85.死体は溢れんばかりの愛を受けて
「フィオール、」
振り返ると、カイザがいた。フィオールは自嘲するように笑い、言った。
「…どうしよう、俺。もう、わかんねぇや」
「……」
カイザは眉を顰め、言った。
「何で、ユリヤのキスを拒もうとしなかった」
「…キス?」
フィオールの顔に、疑問の色が浮かぶ。カイザはそれを見て、言った。
「…お前、覚えてないのか」
「キスなんて、したか? ユリヤと話していたら、突然クリストフが……」
「やっぱり、変だぞ。何か」
フィオールは少し考え、俯く。
「例え、何かがおかしくても俺がしたことは変わらない。クリストフを傷つけたことも」
「不可抗力だったって話したろ。お前は悪くなんか……」
「そういう問題じゃないんだ!」
フィオールはしゃがみ込み、頭を抱えた。
「誰が悪いとか、そういう問題じゃない。俺の身に起こった事実が……それだけが、問題なんだ。俺が、他の女と寝たっていう事実が。こんな薄汚れた俺が、クリストフに触れることを許されるわけがないだろ……」
「……」
ーーそうだな。あの二人をああしたのはお前だーー
クリストフが憎悪に心を蝕まれてしまったのも、フィオールがここまで自分を責め立てるのも、全部……互いが互いを深く愛おしく思うから。だったら、このままでいいはずがない。
「…フィオール、確かにお前の言う通りだ。責任が誰にあるかなど関係なく、許せないと思うこともある」
カイザが言うと、フィオールは頭を抱えていた手を放し、笑った。
「そうだろ。だから、もう……」
「それでも、真実から目を逸らすな」
フィオールの足元には、ポタポタと雫が垂れていた。
「これは、クリストフにも言える。別れるんなら一緒にいた時間の全てを知って、ケジメをつけてからにしろ。女と付き合ったことがないからよくわからないが、別れるまでは恋人同士なんだろ。男なら、最後まで責任持て」
「……」
「最後まではきっちり、恋人の役目を果たせ」
カイザが言うと、フィオールは顔を上げた。その顔は、薄く笑っている。
「…2年前の俺にも、その言葉を言ってやりたいよ」
フィオールは立ち上がり、大きく伸びをした。そして、欠けた月が輝く夜空を見上げる。涙はもう乾いた。歩き出せる。
二番街にある煙草屋。その二階にある娼館こそが、夜の顔。表には客の呼び込みをする女達がいた。煙草屋の屋根の上で、その様子を尻尾を振りながら見つめる黒猫が一匹。
「いたー」
「!」
黒猫が横を見ると、ニコニコと笑うシドがいた。
「シド!」
「ねぇねぇ、チェシャー」
「なんだよ! あんな感動的な別れをしたら普通街で会っても知らんふりをしてだな……!」
チェシャがミャーミャーと文句を垂れていると、シドは眼帯を上げた。溢れ出す煙に驚いて、奇声を上げるチェシャ。逃げ出そうとしたが、捕まってしまった。
「……」
シドは屋根にしゃがみ込んだまま、小さな煙の繭を見つめる。暫くして、煙を解いた。チェシャは呆然として、シドを見つめる。眼帯を直し、シドは微笑む。
「…それ、邪眼か。精神感応なんか使えたのかお前」
「知ってるの?」
チェシャは鼻を鳴らして、前に向き直る。
「俺は魔族だぞ、当たり前だろ」
「じゃあさ、帽子かぶった男のことでなんかわかることない? あの人なんか足りないんだけど」
「足りない? ああ、ありゃあ生気吸われてんな」
「やっぱりあれ、生気なんだ。何で? 死にそうなの?」
「死にそうなのには変わりないけど」
「難しい話になる?」
「…ガキには難しいかもな」
シドは小さく唸りながら、立ち上がった。
「難しいなら、ルージュに聞いてもらおう」
シドはチェシャを抱き上げた。
「おい! 俺は今忙しいんだよ!」
「派手なお姉さん眺めてただけでしょー」
「あ! こら、放せ!」
シドはチェシャを抱き締めて屋根の上を駆け出す。闇に溶けてゆく少年と共に、ミャーミャーという鳴き声が遠くなっていった。
「カイザ!」
部屋に戻ると、落ち着かない様子のルージュが駆け寄ってきた。カイザは部屋を見渡し、言った。
「…クリストフ、はともかく。シドもいないな」
「そうなんです! 急に窓から出て行ってしまって……」
「玄関から出ろって言ったのに」
「そうじゃなくて!」
ルージュはカイザの肩を掴んで激しく首を横に振る。
「ただいまー」
ルージュが勢いよく振り返ると、窓辺にチェシャを抱くシドがいた。ルージュはシドに駆け寄り、抱き締めた。
「シド! 心配……したんですよ! 出る時はちゃんと玄関から……」
「…何の心配?」
首を傾げるシドと、どっと押し寄せる安心感でおかしなことを口走るルージュ。チェシャはその間からするりと抜けて、カイザを見た。カイザも、黒猫に目を留める。
「おいシド。変なもん拾ってくるな」
カイザがそう言うと、チェシャは尻尾を立てて言った。
「こいつ! こいつだ!」
喋る猫に、カイザは眉を顰める。
「…なんだ、この猫」
「チェシャだよ」
シドが言うと、チェシャはシドの頭に飛び乗って叫んだ。
「シド! こいつだ、俺の女をたぶらかしたクソ野郎は!」
「カイザが?」
「そうだ!」
「……カイザはそんなことしないよ」
言い合う二人を横目に、カイザとルージュはテーブルに座る。
「ルージュ、あの猫……」
「彼は化け猫のチェシャ。昨日シドと街で知り合ったそうです。煙草屋の娘に気があるみたいで」
