75.噂の青年は月に見惚れる
フィオールの炎と人魚の水がぶつかる。人魚は尾鰭を靡かせてちょこまかと逃げるフィオールに水弾を飛ばす。フィオールは走ってそれを避け、床から人魚に向かって伸びる水に飛び乗った。すると、その足元に炎が現れ、フィオールは横乗りで水の上を走り人魚に突っ込む。人魚は水弾を飛ばすが、水の上で身軽に避けるフィオールには当たらない。
「悪魔といえど女だからな……手加減、してやるよ!」
フィオールが拳を振るった。すると、その右腕から渦巻いた炎が飛び出した。それは人魚が入った水泡に当たり、人魚を弾き出す。打ち上げられた魚のように人魚は床に崩れ落ちる。消えかけた水の柱から炎ごと飛び上がり、フィオールは人魚に掌を向けた。人魚もフィオールに手を伸ばしたその時、床に罅が割れ、木の根っこが飛び出してきた。それに体勢を崩される人魚。その隙に、フィオールの炎が人魚を包み込んだ。
「えーっと、えー、と……聖なる炎よ、人魚を捕らえし赤き檻へと姿を変えよ!」
フィオールがたどたどしく言うと、炎は揺らめき、大きな鳥籠になった。人魚は中で火に怯えている。炎に乗ったままフィオールはそれを見下ろし、関心していた。自分に。
「すげぇな、俺……悪魔捕まえちゃったよ」
「邪魔だ!」
クリストフの叫び声に慌てて急降下したフィオール。恐る恐る頭を上げると、空飛ぶ騎士の槍の先に立つクリストフがいた。騎士は槍を振るってクリストフに刺そうとするが、ことごとく程のいい足場にされている。
「…本当に遊んでやがる」
不敵な笑みを浮かべる少女を呆れたように見つめるフィオール。人魚は罅割れて揺れる床の上で檻の柵を握り締め、じっとフィオールを見ていた。檻は、次第に傾く。
「でかい図体しといて、とんだ見掛け倒しだな!」
槍の上で一歩踏み出し、鉄扇で騎士の顎を思い切り突き上げるクリストフ。勢い任せに宙返りして落馬した騎士の腹に、ヒールのついた踵を沈ませた。轟音と共に床に叩きつけられる騎士。
「なんだ、オズマの知り合いだかなんだか知らねえが大したことないな」
クリストフは騎士の頭を踏みつける。
「お手柔らかにって言われただろうに」
フィオールは呆然として少女を見ていた。すると、少女が叫んだ。
「おい、フィオール! こいつもとっ捕まえとけ!」
「おー」
フィオールが一歩踏み出したその時、天井がガラガラと崩れ始めた。
「な、なんだ?! さっきから……ぅお!」
フィオールが振り返ると、大きな木が中心から折れ、天井を巻き込んで倒れかけていた。フィオールは炎を走らせ、クリストフを抱き抱える。木は沈むような低い音を立て、倒れた。ちょうど、倒れた騎士と檻に入った人魚の上に。なんとか逃げ切った二人は、その木を見つめていた。
「…や、やっちまったか?」
顔を引き攣らせるフィオールに、無表情のクリストフは言った。
「…やっちまったもんは、仕方ないな」
「殺されても殺すなとか言ってなかったか?!」
「どちらかと言ったらあいつらがやったようなもんだろ」
クリストフは派手にぶつかり合うダンテ達の方を見た。
「冷てぇな……」
「うるさい! 生き返らせろってのか!」
クリストフが溜息をつくフィオールの胸倉を掴んだ。
「クリストフ様!」
名前を呼ばれ、クリストフはホールの出口に目をやった。
「アドルフ!」
見えない壁に手をつけるアドルフ。その衣服は慌てて着たかのように着崩れており、髪は半乾きだ。アドルフは右手を掲げ、叫ぶ。
「エドガー様の、エドガー様の鍵です!」
「!」
クリストフは炎から飛び降り、アドルフに駆け寄った。
「クリストフ!」
フィオールが後を追おうとした、その時。水弾がクリストフの背中目掛けて飛んでいった。フィオールは拳を振るって炎を飛ばし、水弾を吹き飛ばす。クリストフはその爆音に気付き、振り返った。
「行け!」
フィオールは、木屑の間から立ち上がる騎士と人魚の前に立ちはだかり、叫んだ。クリストフは眉を顰めて、アドルフに駆け寄った。見えない壁を挟み、二人は向かい合う。肩で息をするアドルフが握っているのは、確かに、ミハエルの鍵であった。
