74.花は散り際まで美しい
「ヨルダ……何故、お前が」
ダンテが睨みつけながら問いかける。ヨルダはゆっくり立ち上がり、微笑む。
「他ならぬあなた様のためです。あなた様のために、ヨルダは」
「僕の事を思うならあの女を殺せ!」
ダンテが叫ぶと、ヨルダは悲しそうに俯いた。
「あの女を殺して、エドガーの鍵を取り戻して来い!」
「…なりません」
ヨルダはやはり、穏やかに笑う。
「そんなことをして、ダンテ様がヨルダの物になるでしょうか」
「……」
「ヨルダはあなた様だけが欲しいのです。あなた様の心が、身体が、全てが!」
ヨルダは胸を抑え、訴えかける。それを見て、オズマは舌打ちをした。
「…気持ち悪い。その卑しい目でダンテさんを見るな」
「オズマ……いつもダンテ様と一緒のオズマ」
ヨルダの顔は、ふっと無表情になった。
「使い魔の分際でダンテ様をダンテ"さん"などと。気に食わない」
「俺も、お前が気に食わなかったよ」
オズマはダンテを抱いたまま、見せびらかすように笑って立ち上がる。
「クリストフ!」
フィオールの呼声にオズマが目をやると、クリストフがホールの出口に向かって走っている。
「いっ!」
いつかも見たような反応。見えない壁にぶつかり、倒れ込むクリストフ。フィオールは少女に駆け寄った。ヨルダはそれを見てクスクスと笑う。
「無駄よ、出られるはずがない」
「クリストフ、伏せて!」
ダンテがクリストフに向かって手を伸ばした。すると、その袖から白く光る蛇が飛び出した。
「なりません」
ヨルダが悲しそうに言うと、ダンテとクリストフの間に大きな黒く禍々しい装飾がなされた壁が現れた。ダンテの蛇は、壁に描かれた怪物の口に飲み込まれる。
「…魔壁召喚、か。そんな術まで」
オズマが眉を顰めると、壁は音を立てて崩れ落ちる。ヨルダは頬に手を当て、ダンテを見つめた。
「見てくださいましたか?! ヨルダはダンテ様の魔法を食らうこともできるようになりました! あなた様に釣り合う魔法使いはもう、ヨルダしかおりません!」
嬉しそうに笑うヨルダ。その足元に魔法陣が浮かび上がり、法衣がふわりと靡く。それを見てオズマが形相を変えた。その目が紫に光ると、シャンデリアの破片が鋭いナイフに形を変えた。そして、ヨルダに向かって飛び交う。ヨルダは嘲笑めいた笑顔で、言った。
「あなたはもう、私の相手にならないの」
ヨルダの陣が激しく光り、ナイフを吹き飛ばす。そして、その法衣の裾から黒い煙が溢れ出し、部屋を包み込む。煙はダマになり、形を作る。それは、大きな三つの棺になった。縦になって斜めに保たれた棺の箱は滑り落ち、中を見せる。それを見て、オズマとダンテは固まってしまう。その表情を嬉しそうに見つめるヨルダ。
「懐かしいでしょう、オズマ。魔界のお友達、四公に会えて……」
「…まさか、そんな」
オズマの目は、棺に釘付けになる。ダンテを抱く手が震える。
「エリゴール公、ウェパル公……」
槍と白い旗共に蛇の彫刻に巻きつかれながら棺に押し込められた屈強な騎士。色とりどりの珊瑚と貝殻に埋もれる優雅な人魚。
「…アンリ」
真赤な薔薇が犇く棺には、黒いマントに身を包む、青白い肌の青年が。皆、目を瞑って眠っている。
「ヨルダ、何をする気だ」
ダンテが聞くと、ヨルダは棺を撫でて言った。
「彼らを生贄に、地獄の門……いえ、楽園の門を開くのです」
オズマは唇を噛み締め、ヨルダを睨む。
「ダンテ様、あなた様のために」
薄暗く、大きな浴場。泡が溢れる浴槽には、浮かない顔をするアドルフがいた。
「どうした?」
「あ、い、いえ、少し……驚いてしまって」
正面でゆったりと湯に浸かるアンナ寵妃が、アドルフの顔を足の甲で撫でる。アドルフは困ったように笑い、俯く。
「お前には、エドガーの話をしていなかったからな。驚くのも無理はない」
アンナ寵妃は浴槽の縁に頬杖をついた。白い肌と豊かな胸が泡から覗き、褪せた金色の長い髪が悩まし気にその肌にピタリと吸い付く。アドルフはアンナ寵妃の足に手を添えて顔を上げた。
「…ここは、早急に離宮を離れるべきなのでは」
「離れるさ。しかし、この浴槽は気に入っていたものだから、最後にもう一度お前と湯に浸かりたいと思ったんだよ」
