69.少年の目は光を得る
雲が広がる、秋の空。憂鬱な灰色の下、細い茶色の川の近くの崖。そこに、壊れた馬車があった。ぴくりとも動かない馬と兵士。そして、一人……荒い息をして崖に寄りかかる男が一人。男は崖の上を見上げて、額を垂れる血を拭った。
「…あら、珍しい。こんなところに人がいるなんて」
男は川の方を見た。対岸に、女がいた。黒い髪に黒い服。女はバシャバシャと川を渡り、男に歩み寄る。男は女から目が離せない。
「……」
男の前に立ち、上を見上げる女。その色のない顔は、見た者の時を止めてしまう程に美しい。男ははっと我に返り、女を睨む。
「…構うな」
「落ちてしまったの? すぐ手当しなきゃ……」
「構うなと言っている!」
差し伸べられた手を振り払う男。女はじっと、男を見つめる。吸い込まれそうな程、底のない暗闇。男は目を逸らし、言った。
「私は死刑になる身だ。助けられても……死なねばならない」
男は俯き、大きく息を吐く。女は首を傾げ、言った。
「あそこから落ちたら、普通死ぬわよ? 、 今生きているということは、あなたは今死ぬ運命ではないのよ」
「私が死なねば、国は……!」
「…そう。じゃあ、殺してあげる」
男が顔をあげると、女は落ちていた剣を拾い上げて微笑んだ。そして、剣を振りかざす。男はぎゅと目を瞑る。これで、いい。自分が死ねば、それで……
「…はい、死んだ」
額から頬にかけて走る痛みと熱。男はゆっくりと瞼を開き、顔を触れた。手には、血がついている。
「ギール・パールマンは死にました。今日からあなたはギール。英雄という言葉には縁のない、盗賊」
「……」
女は、優しく微笑んだ。風に踊る黒髪が、灰色の空を黒く色づかせる。森を背負うその風貌が、女神と見まごうその美貌が…ギールを、跪かせた。
「…生きても……いいのでしょうか」
「何故躊躇うのです」
「私は国のために死ぬことを余儀なくされました。生き残ったとなれば、国が……」
「良いではないですか」
残酷な笑顔。悪意も何も感じない。ただ、そこにある。
「この崖から落ちてギール・パールマンは死んだ……それで、良いではないですか。英雄は死に、国は守られたのですよ」
「……」
「神の寵愛を受ける私が言うのです。信じなさい」
ギールは唇を震わせ、泣いた。そして、言った。
「…貴女様の、お名前は」
「ミハエル……いえ、エドガーと言えばわかるのではないでしょうか」
男は俯いたまま目を見開き、静かに、瞼を閉じた。ミハエルは持っていた剣でギールの両肩を触れ、剣をギールに差し出した。
「行きましょう、ギール」
「…はい。エドガー様」
ギールは剣を受け取り、よろよろと立ち上がった。ミハエルはギールを見つめ、微笑んだ。ギールも、少し痛そうに笑う。嵐の後の川原で、美女と英雄は出会ったのだ。
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蝋燭が灯る鉄の部屋。そのベッドの上に、シドはいた。
「起きてるっすかー?」
部屋に入ってきたのはグレンとルージュ、そして、ミハエルを背負ったカイザ。カイザは部屋の椅子にミハエルを座らせ、二人の後を追いシドに歩み寄る。シドはゆっくりと身体を起こした。
「起きてたよ」
「調子の方はどうっすか? 目が痛いとか……ないっすか?」
「うん」
「じゃあ、包帯取るっすよ」
グレンは持って来ていた鏡をテーブルに置いた。ルージュがシドの手を引いて、鏡の前に座らせた。シドは不安そうな顔をして、言った。
「カイザ、」
「どうした」
カイザはシドの隣に立ち、その頬に触れた。シドはカイザの方を向いた。
「…目、片方違うんだよね」
「ああ」
「それでも、僕……」
カイザはふっと笑って、シドを抱きしめた。
「どんな目をしようと、お前はお前だ」
「…僕が、誰の子供でも?」
グレンとルージュは、辛そうな顔をしてシドを見つめる。カイザは強くシドを抱きしめた。
「誰の子供でも、お前は俺の大事な家族だよ」
「…うん」
シドが頷くと、カイザは身体を離した。そして、グレンを見る。グレンは頷き、シドの後ろに立った。
「じゃ、いくっすよ」
