76.どちらを選べど
木の幹を駆け上る獅子。ヨルダがダンテに向かって手を差し伸べると、青年のマントがはためき紙のように千切れた。それは黒い蝙蝠に変わり、獅子とダンテに襲いかかる。ダンテは獅子の鬣にしがみつきながら火を吹いた。黒い蝙蝠は焦げ炭になって散る。炎の間を抜けると獅子の尾の先が鋭い刃になり、ヨルダに向かって伸びた。すると、青年のマントがその刃を受け止めた。
「相変わらず、物作りしか取り柄がないのね」
ヨルダが笑うと、ダンテが鬣から飛び上がった。
「お前だって召喚しか取り柄がないだろ」
ダンテが手を合わせて両手をヨルダに向けた。白い魔方陣が現れ、激しく回転する。そこから竜巻が吹き出し、青年とヨルダを吹き飛ばした。青年とヨルダが離れたのを見て、ダンテは両手をヨルダに向けたまま袖から白い蛇を出した。それは渦を巻くように束になり、大きな蛇に変わった。蛇は大きく口を開け、ヨルダごと壁に突っ込んだ。
「…危ないじゃないですか、ダンテ様」
罅割れる壁。白い蛇の脇からひょっこりとヨルダが出てきた。蛇はぴくぴくと痙攣している。その頭には、床から生えた大きな剣が突き刺さっている。剣は、血を滴らせながら床へと沈んでゆく。蛇は、サラサラと白い砂になった。
「公爵を使い魔どころか、マリオネットにするなんて。そんな術、何処で覚えたんだ」
幹から飛び降りてダンテが聞くと、ヨルダは懐から一冊の魔術書を取り出した。
「これ、ですよ。あなた様を越えるには、これしかなかったのです」
「だから、それはなんだと聞いている」
「わかりませんか?」
ヨルダは魔術書の表紙をダンテに向けた。ダンテはそれを見て、固まった。
「それは……ソフィーおばさんの……」
「そう。伝説の魔女がつい最近完成させた召喚術を書き記した魔術書です」
「……」
ダンテは唇を震わせ、涙目になる。ヨルダが持つ本の表紙にべっとりとついた……赤い血を見つめて。ヨルダは、ニヤリと笑った。
木の幹から飛び降りた獅子は、床に前足を叩きつけた。すると、罅割れた床から大きな大砲が現れた。爆音と共に、落下する青年に向かって砲弾が飛び出した。青年の身体が霧になり、砲弾はすうと通り過ぎる。青年が元の姿に戻った瞬間、通り過ぎた砲弾が破裂した。中からは無数の銀の針が飛び出し、青年の背中を貫く。背中はよろめき、頭から落下する。獅子は青年に向かって駆け寄る。そして青年の真下でオズマの姿に戻った。オズマが悲しそうな表情で青年に両手を差し伸べた。
「…オズマ、」
「!」
落ちてくる青年は、苦しげにオズマの名を呼んだ。それは、オズマが知っているアンリの声。オズマが青年を受け止めた。
「アンリ、アンリ!」
オズマの呼びかけに、アンリの赤い目が点滅する。アンリは、虚ろな目でオズマを見た。
「お前、だけでも、逃げ……」
「アンリ! ダンテ様がなんとかしてくださる!」
「駄目だ、もう、我々は自我を……保てない」
アンリはオズマの肩を掴んだ。青白い肌、艶のある短い金髪に、淡い青色の瞳。オズマはその瞳を真っ直ぐに見つめる。
「お前まで捕まれば、奴の……思う、壺……」
「…アンリ」
アンリがふと目を閉じた。すると、唐突に目が開かれた。真っ赤な目を見開いたアンリはその鋭い牙でオズマの首元に噛み付く。押し倒されたオズマは、苦しげに顔を歪める。溢れる血と共に、紫色の煙が滲み出た。オズマはペンチを取り出し、アンリの首に突きつける。
ーー…オズマ、ーー
赤い目のアンリを見つめるオズマの手は、動かない。力も、魔力も失せてゆく。意識も、遠のく。
「貴様……欲に溺れたか!」
「欲になど溺れておりません。ヨルダは、ダンテ様に溺れているのです。でなければ、伝説の魔女に勝負をふっかけるなんて無謀なことはいたしません」
ダンテが一歩踏み出すと、魔術書を口にあて、ヨルダが一歩引いた。
「あら、大変」
「……」
ヨルダがダンテの向こうを指差す。ダンテはヨルダを横目に睨みながらも、振り返る。そして、その力んだ手を緩めた。
「…オズマ!」
アンリに噛みつかれて動けないオズマ。ダンテが駆け寄ろうとすると、アンリは首元から口を離してヨルダを見た。ダンテは足を止め、ヨルダに向き直る。
「…おわかりになって? 今やオズマの命はこのヨルダが握っています」
ヨルダはにっこりと微笑み、ダンテを見つめる。ダンテは目に涙を溜めてヨルダを睨んだ。
「そうですね、ではお話いたしましょうか。何故、地獄門を開くことがダンテ様のためになるのか」
