66.自分を知らねば他人も知り得ない
「お、来たっすねー。」
薄暗く、薬品の匂いがする鉄の一室。瓶が並ぶ棚に、様々な器具を下げた銀の物かけが乗ったチェスト。その近くにある白いデスクに、グレンはいた。デスクの正面の壁には青い液体が入った薄い硝子が張られており、グレンの顔を青く照らす。診察室の入口で、シドが鼻を抑えて吐きそうな顔をした。ルージュは帽子を軽く持ち上げ、微笑む。
「鼻が曲がる」
「ちょっとシドにはきついかもしんないっすねー」
グレンは笑いながら椅子を回転させてシド達の方を向いた。鼻を抑えるシドの背中に手を回してルージュはグレンに歩み寄る。
「ほら、我慢なさい」
「…うぅ、」
ルージュはシドをグレンの前にある椅子に座らせた。
「今日はちょっと話して目の状態を見たらすぐ終わるっすから」
グレンはカルテを広げ、ペンを持った。
「じゃあ早速ー、年齢と生年月日……お誕生日は?」
「10歳、だったような気がする」
「……」
「誕生日はわかんない」
グレンは一瞬ぽかんとして、困ったように笑った。そして、シドの後ろで同じく苦笑いをしているルージュに聞いた。
「あの、保護者の方は」
「カイザはその、私用で。手術の日には来るとのことでした」
グレンは頭を掻き、言った。
「困ったっすねぇ。シドは堕天使だから精密検査の前にいろいろ聞きたかったのに」
「す、すみません……本人がこの調子ですし、おそらく、カイザでもあまり詳しいことはわからないかと」
「えーっと……シド、ご両親のことは何もわからないっすか。妖精だったとか妖魔だったとか」
グレンが聞くと、シドは首を傾げた。
「わかんない。僕堕天使だから親もそうなんじゃないの?」
ルージュはうーん、と唸って、言った。
「堕天使や悪魔と人に言われることもあるでしょうが、それは烙印を押された者を指す呼び名に過ぎません。実際のところ、シドが何者の子供かは……」
「なんか身体に異変とか、特別な力とか。ないんすか」
グレンがそう言った瞬間、部屋が黒い煙で覆われた。吹きすさぶ煙にチェストの上でメスや鉗子がカチャカチャとぶつかり音をたてる。グレンもルージュも、突然のことに固まっている。煙がシドの足元に戻ると、部屋は一気に静まり返った。
「こんな感じ」
「これは……」
目を見開いてシドを見つめるグレン。目の前にいたのは、黒い片翼を背負うシド。包帯の向こうには赤い光がぼんやりと輝き、口からは鋭い牙が覗いている。グレンは恐る恐るシドのフードを下ろし、まじまじと見つめる。
「比翼の鳥だったんすか、シドは。こりゃあまた……珍しいっすね。うちの国だと比翼の鳥は吉兆っすよ。片割れはどうしたんすか?」
グレンの問いに、ルージュが慌てて答えようとした。が、シドがにっこりと笑って言った。
「生きてるよ。どこ行ったかは知らないけど」
ルージュは、驚いた表情でシドを見る。少年は、ただ笑う。
太陽が真上に上がり、薄く積もった雪が木漏れ日を浴びてキラキラと細かく光る道。柔くなった雪は音もなく足裏に吸い付く。
「凄く違和感があるな。建物の35階に木があるなんて」
ゼノフ右腕棟。外付けの広い通路には木々が立ち並ぶ。辺りを見渡しながら歩くカイザに、バッテンライは言った。
「苦労したらしいぞ。切り拓くどころか植え替えたんだからな。この木が大砲防いで、中の温度も保つって寸法らしい」
「へぇ……結構計算されてるんだな。中は気持ち悪いけど」
「…確かに、ちょっと気持ち悪いよな。化物の巣みたいで」
窓から見える中の様子を見て、バッテンライは一人納得している。そして、少し遠い目をした。
「…なあ、変わったよな」
「ん?」
木々を見ていたカイザが振り向く。バッテンライは窓の方を向いたまま、言った。
「お前とシドだよ」
「…そうか?」
「変わった。シドなんか特に」
カイザはふと空を見上げた。シドの第一印象は、何を考えているかわからない子供、だった。感情の無い笑顔が、どこか寂し気で…