「何で俺が煙草屋の娘をたぶらかしたことになってるんだ」
「大方、昨日カイザが煙草を買いに行った時に娘の方が一目惚れしてしまった……といったところでしょう」
「……」
カイザは面倒臭そうにチェシャを見る。シドはチェシャをテーブルの上に押さえつけ、言った。
「そんなのどうでもいいから、さっきの話してよ!」
「どうでもいい?! 俺の恋路をどうでもいいって言ったな! もー絶交だ!」
「ごめんー……どうでもよくないから話して」
シドの言葉に、カイザとルージュは顔を見合わせる。そして、カイザが聞いた。
「何だ、話って」
「フィオール死にかけなんだって」
「……は?」
カイザはピンときていないようだったが、シドの感覚を体験したルージュは何かに気付いたらしく、チェシャを見た。
「わかるのですか! フィオールに何が起こっているのか!」
「フィオール? …あの生気吸われてる男のことか」
チェシャはぷいっとそっぽを向いた。
「妖精様にだけなら、教えてやってもいいが。そこの青目野郎は駄目だ」
チェシャの言葉に、カイザの目つきが鋭くなる。
「あのな、俺は煙草屋の娘なんて知らないしたぶらかした覚えもない」
「しらばっくれやがって! 女たらしが!」
カイザはすっと無表情になってブラックメリーを手に立ち上がる。ルージュが慌ててその手を掴む。シドもチェシャを庇うように抱き上げた。
「お、落ち着いて! 相手はいたいけな猫ですよ?!」
「化け猫だろ? 成敗してやるよ」
「ちょっと! チェシャも謝りなさい!」
チェシャは鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「カイザやめてよー」
シドも弱々しい声で訴えかける。
「チェシャ! 彼もあなたと同じく一人の女性を愛する一人の男なのですよ! 見なさい!」
ルージュは椅子に腰掛けるミハエルを顎で指した。チェシャはやる気のない眼差しでミハエルを見る。
「…なんだ、死体じゃねぇか」
「その死体こそ、彼の思い人なのです!」
チェシャは驚いた顔をしてカイザを見た。
「ルージュ! 余計なこと言うな!」
「だってもうチェシャを納得させるにはこれしか……!」
唖然とするチェシャの頭を、シドは撫でた。
「言ったでしょ? カイザはそんなことしないって」
「……」
チェシャは再びミハエルに目をやった。綺麗に着飾られたその死体。その眠っているかのような美しさは、確かに人の心を惹きつける。死体を飾り付けて持ち歩くこと自体、異常だ。それほどまでに、この死体を……
ーー人の数だけ、想いの形があります……ーー
チェシャは少し罰の悪そうな顔をして、言った。
「…不毛だな」
ルージュと言い合っていたカイザはチェシャを睨む。
「俺も、お前も。フィオールって男も」
「……」
カイザとルージュは、チェシャを見つめる。チェシャは溜息をついて二人を見た。
「わかったよ、教えてやる」
チェシャはテーブルに飛び乗り、二人の前に座った。
「あの男、このままじゃ死ぬぞ」
人で賑わう繁華街。酒場に娼館。昼間は和やかだった通りには、怪しげな店がずらりと並ぶ。
ーーブラックメリーか、あいつらならこないだこの街を出てったーー
ーーユリヤ? あー……あの美人さん。口説こうってんなら無駄だぞ? 身持ち固いって噂だーー
ーー変わったことと言えば……猫と喋ってるガキがいたな、昨日ーー
行き交う情報。ブラックメリーのことも、ユリヤのことも。これといっていい手掛かりはない。
ーー2年前と全然変わらないわね……ーー
ユリヤも、変わっていなかった。しかし、あの不思議な感覚は一体……
考え込みながら歩いていると、後ろから肩を掴まれた。ざわめく人混みの中、フィオールはゆっくりと……振り返る。
「妖精様よ……」
「なんです、チェシャ」
「…心ってのは、厄介なもんだな」
窓の縁に座り込み、窓の外を見つめるチェシャ。何をするわけでもなく、椅子に腰掛けるルージュは蝋燭の火を見つめて言った。
「魔族にとっては、絶好の獲物でしょう」
「俺はただの化け猫。心の隙につけいるなんて高等なことはできない。あんたらと同じく、心は心のままにあるんだよ」
「…失礼」
「いいって。魔族なのには変わりない。ただ……思いやなんかで溢れた地上は楽園だと信じきっていたが、そうでもなかったな、と思って」
チェシャは尻尾を垂れさせ、言った。
「俺は楽園の門を通ってきたんだ」
「……」
「煙草屋の娘と会った時、こんな浮き立つ気持ちになって……ここは、本当に楽園なんだと思った。でも、違った。恋なぞしても、辛いだけだ。ここは地獄とも変わらない」
ルージュは立ち上がり、チェシャに歩み寄ってその小さな頭を撫でた。
「心の有様一つで楽園にも地獄にもなりえる。それが地上なのです」
楽園の門。要するに、この猫はヨルダが開きかけた地獄門より現れた。すぐにでも送り返さねばならないのだろうが……この時ばかりは、歓迎したい気持ちになっていた。
「カイザが言っていました。幸せな環境なんて幻で、存在しない。幸せはそれぞれの心の中にだけ存在する、と。あなたの感じ方一つで、この世界は何色にも染まるのです」
「……」
「…ようこそ、想いに満ち溢れた地上へ」
チェシャは俯き、小さく震える。黒く艶やかな、サラサラとした毛並。ルージュはそれを、優しく撫でる。