アドルフの指が、ぴくりと動く。アンナ寵妃は怪しく笑うと足を下げた。そして、ゆっくりとアドルフに身を寄せる。
「この屋敷は破壊する。美女達とヨルダごとな。 」
「……」
「何、鍵は私が持つエドガーの物さえあればよいのだ。業輪を持たぬあの二人に用はない。まあ、鍵が増えて得しないこともないが…私が最終的に手にしたいのは、運命の至るべき場所への鍵だ」
「運命の至るべき場所……」
「それが業輪だと、私は踏んでいる」
アンナ寵妃はアドルフの首に腕を回し、抱きついた。アドルフは震える手で、アンナ寵妃の背中に手を回す。
「全てが終わったなら、今度は王宮の浴場でゆるりと過ごせる」
アンナ寵妃は身体を離し、少女のように微笑んで見せた。アドルフは、引き攣る顔に力を入れて精一杯微笑み返した。
「お前とこうしていると、つい酔い痴れたくなってしまうな」
「…パーティに出向いてすぐあの騒ぎでしたからね。私も飲みそびれました」
精一杯、明るく振舞うアドルフ。しかしその瞳は、黄金色に潤む。アンナ寵妃は少し考え、言った。
「酒でも飲むか」
「よろしいのですか。時間がないのでは」
「よい。あちらもすぐには終るまいよ」
「……」
アドルフはごくりと生唾を飲み込み、柔らかく微笑んで言った。
「では、すぐに用意致しましょう」
「ああ。確か、ダリの最上級の酒を今宵のために用意させていたはずだ」
「かしこまりました」
アドルフは軽く頭を下げ、浴室から出た。バスローブを羽織り、ふと、アンナ寵妃の衣服入れを見た。そこには、金に輝く小さな鍵が。
ーーあたしの、血縁者だーー
褐色の肌、黄金色の瞳。
ーーあたしは、元ローズウッド家の人間だ……ーー
アドルフは静かな脱衣所で、鍵を真っ直ぐに見つめながらバスローブを脱いだ。
ダンテが阻害されたのを見て、クリストフは立ち上がり、壁を殴りつける。フィオールは慌てて止めに入った。
「やめろ! 力任せじゃ無理だ!」
「逃がしてたまるか! あの女……人を馬鹿にしやがって!」
拳に血を滲ませる少女の目は釣り上がり、潤んでいた。
「ヤケになったところで、エドガーは戻ってこない!」
フィオールは少女の肩を掴んだ。少女はピタリと震える拳を止めた。その目から、涙が溢れる。
「アンナ寵妃の鍵……カイザの鍵」
「……」
「何故、二つあるんだよ! エドガーの鍵が!」
見えない壁に拳を叩きつけ、少女が叫んだ。フィオールは少女を羽交い締めにして言った。
「あれが本物かはわからないだろ! とにかく今は……!」
「本物だ! あたしが見間違えるわけない!」
「落ち着けクリストフ!」
「エドガーの鍵は……!カイザと、揃いの鍵は……」
少女は見えない壁を睨み、弱々しく言った。
「誰にも、渡したくない」
「…クリストフ、」
大人しくなってがっくりと膝を折る少女。フィオールはその肩を支えて、心配そうに見つめる。
「…やはり、落ち着いてられない」
鬼の形相でクリストフはダンテに目をやる。が、三つの棺に阻まれてその姿は見えない。間から、笑うヨルダの横顔が見えた。クリストフはすっくと立ち上がった。
「結界ぶち破ってあの女を追う!」
フィオールが少女を肩を掴み、振り向かせて言った。
「無理だって言ってんだろ! こんな複雑な封印!」
「だったらお前がなんとかしろ! ダンテの弟子だろ!」
クリストフがフィオールの手を振り払った。
「…弟子?」
静かな声。クリストフとフィオールが目をやると、棺の間からヨルダがフィオールを睨んでいた。
「ダンテ様の、弟子?」
ヨルダは騎士が眠る棺に触れた。それを見て、オズマが血相を変えた。
「やめろ!」
「ダンテ様の弟子は。このヨルダだけなのよ!」
騎士の目が開き、瞳のない真赤な眼球が光った。そして、棺が音を立てて破裂し、破片が辺りに飛び散る。解放された騎士は槍を握って身体を翻す。足が床につく瞬間、陣が現れた。そこから飛び出した黒い馬に騎士が跨ると、馬の背中に大きな蝙蝠の羽が生えた。高い天井をゆっくりと旋回し、二人を見下ろす騎士。
「ヨルダ! やめるんだ!」
ダンテが叫ぶと、ヨルダは優し気な表情を一変して鋭く二人を睨んだ。
「でしたら、鍵とオズマをこちらへ!」
「……」
悔し気に黙り込むダンテ。オズマは騎士を見つめている。
「…ほら、できないのでしょう? ダンテ様は、オズマがお気に入りだから!」