「…確かに、変わったかもな」
「俺の忠告は要らなかったか」
バッテンライが溜息混じりに言うと、カイザはふと笑った。
「でも、確かにシドは危険だ。まだ子供だというのもあるが、死に対する考え方が甘い。殺すことも、殺されることも躊躇いない。お前がああ言った気持ちも、わかるよ」
「わかるのに一緒にいるんだもんな。まるで父親だ」
カイザは少し照れ臭そうに言った。
「父親もどきになれたらと思って、あいつを連れてるからな」
幼い頃の自分とシドを重ね、一人ぼっちにはしたくないと思った。それだけだったというのに……カイザにとってはもう息子のように大事な存在だ。出会って間もない二人だが、まさに家族になっていた。
「大したもんだ。その若さであんなでかくて訳ありな子供を引き取るなんて」
「いいぞ、子供。ルージュも娘がいるんだが、たまにぽろっと親馬鹿発言する」
「ルージュさんまで?! そうか……俺もそろそろ真面目に結婚考えるかな。年も年だし」
困った顔をして頭を掻くバッテンライ。カイザはじっと見つめて、言った。
「モテそうだけどな、バッテンライは」
「…お前に言われても、なんか」
「?」
苦笑いをするバッテンライに、首を傾げるカイザ。
「あ、見えたぞ?」
バッテンライが前を指差した。カイザがその方向へ目をやると、林の間、ずっと奥に大きな家が見えた。
「なんであれだけ外に」
建物とは不釣り合いな木の家。林に溶け込んで、そこだけが違う土地のように見える。
「市長の家だからな」
「市長? 右腕棟にか?」
「彫刻家なんだよ、うちの町長」
「……」
「英雄像も、あの人が作った」
マスターの像を作った張本人。そして、マスターのことをよく知る人物。少し緊張してしまう。しかし、早く話がしたいのか、歩く速度が心なしか上がっている。自分が殺めた人を……自分が受け継ごうとしているものを……知りたくて。その時、
「…誰だ、お前」
「!」
目の前に、突然人が降ってきた。雪を踏みつける高下駄、ふわりと舞い上がる袴、そして……
「…蘭丸、」
「……」
罅の入った、烏天狗の面。
「うーん……正直なところ、人以外相手にしたことないんすよね。明日精密検査してみないことには手をつけていいのか悪いのか」
顎をいじりながらグレンは真っ白なカルテを見つめる。すると、ルージュが思い出したように言った。
「そういえば、シドに治癒魔法を施したのですが、人間や私達と同じものが効きましたよ。慌てていたので流れのままに治療したのですが」
「おお それなら多分、大丈夫っすねー」
グレンは飾りになりかけていたペンをやっと使った。カルテにさらさらと汚い字を書いて、シドに向き直る。
「そういや、カイザと目の話はしたっすか?」
シドはこくんと頷いて言った。
「したよ。別の目玉くれるんでしょ?」
「ちょっと変わった目なんすけど、どうするっすか?」
「欲しい! 両目あった方が見え易いよね」
「そっすね。もし気に入らなかったら施設が整い次第、目を作り直してあげることもできるっすから。とりあえず両目入れるってことで……」
グレンはにっこり微笑んで、ペンを走らせた。
「それにしても、シドは本当に誰の子なんすかね」
グレンがそう言うと、ルージュの眉がピクリと動いて少し寄った。
「比翼の鳥って大体悪魔か鳥っぽい妖怪の子供らしいじゃないっすか」
「わかんない。僕、赤ちゃんの時からホワイトジャックにいたから」
「ホワイトジャック……ホワイトジャック?!」
椅子から転げ落ちそうになるグレン。震えるペン先をシドに向け、恐る恐る言った。
「まさか、小さな死神シドって……」
「僕のことみたい」
しょんぼりするシドを見て、グレンはあたふたと言った。
「い、いや! 凄いっすよ! 赤ちゃんの時から殺し屋にいたら、そりゃ、そりゃあ! 死神にもなれるっすよね! そんな力もあるんすから!」