「お前の妄想に付き合ってられるか! オズマを返せ!」
「まあまあ、そう言わず。地獄門さえ開けば、このヨルダ……人の器に、望んだ人格や望んだ記憶に還元した魂を収めてごらんにいれます」
ダンテは、驚いた表情でヨルダを見つめる。ヨルダは本を顎につけて、上目遣いに言った。
「ソフィーのみならず、ダンテ様のお父上とお母上も生き返らせてごらんにいれます」
「……」
「そこで、先程は一方的なお願いでしたが今度はオズマを天秤にかけて問いましょう。鍵を手放してオズマを解放するか、オズマを差し出してお父上とお母上を生き返らせるか。さあ、どちらにいたしますか、愛しのダンテ様……」
背後で倒れているオズマ。そのオズマの方、後ろ足に体重がかかっている。が、その目はヨルダから離せない。
ーー行くんだ!ーー
自分を守って、死んだ父。
ーーネロ、大丈夫だからね……ーー
自分を抱いて、死んだ母。
ーー私はソフィー。元、北の魔女よーー
自分を救ってくれた、師匠。
「お好きな方を選んでください。愛しい亡き人達か、オズマか」
ーー…いいって、言ったでしょ? ダンテさん……ーー
…オズマ。
少年の銀色の瞳はうるうると潤み、涙が溢れた。ヨルダはそれを見てうっとりする。ダンテはずっと、父と母の蘇りを望んできた。それを、かつての弟子が可能な術として目の前にぶらげてきた。師匠を死に追いやったヨルダは、師匠を生き返らせることもできるのだ。会いたい。しかし、そうすると、オズマが……少年の心は、これまでにない程揺らいでいた。ヨルダに、乱されていた。
アーマーで騎士の槍を受け、右手の炎で水弾を弾く。フィオールは飛び上がって距離を取り、力一杯拳を振り下ろした。飛び出した炎の拳は無数の手となり、騎士と人魚を追いかける。騎士は炎を薙ぎ払い、人魚は優雅に身を翻して避ける。すると、騎士がフィオールに槍を投げつけた。フィオールがそれをアーマーで弾く。
「!」
アーマーが過ぎ去り、広くなる視界。目の前には、牙を向く人魚がいた。咄嗟に右手を突き出したが、水に包まれて壁に押しやられるフィオール。右腕にキツく噛み付く人魚。その頭を掴み、引き剥がそうとした時だった。フィオールの脇腹に激痛が走る。水に歪んだ視界の向こうには、槍を握る騎士。フィオールの口から気泡が溢れる。顔を歪めながらも、フィオールは槍を掴んだ。騎士は抜こうとするが、抜けない。
「美女の下僕は溺れ死ぬのか刺殺されるのか……」
「!」
クリストフは振り返る。
「フィオール!」
「聖母様。時間も迫っているようだ、そろそろ選んでもらおうか?」
アンナ寵妃はアドルフの髪を掴み上げた。そして、その手から鍵を取り上げてアドルフをクリストフに突き出す。
「この男、お前が持つ鍵で手を打とう」
「……」
「どうする?」
「どういたしますか? ダンテ様。あまり時間をかけられては、オズマが死んでしまうやもしれませぬ……」
困ったように笑うヨルダ。ダンテはぐずぐずと嗚咽する。ヨルダはダンテに歩み寄り、その頬を撫でた。
「愛しいダンテ様……泣き顔も、愛おしい。すぐにでも慰めて差し上げたい……」
ヨルダは身を屈め、ダンテの顔をじっと見つめる。
「このヨルダに全てお任せください。あなた様の心も、身体も……ヨルダの心も身体も、あなた様のためだけに」
「……」
少年の涙を指でなぞるヨルダ。そしてそっと、その幼い唇を見つめながら、顔を寄せた。
「…やる」
クリストフは、谷間に埋もれた首飾りをむしり取った。胸の間から出てきたのは、金色の鍵。
「これをやる。アドルフを離せ」
「…よかろう」
アンナ寵妃は、怪しく笑った。
「…あげる」
「…」
目を点にするヨルダ。俯くダンテ。唇と唇の距離が、あと数センチといったところで二人は動かない。ダンテはヨルダの口に、金の鍵の先を入れていた。鍵を咥え、ヨルダは残念そうに顔を離す。ダンテは涙を流したまま、俯いている。ヨルダはそれを見て、ニヤリと笑う。
「ヨルダ!」
ヨルダは咥えていた鍵を手に呼び声の方へ目をやった。すると、アンナ寵妃が言った。
「こちらの聖母から鍵を受け取るのだ」
「…かしこまりました」
ヨルダはダンテをすっと横切り、倒れたオズマと人形のように固まるアンリをも通り過ぎてクリストフに歩み寄った。微笑みながら、クリストフに手を出すヨルダ。クリストフは眉を顰めて、その手に叩きつけるように鍵を置いた。
「…確かに」
