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Akashic Records~Edgar~  作者: 誠
◆森と塔と追憶~満月の一刻~
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77.心も身体も縛られて

 嗚咽が響く霊安室。教会の地下にある棺を置くための暗く、肌寒い部屋。葬儀も真近だというのに、そこに篭って妻の死を嘆く男が一人。


「……」


 扉の隙間からそれを見て、ふと考えた。自分が死んでも、ああして泣いてくれるだろうか、と。考えて、そして、止めた。本妻には敵わない。預言の日に生まれた息子でさえ、本妻の子には劣ると生まれてすぐ言い渡された。それ程に、男がしがみつく棺の中身は美しい。……美しい。扉を掴む手に、力が入った。


「涙を拭きなさい」


 女の声。何時の間にか、男の背後に見知らぬ女が立っていた。巫女装束を来た女の顔は見えないが、その声は鳥肌が立つ程穏やかで、耳に染み入る。しかし、男は顔を上げない。誰のどんな慰めも耳に入らなかったのだ、当然と言えば当然のこと。無謀なやり取りを眺めるような気持ちで、じっと見ていた。すると、女は男の隣にしゃがみ込み、その肩に手を置いた。


「死は、永遠の別れではありません」

「……」

「…神の寵愛を受ける私が言うのです。信じなさい」


 男はゆっくりと顔を上げて、女を見つめた。その時、やっと女の顔が見えた。蝋燭に照らし出された横顔。柔らかで消えそうな肌質。消えそうな空気をしかとこの世に留めているかのように、白い肌と対になる真っ黒な髪と瞳。そしてその、覗き見している者の目まで奪う、微笑み。


「……信じます。妻の冥福を祈って」


 男は女の手を握り、棺から離れた。まだ涙を流す男を、女は優しげに見つめる。


「……」


 幾ら声をかけても棺から離れよとしなかった男が立ち上がった。それを見て、数歩後退りした。もう、我慢の限界だった。踵を翻し、颯爽と階段を上る。本妻、神に選ばれた子供、神の寵愛を受ける女。皆、美しい。