グレンが包帯を解いた。シドは、目を瞑っている。外から見た限り、何も異変はない。カイザとルージュがほっと胸を撫でおろす。シドは、ゆっくりとその瞼を開いた。白目が黒い、赤い瞳の右目。左目は普通の黒い瞳に戻っている。目が見開かれた、その瞬間。左目が赤く光りだし、右目から黒い煙が吹き出した。
「!」
ルージュが仕込み杖を抜いた。
「なななななっなっ、なんなんすか!」
グレンは煙から逃げ惑う。カイザはじっとシドを見ていた。煙がカイザの耳を過る度、聞こえたのだ。
ーー…兄さんーー
ーーカイザ、捨てないで……ーー
ーーもう、一人はやだよーー
少年の、泣きそうな声。
ーー神の寵愛を受ける私が言うのです。信じなさい……ーー
聞き覚えのある声が紡ぐ、聞き覚えのない言葉。
「グレン!」
「うっす!」
ルージュが仕込み杖で煙を断ち、シドの右目を手で覆った。そこにすかさず、グレンが眼帯をかけた。煙は収まり、静かになる部屋。
「…これでよし」
グレンの呟きに我に返ったカイザは、グレンの白衣の胸倉を掴んだ。
「よくねぇよ!」
カイザが怒鳴ると、グレンはあたふたと言った。
「ま、まさか烙印と真珠が共鳴しちゃうなんて思ってなかったっすから! すす、すんません!」
「真珠って……邪眼だったんですね」
唖然とするシドと一緒に鏡を覗き込むルージュが言った。すると、カイザが聞いた。
「邪眼ってなんだ」
「聞こえたでしょう、さっき」
カイザは、煙の中で聞こえた声を思い出した。
「人の心に干渉する能力をもつ目です。所謂、精神感応ですよ」
「精神感応……って、ダンテの目みたいなものか」
「ええ。しかし、シドの場合は煙を媒体にして干渉するようですね」
カイザはグレンを睨む。グレンは苦笑いして言った。
「戦乙女の力を手に入れたわけっすから! 使い方次第では相当強くなるっよー!」
「……」
「あ、もしかして負けそうだから焦ってるんすか? 武神の誕生に妬いてるんすか?」
馬鹿にするようにカイザを指差すグレン。カイザはグレンにナイフを突きつけた。息を止めて黙り込むグレン。
「結局片目で生活する羽目になったじゃねぇか、どうしてくれる……」
「すんません! すんません!」
じっと鏡を見ていたシドは、勢いよくカイザを見た。
「カイザ」
名前を呼ばれ、カイザはシドを見た。幼く黒い瞳が潤み、カイザを捕らえる。その目からは涙が溢れた。
「見える……カイザの顔!」
泣きながら笑う少年。カイザはグレンを突き飛ばし、シドを抱きしめた。シドは嬉しそうにその首に腕を回す。
「よかったな、シド」
「ずっと一緒だったのに、久しぶりに会えた気がするー。嬉しい!」
カイザはシドを抱き上げ、グレンを見た。
「…ありがとう」
「む、無表情で言われると怖いっす……」
グレンが怯えていると、シドがにっこりと笑って言った。
「ありがとうグレン!」
グレンはその笑顔を見て、照れ臭そうに笑った。
「これがルージュかあ」
後ろに立つルージュを見て呟くシド。ルージュは微笑み、帽子を軽く上げた。
「そういえば、この姿をシドは見ていないのでしたね。改めまして、ルージュです」
「イメージと違う」
驚くシドに、ルージュは困ったように笑った。シドはグレンに向き直り、言った。
「グレンは、イメージ通り…お医者さんっぽくない」
「どういうイメージっすか」
悲しそうなグレンを見て笑うルージュ。シドはカイザを見た。カイザは首を傾げて微笑んだ。
「…イメージ通りか?」
驚いた顔をしたかと思うと、シドの表情はぱあっと明るくなってゆく。シドは首を横に振って、嬉しそうにカイザに抱きついた。カイザは不思議そうにしながら、ルージュを見る。ルージュはただ、笑っている。
「仲良しっすねー」
グレンも二人を見て笑っている。カイザは、一人満足そうにしているシドが不思議でならなかったが、とりあえず、その頭を撫でた。
カイザの腕の中で嬉しそうに笑う少年。少年は、カイザの目の変化に喜んでいた。少年を見るカイザの目が、とても愛情深く感じたのだ。目が見えていなかった間にも、彼と自分の距離は順調に縮まっていたのだと……家族になっていたのだと、実感した。それが嬉しくて、堪らなかった。視力を失っていた少年だからこそ、わかる変化だった。