ヨルダは人魚の棺に力一杯掌をつけた。棺が砕け散ると何処からともなく水が現れ、人魚を包む。人魚は水の中で目を開けた。その目もやはり、瞳がなく、真赤だ。人魚が身を捻らせると尾を引いて水が伸び、クリストフとフィオールを囲む。クリストフは騎士と人魚を睨んだ。
「殴っても無理、フィオールは使えない、ダンテは手が離せない」
少女はドレスの裾を破り捨てた。
「…早い話が、ヨルダをやればいいんだろ!」
クリストフは足に仕込んでいた鉄扇を抜いて開いた。フィオールは眉を顰めて舌打ちをした。
「…それしかない」
フィオールの右手を炎が覆う。
「やめてくれ! 二人共!」
オズマの声に、クリストフが怒鳴った。
「お前もぼさっと立ってないでそこの痴女を片付けろ!」
「その二人は、俺の友人だ!」
オズマは辛そうに俯く。クリストフとフィオールは構えを解き、オズマを見つめる。ダンテはオズマの服をぎゅっと掴んでいた。
「…オズマ、はっきりなさいな」
ヨルダが疲弊しきった声で言った。
「鍵とその身柄、こちらへ渡してくれるの?それとも、魔界のお友達と地上のお友達が殺し合うのを観戦する?」
「……」
「…そう、」
ヨルダが溜息をつくと、クリストフとフィオールを取り巻いていた水が二人を覆い尽くした。そこに、騎士が槍を向ける。オズマがダンテを下ろして二人に駆け寄った。ヨルダがニヤリと笑い、オズマに向かって手を翳す。ダンテはそれを見て両手を床についた。すると、ヨルダの目の前に先程と同じ黒い壁が現れた。ヨルダはじっとそれを見て、笑った。
「…さすが、ダンテ様」
「お前にできて僕にできないことなんてないんだよ」
少年は立ち上がり、手を払う。ヨルダはとろけそうな顔でダンテを見つめる。
オズマはペンチを抜き、騎士に向かって飛び上がった。その目が紫に光ると、ペンチは長い槍に形を変えた。オズマはそれを目一杯伸ばして騎士の槍を弾く。しかし、オズマは水に囚われてしまう。水の檻の中、オズマが人魚に目をやると檻の先が揺らめく尾鰭に繋がっていた。騎士は体制を立て直し、再び二人に槍を向ける。
「エリゴール公! 目を覚ませ!」
オズマの水に篭った声は、届かない。騎士が振るう槍の切先が、水を貫いた。オズマは目を見開いた。すると、クリストフが鉄扇で槍を防いだ。オズマは固まったまま、動けない。そして、クリストフの後ろで、炎が燃え上がった。
「! 何?!」
「!」
激しい爆発音と水しぶきに、ヨルダが振り返る。そこには、炎を纏ったクリストフとフィオール、そして、びしょ濡れになって床に尻餅をついて唖然としているオズマがいた。
「…火の、魔法? このヨルダですら手に入れられなかったのに」
「あれが、僕の弟子だよ」
悔しそうにするヨルダに向かってダンテは得意気に笑う。
二人を纏う炎が消えると、クリストフは鉄扇を畳んで肩にかけた。
「あっぶねぇな。さすがのあたしも刺殺されるかと思った」
「俺は溺れ死ぬかと……」
フィオールは肩で息をして顎を伝う冷汗を拭った。ヨルダはフィオールを睨み、言った。
「…ダンテ様のためだというのに、ヨルダの願いは聞き入れてもらえないのですね」
「無理」
ダンテは腕組みをしてふいっとそっぽを向いた。ヨルダは、最後の棺に手を添えた。
「争う気などなかったのですが……仕方、ありません。 」
棺は、砕け散った。薔薇が飛び散り、蒼白な青年が身を重力に任せて落ちてきた。そして、その目を開ける。エリゴール公とウェパル公同様、その目は意思のなくただ、赤い。青年はヨルダの隣に立ち、ダンテを見据える。
「…ソフィー様の息子さんにも、直々に頼んでもらう他ありませんね」
ヨルダは青年の胸に顔を寄せ、言った。ダンテは横目にヨルダを見た。
「本当に、お前は最低だよ」
ヨルダはにっこりと、微笑んだ。
天井を旋回する騎士と人魚。二人はクリストフとフィオールを狙っている。
「……」
クリストフはダンテを見た。ダンテはヨルダと向かい合っている。ヨルダの隣には、見知らぬ男。
「…やるしか、ないな」
「待ってくれ」
クリストフがオズマに目をやると、オズマは両手にペンチを持って上を見ていた。
「俺が……やる」
「……」
「ここでやらないと、彼らが生贄になって地獄門が開く」
