68.幸せの地図は色褪せない
まだ開店前の酒場。そのカウンターに、カイザはいた。煙草を吸いながらぼけっと棚に並ぶ酒瓶を見つめていると、一人の女がやってきた。
「…カイザさん!」
カイザは振り返り、軽く会釈をした。女は慌てて頭を下げ、恥ずかしそうに裏へ入っていった。
「…なんだ」
「またまた、お前はそうやって野暮ったいことを」
カウンターの下にもぐっていたバッテンライは、大きな酒瓶を手に立ち上がった。カイザは少し考え、ああ、と呟く。すると、バッテンライはコルクを抜きながらカイザを横目に見た。
「ああ、じゃねぇよ。おやっさんの一人娘を惚れさせといて」
「そう言われても。どうしろってんだよ」
バッテンライは氷の入ったグラスに酒を注ぐ。
「まあ、その顔じゃあ惚れるなと言う方が難しいか。お前、嫁とか恋人とかいないのかよ」
コースターにグラスを乗せ、カイザの前に置いた。カイザは煙草を捻消し、グラスを手に取る。
「いない」
「好きな女は?」
「…いる」
「そうか、いないのか……ん?!」
バッテンライはカイザを二度見した。カイザは無表情で酒を飲んでいる。
「いるのか?! 誰だ?! こんな無愛想を落としたのはどんな美女だ?!」
やけに楽しそうなバッテンライ。カイザは溜息をついて言った。
「…美女だ」
「だから、どんな」
「そのまま、美女だ」
「はぐらかすなよ」
はぐらかしてなどいない。カイザは酒を煽り、そっぽを向いた。バッテンライはカウンターに肘をつき、カイザを見つめる。
「嫁でも恋人でもないということは……片想いってやつか。この顔で」
「顔は関係ないだろ」
「お前でも思い通りにならない女がいるんだな」
思い通りになんて、なるものか。相手は死体だ。瞼を閉じて椅子に佇むミハエルと共に、クリストフが頭に浮かんだ。
「…お前な、顔がどうの言ってるが俺の顔を殴る女もいるんだぞ」
「カイザの?! 市長も認めるカイザの顔を?!」
「ああ。殴るし蹴る。お前や市長がどんなに評価しようと結局男の評価。女にはそれぞれ好みってもんがあるんだ」
「へぇ……じゃあ、お前の好きな女も好みが違うってことなのか?」
それはそれで、悲しい。クリストフはどうでもいいが。
「それか、お前の性格に難があるんだろうな」
「ズバズバと悲しいこと言うなよ」
カイザはバッテンライを睨む。
「あ、カイザ!」
酒場に入ってきたのはシドだ。シドは小走りでカイザに駆け寄る。カイザはシドの頭を撫でた。
「どうだった?」
「今日手術するって!」
「今日?」
シドに続き、ルージュがカウンターに腰掛けた。
「私用は済みましたか?」
「あ、ああ。シドのこと見ててくれてありがとう」
ルージュはにっこりと微笑む。シドはカイザの隣に座り、足をパタパタさせた。
「あ、バッテンライさん。私にも一杯お願いします」
「はいはーい」
バッテンライはグラスに氷を入れ始めた。
「なあ、ルージュ」
カイザが呼びかけると、ルージュはカイザの方を向いた。
「こいつ、今日手術受けるって言ってんだけど……」
「本当ですよ」
「検査と準備で明後日になるはずじゃなかったのか?」
「……」
ルージュは帽子を脱ぎ、カウンターに置いた。
「…急いでくださるようです」
「何で。あいつ、何処か行くのか?」
「私達も、急がねばなりません」
ルージュの前に、グラスが置かれる。ルージュはそれを見つめ、言った。
「シドの出生について、知る必要がありそうなので」
カイザは口に運ぼうとしたグラスを下ろした。
ーーシドとサイという兄弟を知っているかーー
蘭丸もシドについて触れてきた。何か、関係があるのか……
「もっと早く、クリストフ様達も加えて話さねばならなかったと思うのですが。まさか、こんな……」
ルージュはグラスに手もつけず、カイザと目も合わさない。そんなルージュの隣で、シドは俯き不自然な呼吸をしている。
「シドは……もしかしたら、」
「やめて!」
シドがルージュにしがみついた。
「やめて! カイザに言わないで!」
「シド……」
シドは泣きそうな声で、懇願する。ルージュは困ったようにカイザを見る。カイザは、震える小さな手でルージュの服を掴むシドを見た。
「な、なあ、シド。腹減ってねぇか? なんか作ってやるぞ?」
「…クッキー」
「クッキー?! じゃ、じゃあ金やるから買って来い。ほら!」
バッテンライは前掛のポケットから小銭を出してシドの前に置いた。シドはそれを手に取り、呟く。
「…お店の場所、わかんない」
「連れてってやるから! な!」
バッテンライはカウンターから出てシドを抱き上げ、出口の扉に歩み寄る。そして、カイザを見てルージュを顎で差した。二人は店から出て行った。
「…話済ませとけってことか」
「でしょうね」
ルージュは、はあ、と息を吐いて言った。
「シドは、天界の住人かもしれません」
「…天界?」
ルージュは手をつけずにいたグラスを持った。しかし、まだ口をつけない。
「シドは片目一つで世界を閉じる力を秘めています。と、なると……私やオズマよりも格上の存在がシドの親であるかもしれないということです」
「…神か」
「いえ、精霊様や天使様も天界の住人。地に縛られた私達よりも遥かに貴い方たちです。もし、シドがその方々の御子ならば……」
ルージュは一度持ち上げたグラスを、置いた。
「彼を堕天させてしまった世界は、審判にかけられるでしょう」