「…わあ!」
「な、なんだよ!」
酒場に戻るなり、バッテンライを見て驚嘆の声を上げるシド。シドはカウンターに駆け寄り、その顔をまじまじと見る。
「おぉ……目、治ったのか」
「…バッテンライさん、凄く変わった」
「ん? ああ、そうだろう、もう堅気だからな!」
バッテンライは豪快に笑いながらシドの頭を抑え、椅子に座らせた。その隣に、カイザとルージュ、グレンも座った。
「先生さすがだなー」
「そりゃあ、俺にかかればちょいのちょいのちょちょいちょいっすよ!」
髪を掻き上げ、得意気に言うグレン。カイザはルージュの向こうのグレンを横目に睨んだ。
「片目は駄目になったけどな」
「片目? そういや、その眼帯なんだ」
バッテンライがシドの眼帯に手を伸ばす。
「「「あー!」」」
それを見て慌てて止めに入る三人。バッテンライは驚いて手を引っ込めた。
「やめろバッテンライ!」
「そっす! 店が全壊するっすよ!」
「ま、まだ、不確定要素が多くてですね……」
バッテンライは言われるがままに頷く。三人は溜息をついて席に戻った。
「…とんでもないものを握らせてくれたよ、このヤブ医者」
「ヤブじゃないっすよ!」
項垂れるカイザにグレンは言った。ルージュは困ったように笑うばかり。バッテンライは三人の前にグラスを置き、酒を注いだ。
「よくわからないが、片目は見えてるんだろ? 視力が戻っただけでも感謝しろよ。んなことできんのは世界中探してもグレン先生だけなんだからよ」
「そっすよ! もう勘弁して欲しいっす!」
一応申し訳なく思っているらしく、グレンは泣き目で叫んだ。カイザは少し顔を上げ、言った。
「…ありがとう」
「だから、そんな冷めた無表情で言われても……」
グレンはカウンターに突っ伏した。バッテンライから飲み物を受け取り、シドが言った。
「ありがとうグレン! 本当だよ! 本当に感謝してる!」
「シド……」
グレンは顔を上げ、シドを見つめる。シドはにっこりと笑った。
「右目も使いこなせるようになってみせるよ!」
「…本当にすまねっすー!」
グレンはついに泣き出した。ルージュはその肩を叩いて慰める。酒を飲み、カイザが溜息をついた。
「まあ、目のことは大目に見るとして」
「目、だけに?」
カイザはグレンを殴った。
「…外も慌ただしくなってた。帝国の進軍に備えてんだろ?」
カイザがバッテンライに聞くと、グラスを拭きながらバッテンライが言った。
「まあな。蘭丸とかいう奴を信用するわけじゃねぇが……市長の言うとおり、時間の問題だったからな。俺たちは迎え討つつもりだ」
「…俺達に何かできることはないのか?」
バッテンライは鼻で笑った。
「無いね。市長も言ってたろ。ここは俺らの街、英雄の街だ。余所者の手を借りるまでもない」
「大丈夫っすよ、俺らもいるんすから!」
カイザに向かってグレンが言うと、バッテンライは小さく笑った。
「ありがたいけどな、先生。カンパニーレの皆さんも早くここを離れるこった」
「何で! 助けられっ放しは嫌っすよ!」
「あんたらは革命という使命を背負ってる。こんな街一つに構ってる暇なんかないだろ? カイザ、お前もだ」
バッテンライは真っ直ぐに、カイザを見つめる。
「何度考えても、俺の頭じゃお前らが何しようとしてんのかわからねぇ。でも、これだけはわかる」
バッテンライは少し俯き、笑う。
「…お前にしか、できないことをしてるってな」
「……」
考えたこともなかった。自分にしかできないこと。業輪を探したり、世界を救おうとしたり……それは、自分一人で成し遂げられるとは思っていなかった。仲間がいたから、ここまできた。自分にしかできないことなど、これまであっただろうか。バッテンライはいつもの笑顔で、言った。
「ギールさんに、お前に会えてよかった。俺はこの街で生きる。お前らに与えられたこの命が燃え尽きるまで」
「……」
バッテンライにしかできないこと。カイザにしかできないこと。それは必ずしも、個人の能力を指すものじゃない。
「…俺も、お前とまた会えてよかった」
誰かと支え合い、この街のように一人一人が要塞の柱となる。その人にしかできない、使命を背負う。