クリストフは、オズマが言っていた楽園の門の話を思い出した。
「魔界にできた、楽園の門は」
「ヨルダだ。俺も含めた四公の血で、門を全開にするつもりらしい」
フィオールが眉を顰めてオズマを見つめる。
「でも、お前……こいつらと、」
その時、人魚が尾鰭をはためかせた。人魚の纏う水が水弾となってクリストフとフィオールに襲いかかる。オズマは持っていたペンチをくるくると回して二人の前に駆け出し、水弾に向かってペンチを向けた。すると、ペンチは大きく豪華な傘になり、水弾を弾いた。
「友人だからこそ、やらなきゃならない。……気がする」
「できんのかよ、お前に!」
クリストフは傘の裏から飛び出し、槍を振り上げて傘に突っ込んできていた騎士を鉄扇で殴り飛ばした。騎士は天井にぶつかり、よろよろと空を飛ぶ。
「…急いでるんだが」
クリストフは面倒臭そうに言った。
「殺さない。こいつら二人はあたしとフィオールが相手をする」
「…クリストフさん、」
「だからお前はさっさとあの女をやれ!」
クリストフはヨルダを鉄扇で指した。オズマは小さく笑って、言った。
「…お手柔らかに」
「わかったわかった」
オズマが足で円を描くと、そこに紫の陣ができた。その中に、オズマは沈んだ。クリストフは鉄扇を開き、騎士を睨む。フィオールは人魚から目を離さずにいた。
「…殺されても殺すなよ」
「それはちょっと……」
困ったようにフィオールが言うと、クリストフは鉄扇を騎士に向けて笑った。
「こい! 遊んでやるよ!」
騎士と人魚が、勢いよく二人に向かってきた。二人は静かに、構える。
ダンテの横に紫の陣が浮かび上がる。そこから、オズマが現れた。ヨルダとダンテ、青年とオズマは向かい合う。
「…オズマ、わかってるよね」
「はい」
オズマは錐を取り出した。ヨルダはそれを見て鼻で笑う。オズマは錐を胸に刺した。
「…我が血に応えよ。魔獣、換装……」
オズマの胸が血が吹き出してオズマを包む。オズマの目が黄緑色に光り、血と煙が逆巻いて大きな獅子が現れた。ヨルダは口に手を当てて笑う。
「まあ、同じ公爵とはいえ、もとは人間だったアンリにいきなり全力でかかろうというのですか。お友達とは思えないわね、オズマ」
「何を言ってるんだ、ヨルダ」
オズマの低い声が響く。ダンテに鼻を寄せる獅子。ダンテはそこから上り、オズマの頭にどっかりと胡座をかいて頬杖をついた。そして、ヨルダを見下ろす。
「僕達が狙ってるのは、お前の首だよ」
ヨルダは嬉しそうに青年の胸にしがみついた。
「狙うだなんて……ダンテ様ったら」
青年はヨルダの腰に手を回し、マントを翻しながらゆっくりと浮かぶ。ダンテと視線が並び、ヨルダは言った。
「最初からヨルダは、あなた様だけの物です」
「…グレン並に話が通じないな、お前は!」
ダンテはヨルダに向かって手を翳した。その小さな手の平が光ると、石の床からメキメキと大きな木が伸びた。その先は畝ってヨルダを追い回す。青年はヨルダを抱き、軽々とそれを避ける。すると、飛び回る青年に向かってオズマが口から紫の玉を吐き出した。青年のマントが翻り、大きくなった。それは繭のように二人を包んだ。紫の玉がぶつかると、中から太い鎖が現れ、繭をグルグルと締め付けた。そこに、ダンテの植物が巻きついて床と天井を貫く大きな木になった。
「……」
木には葉が生い茂り、白い花が咲いた。ダンテはじっと、その幹を見つめる。突然地鳴りのような音がした。すると、幹の真ん中が綺麗に真っ二つに折れ、天井ごと崩れる。その中には、鎖に巻かれた黒い繭が。繭はぼうと砂のように散り、キラキラと光を反射する霧になった。霧は幹の切れ目の上に集まり、ぼんやりと青年の姿を現した。白い花や緑の葉がハラハラと舞い落ちる中、青年に抱かれたヨルダが落ちる花を掴んだ。
「花の魔法……純粋で、美しくて、強いダンテ様にはぴったりな魔法」
ヨルダはダンテを見下ろし、花の匂いを嗅いだ。ダンテはヨルダを睨む。
「気高き吸血鬼は、お前には不似合だけどね」
ヨルダは花を青年の耳にかけ、笑った。
「ヨルダに見合うのは、ダンテ様だけで結構。吸血鬼にはこの花で充分」
「ほんっ……とに! お話にならないよ!」
獅子が青年に向かって駆け出した。ヨルダはそれを見て嬉しそうに笑うばかり。