カイザは、蘭丸の言葉を思い出した。審判の日が、来る。火の雨が降り……地獄の門が開く。シドが話されるのを嫌がった理由が、何となくわかった気がした。
「そう滅多にないのですが……本来、天界の住人が人と子を成すとその子供をすぐ天界へ連れてゆくそうです。しかしそうならなかったとなると、シドのご両親は亡くなっているか……もしくは、もっと他の者の子供なのかもしれません」
「…いや、天界の住人とやらの子供だろう、おそらく」
カイザが言うと、ずっと俯いていたルージュは顔を上げた。
「今日、蘭丸に会った」
「蘭丸に?」
「ああ」
カイザは、ルージュに蘭丸が言っていたことを話した。ルージュの顔はみるみる険しくなる。
「…エドガー様が」
「……」
カイザは酒を飲んで、煙草を取り出した。
「業輪と部屋にそんな裏があったなんて……それに、審判の日、ですか」
「蘭丸の言う事が確かなら、審判にかけられる理由がシドであると考えるのが妥当だろう」
「…彼はシドとも関係があるのでしょうか」
「知らない。俺やクリストフだってあいつに狙われる理由がわからない。運命の至る場所の意味すら」
カイザはトントンとしつこく煙草を縦にしてテーブルに叩きつける。ルージュは酒を一口飲んで、言った。
「シドは顔も知らない男にサイのもとへ送られたそうですね」
「そのことなら聞いてる」
「…蘭丸がその男なのでは」
「まさか」
「シドが審判の日に関係しているのなら、考えられる人物は事を知る蘭丸くらいしか……蘭丸なら、どうにかする術を知っているのでは……」
ルージュは額を抑えて俯く。カイザは溜息をつき、言った。
「そう急くな。そんな得体の知れない男のことはどうでもいい」
「……」
「今は、審判の日のことだけを考えるべきだ。ヴィエラ神話に終末の訪れを逃れる手掛かりがあるのかもしれない。そしたら、全ては丸く収まる」
「審判の日こそが乱世の終幕だとしたら、火の雨が降り地獄の門が開くまでは永久に乱世が続くということ。丸く、収まるのでしょうか」
「…生きることに意味がある」
ルージュは俯いたまま、黙り込む。
「どんな環境でも、生きていることに意味がある。争うのは人の思いがぶつかり合うからであって……人々の祈りの表れなんだ。終りがなくても、それでも望む限り生きて戦うのが、人の全てなんだよ」
「平和は、幻だとでも?」
「実際、俺達は時折平和な時間を過ごしたじゃないか」
カイザは小さく笑う。ルージュはそれを見て、固まる。
「平和や幸せなんてのは俺達が、俺達の心が感じるものなんだよ。平和で幸せな環境なんてものが幻なのであって、平和や幸せは俺達の中でだけ実在する」
「……」
「生きているから感じられる。どんな時代に生きようと。それを俺は……この旅の間に、いろんな人から教えられた」
ルージュは思った。彼は、死んでしまうのではないか、と。その笑顔が、その言葉が…生を強く主張する程、儚げに感じる。消えそうな、蝋燭の火のように。
「お前も俺に教えてくれたよ。幸せってもんをな」
「…カイザ、」
「ありがとう」
「もう、やめてください!」
ルージュは声を荒げて立ち上がった。カイザは驚いた顔をしてルージュを見ている。
「…なんだ、お前までシドみたいなこと言って」
「そんな、もう何もかも終わってしまうようなことを言うのは……やめてください」
「何言ってんだよ、終わらせるんだろ?乱世を終らせて、世界を終末から救うって話したじゃないか」
カイザは首を傾げて微笑む。その笑顔は、いつものカイザだ。ルージュは安堵したのか、椅子に座り直した。
「…すみません」
「いや? 構わないが。今日は皆様子がおかしいな。俺も昨日は号泣してたけど」
「ゼノフの不安感を煽る内装のせいですよ」
「ああ、そうかもな」
ルージュが笑うと、店の呼び鈴が鳴った。そこにはもそもそとクッキーを食べるシドと、シドを抱いたバッテンライが。
「おかえり」
そう言うカイザの隣に、バッテンライはシドを座らせた。シドは俯いたまま、クッキーに噛みついている。どうやらまだ、落ち込んでいるらしい。バッテンライはカウンターに戻り、困った顔をして言った。
「すっかりショボくれちまって……何も話さねぇ」
「……」
カイザはシドを見て、言った。
「…シド?」
「聞いた?」
シドがカイザの方を向いた。
「僕のこと、聞いた?」
「……」
包帯の向こうで見透かされているような…そんな、気がした。
「聞いてない。また今度話すことにしたんだ」
「……」
「……」
暫く、シドはカイザを見つめ…いや、カイザの方を向いて、にっこりと笑った。
「そっか」
シドは笑顔でクッキーを食べ始めた。それを見て、カイザは少し安堵する。ルージュも隣でほっと肩を撫で下ろしていた。
「あ、晩飯どうする? もうすぐ開店だけと、ここで食うか?」
裏から顔を出し、バッテンライが言った。
「食べる! 昨日と同じの!」
椅子に立ち、シドが言った。バッテンライは元気を取り戻した少年を見て笑う。
「客用なんだが……仕方ねぇ、作るか!」
「わーい!」
カイザとルージュは、シドを見て微笑む。カイザは思った。この笑顔に囲まれているだけで、堪らない。生きたいという気持ちで、生きててよかったという気持ちで、満たされる。ミハエルが言っていた、光で溢れた場所にやっと辿り着いた。そして、それを守ることが自分の戦う理由になる。生きることに、繋がる。