「……」
「……」
余計に気まずくなった。
「…に、兄さんはなんか言ってなかったんすか?ご両親について」
「……」
シドは首を傾げた。
「サイは、最初は孤児院にいたみたいだから両親のこと知らないって。でも、僕のことをサイに渡した男の人ならわかるかも」
「渡したって……」
「お前の弟だーって渡されたんだって」
グレンも一緒になって首を傾げる。
「…何すか、それ。その男が父親なんじゃないっすか」
「さぁ……」
「シドとサイという兄弟を知っているか」
仮面に籠った声。カイザはブラックメリーを取り出して蘭丸を睨む。バッテンライも剣を抜いた。
「今度はシドを狙っているのか」
「…サイは、ブラックメリーに入る前は何処にいた。お前は知っているのだろう」
「……」
何故、蘭丸がサイを。カイザがナイフを手に立ち尽くしていると、バッテンライが前に出た。
「お前、東の人間だろ。観光するならその物騒なもんはしまいな」
バッテンライは蘭丸が持つ刀を剣で指した。
「…答えろ。サイは幼い頃、何処にいた」
「人の話聞けよな……」
バッテンライが剣を振り上げて踏み込んだ。
「やめろ!」
カイザが叫ぶが、バッテンライは斬りかかる。蘭丸は刀を構えた。そして、消えた。空振りして辺りを見渡すバッテンライ。カイザは上を見上げた。そこには、真下のバッテンライを狙って飛び上がっている蘭丸が。カイザの目に、刀を振り下ろすサイがコマ送りに映る。カイザの目が、青く光った。
「伏せろ!」
カイザの叫びで、バッテンライが反射的に屈んだ。その瞬間に、蘭丸の刀目掛けて雷が落ちた。蘭丸は刀を手放し、受け身を取って着地した。蘭丸はゆっくりと顔を上げ、立ち上がる。そして、パチパチと光の糸を纏うカイザを見た。バッテンライは驚いた顔をしてカイザを見ている。
「お前の狙いは俺だろう。バッテンライは関係ない」
「今日は、別の用があって来たまで。お前を捕らえるつもりはない」
蘭丸は仮面を軽く上げた。口元だけなら見えそうだが、影ができて確認できない。蘭丸は、ふっと息を吹いた。すると、辺りが炎に包まれた。木に燃え移り、石の建物を黒く焦がしてゆく。カイザは火に囲まれ、蘭丸を睨んだ。
「何をする!」
「言え。サイの昔の居場所を」
サイは刀を掴んで切っ先をバッテンライに向けた。カイザは構えていたナイフを下ろし、言った。
「…ブラックメリーの前はホワイトジャックにいたそうだ」
「ホワイトジャック?」
「殺し屋の組織だ」
蘭丸は少し黙ってから、刀を肩に担いで言った。
「…感謝する」
そして、大きく刀を振り回して一回転した。鋭い突風に、カイザは目を瞑る。目を開くと、炎も蘭丸も消えていた。
「礼に一つ、教えてやろう」
声のする方を見ると、煙を上げる木の天辺に蘭丸は立っていた。
「この街はあと3日後に消される」
「…帝国か」
「そうだ。死にたくなければ早くここを発つことだ」
蘭丸は踵を翻し、背を向けた。
「待て!」
カイザが呼び止めると、蘭丸は少し振り向く。
「お前は、何が目的なんだ」
「……」
「業輪を滅しに来たのか。何故!」
「言ったところで、信じまい」
「部屋を開けてはならないとは、ミハエル……エドガーが死にながらにして生きているとは、どういうことなんだ!」
蘭丸は身体ごとカイザの方を向き、言った。
「…四つの部屋が全て開かれた時、その向こう側の大門によって世界は閉じられる」
カイザの険しい表情が、ふと、驚嘆の色に染まる。
「今までお前達が存在できたのは偶然だ。最後に業輪を手にしたのが、エドガーだったからだ」
「……」
「あの女は他の美女達を気遣い部屋を開かず、業輪を手放さなかった。だから、たまたま今日まで世界は存在を閉じることがなかっただけだ」
ルージュは、俯いて言った。
「…片目一つで混沌を閉じる程の力に、翼」
グレンとシドがルージュを見た。
