
「アンナ寵妃は国を手にしたも同然。ダンテ次第でどうなるかはわからないが。それに東の軍勢も大陸に攻め込んできたらしい。ヤヒコも動きを見せた。立ち止まってる暇なんて、もうないんだよ」
ついに、この時がきてしまった。国は荒れる。荒れる国を横目に、突き進む。クリストフが思い描いたシナリオのままに、世界が動き始めている。
「ナタリーはろくな情報がない。ここは出て、早くノースへ……」
フィオールはそう言って、額を抑えた。
「どうした、フィオール! 痛むのか?!」
「な、なんでもない……」
それを見て、ルージュが立ち上がる。
「クリストフ様、私がフィオールを連れてダンテ様のもとへ向かいます」
「いいって言ってんだろ!」
「病人は黙っていなさい!」
いつも穏やかなルージュが、形相を変えてフィオールに怒鳴った。そこにいた全員が驚きのあまり固まる。
「…フィオールがどれほど仲間を思っているかは重々わかっています。しかし、そのままでは足手まといになりかねない」
「……」
「あなたが皆を思うように、私達だって……あなたを思っているのですよ」
フィオールの強張った表情が、ルージュの言葉で柔らかくなる。ルージュは優しく微笑んだ。カイザも、少し心配そうな顔をしながらも微笑んで見せた。
「よくなったら早く戻ってきてくれよ。お前がいないと、クリストフが寂しがるからな」
「あ、あたしは……!」
赤面した少女に、ルージュは言った。
「クリストフ様も、行きますか?」
「……」
少し悩む少女。すると、フィオールが言った。
「お前がいなくなったらカイザとシドの二人旅になっちまう」
「……」
「そんなの心配でならない。カイザは感情的になると手がつけられねぇし、シドはあの通りだし」
カイザとシドは優しげな表情を一変してフィオールを睨んだ。
「頼む、クリストフ。俺の代わりにこいつらを見てやってくれ」
「…わかった」
フィオールは少女の手に触れた。少女はその手を握り返す。二人の薬指には、金の指輪が光っている。
「フィオール、僕はこの通りってどういうこと?」
シドがにっこりと微笑んでフィオールに歩み寄る。その手には鎌が握られていた。フィオールはそれを見て顔を引き攣らせながら、そういうことだよ、と弱気に呟く。
「そうだ。感情的になると手がつけられないってどういうことだよ。クリストフの方が手がつけられないだろ」
不満気なカイザ。すると、シドに向かって手を上げながらフィオールがあたふたと言った。
「お前、雷みたいなのでクリストフを気絶させてたろ! シドもどうにかしてくれ!」
「あ?! あれカイザだったのか!」
クリストフがぎろりとカイザを睨む。カイザはびくっとして前に向き直った。
「フィオール教えてよー。僕ってどんな子?」
「お、おちゃめな子かな。俺精神病んでるみたいだからさ、よくわからねぇや」
「えー、さっきはそんな繊細じゃないって言ってたじゃんー」
布団に潜り込むフィオールを揺するシド。
「カイザ、あれは痛かったぞ」
「…なんのことだ?」
「とぼけんな!」
後ろから腕をかけてカイザの首を締め上げるクリストフ。カイザは少女の細い腕を激しく叩く。
「入ってる! 思いっきり入ってる!」
苦しむカイザをよそに、ルージュはベッドに向かって叫んだ。
「シドー、寝かせておいてあげなさいね」
そんな5人を傍から見ていた黒猫は、椅子に腰かけたルージュに聞いた。
「いつもこんなんなのか?」
「はい」
「仲良いのか? こいつら」
「…見てわかりませんか?」
「わからん」
鎌を手に病人を脅す子供と、容赦なく男の首を絞める女。そして、何事もなかったかのようにお茶を入れ始める妖精。黒猫は首を傾げてただ、丸まっていた。