 教会の外へ出ると、曇っていた空の切れ間から光の梯子が降りていた。それを睨み、決意した。このまま、負け続けではいられない。自分はどうあれ、息子だけは……

 雲は風に運ばれ、梯子はみるみる細くなる。その途切れそうな光の糸を見て、それに向って手を翳す。


「……この敗北者に、神の御加護を」


 翳した手を握ると、光の糸は……ぷつりと、切れた。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー






「まさかこんなに上手くいくとは」

「しかし、その二つは必要なかったのでは?」


 夜の森。揺れる馬車の中でヨルダが問うと、アンナ寵妃は小さく笑った。


「必要はない。これはいわば、部屋を持つ者である証にすぎぬ。しかし、この証こそ神の寵愛を受ける証。美女達を乱すに利用しない手はない」

「審判の日も知らぬのでしたら、もう我々には追いつけぬでしょうしね」

「……それは、まだわからぬ。追いつかれた時のためにお前がいるのだ」


 アンナ寵妃はヨルダを顎で指した。


「それなのに、お前ときたら肝心の悪魔を見逃しおって」

「よいのですよ。ヨルダの目的はダンテ様だけ……保険の足止めでしたら追いつかれてからでも遅くはない。むしろ、丁度良いくらいです」

「…確かに地獄門は保険だがな、私は確証がないと落ち着かんのだ。後ろに迫られた時、確実に相手を引き離せる用意が整っていないと」

「慎重で、狡猾。こんなにも素晴らしい知恵をお持ちですのに、何故寵妃などしておられたのだか」

「……」


 ヨルダがクスクスと笑うと、アンナ寵妃は窓の外に目をやった。満月を見つめ、呟く。


「…元からこうであった訳ではない。エドガーが、カイザ様が……亡き本妻が。私をこのように変えたのだ」


 月は、木に隠れて見えなくなる。黒を見つめ、アンナ寵妃は言った。


「このような……醜い修羅にな」











 暗い部屋。黒い天井を見つめ、オズマは首の包帯を撫でる。



ーー…オズマーー



 噛みつかれた瞬間の鋭い痛み。全身に広がってゆく痺れと、抜けてゆくような肌寒さ。後頭部に染み渡る、冷たい手の感触。


「…オズマ?」

「ダンテさん」


 扉の隙間から顔を覗かせるダンテ。オズマはベッドの上で身体を起こそうとした。


「…大丈夫?」

「はい、だいぶ楽になりましたよ」


 棚に置いた眼鏡を手に取り、オズマは微笑む。ダンテはおずおずと部屋に入った。その手には白濁した液体を詰めた瓶。少年はそれを両手でオズマに差し出した。


「お薬」

「あ、ああ……ありがとうございます」


 眼鏡をかけ、オズマは瓶の口を掴んだ。


「……」

「…ダ、ダンテさん?」


 オズマは瓶を軽く引いたが、少年はそれを放す気配が無い。銀色の瞳が、潤み出す。


「…オズマ!」


 ダンテは瓶を投げ出し、オズマに抱きついた。オズマは慌てて宙を飛ぶ瓶を受け止めた。少年はオズマにしがみついてぐずぐずと泣いている。オズマは、少年の頭を撫でた。


「どうしたんですか」

「ご、ごめ……僕、君のこと……」


 オズマは困ったように笑い、ダンテを抱き上げた。オズマの上に跨り、法衣の裾で顔を隠すダンテ。オズマは微笑んだまま、それをじっと見つめる。


「ダンテさんは悪くないです」

「……」

「俺が悪いんです。吸血鬼相手に油断なんてしたから」

「だって、だってアンリは……」


 オズマは溜息をついた。


「ソフィーだって、息子が地獄門の生贄になることなんて望まないでしょうしね」


 ダンテの嗚咽が、激しくなる。


「生贄になるくらいなら、俺がやらなきゃならないんですよ。いつか」

「……」


 ソフィーは、望まない。そんなことにすら、あの時気付けなかった。ただ、死んだ人間が生き返るならと……それしか、頭になかった。死んだ人間が何を望むか。父は、母は、ソフィーは……自分に何を望むのか。


「…その時が来たなら、やらねばならないとわかっているのですが。そうなる前に一つ、ダンテさんにお願いしてもいいですか」


 ダンテは、裾を放してオズマを見た。オズマは、ダンテと目が合うと悲しそうに笑った。


「アンリを……俺の友人を、助けてください」

「……」

「世界を、あなたの魔法で救ってください」

「…うん……わかっ……」


 喉がひっくひっくと裏返って上手く返事ができない。しかし、ダンテは固く誓っていた。もう、惑わされない。生者と死者とで、惑わされない。そう、誓った。オズマのお願いがきっと、ソフィーや、父と母の望みでもあるから。


「…あー、もう。泣かないでくださいよ」


 オズマは困ったように笑ってダンテの頭を撫でた。この時、オズマは少年の涙の意味をわかっていた。今は亡き愛しい人達と自分を天秤にかけられ、悩んでしまったことを悔いているのだと。しかし、本当のところオズマは嬉しかったのだ。子供だと思っていたダンテがまさか、師匠や両親を差し置いて自分を選んでくれるなんて。長年の悲願を目の前にして、誘惑を撥ねつけるなんて。思ってもみなかったのだから。口にしたら馬鹿にするなと叱られそうで言わずにいるが、神に仕える身としての自覚が持てたのだろうと、喜ばしく思っていた。