「シドは悪魔や妖精なんかとは比べ物にならない程高貴な方の御子である可能性が、高いです」
「いや、それを言ったらもう神しか……」
「…あまり知られてはいないですが、精霊様も私達の上に立つ存在。そして、神と我々との間に立つ存在が、もう一つ」
ルージュは真っ直ぐシドを見つめ、言った。
「天使様です」
グレンは不自然な笑顔を浮かべて変な汗をかいている。シドは、じっとルージュの方を向いていた。
「そ、それは、ありえないっすよ。さすがに」
「……」
「…だだだ、だったら大事っすよ! すぐ天界にお返ししないと……!」
「もう、遅いです」
グレンはルージュに言葉を遮られ、黙った。ルージュは静かに言った。
「本当に天界に住まう方の御子だとしたら…シドを堕天させてしまった以上、我々は責任を負うことになるでしょう」
グレンは、黙り込む。ルージュは俯き、言った。シドはその空気に困惑していた。自分に対する畏怖、動揺……それは、ルージュもグレンも、知らない誰かになってしまったように感じた。
「エドガーが無意識とはいえ身をていして救った世界は、近いうち審判の日を迎える」
カイザは、ただ立ち尽くして蘭丸を見上げる。
「審判の日?」
「火の雨が降り、地獄の門が開く」
「わかりません、まだ。しかし、伝説通りになってしまうのならば……世界は、罰を受けることになるのでしょう」
「人類の半分以上が死に、残りは地獄の住人達に怯えながら死までの余生を送る。それが、神の判決だ」
「何故、何故お前が知っている!」
「…伝承者、」
カイザは、はっと息を飲んだ。翻る袴、鋭く光る刀。伝説を広めた……東の、旅人。
「私が、伝承者だからだ」
伝承者。未来を知り得る者など、この世に……
ーー愛の囁きを聞けるよう、未来を聞く耳を……ーー
…ヤヒコ。フィオールが調べてきた、伝説の一文。カイザはもう、言葉が出ない。東の国は、何を知っていて何をしようというのか。カイザが黙り込むと、蘭丸は言った。
「運命は変えられない。ゆえに、審判の日を食い止めようなどとは考えていない」
「……」
「私は世界を閉じる大門の向こう、運命の至る場所を探している。私の過去と未来を映す……業輪をな。」
運命の至る場所と、業輪。カイザは蘭丸を見上げ、言った。
「俺やクリストフ、シドが、どう関係すると言うんだ」
「いずれわかる。いや、わからずともよい。審判の日が訪れる前に、また会おう」
蘭丸は背中から倒れこみ、塀の向こうへ消えた。
「…僕のせいで、みんな困ってるの?」
シドの言葉に、二人は我に返って少年を見た。悲しそうに俯くシド。
「僕が…いるから」
「……」
ルージュはシドの頭を撫でて、優しく微笑んだ。
「推測に過ぎません。シドが気にすることはないのですよ」
「……」
落ち込むシドを見て、慌てたようにグレンが言った。
「そ、そっすよ! それより早く目を治さないと! あ、なんなら明日にでもやるっすよ?!」
「…やる」
「え?」
「手術、早くやりたい」
シドの包帯に、涙が滲む。
「僕、自分が何者なのか知りたい。そのために早く……目が欲しい!」
死に対する恐怖が全くと言って良い程無いシドは、自分に対する興味も薄かった。いつか死ぬ。それは他人だけでなく自分もそうであったから。しかし、何者かすら定かでないがために、大事な人々を困らせている。カイザも、自分に対して困惑してしまうかもしれない。それが、怖かった。
「…わかったっす。今日の夜、もう一度ここへ来て欲しいっす」
グレンが言うと、シドは顔を上げた。
「手術、するっすよ」
「準備の方は間に合うのですか?」
ルージュが不安気に聞くと、グレンは強気に笑って見せた。
「間に合うっすよ。精密検査を幾らか省いてしまえば。幸い、シドの身体も人間と同じようっすし。今すぐ準備すれば間に合うっす」
「…ありがとう、グレン」
鼻を啜りながら笑い、シドが言った。グレンは満面の笑みを浮かべた。