「お前、どうして……」
「とにかくこれを! アンナ様の目的は、あなた様方の鍵ではありません! よくわかりませんが……もっと、もっと大きな……そうだ、審判の日が!」
視点が定まらないアドルフ。クリストフに伝えようと焦り、必死だ。
「審判の日? とにかく落ち着けアドルフ! 結界があってあたし達はそちらへは行けない。その鍵を持って、シアトリアムへ行け! そこに……」
「シアトリアムに、何があるというのだ?」
嫌な色気がある声。アドルフの顔は恐怖の色に染まる。アドルフは、振り返ることができない。クリストフは、アドルフの向こうを睨みつけた。
「アンナ寵妃……!」
付き人を連れたバスローブ姿のアンナ寵妃。腰に手を当て、意地悪く笑っている。
「アドルフ、ダリの酒はどうした?」
「……」
アドルフは、見えない壁に手をついたままがっくりと膝を折った。アンナ寵妃とクリストフの目が合う。
「…シアトリアムに、カイザ様がいるのだな?」
クリストフは、アンナ寵妃を睨んだまま何も言わない。いない、と言おうと無駄だとわかっていた。アンナ寵妃は口に手を当ててクスクスと笑った。
「神に嫉妬される幼子も今や二十歳か。どれ程御立派になられたのやら……一目、見ておきたいものだ」
一目。クリストフの目が、みるみる釣り上がる。
「カイザの顔を拝む前にぶち殺してやるよ」
「おー……怖い怖い」
睨み合う二人の女に挟まれ、アドルフはただ俯く。墓石に刻まれたエドガーという名前は、神の啓示だったのだ。神に選ばれた子カイザが……生きているという。アドルフは小さく唇を震わせながら、考えた。金の鍵を、力強く握り締めて。
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もう、時は流れた。誰が神の御子で誰がそうでないのかすら、わからなくなる程に。誰があのお方の想い人で、誰がそうでないのかすら……わからなくなる程に。
「死んでしまったものは、仕方ないわ」
死は、全てを終わらせる。
「また会える日を……待つしかないわ」
死は、永遠の別れじゃない。
「あの人を覚えている私が生きている限り、ずっと。私の中で生きているのだから。また、いつかきっと……」
死は、違う形の生をもたらす。人の心と記憶。秩序に縛られぬ混沌とした世界でただ揺らめく……そんな、曖昧な生。それに縋るのは、秩序に縛られ時間の波に残された人々。
「愛しているの。昔から……ずっと、今まで」
その祈りは、神に届いた。いや、企てられたのか。始まりと終わりの男女は……再び、出会った。
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「…今日は満月か」
「ええ」
炎の絨毯に乗り、夜空を見上げるカイザ。カイザの膝に頭を乗せて、スヤスヤと眠るシド。星の輝きすら霞んでしまう月光が、雪の積もる森を照らす。柔らかい光に包まれる中、炎はゆったりと森の上を飛行する。
「…月は、年々地球から遠ざかってたんだってな」
「……」
ルージュはチラッと振り返り、また、前に向き直った。
「…本来なら、もう月は豆粒のようになっている頃ですよ」
「その話を思い出して、やっとわかった。ミハエルがあの月を引き留めてたんだろ?」
ルージュは、何も言わない。カイザはシドの隣に横たわるミハエルに視線を落とす。
「昔、ミハエルが言ってたんだ。引き留める人がいるから、本当は離れたいのに離れられずにいるんじゃないかって」
「エドガー様らしい」
「だろ?」
カイザは小さく笑って、月を見上げた。
「思えば、ミハエルは寂しい女だった。好んで一人でいるように見えるのに人を突き放すのが下手なんだ。優しいから、というのもあるだろうけど、本当は寂しくて……」
カイザは胸にかけた鍵を握りしめた。
「待ってたんだと思う」