ヨルダが鍵を握ると、人魚と騎士がフィオールから離れた。水から解放されたフィオールはそのまま床に倒れ込むように膝をついた。アンリはふわりと飛び上がり、オズマから離れる。すると、公爵達の周りに黒い煙が集まり始めた。それは棺となり、三人を納める。蓋が閉まる直前、三人はふっと、その目を閉じた。
「…よろしい。これで、全て終わったな」
「早くアドルフを離せ」
「わかっておる」
アンナ寵妃は、アドルフをクリストフに向かって突き出した。アドルフは見えない壁に手をつき、涙目でクリストフを見つめる。
「クリストフ……様、」
「アドルフ、ありがとう。家を捨てたあたしなんかのために」
「……」
アドルフは首を小さく横に振り、涙を流した。クリストフが微笑むと、アドルフは安堵したように、小さく微笑んだ。その笑顔の向こう。銃口を向けるアンナ寵妃が、笑っていた。
「……」
何が起きたのか。クリストフの頭が真っ白になる。目の前には、口から血を吐き、胸を真っ赤に染めたアドルフがいた。アドルフはふっと目を閉じて、倒れた。
「……」
唖然として、アドルフを見下ろすクリストフ。優しく微笑むばかりのヨルダ。クリストフに駆け寄ろうと踏み出すフィオール。オズマを抱いて、泣くダンテ。
「…誰が、生かして離すと言った?」
アンナ寵妃が笑い、銃を捨てた。銃は、甲高い鉄の音を立てて床に落ちた。
「…お前……ぶっ殺してやる!!」
形相を変えて見えない壁に拳を叩きつけるクリストフ。その目には、涙が溜まっていた。アンナ寵妃はそれを見て高笑いした。
「…伝説の美女が怒り狂っている! この聖母は手も足も出ない! なんて愉快なんだ!」
アンナ寵妃は肩を震わせ、アドルフを見下ろした。
「この男、思ったより役にたったな。こんなあからさまな罠に足を踏み込む程勇敢だったとは」
「罠?! アドルフをはめやがったのか!」
「鍵をチラつかせたらすぐ飛びついたわ。貴様のために」
クリストフはきつくアンナ寵妃を睨む。
「…アドルフとあたしの関係をわかってて」
「確信はなかった。罠にかかれば面白いと思ったまで」
「てめぇ……!」
クリストフが壁を殴ると、乾いた音を立てて壁に白い罅が薄っすらと入った。
「聖母様よ、今度こそお別れだ。アドルフから何を聞いたかは知らぬが……この屋敷を爆破などせぬ。安心されよ」
クリストフが驚いた顔をすると、アンナ寵妃は首を傾げた。
「聞いていなかったか? まあよいわ。ヨルダ、行くぞ」
「はい」
その瞬間、黒い煙が辺りを包んだ。煙の中、クリストフが触れていた見えない壁がふっと消える。煙が消えると、アンナ寵妃とヨルダの姿はなかった。目の前には、血の海の上に倒れ込むアドルフだけ。
「…クリストフ、」
フィオールが脇腹を抑えて後ろから呼びかける。クリストフはじっと立ち尽くす。フィオールはアドルフを見て、辛そうな表情を浮かべる。
「…ダンテ……さん、」
はっと顔を見ると、オズマが目を開けてダンテを見ていた。オズマは、ふっと笑った。
「すみません……俺、アンリを……やれません、でした。全部、俺が……悪い、」
「オズマ!」
ダンテはオズマに抱きついて泣いた。オズマは、力なくダンテの頭を撫でる。
「僕、僕……!」
「…いいって、言ったでしょ? ダンテさん……」
惑わされた自分を責める少年。心の揺らぎが、揺るがされた自分が、怖かった。オズマの優しい言葉に、選択を誤ってしまいそうになったことへの恐怖が溢れる。心の弱さに、涙する。
「フィオール、」
フィオールが顔を上げると、クリストフが振り返っていた。
「怪我、してるじゃないか」
「……」
少女の顔には、なんの色もない。しかし、黄金色の瞳には……涙が溜まっている。
「…悪かった。悪魔をお前一人に任せてしまって」
フィオールは眉を顰め、クリストフを抱き締めた。その肩は、小刻みに震えている。少女の耳をつく、フィオールの嗚咽。
「何でお前が泣いている」
「……」
「お前に、泣かれると……」
フィオールの胸に顔を埋め、少女は声を上げて泣いた。聖母であるが故の強がりも、彼の前では通用しない。少女は泣いた。悔しさに、悲しさに。フィオールも、自分のことのように泣いた。いや、もう少女の心はフィオールの心そのものなのだ。
美女達の泣き声が響く石のホール。残忍で、狡猾な女に対する怒りが沸き上がる。そして、運命への憎しみも……また。満月も傾きかけ、暗い空には小さな星が散らばる。神に愛された美女達の涙のように、点々と。