「僕、やるよ」

「俺もお供しますからね」


 自分の運命を恨んで、国を恨んできた永久の少年はやっと……大人になろうとしていた。









「カイザにはなんて伝える」


 暖炉の火が揺らめく一室。ベッドに横たわり、天井を見上げる二人。クリストフは大きく息を吐き、言った。


「そのまま、ありのままを伝えるしかないだろ」

「…あいつのことだ、怒髪天を衝くどころの話じゃ済まねぇぞ」


 黒い天井には、暖炉の赤い火が斑目に揺れている。


「いいじゃないか。あのブロンドで天どころかあの女の心臓までぶち抜けば」

「世界の結末をどうこうより、仇討に走るような気がしてならないって心配してんだけど」

「…やっぱり駄目か」

「駄目だろ」


 クリストフは寝返りを打ち、フィオールの首に手を回す。フィオールは抱きついてきたクリストフに腕枕をした。


「お前が言ったんだぞ。乱世を横目に突き進まなきゃならないとかなんとかって」

「わかってる。でも腹立つだろ」

「…腹は立つ」

「殺してぇ」

「そうだな」


 ぼんやりと抑揚のないやり取りが飛び交う。こうして互いに、互いの憤りを抑えていることもわかっていた。でないと、正気を保てそうになかったのだ。特に、クリストフは。


「…オズマは起きたかな」

「お前、あんだけオズマの友達ボコボコにしといて……」

「手加減したのに」

「俺が見てる分には虐めてるようにしか……泣き目だったぞあの筋肉達磨」

「本当か?」

「嘘だ」

「殺すぞ」

「殺すな」


 腕枕されたまま、クリストフは再び寝返って先程と同じように天井を見つめた。フィオールはチラッと少女を見て、また前に向き直る。クリストフは、淡々とした声色で言った。


「…カイザのことを予言した伝説の魔女、ダンテの師匠らしいな」

「それは、また」

「オズマをやった悪魔、その師匠の息子らしいぞ」

「…それは、また」

「どうなってんだ、これ」

「それ、アドルフと話してる時も言ってたな」

「……」


 まだ、早かったか。フィオールは少女の沈黙を聞いてふと思った。しかし、クリストフは少し黙って、ゆっくりと身体を起こした。


「…カイザを中心に、世界はまわってんのか?」


 ミハエルが座っていた椅子に腰掛ける白布を巻いた死体を見つめ、少女はボソリと呟いた。


「前は世界はミハエルさんのために用意された庭だとか言ってなかったか?」

「…例えばの話、」

「……」

「宇宙がエドガーの家だ。この星はその家に置いてある水槽。その水槽で飼われている一匹の魚がカイザ。水槽の装飾品や水なんかがあたし達」

「……」

「なんてのはどうだ」


 クリストフは振り返り、フィオールを見た。フィオールは目も合わさず難しい顔をして頭を掻いた。


「どうだと言われても、さっぱりわからん」


 クリストフは溜息をつき、前を向いた。


「…あたしはヤヒコみたいな哲学者にはなれないな」

「何言ってんだ」

「あいつが前に、美女達と世界を水槽の魚に例えてたんだよ。それを思い出した」

「ふーん。水槽の魚か。とりあえず、自由の身ではないわけだ」


 少女はじっと死体を見つめ、言った。


「そうだ、自由なんかない。あたし達は常に縛られ、生かされてる……水槽の魚と同じなんだ」


 フィオールは少女の背中を見つめる。暖炉の明かりが揺らぐ褐色の肌。この少女が不自由であるなら、世界に自由なんてない。そんな、気がしてならない。


「…いや、もういい。なんであろうと鍵は取り返す。カイザとエドガーのために」


 少女がそう言うと、フィオールは脇腹を抑えてゆっくりと身体を起こした。そして、その背中を優しく抱き締める。


「…違うな。あたしのためだ」

「言い直す必要なんかないだろ。俺だって、俺自身のためにお前やカイザ、ついでに世界まで救いたいと思う」

「……」

「それで、いいんだ。心の赴くままに生きろ」


 無関係だと思っていた男。自ら鍵戦争に首を突っ込んできたこの男は、心が誰よりも自由なのだと少女は知る。今すぐには無理だとしても……自分もいつか、そんな風に。フィオールの腕に手を添えて、少女は思った。









ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー









 静かな墓場。その墓石には、神に選ばれし戦士の名が刻まれている。懐かしい名前。これもまた運命か。あの方は、かつて愛した人の名が刻まれた墓に収まった。



ーー待っているのよ、今も……ーー



 生きる時間が長ければ長い程、感情も感覚も薄れて精神が時間に侵されてゆく。頭がぼんやりとしてきて、そこにあるだけの植物のようになってしまう。あの方はもう、花になりかけていた。それをかろうじて堰き止めていたのが、愛しい人との思い出だったのだ。

 カイザ、という名前をなぞり、考える。なっぞった文字がふと揺らめき、形を変えた。



ーー…ありがとうーー



 死は、永遠の別れじゃない。こんな綺麗に終わらせてしまったら、本当に……もう会えない気がしたのだ。あれはほんの、出来心だった。

 






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