「…どなたをですか?」
ーーあなたをよ……ーー
「…誰かを、だよ」
カイザがそう言うと、前を向いたまま、ルージュが言った。
「きっと、カイザのことを待っていたのでしょうね」
「…気を遣わなくていいんだぞ」
小さく溜息をついて、カイザは笑った。ルージュは少し振り返り、微笑む。
「市長がおっしゃっていたのでしょう? エドガー様がカイザを待っていたことを」
ーー選ばれた子だと……ーー
どんな意味で待っていたのか、わかりもしないのに喜べない。
「…想い人としてでないと不満、といったところですか」
クスクス笑うルージュの言葉に、カイザは驚いた。
「お前まで精神感応が使えるのか?」
「まさか。顔に出てましたよ?」
「……」
カイザは赤面してふと視線を逸らした。ルージュは楽しそうに笑って前を向く。カイザは、はあ、と息をついた。
「選ばれた子って、どういう意味だと思う」
「…皆目、見当がつきませんね」
「クロムウェル家に締め出されて盗賊の後継者とかになってて……神に嫌われているとしか思えないんだが」
「容姿を理由に嫉妬までされているそうですからね」
「それは親馬鹿の誇張だ」
親馬鹿。そうだ。愛されていた……はずだった。カイザが考えこんでいると、ルージュが言った。
「…500年前、人の手によって傷みきったこの星に火の雨が降りました。世界の、節目です」
聞いた事があった。人の手でロストスペルに満たされた世界は人の手で荒地と化した。生き残った者達が細々と、原人に近い暮しをしていた時代があった。そこに、追い打ちをかけるように火の雨は降った。
「神の啓示だと、皆信じたそうです。しかし、十人十色の解釈があった。同じ考えを持つ者たちは集い、民族は一致団結し、自分達が正しいことを示すために争いました。その戦いに勝ったのが、今の帝国です」
「…帝国の言う啓示ってのは、ロストスペルを廃して世界の均衡を維持するって奴だろ」
「ええ。実際に、神がそうおっしゃったのかは定かでありません。しかし、帝国が勝ったから……帝国が覇者となったから、その啓示は本物となりました」
ルージュは、静かに言った。
「エドガー様が言うのです。カイザは選ばれたのでしょう。しかし、選ばれた者が勝つとは限りません。勝った者こそが……選ばれた者となるのです」
カイザは、ルージュの背中を見つめた。
「…鍵戦争、エドガー様のためにも必ず勝ってください。カイザ」
法律、常識、そして良識までも……勝った者が、上に立った者が、"正しい"と定めることができる。正しさは常に権力とついて回る。それは"選ばれる"ことも同じ。
「…勝ったとして、俺はどうなる」
「神に選ばれた戦士の名を、その手に」
「手にしてどうなる」
「…蘭丸ではありませんが。その向こうにあるのが運命の至るべき場所なのでしょう」
「……」
「それを開けるのは、あなたしかいないと……私は思っています」
カイザは眉を顰めた。ルージュがこういうのも、わからないでもない。傲りでもなく、何もかもが自分に関わっているからだ。しかし、カイザは実感がわかない。お尋ね者の盗賊に、世界を相手に何ができるというのか。いや、しなくてはならないこともわかっている。そう、意思とは関係なく、ただ、言葉にするとふわふわとして実感がわかないのだ。
「…一晩で、シアトリアムには着くのか?」
「いえ、昼頃になるでしょうね」
「そうか」
「少し休んだらいかがです? ゼノフでの盛大な送別会、疲れたでしょう」
カイザの頭に、鼻を垂らして泣くグレンと酔っ払って大騒ぎするバッテンライの姿が浮かんだ。カイザは小さく笑った。
「…もう少し、起きてるよ。まだ眠ってしまいたくないんだ」
「…そうですか」
「いい奴らだったな」
「ええ。楽しかったです」
ルージュの背中は、笑っているように見える。カイザは思った。選ばれたかどうかなど、関係なく。自分は自分の守りたい物を守ろうと。世界中を敵にして、正義と対峙する存在になっても……それでも。