蝋燭の明かりが薄らと黒い壁を照らす地下室。悲痛な叫び声が響き、紫色の陣が弾くように光る。
「うるさい! もう少しだから我慢しろ!」
「無理っす! 何で! 何で麻酔しないんすか!」
「医術と魔術は違うんだよ!」
グレンは鉄の椅子に座らせられ、後ろ手に拘束されていた。右足は椅子の足に縛り付けられ、左足の膝も抑えつけられている。椅子の真下の紫の陣からは紫色の煙が湧きだしてオズマが抑えるグレンの左膝に纏わりつく。煙がぐねりと揺れる度に、グレンは痛みに顔を歪めた。
「いてぇーっ!」
「これで、終わりだよ!」
オズマが陣を叩くと、陣と煙が激しく散った。グレンは前のめりになって叫び声を上げる。煙が消えて部屋が暗くなると、グレンはぐったりと項垂れて肩で息をした。オズマはテーブルに置いていた燭台を手に取り、左足を照らした。
「……うん、うまくいった」
オズマが呟くと、グレンは冷や汗でびっしょりな顔を弱弱しく上げた。足には、スプーンのような白鋼の細い義足がついている。豪勢な装飾と、滑らかな曲線。グレンの目は点になっている。
「…これが、足っすか」
「そうだけど」
白鋼の足をばたつかせてグレンは喚く。
「これのどこが足なんすか! ただの廃材っすよ! こんなのよりなら普通の義足の方がまだマシだったっす!」
「そんなんじゃ戦に出れないだろ! 激しい戦闘や複雑な動きに特化したロストスペルってだけでもいい代物なのに! それを魔術で扱いやすくしてやったんだぞ! 感謝しろ!」
「やだー! 俺の足ー!」
「泣くな!」
オズマはグレンの頭を殴った。
「叫び声が泣き声になったかと思えば……」
怒り心頭のオズマがその顔のままに振り返ると、呆れ顔をする18歳の姿のダンテがいた。
「できたみたいだね」
「…一応」
オズマはぐずるグレンを見下ろす。ダンテはグレンに歩み寄り、その左足を見た。
「へぇ、随分といいのつけてあげたじゃない。魔法まで使っちゃって」
ダンテの言葉に、グレンは顔を上げた。
「オズマ、グレンのこと嫌いなんじゃなかったの? 僕はてっきり魔物の足でもくっつけてるかと思ってた」
「……使い物にならないと、困りますからね」
オズマはふいっとそっぽを向いて溜息をついた。グレンは鼻を啜りながら、左足を見る。ダンテはその白鋼を撫でて言った。
「よかったじゃないか。この義足、衝撃を吸収したり利用したりも自由自在だよ。魔術で触覚だけ繋げてるみたいだから、痛みもなく自分の足のように使える」
「…そんないい足なんすか」
「医者のくせしてわかんないの?」
「……」
「ロストスペルに関してはオズマの方が詳しいもんねー」
グレンはオズマを見た。オズマは面倒くさそうに腕組をしている。
「…それ、プレゼントするからしっかり働いてくれよ?」
「…どうもっす、オズマ」
グレンはまだ少し茫然としながら白く光る足を見た。
「あ、そうそう。軍の配備も整ったよ」
しゃがんでいたダンテは立ち上がり、言った。オズマは組んでいた腕を解く。
「アンナ寵妃の居場所が掴めたんですか」
「うん。帝国宮廷」
「……大層なところに駆け込みましたね」
「もうあっちは総力をあげて僕らを潰しにくるつもりみたいだからねー。アンナ寵妃の息がかかった革命派はもう勝手に動き始めちゃってるし。今のところ、アンナ寵妃の思惑通りってところか」
グレンは二人を見つめ、眉を顰める。
「だったらすぐにでも宮廷に攻め込むっすよ! アポカリプスならそのくらい……!」
「そう急くなよ。宮廷に真正面から突っ込ませることこそ、アンナ寵妃の狙いなんだ」
オズマの言葉に、グレンは首を傾げる。
「アンナ寵妃の狙いは帝国と革命派がぶつかり合わせて国を乱し、鍵戦争の終幕を制して世界を掌握することさ。鍵戦争をどうにかしないことには帝国を落としたところで意味はない」
「……カイザが言ってた、伝説の……」
「そう。世界を救い、そして変える。それがアポカリプス結成の目的だ」
グレンは俯き、考え込む。世界を救う。それは自分が考えてきたことではあった。しかし……その意味の違いがなんとなく、理解できたのだ。国を変えるなんてもんじゃない。人類の……世界の、命を救うのだと。グレンはごくりと生唾を飲み込んだ。そんなグレンを見下ろして、ダンテはぱちんと指を鳴らす。すると、グレンを椅子に縛りつけていた拘束具がとれた。軽くなる手足。しかし、グレンは険しい表情をしたまま立ち上がろうとしない。ダンテはグレンの胸倉を掴み、立ち上がらせた。
「……」
銀の瞳が、怯えるような黄土色の瞳を貫く。ダンテは胸倉を掴んだまま顔を寄せ、言った。
「これからもっと、詳しく教えてあげるよ。グレンはアポカリプスの大事なお医者さんだからね」
「……」
「もう、後には引けないよ?」
グレンは薄く笑うダンテを睨み、その手を振り払った。
「…引く気なんか、毛頭ないっすよ。言ったじゃないっすか。帝国とクロムウェル家にド派手な終末の音を聞かせてやると」
グレンの左足が、一歩前に出る。
「俺は世界を救うためにカンパニーレの将軍になったようなもんなんすよ。話の規模がでかくなって、嬉しいくらいっす」
「そう? ビビってるかと思ったよ」
ダンテがニッコリと笑った。グレンはあたふたと両手を振る。
「びびびびびびビビるわけないじゃないっすか! しょしょしょ将軍の俺が!」
「で? 足はどう?」
「…あ」
オズマに聞かれ、グレンは下を向いた。
「……違和感ないっす。むしろ、前より軽いような……」
「よかったねー。じゃあ早速、グレンには軍を率いて戦地に赴いてもらおうかな」
ダンテはニコニコと笑いながら言った。
「いい? これは大事な仕事だよ。君達別働隊、選抜医療部隊カンパニーレには国中走ってもらうからね」
「国中? 軍に医療班を編成するんじゃないんすか」
「まあ、それもするけど。グレンには別働隊隊長として働いてもらうよ」
「……何するんすか」
ダンテの華やかな笑顔。その口元が、怪しく緩む。
「戦地で傷ついた人間を一人残らず救う。敵味方、関係なくね」
「敵味方、関係なくっすか」
「うん」
「敵まで助ける意味がわからないっすけど……それって、後手に回るようなもんなんじゃ……」
「そうだね。でも、君達別働隊は先手として大きな意味を持つ」
「……」
「アンナ寵妃が戦争を仕掛けてくるなら、僕達はその傷を癒す。そして、民間人に帝国より革命派だと知らしめる」
グレンは、表情を固まらせてダンテを見つめる。
「鍵戦争はね、"零"を制するための戦争だ。だから僕は君に、零の未来を逸早く革命の色に染めてもおうと思う。もちろん、グレンの腕を見込んでいるからさ」
「……」
「帝国とクロムウェル家……鍵戦争のことは僕達に任せて? グレンは、心の赴くままに痛みと闘う人々を救えばいい。わかったね?」
「……わかっ……たっす」
今この時、グレンは感じたこともない程胸が高鳴っていた。人を救える。医者として、わけ隔てなく。これこそ、自分のすべき革命だったのだと……グレンは思った。思い描いてきた自分の理想を戦争を逆手に取って実現させてくれるダンテ。今まで気付けなかったことが悔やまれたが、わけもわからない鍵戦争とやらがあったからこそ訪れた機会。これを逃すわけにはいかない。目がチカチカする程に眩しいダンテの笑顔を見て、グレンは深々と頭を下げる。伝説の美女……いや、神の酌童。その貴さを、目の前に。